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徳川四天王の子孫の現在とは?その後や最後をわかりやすく簡単に解説!

徳川家康に仕えた徳川四天王とくがわしてんのうをご存知でしょうか?

子孫は、今でも続いていて、子孫同士で交流しているようです。

四天王のメンバーと、4人のその後を分かりやすく解説いたしました。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 徳川四天王とは酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政の4名
  2. 四天王はその後、それぞれに家名を保ち、明治まで藩主として存続している
  3. 四天王の子孫は、現在まで続き、たまに互いに交流もしている

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目次

徳川四天王の子孫の現在

徳川四天王の子孫は、今でも続いています。

  • 酒井忠次の子孫、酒井忠久さん
  • 本多忠勝の子孫、本多隆将さん
  • 榊原康政の子孫、榊原政信さん
  • 井伊直政の子孫、井伊直岳さん

井伊直政の子孫である、井伊直岳さんは、婿養子であるため井伊家の血を引いているわけではないようです。

本名は井伊岳夫さんというそうです。

どうやら井伊家の当主として振る舞う席では、井伊家の通字である【直】の字をつかう井伊直岳と名乗っているようですね。

徳川家康の末裔で、現当主の徳川恒孝さんとともに、2011年・家康公シンポジウムにて、四天王の子孫が勢揃いしていました。

徳川家と四天王の子孫は、今でも交流を持っているようですね。



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徳川四天王のメンバー紹介

徳川四天王のメンバー紹介!筋金入りの名将たちです

酒井忠次(1527~1596)

酒井忠次は、徳川四天王の筆頭にして、徳川十六神将の筆頭でもあります。

酒井忠次
引用元Wikipediaより

元々は、石川数正とともに徳川家臣団の筆頭でした。

しかし、石川数正が裏切って豊臣秀吉に乗り換えたため、徳川家臣団の単独筆頭となりました。

酒井忠次は、徳川家康が今川義元のところへ人質に行く際に同行した家臣団の中で、最年長でした。

1590年、小田原合戦を最後の戦として引退するまで、ずっと家康に仕えた徳川家で第一の功臣です


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本多忠勝(1548~1610)

【唐の兜】とともに【家康には過ぎたるもの】と呼ばれた猛将・本多忠勝

本田忠勝
引用元Wikipediaより

  • 結城秀康の御手杵おてぎね
  • 福島正則または母里太兵衛の日本号にほんごう

これらと並ぶ【天下三名槍】の一つ蜻蛉切とんぼぎりを振るう豪傑です。

本多忠勝は【徳川の軍神】とも呼ばれた武闘派です。

生涯57度の戦いでかすり傷一つ負わなかった伝説は、かなり有名です。

真田信繁(幸村)の兄・真田信之の妻・稲姫の父でもあります。

関ヶ原の戦いにおいて、敵方となった真田昌幸・幸村親子の助命を家康に訴え

「聞き入れてくれないなら、真田信之とともに沼田城に立てこもり、殿を相手に戦ってやる!」

と豪語して昌幸・幸村を守った男でもあります。

関ヶ原の戦いから14年後に始まった【大坂の陣】で家康は、忠勝が救った真田信繁に追いつめられることになります。

榊原康政(1548~1606)

榊原康政は、本多忠勝と同年齢で仲が良く、井伊直政とは心友であったと伝えられる名将。

榊原康政
引用元ウィキペディアより

秀吉からその首に10万石という懸賞がかけられたほどの武将。

関ヶ原の戦いでは、本隊を率いておきながら、戦いに遅刻するという大失態を犯した徳川秀忠に付き従っていました。

秀忠に対して激怒した家康をいさめて、秀忠の謝罪を受け入れさせ、徳川家の分裂を阻止したといわれています。

この家康・秀忠の【徳川家の分裂を阻止した】という功績を、本多忠勝と井伊直政から

「関ヶ原の戦いにおいて第一の大功」

と讃えられていました。

これは戦功のない榊原康政を、大手柄を挙げた忠勝と直政が、なぐさめたのだと考えられます。


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井伊直政(1561~1602)

