徳川四天王の筆頭・酒井忠次の子孫と家系図について調査いたしました!
現在も他の徳川四天王の末裔達と、交流があるとのこと。
しかも現在、山形県で物産会社の社長さんをしておられるのだとか!
家康の嫡男・松平信康を見捨てた、といわれている酒井忠次について解説いたします。
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この記事を短く言うと
・酒井忠次は、徳川家康の部下の中でも第一の人物。徳川四天王の筆頭で、徳川十六神将の筆頭でもある。
・忠次は家康の子・松平信康を見捨てたという説があるが、近年では否定されている
・忠次の子孫は現在、山形県鶴岡市で物産会社の社長をなさっている
酒井忠次の子孫と現在までの家系図
家系図と子孫
酒井忠次の家系図は以下の通りです。
酒井忠次の先祖は、徳川家康の先祖である松平親氏の兄弟だったといわれています。
そのため、忠次と家康は、血縁にあたります。
また、忠次の妻である碓井姫は、家康の母親と父親の両方の異母兄弟または異父兄弟であるため、父方の叔母であり、母方の叔母でもあるのです。
そのため酒井忠次も、徳川家康の義理の叔父にあたるというわけです。
酒井氏の家系について、歴代当主を順番に現すと、次のようになります。
- 酒井忠次
- 家次
- 忠勝
- 忠当
- 忠義
- 忠真
- 忠寄
- 忠温
- 忠徳
- 忠器
- 忠発
- 忠寛
- 忠篤
- 忠宝
- 忠篤(13代の忠篤と同一人物)
- 忠良
- 忠明
- 忠久
- 忠順
【2011年12月】に浜松市で【浜松市政100周年】の【家康公シンポジウム】が行われました。
そこに、徳川家康の子孫と、徳川四天王の子孫が揃って出席していました。
その場には、酒井忠次の子孫である酒井忠久さんもいました。
酒井忠久さんの息子で19代目の酒井忠順さんは、山形県鶴岡市出身の1974年生まれです。
松岡物産の代表取締役社長を務めているとのことです。
また、酒井忠次の次男である本多康俊の子孫が、本多康穣という人で、近江膳所藩主として明治維新をむかえています。
酒井忠次とは、どんな人?
酒井忠次とは、徳川家康に仕えた功臣たち、徳川四天王と徳川十六神将、ともに筆頭とされている徳川家でも第一の功臣です。
忠次は、徳川家康が幼いころから、そばに仕えていたと言われています。
- 桶狭間の戦い
- 駿河侵攻
- 姉川の戦い
- 長篠の戦い
- 天正壬午の乱
- 小牧・長久手の戦い
などなど、徳川家の主要な戦い全てに参加しています。
【1585年】に、自分と同じ宿老の立場にいた石川数正が、突然家康を裏切って豊臣秀吉に寝返りました。
酒井忠次は、そのあと徳川家で最高位に着くこととなりました。
【1588年】、秀吉の小田原征伐が行われる2年前に、眼病が原因で隠居しています。
ほとんど失明状態だったと言われています。
家督は長男の酒井家次が継ぎました。
【1596年】、酒井忠次は京都で亡くなりました。享年70歳
酒井忠次は、徳川家康の息子・松平信康を見捨てたのか?
