家康の軍師・本多正信
最期に息子に残した「領地に関する予言」とは?
長男・正純が、二代将軍・徳川秀忠を暗殺しようとした?
なぜ「本多正信」はこれほどまでに嫌われているのか?
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この記事を短く言うと
・本多正信は一度、主君「徳川家康」を裏切ったため、徳川家臣団の中でで嫌われていた
・本多正信は、息子「正純(まさずみ)」に遺言で「3万石以上はもらうな」と言っていた
・それに反した「正純」は、改易された
本多正信が嫌われる理由
徳川家康が「友」と呼んだ軍師「本多正信」
彼は徳川家でめちゃくちゃ嫌われていました。
「同じ本多姓でも、俺とあいつは無関係」
「あいつは腰抜け」
と罵倒され
同じく徳川四天王の一人「榊原康政」からは
「ハラワタが腐ってる」
と嫌われてました。
嫌われている理由は主に2つ。
一つは、「体育会系だらけの徳川家臣団で、本多正信は石川数正と並んで、頭脳派・策略家だったため・・・ずるい手を使うヤツと思われていた」
二つ目は、「本多正信が『三河一向一揆』において、徳川家康を裏切り、一向一揆に参加した」から
裏切り者で、しかも策略家・・・。
この2つが主な原因で、本多正信は徳川家臣団から嫌われていたのです。
息子に残した領地についての予言
正信は流石に頭脳派でした。
自分が嫌われていたことを知っていたのです。
そのため死の間際、長男「本多正純」に対して、こんな遺言を残しました。
「3万石以上の領地をもらってはならない」
正信の同僚たち、徳川四天王と呼ばれた「本多忠勝」「榊原康政」「井伊直政」たちは、軒並み10万石以上。
しかし正信は死の間際まで「相模玉縄藩」に「22000石」しか、領地を持っていませんでした。
本多正信は、家康からの絶大な信頼を背景に、権勢を振るっているものの、嫌われ方が半端ではないので、大きな領地をもらって「妬み」を受けたら、いよいよ危ないと知っていたのです。
その為、息子に対して「3万石まで」と釘を差したのでした。
息子の本多正純もまた、父・正信に似て頭のキレる人物でした。
そして父と同じように、嫌われていたのです。
正純は家康・秀忠から絶大な信頼を勝ち取り、権勢を振るったものの、秀忠から領地の加増を言い渡されます。
はじめは固辞していたものの、断りきれなくなり、最終的に「宇都宮15万5千石」をもらってしまったのです。
正純はこのときから、一気に転落していくことを宿命付けられたのでした。
長男・正純が秀忠暗殺を計画?
家康が亡くなった6年後の1622年、正純が治める「宇都宮城」に、二代将軍・秀忠が宿泊する事となりました。
その時「正純」は、改易された山形の大名「最上家」の領地受け渡しの任についており、宇都宮城を留守にしていたのです。
宇都宮城へ向かう秀忠のもとに、「正純が秀忠を暗殺しようとしている」との急報が入ります。
どうやら宇都宮城の中に、「釣天井」が仕掛けられており、それを使って秀忠を暗殺しようとしていると、疑われたのだとか・・・。
それが元で、宇都宮15万5千石は没収。
正純は改易となってしまいました。
その後は、出羽の大名「佐竹義宣」に預けられて、軟禁生活の後、73歳で亡くなっています。
なぜ正純は、秀忠を暗殺しようとしたのか?
この「宇都宮釣天井事件」・・・・後世では老中「土井利勝」たちの「罠」と言われています。
つまり、正純は無実・・・。
秀忠もまた、本多正純の権勢を疎ましく思っていたため、土井利勝と協力して、正純を廃した・・・という説もあるのです。
自分が嫌われていることを、重々承知していた父「正信」は、難を逃れて天寿を全うしましたが、息子・正純は、生き残れませんでした。
ちなみに、正純の子孫は、後に旗本として復活。
正純の弟「本多政重」は、加賀前田家で7万石の大名に出世いたしました。
「本多正信と本多忠勝が、親戚関係か否か」について、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・本多正信は、頭脳派であり、一度裏切ったから、徳川家のなかで嫌われていた
・息子に対し「3万石以上は受け取ってはならない」と遺言していた
・父の遺言に反した息子・正純は、土井利勝の罠にハマって没落した
以上となります。
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