徳川(松平)信康とは、どういう人物だったのか?
エピソードを交えて解説いたします。
なぜか「お墓」が「7つ」もある?
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徳川(松平)信康とは、どういう人?
死後に「徳川」の姓を使うことが許されない事となったため、正式名称は「松平信康」
どういう人物だったか?
一言で表せば、「徳川(松平)信康」は「体育会系」の人物。
「信康」が住んでいた「三河」という地域は三河武士という名の「体育会系」が多い地域だったのです。
家来と話すことと言えば、戦争についての話ばかりだったとか。
戦争をやらせたら、父・家康から「勇将」と讃えられ、普段やることと言えば戦争の訓練である「馬術」と「鷹狩」ばかり。
典型的な「武者」だったようですね。
家来たちから非常に慕われ、信康が亡くなった時は「後追い自殺」が発生したほど。
また、弟にも非常にやさしく、父・家康から見放されていた弟「秀康」を連れて来て、父・家康に対面させてあげたのだとか。
ただ、悪評がないわけでもありません。
織田信長の娘で、徳川信康の妻「徳姫」の手紙には
・踊りが下手な領民を、面白半分に弓で殺害した
・鷹狩の帰り、獲物が少なかった八つ当たりに、お坊さんを殺害した
・常日頃から、乱暴な行動が多かった
これらが全て本当かどうかはわかりません。
典型的な「体育会系」だったと考えられます。
「信康の子孫」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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なぜお墓が7つもある?
信康には、なぜかお墓が7つもあります。
父・家康が、若くして亡くなった信康のために建て、信康の「胴体」を葬ったと言われる「静岡県浜松市天竜区」の「清瀧寺」
信康の首を祀った「愛知県岡崎市朝日町」の「若宮八幡宮」
この2つが、信康の主な墓所とされています。
他にも幾つか信康の墓があります。
「東京都新宿区」の「西念寺」・・・・・・服部半蔵が造立したと言われています
「千葉県古河市」の「隆岩寺」・・・・・・信康の娘婿「小笠原秀政」が建立
「神奈川県小田原市」の「万松院」・・・・徳川家臣「大久保忠隣」が建立
「静岡市清水区」の「江浄寺」・・・・・・徳川家臣「榊原清政」が造営
「和歌山県高野町」の「金剛峯寺」・・・・信康の教育係「平岩親吉」が寄進したもの
なぜ墓が合計7つもあるのか?
おそらくそれだけ信康が「惜しまれた人物」だったということでしょう。
そして、若くして亡くなったことを、本当に悔やまれていたということです。
享年21歳・・・若すぎる死でした。
信康が死んだ理由とは?
信康は、なぜ亡くなったのか?
これまでの説では
「武田勝頼との内通を理由に、織田信長の命令で処刑された」
と言われてきました。
しかし最近の研究では、「父・家康の命令で、信康は処刑された」という説が最も有力です。
なぜ家康は、我が子に死を命じたのか?
「宿敵・武田勝頼」と内通したからです。
当時の徳川家は、家康が率いる「浜松軍」と、息子・信康が率いる「岡崎軍」に分かれていました。
「岡崎軍」は、後方支援が主な仕事であり、手柄を上げるチャンスである「戦争」には、ほとんど参加させてもらえなかったのです。
このため、不満が爆発していた「岡崎軍」とそのトップ「信康」は、武田勝頼と内通して、「家康追放」・・・又は「織田家との同盟を破棄し、武田勝頼と同盟すること」を企んでいたと考えられます。
これにより、真っ二つに分断されかねなかった「徳川家」
分裂を避けるには、「信康」に責任をとらせるしかない・・・。
家康が息子・信康に下した決断は、処刑だったのです。
信康は、武田信玄が父・信虎を追放したように、父・家康を追放しようとしたのかもしれません。
「謀反」・・つまりクーデター・・・。
当時「謀反」は大罪で、当然「死罪」でした。
信康もまた、処刑からは逃れられなかったのです。
「信康事件の真相」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・徳川(松平)信康は、優しさと人気を備えた体育会系だった
・信康の墓は、岡崎市「若宮八幡宮」、浜松市「清瀧寺」の他に「東京・千葉・神奈川・静岡・和歌山」と各地に存在している
・家康が信康を処刑した理由は、「信長の命令」ではなく、「武田勝頼と内通した」ため
以上となります。
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