徳川家康に仕えた4人の名将【徳川四天王】
- 酒井忠次
- 本多忠勝
- 榊原康政
- 井伊直政
彼らのなかで最強は誰なのか?
参謀・本多正信は、なぜ四天王に入れなかったのか?
四天王のうち、個人で最も強かったのは本多忠勝。
軍団の指揮や采配が一番うまかったのは井伊直政。
正信が四天王に入れなかったのは、裏切り者で嫌われ者だったから。
徳川四天王について、くわしく解説をいたします。
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この記事を短く言うと
- 徳川四天王とは酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4名のこと。
- おそらく個人の力量で言うなら、最強は本多忠勝、采配力は井伊直政。
- 智将・本多正信が四天王に入っていない理由は、裏切り者で嫌われ者だったから
徳川四天王のメンバー紹介
徳川四天王とは、徳川家康の天下統一を助けた徳川家の名将4名。
年齢順に記してみると、酒井忠次を筆頭に
- 本多忠勝
- 榊原康政
- 井伊直政
この4名です。
ちなみに、本多忠勝と榊原康政は同年齢です。
酒井忠次
酒井忠次は、石川数正とともに徳川家で最高の職にいた功臣。
四天王筆頭であり、同時に徳川十六神将の筆頭でもあります。
もともと酒井忠次は、徳川家康が今川義元のもとに人質となるため、駿府へ移り住む際に同行した最年長者でした。
石川数正が豊臣秀吉に寝返ったあと、忠次は徳川家の家臣筆頭となりました。
家康の嫡男だった徳川(松平)信康が、武田勝頼と内通していると、織田信長から詰問を受けたのが、この酒井忠次でした。
このとき酒井忠次は、満足な反論ができなかったため、信長は家康に対して、信康を殺害するように命じたといわれています。
こういう失態が原因なのか、酒井忠次は四天王の他の3名に比べて、もっとも領土が少ないのです。
しかし、この信康事件の真相について現在では、家康が信康の謀反に怒り切腹させたという説が有力ですので、酒井忠次の失態も創作である可能性があります。
おそらくですが、四天王筆頭である酒井忠次の領地が少ないのは
「急激に大きくなった徳川家の家臣を増やすために、新しい家来が集まりやすくなるように、新参者に大量の領地を与えなくてはならなくなった」
という事情があったのでしょう。
→→→→→【酒井忠次の子孫と家系図】についてくわしくはこちら
本田忠勝
本田忠勝といえば
- 結城秀康の槍【御手杵】
- 福島正則の槍【日本号】
これら並ぶ天下三名槍の一つ【蜻蛉切】を振り回して戦う豪傑です。(蜻蛉切とは、壁に槍を立てかけていたとき、先端にとまったトンボが真っ二つになってしまったため、名付けられたという)
生涯57回の戦争で、かすり傷一つ負わなかったという本田忠勝。
亡くなる数日前に小刀で手を切り、自分の命の終わりをさとったといいます。
本田忠勝は、その圧倒的な強さから、織田信長や豊臣秀吉からも評価された猛将でした。
織田信長からは
「花も実もある武将」
と呼ばれ、豊臣秀吉からは
「東の本多忠勝・西の立花宗茂」
と呼ばれたといいます。
真田信之をご存知でしょうか?