酒井忠次は信康にかけられた疑惑を、弁明できなかった
酒井忠次は、家康の嫡男・松平信康を見捨てたと考えられていましたが、近年の研究では否定されています。
信康といえば、家康の息子で、織田信長の娘婿です。
信長からの命令で切腹させられた悲劇の若殿として有名です。
なぜ信康は、信長から切腹させられたのか?というと、宿敵である武田勝頼と内通して、父・家康を裏切ろうとしたから・・・と言われています。
しかしこの企ては、信長の娘にして信康の妻・徳姫にバレてしまいます。
このことを徳姫は、父・信長に知らせました。
この裏切りに、織田信長は激怒。
信長は徳川家の最高職にある家臣・酒井忠次に、松平信康と武田勝頼の内応が真実かどうかを詰問したのでした。
酒井忠次は、満足な弁明が出来ず、その疑惑をほとんど認めてしまいます。
これにより信長は激怒し、家康に信康処分を指示したといいます。
信康は若くして切腹して亡くなることとなった・・・とのこと。
家康は、この件で忠次を非常に恨んだと言われています。
忠次が隠居した後、徳川四天王の他の三名
などは、10万石以上の領地をもらっているのに、忠次の子・家次はわずかに3万石しかもらえなかったのでした。
これに不満を抱いた忠次は、家康に対して抗議したと言われています。
対して家康は
「お前も息子がかわいいか?」
と痛烈な皮肉を口にして、忠次を黙らせたと言われています。
しかし、この酒井忠次が信康を見捨てたという説は、最近の研究でくつがえされているようです。
信康事件は、酒井忠次に責任はない
信康事件の真相は、織田信長の命令で、松平信康が切腹させられたというのがこれまでの通説でした。
しかし、最近の研究では
【信康が母親である築山殿とともに、武田勝頼に味方して、家康を相手に謀反を起こそうとしたため、家康が自発的に切腹を命じた】
とされています。
信長は【切腹せよ】と命令したのではなく、【信康の娘婿】だからという理由で、家康からお伺いを受けていたようなのです。
信康を処分すれば、信長の娘は若くして未亡人となるのですから、信長に伺いをたてるのは当然です。
信長は家康からの相談に対し
「家康殿の好きにせよ」
と応えたといいます。
つまり、信長の命令ではないということは、酒井忠次による【弁明せず見捨てた】わけではないということになります。
忠次は徳川家の筆頭ですから。
家康の嫡男をかばわずに見捨てる、なんてあり得ません。
子孫は徳川四天王の子孫と、今でも交流している
徳川四天王の子孫は、それぞれの先祖を尊重し、通字を今も引き継いでいるようです。(通字とは、一族に代々伝わる名前の一文字)
例えば酒井忠次の子孫は、【忠】の一字を通字として、代々名乗っています。
【2011年12月】、浜松市で行われた【家康公シンポジウム】に、徳川家康の子孫と、徳川四天王の子孫が勢揃いしました。
その中には、酒井家18代当主・酒井忠久さんも参加しておられました。
子孫同士が頻繁に交流をしていたわけではないようです。
それでもこのシンポジウムで出会ったということは、その後も何かしらの活動を一緒にやっていてもおかしくありません。
そうであってほしいと願うばかりです。
余談ですが、家康の知恵袋・本多正信の子孫も、石川県で歴史保全の活動していると言われています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 酒井忠次は、徳川四天王筆頭にして、家康の第一の功臣
- 忠次の子孫「酒井忠順」さんは、現在山形県鶴岡市で社長をしておられる
- 忠次は、信康を見捨てたと言われているが、そんなことはないと最近の研究で明らかになった
- 徳川四天王の子孫が2011年12月に、浜松に集まっていた
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
コメント
コメント一覧 (2件)
興味深く読ませていただきました。
同じ酒井の好で、酒井忠次には興味があり、もっと詳しく知りたいと思っています。
忠勝が信濃国から転封になり、その後の酒井家は、幕末の戊辰の役までは出羽国の藩主だったとは知っていましたが、19代目の忠順さんが鶴岡市に入らっしゃるとは驚きました。
よくご存じですね。
忠順さんは、今何か活動などをされていらっしゃるのでしょうか?
講演会などがあれば、是非参加させていただきたいと思うのですが。
現在の忠順さんについて、何かもっと教えて頂ければ幸いです。
失礼いたします。
この度は、当サイトをご利用いただき、誠にありがとうございました。
酒井忠次の末裔・酒井忠順氏について、こちらで調査してみましたところ、講演会のような活動は発見できませんでした。
ただ、酒井忠順氏は現在、鶴岡市にある「致道博物館(ちどうはくぶつかん)」の副館長を務め、館長である父「忠久」氏とともに地域振興に力を注いでおられるのだとか。
致道博物館では、時折「学芸員によるオフィシャルトーク」がされているとのことですから、そこに酒井氏がお越しくださるかもしれません。
「致道博物館」について、よろしければ、以下のURLをご利用くださいませ。
https://www.chido.jp/
それから「酒井忠順」氏のプロフィールなどについては、以下のURLが役に立つと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E9%A0%86_(%E5%AE%9F%E6%A5%AD%E5%AE%B6)
この度は、当「レキシル」サイトをご利用いただき、誠にありがとうございます。
今後ともぜひぜひ、お越しいただきたく存じます。
ありがとうございました。
お返事が遅くなり、大変申し訳ありませんでした。