酒井忠次の子孫と家系図を解説!他の徳川四天王の末裔と今でも交流?

「徳川四天王」筆頭「酒井忠次」。その子孫と家系図について調査いたしました!

現在も他の「徳川四天王の末裔」達と、交流があるとのこと。しかも現在、山形県で物産会社の社長さん!

家康の嫡男「信康」を見捨てた、と言われている「酒井忠次」について解説いたします。


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この記事を短く言うと

・酒井忠次は、徳川家康第一の功臣

・忠次は、家康の子・松平信康を見捨てた・・・という説があるが、近年では否定されている

・忠次の子孫は現在、「山形県鶴岡市」で物産会社の社長をなさっている


酒井忠次の子孫と家系図

酒井忠次とは?

酒井忠次・・・「徳川四天王」「徳川十六神将」、ともに筆頭とされている徳川家第一の功臣。

徳川家康が幼いころから、そばに仕えていたと言われています。

「桶狭間の戦い」「駿河侵攻」「姉川の戦い」「長篠の戦い」「天正壬午の乱」「小牧・長久手の戦い」などなど、徳川家の主要な戦い全てに参加しています。

1585年に、自分と同じ宿老の立場にいた「石川数正」が、突然家康を裏切って「豊臣秀吉」に寝返りましたが、その後は徳川家で最高位に着くこととなりました。

1588年、秀吉の「小田原征伐」が行われる2年前に、眼病が原因で隠居。ほとんど失明状態だったと言われています。

家督は長男の「酒井家次」が継ぎました。

1596年、京都で亡くなりました。享年70歳


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家系図と子孫

酒井氏の家系図を現すと、次のようになります。

1,酒井忠次

2,家次

3,忠勝

4,忠当

5,忠義

6,忠真

7,忠寄

8,忠温

9,忠徳

10,忠器

11,忠発

12,忠寛

13,忠篤

14,忠宝

15,忠篤(13代忠篤)

16,忠良

17,忠明

18,忠久

19,忠順

2011年12月に浜松市で行われた「浜松市政100周年」の「家康公シンポジウム」に、「徳川家康」の子孫と、「徳川四天王」の子孫が揃って出席していました。

その場には、酒井忠次の子孫「酒井忠久」さんもいました。

酒井忠久さんの息子で19代目の「忠順(ただより)」さんは、山形県鶴岡市出身の1974年生まれ。

松岡物産の代表取締役社長を務めているとのことです。


徳川四天王の子孫」については、以下のリンク記事をご利用いただけますと、理解が深まるものと存じます。

↓↓↓↓↓

「徳川四天王で最強は誰?本多正信が含まれなかった2つの理由」の記事はコチラ

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家康の子「信康」を見捨てた?

信康の疑惑を、弁明できず

酒井忠次は、「家康の嫡男『信康』を見捨てた」と噂されているようです。

「信康」といえば、家康の息子で、織田信長の娘婿。

信長からの命令で切腹させられた「悲劇の若殿」として有名です。

なぜ信康は、信長から切腹させられたのか?というと、宿敵である「武田勝頼」と内通して、父・家康を裏切ろうとしたから・・・と言われています。

しかしこの企ては、信長の娘にして信康の妻「徳姫」にバレてしまいます。

このことを徳姫は、父・信長に知らせました。

これにより、信長は怒り心頭。

信長は徳川家の最高職にある家臣「酒井忠次」に、「武田勝頼との内応」は真実かどうかを詰問。

酒井忠次は、満足な弁明が出来ず、概ね疑惑を認めてしまいます。

これにより信長は激怒し、家康に信康処分を指示!

信康は若くして切腹して亡くなることとなった・・・とのこと。

家康は、この件で忠次を非常に恨んだと言われています。

忠次が隠居した後、徳川四天王の他の三名「本多忠勝」「井伊直政」「榊原康政」などは、「10万石」以上の領地をもらっているのに、忠次の子・家次はわずかに3万石。

これに怒り心頭な忠次は、家康に対して抗議したと言われています。

対して家康は

「お前も息子がかわいいか?」

と痛烈な皮肉を口にして、忠次を黙らせたと言われています。

が・・・この「忠次が信康を見捨てた」という説は、最近の研究で覆されているようです。


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「信康事件」・・忠次に責任はない

信康事件・・・織田信長の命令で切腹させられたと言うのがこれまでの通説でした。

しかし、最近では「信康が本当に謀反を起こそうとしたため、家康が自発的に切腹を命じた」とされています。

信長は「切腹せよ」と命令したのではなく、「信康の娘婿」だからという理由で、家康からお伺いを受けていたようなのです。

当然、信康を処分すれば、信長の娘は若くして未亡人となるのですから、信長に伺いをたてるのは当然です。

信長は家康からの相談に対し

「家康殿の良いようになされよ」

と応えたと言います。

つまり、信長の命令ではないということは、酒井忠次による「弁明せず、見捨てた」なんてなかった・・・ということになります。

忠次は徳川家の筆頭ですからね。嫡男を庇わないなんてあり得ません。


信康事件」について、以下のリンク記事をご利用いただければ、さらに理解が深まると存じます。

↓↓↓↓↓

「徳川信康はなぜ切腹したの?家系図からわかる井伊直虎との意外な関係」の記事はコチラ

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子孫は徳川四天王の末裔と、今でも交流?

徳川四天王・・・その子孫は、今でもそれぞれの先祖を尊重し、通字を今も引き継いでいるようです。

例えば「酒井忠次」の子孫は、「忠」の字を通じとして代々子孫は名乗ってきています。

2011年12月、浜松市で行われた「家康公シンポジウム」に、徳川家康の子孫と、徳川四天王の子孫が勢揃いしました。

その中には、酒井家18代当主「忠久」さんも参加しておられました。

子孫同士が頻繁に交流をしていたわけではないようですが、それでもこの時に出会ったということは、その後も何かしらの活動を一緒にやっているのかもしれません。

とはいえ、はっきりとはわかりませんが・・・・そうであってほしいと願うばかりです。

徳川四天王の子孫だけではなく、「本多正信」の子孫も、石川県で歴史保全の活動していると言われています。


徳川四天王の子孫」について、以下のリンク記事をご利用いただければ、理解が深まると存じます。

↓↓↓↓↓

「徳川四天王で最強は誰?本多正信が含まれなかった2つの理由」の記事はコチラ

本多正信」について、以下のリンク記事をご利用いただければ、理解が深まると存じます。

↓↓↓↓↓

「本多正信と本多忠勝は宿敵関係?おかげで子孫は一気に没落していった」の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

・酒井忠次は、徳川四天王筆頭にして、家康の第一の功臣

・酒井忠次の子孫「酒井忠順」さんは、現在山形県鶴岡市で社長をしておられる

・酒井忠次は、信康を見捨てた・・・と言われているが、そんなことはないと最近の研究で明らかになった

・徳川四天王の子孫が2011年12月に、浜松に集まっていた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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