※本記事はPRを含みます。最終更新日:2026年4月30日
【執筆・編集】レキシル編集部(歴史エディター)
歴史専門サイト「レキシル」の編集担当です。歴史家ではなく編集者の立場から、複数の史料・研究書・大河ドラマの描写を比較し、諸説を公平に整理してお届けします。鶴岡市・致道博物館、彦根城博物館、上田城などへの現地取材経験あり。大河ドラマ『どうする家康』『真田丸』『葵 徳川三代』『八重の桜』を視聴のうえ、編集視点で本記事を構成しました。
結論からお伝えします。旧庄内藩主酒井家18代当主は酒井忠久氏(公益財団法人致道博物館名誉館長)です。山形県鶴岡市に在住され、徳川宗家や四天王家のご子孫とは、家康公ゆかりのシンポジウムや自治体間の行事などで交流を重ねておられます。本記事では「酒井忠次 子孫 現在」を中心に、家紋・家系図・他の徳川四天王のご子孫との関係まで、編集者目線でやさしく整理いたします。
酒井忠次の子孫は現在どこに?ご当主と家系の概要
まず、徳川四天王の筆頭である酒井忠次のご子孫が、現在どのような形で続いているのかを整理いたします。鶴岡市・致道博物館の公式情報を中心に、複数の出典を照合してまとめました。

「Wikipediaコモンズ」より引用
現当主は酒井忠久さん(庄内藩主酒井家18代当主)
酒井忠次のご子孫は、出羽庄内藩(山形県鶴岡市)の藩主家として明治維新まで続き、現在もそのまま地元・鶴岡市に住み続けておられます。致道博物館によれば、3代・酒井忠勝が元和8年(1622年)に庄内へ入部して以来、庄内地域の文化や歴史に深く関わってこられたご家系です(出典:公益財団法人致道博物館)。
酒井忠久さんは1946年生まれ。鶴岡市出身で致道博物館の運営に長年携わり、現在は名誉館長を務めておられます(大学等に関する情報は本記事では割愛します)。なお、本記事では地元・致道博物館の公式呼称等に合わせ「旧庄内藩主酒井家18代当主」と表記いたします(参考:Wikipedia 酒井忠久)。
徳川宗家・四天王の子孫が一堂に会した「家康公シンポジウム」

引用元「Wikipediaコモンズ」より
2011年、徳川家康公生誕の地・岡崎市などで開催された家康公シンポジウムでは、徳川宗家18代当主・徳川恒孝さんとともに、徳川四天王のご子孫が集まりました。確認できた範囲では、酒井忠次の子孫・酒井忠久さん、本多忠勝の子孫・本多隆将さん、榊原康政の子孫・榊原政信さん、井伊直政の子孫・井伊岳夫(直岳)さんなどが参加された記録があります。
なお、井伊岳夫(直岳)さんは彦根藩井伊家へ婿入りされたとされる方です。井伊家では当主として振る舞う公的な席で、井伊家の通字「直」を用いた「直岳」を名乗られています。
| 四天王 | 現代のご子孫 | 主な活動拠点 |
|---|---|---|
| 酒井忠次 | 酒井忠久さん | 山形県鶴岡市・致道博物館 |
| 本多忠勝 | 本多隆将さん | 桑名・岡崎ゆかり |
| 榊原康政 | 榊原政信さん | 館林ゆかり |
| 井伊直政 | 井伊岳夫(直岳)さん(婿養子とされる) | 滋賀県彦根市ゆかり |
このように、四天王のご子孫は今も各地でご家名を守り、文化財保存などを通じて歴史を伝えておられます。次の章では、より詳しいGoogle関連質問にお答えしていきます。
よくある質問(Q1〜Q4)に編集部がお答えします
ここからは、ネット検索でよく寄せられるご質問に、できるだけ短くお答えしていきます。詳しい根拠は本文後半でも補足いたします。
Q1. 酒井家の現当主は?
旧庄内藩主酒井家18代当主は酒井忠久さんです。致道博物館名誉館長として鶴岡市にお住まいで、地域文化財の保存活動を継続しておられます。
Q2. 酒井忠次の家紋は?