天下最強の徳川軍を二度も敗走させた名将・真田昌幸の長男であり、のちに【天下の飾り】とたたえられた名将です。
そして、日本一の兵と呼ばれた名将・真田信繁(幸村)の兄です。
真田信之の妻・稲姫は、本田忠勝の娘です。
その縁もあって、本田忠勝は関ヶ原の戦いで敗北した真田信繁(幸村)の助命を家康に願い出ています。
家康はこの忠勝の申し出を拒絶したものの
「この願いが通らないのなら、婿である真田信之の城にたてこもり、家康様を相手に戦をする」
と家康を脅し、真田親子の命を救ったのでした。
豪槍を振り回しての戦いを好んだ、典型的な体育会系だったようです。
→→→→→【本多忠勝の子孫と家系図】についてくわしくはこちら
榊原康政
榊原康政は、個人の武力は本多忠勝に及ばないものの、軍を自在に操る術は忠勝より上、井伊直政に劣らないといわれていました。
榊原康政は、1600年の関ヶ原の戦いで、遅刻した徳川秀忠の側近をつとめていました。
遅刻した秀忠に激怒した家康に対して
「真田を攻めろといったのは、家康であり、秀忠に落ち度はない」
と、強行に説得を続けたといいます。(実際、秀忠に落ち度はなく、家康の命令に問題があった)
それを聞き入れた家康は、秀忠を許し、おかげで徳川家は分裂せずに済んだといわれているのです。
その後、関ヶ原の戦いで大手柄を挙げていた本多忠勝・井伊直政と一緒に酒を飲んだ際、榊原泰昌は二人からこう言われたそうです。
「関ヶ原の戦いにおいて、我ら3名のなかで最大の功労者は、榊原康政だ。
家康公への進言がなかったら、家康公と秀忠公で、徳川家は真っ二つになっていただろう。
お見事だった」
と言ったそうです。
関ヶ原の戦い本戦に間に合わなかった康政への、忠勝と直政の慰めの言葉だったのかもしれません。
井伊直政
井伊の赤鬼と呼ばれた猛将・井伊直政
武田信玄に仕えた2人の名将・飯富虎昌と山県昌景の兄弟から、鎧が赤一色で染めあげられた精鋭部隊【赤備え】を受け継いだのが、井伊直政です。
井伊直虎に養育され、その苛烈な性格から、家来たちも恐れた猛将だったといいます。
四天王の中で一番の新参者でありながら、圧倒的な武力と気合で次々と仕事をこなし、家康がもっとも信頼する家来に成長した直政。
1590年の小田原城攻めでは、22万の豊臣軍の中たった一人だけ、天下の堅城・小田原城内へ攻め入ったのでした。
家康の四男・松平忠吉を娘婿にし、その指南役も務めたと言われています。
1600年の関ヶ原の戦いでは、猛将・福島正則を出し抜いて先陣をつとめ、戦後に敵大将・石田三成の本拠地・佐和山城の城主に就任。
常に軽装だったが無傷だった本多忠勝に比べて、井伊直政は常に重装備だったにも関わらず傷だらけだったといわれています。
井伊直政は、関ヶ原の戦いで島津軍から受けた鉄砲傷が原因で、1602年に死亡。
享年42歳。
井伊家はその後、彦根30万石に転封。
徳川家の譜代大名の中で最大の所領を得るに至りました。
余談ですが、井伊直政の育ての親は、女城主として有名なあの井伊直虎。
そして子孫には、幕末の桜田門外の変で亡くなった、徳川幕府の大老・井伊直弼がいます。
→→→→→【井伊直政の子孫と家系図】についてくわしくはこちら
徳川四天王の中で、最強は誰なのか?
四天王の中で、最強は誰だったのでしょうか?
個人の戦闘能力でいえば、最強は本多忠勝で間違いないでしょう。
何といっても豪槍・蜻蛉切という重装備を軽々使いこなし、船のオールを振り回したら、周囲に生い茂っていた葦が切り取られてしまった・・・というほどの豪傑。
ちなみに息子の本多忠政がオールを振り回してみたら、葦は切れることはなく、ただなぎ倒された・・・といわれています。
そんな忠勝も、どうやら【軍を自在に操る采配能力】では、榊原康政や井伊直政には敵わなかったみたいですね。
【武備神木抄】という書には
「部隊の指揮能力について本多忠勝は、榊原康政や井伊直政には及ばない」
と書かれています。
つまり、軍団を持たせれば、もっとも強いのは榊原康政と井伊直政ということになるのでしょう。
戦功の多さからいえば、井伊直政のほうが、榊原康政よりも上なのではないでしょうか。
- 人斬り兵部
- 井伊の赤鬼
などと呼ばれた井伊直政。
兵の采配能力が高く、四天王の中でもずば抜けていたからこそ、最も新参であるにもかかわらず、最大の譜代大名になれたのです。
なぜ本田正信は、徳川四天王に入れなかったのか?
