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井伊直政と井伊直弼の関係とは?家系図でわかりやすく解説

徳川四天王の一人・徳川の譜代大名ふだいだいみょうで最大の領地を持っていた井伊直政いいなおまさ

大河ドラマ【おんな城主直虎】の主人公・井伊直虎とはどういう関係なのでしょうか?

また、幕末に【桜田門外の変】で亡くなった大老・井伊直弼とは、どういう関係だったのでしょうか?

結果を言ってしまうと、井伊直虎は井伊直政の義理の母。直弼は、直虎・直政の末裔に当たる人物です。

この記事では、名門・井伊家について、くわしく解説いたします。


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この記事を短く言うと

  1. 井伊直政いいなおまさは、井伊直平いいなおひら曾孫ひまごであり、井伊直親いいなおちかの息子にあたる人物
  2. 井伊直政と井伊直虎いいなおとらは養子と養母という関係であり、正統後継者と中継ぎという関係でもある
  3. 幕末の大老井伊直弼いいなおすけは、井伊直政の子孫にあたる
目次

井伊直政いいなおまさの家系図

徳川四天王の一人にして、後の彦根藩30万石の礎を築き上げた猛将・井伊直政いいなおまさをご存知でしょうか?

その井伊直政の家・井伊家の家系図をご用意いたしました。

《井伊直政の家系図》
家系図の引用などはご遠慮くださいませ

2017年の大河ドラマ【おんな城主直虎】で、俳優・前田吟まえだぎんさんが演じていた武将・井伊直平。

井伊直平(直虎の曽祖父)には、4名の子供がいました。

  1. 井伊直宗(直虎の祖父)
  2. 南渓瑞聞
  3. 井伊直満(直親の父・井伊直政の祖父)
  4. 築山殿の母親

井伊直宗の子・井伊直盛(直虎の父)が井伊家の家督を相続しています。

しかし井伊直盛には嫡子がいなかったため、叔父である井伊直の息子・井伊直と、自らの娘である井伊直虎の婚姻を約束したのです。

そんな中で、井伊直の謀反が今川家にバレてしまい、直満は処刑されてしまいます。

処刑された直満の息子・井伊直親は、信濃国へと亡命し、なんとか命を救われます。

10年後に戻ってきた直は、高瀬たかせという娘を連れて帰還し、奥山朝利おくやまともとしの娘と結婚したのでした。

と奥山の娘とのあいだには、虎松とらまつという息子が誕生します。この虎松こそが、のちの井伊直政いいなおまさがです。

井伊直政
引用元Wikipediaより

その後、井伊直親が徳川家とのあいだで締結した密約が今川家に発覚。

父・井伊直満と同じように、直親は今川家に暗殺されてしまいます。

残された虎松(井伊直政)は、まだ幼く、家督相続が出来る状態ではありませんでした。


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井伊直政いいなおまさ井伊直虎いいなおとらは、どういう関係なのか?

井伊直政と井伊直虎は、義理の親子であり、当主と当主代行の関係にありました。

井伊直政は、直虎の婚約者だった井伊直親の息子です。

家系図で言うなら、直虎にとって婚約者の直親は、大叔父・直満の息子。井伊直虎から見れば、井伊直政は【大叔父の孫】つまり【祖父の弟の孫】に当たることになります。

直虎は井伊家の正当な直系であるものの、女性ですので井伊家を継承することが出来ませんでした。

そのため、直政が継承するまでの代理として、井伊家の当主を務めていました。

言いかえれば直虎は、直政が成長するまでのあいだをつなぐ、当主代行なのです。

直虎は、井伊直政が井伊家を継承するまでの中継ぎを務めた人物だったということです。

一説には、直虎は直政の養母でもあったといわれています。

井伊直政いいなおまさと幕末の大老・井伊直弼いいなおすけはどういう関係なの?

井伊直政は大老・井伊直弼のご先祖さま

井伊直政の子孫には、幕末に活躍した大老・井伊直弼がいます。

井伊直弼
『引用元ウィキペディアより』

井伊直政という名前を聞くと、幕末の幕府大老井伊直弼を思い出します。

徳川幕府・大老であり、安政の大獄という弾圧をおこない、吉田松陰橋本左内たち有能な人材を次々と処刑。

桜田門外の変で暗殺された人物です。

井伊直政と直弼は、先祖と子孫という関係です。

当時の幕藩体制では、譜代大名ふだいだいみょう関ヶ原の戦い以前から、徳川家の部下だった大名)しか、幕府の運営にかかわれない体勢でした。

井伊家は、譜代大名の筆頭といわれるほどの名家だったのです。

井伊家が支配していた彦根藩主からは、歴代5名もの徳川幕府・大老が輩出されています。

  1. 直澄なおずみ
  2. 直該なおもり
  3. 直幸なおゆき
  4. 直亮なおあき
  5. 直弼なおすけ

これは徳川政権のもとで、井伊家がどれほど高い地位にいたか、を物語っています。

この徳川幕府内での井伊家の地位を築きあげたのが、猛将・井伊直政だったのです。


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井伊直政の最期

井伊直政の死因は、怪我を原因とする衰弱死です

直政は【1600年】に起こった【関ヶ原の戦い】に参戦しています。

この戦いで、直政は徳川家康の四男で自分の娘婿でもあった松平忠吉まつだいらただよしとともに、先陣を駆け抜けました。

戦いの終盤で直政は、退却する薩摩の猛将・島津義弘しまづよしひろの追撃を行っています。

そのとき、追撃軍を迎え撃ったのが、島津義弘の甥にあたる猛将・島津豊久だったといわれています。

この島津豊久の軍が発射した鉄砲が、井伊直政の腕また肩に命中してしまいます。

その傷が治らないうちに、戦後処理と外交交渉という激務を繰り返した井伊直政は、過労気味になってしまいます。

そして【1602年】、自らを死に追いつめた敵・島津義弘の赦免を徳川家康に訴えて、井伊直政は亡くなってしまいます。享年42歳

当初、直政の後継者は嫡男・井伊直勝でしたが、病弱だったため次男・井伊直孝が継承しています。

直孝は【1615年】の大坂の陣にて、名将・真田信繁さなだのぶしげ(別名・真田幸村さなだゆきむら)が守る砦・真田丸さなだまるに突撃し惨敗しています。

真田信繁/真田幸村肖像:上田市立博物館所蔵品:Wikipediaよりパブリックドメイン

ちなみに、真田信繁(幸村)は、関ヶ原の戦いで徳川と敵対して処刑されるはずでしたが、本多忠勝や井伊直政による必死の助命嘆願により、九度山への流罪・幽閉で助けられています。

直政が真田信繁を助けなければ、息子の井伊直孝が真田丸で惨敗することはなかったかもしれません。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 井伊直政は、井伊家の正統後継者にして、井伊直虎の養子にあたる
  2. 直政は、のちの徳川幕府大老・井伊直弼の先祖にあたる
  3. 井伊家は、徳川政権では譜代筆頭という名門中の名門だった
  4. 直政は関ヶ原の戦いで被弾し、それが原因で2年後の【1602年】に亡くなった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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