井伊直政は、圧倒的な戦闘能力とで、家康の信頼を勝ち取った猛将です。

井伊直政
引用元Wikipediaより

直政は、徳川家の譜代ふだいの家臣団の中では、明らかな新参者であるにも関わらず、美少年とされた容姿に似合わぬ苛烈な働きぶりを讃えられた人物です。

最終的に徳川譜代ふだい大名の中で、最大の彦根30万石を得た井伊家中興の祖です。

家康の直政への信頼はかなりのもので、家康の四男・松平忠吉の妻は、直政の娘です。

ちなみに直政のもう一人の娘は、伊達政宗の長男・伊達秀宗に嫁いでいます。

しくじった家来は容赦なく処刑したため、井伊の赤鬼と呼ばれたといいます。

武田信玄につかえた名将・山県昌景から、最強部隊【赤備え】を受け継いだのが、この井伊直政です。

直政がその最強部隊を率いて、関ヶ原の戦いで先陣を切った話は有名です。


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徳川四天王のその後

四天王は、その後それぞれに領地をもらい、幕末まで存続しています。

酒井忠次のその後

家康の嫡男・松平信康の切腹事件で、織田信長から

信康が謀反をたくらんでいる

という疑いについて詰問きつもんを受け、信康を全くかばうことができなかったとか。

結果、信康は信長の命令で切腹させられ、忠次は家康に恨まれたといいます。

その結果、四天王の他の3名はみんな10万石以上の大きな領地をもらったのに、酒井忠次の息子は、わずか3万石だったとか。

これに不満をもった忠次は家康に抗議したといいます。

しかしそれに対して家康は

「お前も息子がかわいいのか?」

と、息子・松平信康を見捨てられた件を匂わせる痛烈な皮肉を言ったのだとか。

しかし近年の研究では、【信長の命令で、信康は切腹させられた】という従来の説は、間違いだといわれています。

現在の定説では、【家康が信康の謀反を未然に防ぐために、自ら切腹させた】とされています。

酒井忠次の領地が少ないのは、おそらく

新しい家臣を増やすために、新人に領地を与えなくてはならなかったため

なのでしょう。

豊臣秀吉も、長く仕えてくれた猛将【山内一豊やまうちかつとよ】より、若手で親戚の【加藤清正かとうきよまさ】や【福島正則ふくしままさのり】に大きな領地を与えていますしね。

忠次は、1590年の【小田原合戦】の後に、失明が原因で引退。

1596年、関ヶ原の戦い以前に亡くなっています。

本多忠勝のその後

本多忠勝は、関ヶ原の戦いを最期の戦として、平時においては真田を守り、徳川に仕え続けました。

57戦でかすり傷ひとつ負わなかった忠勝も、晩年に小刀で手を切って、人生初の負傷を経験。

「負傷したら、本多忠勝もおしまいだ」

と、自らの死期を悟り、数日後に亡くなったことは有名です。

忠勝が使用した名槍・蜻蛉切は、実は2つ存在していたらしいです。

一つは現在、三島市・佐野美術館が保管していますが、もう一つは全くの行方不明。

2つの蜻蛉切は微妙に形が異なるといわれています。

→→→→→【本多忠勝の最期と死因】についてくわしくはこちら


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榊原康政のその後

関ヶ原の戦いの後も、徳川家に仕え続けた榊原康政。

武闘派だった榊原康政は、関ヶ原の戦いの後の平時においては、家康から遠ざけられて激怒したといわれています。

または別の説として、若者にあとをゆずるために、自ら積極的に身を引いたともいわれています。

家康から、常陸国・水戸に25万石を与えるといわれた榊原康政でしたが、関ヶ原の戦いでの失態を理由に固辞こじ

特に徳川秀忠からは、関ヶ原の遅刻をかばってもらった恩により、相当に信頼されていたとのことです。

1606年に、重体となり、秀忠は康政を助けるために医師を派遣したらしいですが、その甲斐もなく死去。

家康の参謀・本多正信を

「ハラワタの腐ったやつ」

と毛嫌いしていたらしいです。

水戸25万石を断り、領地の館林に帰ろうとした際に、その本多正信にとどまるよう説得されたとのことです。

正信の説得を聞かず、館林で亡くなっています。

井伊直政とは心友であり

「直政が死ねば、私の死期も近いだろう」

と予言したといわれています。

しかし直政の死後4年も生きたところをみると、予言は外れたかもしれません。

→→→→→【榊原康政の最期と死因】についてくわしくはこちら

井伊直政のその後

関ヶ原の戦いで、娘婿の松平忠吉とともに先陣をつとめ、戦の終盤には島津軍の撤退を追撃しています。

しかし、島津豊久とよひさの決死の反撃により、銃撃を受けて負傷。

2年後の1602年、その傷と過労により死去。

最期に、自らを負傷させた島津家の赦免しゃめんを家康に進言したといわれています。

娘婿であった松平忠吉もまた、関ヶ原の戦いで銃撃を受けて負傷。

松平忠吉は、直政の後を追うようにして1607年に、亡くなっています。

→→→→→【井伊直政の最期と死因】についてくわしくはこちら


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 徳川四天王とは酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4名
  2. 酒井忠次は関ヶ原の戦いの4年前に、本多忠勝・榊原康政・井伊直政は、大阪の陣を前に亡くなっている
  3. 四天王全員の藩が、幕末まで存続し、子孫を今に存続させている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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