徳川家には、本田正信という名前の参謀がいました。
正信は、かなりの功績を残した重臣でした。
ところが、この人物は、徳川四天王に数えられていません。
なぜなら、彼は裏切り者だったからです。
徳川家には四天王の他に、主にあと3名の功臣がいます。
- 鳥居元忠
- 石川数正
- 本田正信
鳥居元忠は、1600年の【関ヶ原の戦い】の前哨戦である【伏見城の戦い】で、捨て駒となって戦死した功臣。
しかし四天王に比べるとちょっと見劣りしてしまいますので、四天王には数えられていません。
石川数正は、武闘派の徳川家において珍しい頭脳派で、かなりの切れ者だったと言われています。
秀吉と家康が直接激突した【小牧・長久手の戦い】のあと石川数正は、秀吉と家康のあいだを取り持つ外交担当を務めていたのでした。
しかし石川数正は、徳川家の家来たちから裏切りを疑われて家出し、豊臣家へ鞍替えしたのです。
石川数正は、裏切り者呼ばわりされたので、四天王には入れなかったのでした。
最後は本多正信です
なぜ知恵者と呼ばれた本多正信は、四天王に入れなかったのでしょうか?
本田正信は、裏切り者だった
実は、本多正信は、徳川家の中でもかなりの嫌われ者なのです
本多忠勝からは、こんなことをいわれていました。
「同じ本多姓だが、俺はあいつとは無関係だ」
(実際には2人は遠縁であり、無関係ではない)
「佐渡守(正信)は腰抜けだ」
忠勝が正信のことを、かなり嫌っていたことがうかがえます。
榊原康政は本多正信のことを
「正信はハラワタの腐ったやつだ」
と酷評していたといいます。
正信は他の家来たちからも、かなり厳しい評価をされていたようです。
なぜ本多正信はそれほどまでに嫌われていたのでしょうか?
実はその理由は2つありました。
1つは本多正信が、体育会系の三河家臣団の中で、石川数正と並んで、めずらしい頭脳派であったためです。
そのため、真っ正直な三河武士団の中で本多正信は、ずる賢いやつ、と思われていたようです。
戦国の梟雄・松永久秀は
「徳川の侍はみんな武勇のみの連中だ。
だが一人だけ、本多正信だけは、剛でもなく柔でもなく卑でもない。
大きな器の男だ」
と言っていました。
正信が嫌われているもう一つの理由ですが、正信が徳川家を一度裏切った人間だったからです。
本多正信は、最初は鷹匠として家康に仕えていました。(鷹匠とは鷹を扱う専門家のこと。家康は鷹狩りという狩猟が大好きだった)
しかし正信は、その後に起こった三河一向一揆の際に、一揆を起こした者たちと同じ宗派・浄土真(一向)宗を信仰していた理由から、徳川家を家出して一向一揆に協力してしまったのです。
その後、本田正信は松永久秀に仕え、そのあと日本諸国を歴遊。
1570年または1582年頃、徳川家への帰参がかなったといわれています。
嫌われ者だったということと、出戻りだったことが四天王に組み込まれなかった理由でしょう。
彼は戦が原因で足を悪くしており、そのため戦争に出陣できなかったそうです。
もしかしたら、それも四天王に入れなかった理由なのかもしれません。
→→→→→【本多正信と本多忠勝の関係】についてくわしくはこちら
嫌われ者・本田正信の最期とは?
正信は徳川家康が亡くなった直後、あとを追うようにして亡くなっています。
そしてその息子が、悲惨な末路をたどっているのです。
不思議なことですが、正信の領地は2万2000石と、その功績のわりには極端に少なかったです。
なぜか正信は、それ以上の領地を褒美として与えられても、決して受け取ろうとしなかったそうです。
正信は死の間際に最期の遺言として、息子・本多正純へ、こんな言葉を残しています。
「3万石以上の褒美は受け取るな」
1616年、本多正信は、亡くなった徳川家康の後を追うようにして亡くなりました。
息子の正純は、父に似た切れ者でしたが、父の教えを破って15万石を褒美としてもらってしまうのです。
その後、二代将軍・徳川秀忠を暗殺しようとした、とする【宇都宮吊り天井事件】という濡れ衣を着せられて失脚。
父の最期の指示をきかなかった息子・正純と本多家は、もろくも崩れたのでした。
→→→→→【本多正信の最期の言葉の意味】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 徳川四天王とは、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4名の功臣のこと
- おそらく最強は井伊直政。個人の武力では本多忠勝
- 本多正信が四天王に入れなかったのは、嫌われ者で、出戻りだったから
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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