天下を取った名将・徳川家康
その天下取りを支えた家臣団一覧をご紹介!
最も功績の大きい「4人の名臣」と、「十六神将」と呼ばれた家臣団とは?
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この記事を短く言うと
・「徳川四天王」とは「酒井忠次」「井伊直政」「本多忠勝」「榊原康政」
・「徳川十六神将」とは、四天王に12名の功臣を加えた「家康の名臣」たち
・さらに「徳川二十八神将」というものも存在している
徳川四天王
天下を統一した名将「徳川家康」
その偉業を支えたのが、「三河武士」を中心として編成された「徳川家臣団」
その家臣団の中でも、最も功績の多い4名の功臣たちを、後に「徳川四天王」と呼びました。
四天王の面々とは
筆頭「酒井忠次」
「本多忠勝」
「榊原康政」
「井伊直政」
の四名。
この四名の中で、最も多くの領地を保有していたのが「井伊直政」
「家康には過ぎたるもの」と言われた豪傑「本多忠勝」
「秀吉から10万石の懸賞をかけられた男」・・「榊原康政」
そして、後世最も評価されたのが、徳川家康第一の功臣と讃えられた「酒井忠次」
酒井忠次は、家康の息子「信康」が、織田信長に「武田勝頼との内通の罪」を詰問された際に、全くかばうことをしなかったとして、後世に悪評を残しています。
忠次が信康をかばわなかったため、信長は信康に切腹を命じた・・・と言われていますが最近の研究では
「信康の処刑は、信長の命令ではなく、家康の独断だった」
とされているので、最近では酒井忠次が「信康をかばおうとしなかった」というのは、後世の創作だとされています。
酒井忠次・・・・その功績を讃えられて、忠次の子孫は明治までに、日本各地へ大きな領地をもらっています
「酒井忠次の子孫」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。
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「信康切腹の真相」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。
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徳川十六神将
家康には、「徳川四天王」の他にも、「徳川十六神将」と呼ばれる功臣がいました。
・米津常春
・高木清秀
・内藤正成
・大久保忠世
・大久保忠佐(忠世の弟)
・蜂屋貞次
・鳥居元忠
・鳥居忠広
・渡辺守綱
・平岩親吉
・服部半蔵
・松平康忠
彼ら12名に「徳川四天王」を加えた16名が「徳川十六神将」と呼ばれて、後世まで伝えられています。
このほかにも、「徳川二十八神将」という家臣一覧も存在しています。
この「徳川二十八神将」は、「徳川四天王」の4人と「徳川十六神将」の内9名に、新たに16名を加えたものです
・安藤直次
・伊奈忠俊
・伊奈忠政
・岡部長盛
・大久保忠教(忠世・忠佐)
・大須賀康高
・奥平信昌(家康の娘「亀姫」の夫)
・酒井正親
・菅沼定盈(さだみつ)
・内藤家長(映画「超高速!参勤交代」に登場する殿様「内藤政樹」の先祖。映画で「内藤政樹」は、家老の「相馬」を救う)
・内藤信成
・本多康隆
・松平伊忠
・水野勝成
この16名に「徳川四天王」の4名と
十六神将のうち9名
「大久保忠佐」
「大久保忠世」
「高木清秀」
「鳥居元忠」
「服部半蔵」
「平岩親吉」
「松平康忠」
「米津常春」
「渡辺守綱」
の9人を加えた合計28名が「徳川二十八神将」と呼ばれています。
家康の家臣団・三河武士たちは、忠誠心が強く、武人として苛烈な性格だったみたいですね。
相当な「体育会系」組織だったようです。
「徳川四天王の子孫」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。
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「徳川四天王で最強は誰?」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。
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影の功労者「石川数正」と「本多正信」
三河武士団は、「体育会系」としては有名ですが「頭脳派」がそれほどいません。
そんな家康家臣団の中で、頭脳派とされる家臣が二人います。
「石川数正」と「本多正信」です。
「石川数正」は、家康第一の功臣「酒井忠次」と並んで、徳川家臣団の最重要ポストにいました。
今川家と手切れした際に、人質となっていた「瀬名姫」「信康」の救出交渉
又は「小牧・長久手の戦い」の後の「豊臣秀吉との交渉」など、交渉事を多くこなしていたようです。
しかし石川数正は頭脳派であったため、体育会系の三河武士団の中で浮いてしまったのか・・・最終的に家出し、豊臣秀吉の家来となっています。
「本多正信」は、「一向宗」の門徒だったため、三河国で起きた「一向一揆」のときに、家康を裏切り一揆に参加。
その後、家康の元へ帰参していますが、同族の「本多忠勝」や「榊原康政」から蛇蝎の如く嫌われています。
本多正信は、四天王や神将には含まれていませんが、頭脳で家康を支え、天下統一を助けたことは確かです。
「石川数正の子孫」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。
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「本多正信のその後」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・徳川四天王は「酒井忠次」を筆頭に、「井伊直政」「本多忠勝」「榊原康政」
・徳川十六神将とは、徳川四天王に12名の功臣を加えた「家康の名臣」たち
・「徳川四天王」と「徳川十六神将」の他に、「徳川二十八神将」というものが存在している
・四天王にも神将にも名前が残っていないが、「石川数正」と「本多正信」も間違いなく功臣だった
以上となります。
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