「Wikipediaコモンズ」より引用
酒井忠次の家紋は「丸に片喰(まるにかたばみ)」です(一部で庄内片喰紋などと呼称されることもあります)。徳川家の三つ葉葵紋と形状が似ていますが、松平家と酒井家が同祖とされる伝承があることに由来するといわれます。
Q3. 酒井家は今でも他の四天王の子孫と交流があるの?
はい、2011年の家康公シンポジウムをはじめ、徳川宗家や四天王家のご子孫とは、家康公ゆかりのシンポジウムや自治体間の行事などで交流を重ねておられます。鶴岡市・岡崎市・彦根市など、ゆかりの自治体間の文化交流も活発です。
Q4. なぜ酒井家は江戸時代を通じて存続できたの?
譜代大名として庄内14万石に封じられ、戊辰戦争では降伏・改易を経てのちに家名再興を許され、明治期に伯爵家となったことが大きな要因です。家臣団・領民との結束の強さも、明治以降に旧藩士が松ヶ岡開墾場を起こすなど、家を支える力となりました。
徳川四天王のメンバーをやさしく紹介
続いて、酒井忠次を含む徳川四天王のメンバー4名について、編集部が史料・通説を整理してご紹介いたします。それぞれの「ご子孫がどう続いたか」を理解する前提として、まず本人の人物像を押さえておきましょう。
酒井忠次(1527〜1596)— 四天王筆頭の最古参
酒井忠次は徳川四天王の筆頭であり、徳川十六神将の筆頭でもあります。元々は石川数正とともに徳川家臣団の双頭をなしていましたが、石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔したため、単独筆頭となりました。家康が今川義元のもとへ人質に向かった際の同行家臣のなかでも最年長で、1590年の小田原合戦を最後に引退するまで、生涯にわたって家康を支え続けた第一の功臣です。
本多忠勝(1548〜1610)— 「家康に過ぎたるもの」と讃えられた猛将
「唐の頭」とともに「家康には過ぎたるもの」と謡われた猛将・本多忠勝。結城秀康の御手杵、福島正則(あるいは母里太兵衛)の日本号と並ぶ天下三名槍の一つ「蜻蛉切」を振るう豪傑として知られます(蜻蛉切の現存数等については諸説あります)。生涯57度の戦でかすり傷ひとつ負わなかったという伝説は有名ですが、これらは江戸時代に編纂された史料に基づく逸話であり、史実としての正確性については諸説あるとされています。真田信之の妻・小松姫(稲姫)の父でもあり、関ヶ原の戦いの後には敵方となった真田昌幸・信繁親子の助命を家康に強く嘆願したと伝わります。
榊原康政(1548〜1606)— 秀忠を救った調整役
榊原康政は本多忠勝と同年齢で仲が良く、井伊直政とは「心の友」と称されたと伝えられる名将です。秀吉から首に懸賞がかけられたほどの武将でもありました。関ヶ原の戦いでは本隊を率いる徳川秀忠に従軍し、信濃上田城攻めで遅参するという大失態の責任を秀忠とともに負いましたが、激怒した家康をいさめ、徳川家の分裂を防いだとされます。この評価については、同時代の武将による慰めの言葉であったとする見方もあれば、軍事的な記録に基づく評価であるとする見方もあり、解釈が分かれています。
井伊直政(1561〜1602)— 赤備えを継いだ「井伊の赤鬼」
井伊直政は、譜代家臣としては明らかな新参でありながら、苛烈な戦働きと美少年とされた容姿のギャップで知られる猛将です。武田信玄に仕えた山県昌景から最強部隊「赤備え」を受け継ぎ、関ヶ原の戦いで先陣を切った逸話は特に有名です。失敗した家来を容赦なく処断したことから「井伊の赤鬼」とも呼ばれました。
四人の人物像が見えてきたところで、次は「四天王のその後」と「ご子孫がどう続いたか」をくわしく見ていきましょう。
徳川四天王のその後と子孫の存続
四天王はそれぞれに領地を与えられ、明治維新まで藩主家として存続しました。ここでは、本人の最期と、ご子孫がどのように家名を保ったのかを順にご紹介いたします。
酒井忠次のその後と庄内藩主家
酒井忠次は、家康の嫡男・松平信康の切腹事件において、織田信長から信康の疑いを詰問された際の振る舞いについては諸説伝わります。結果的に信康は切腹となり、この一件が家康との関係に影響したという説もあります。

「Wikipediaコモンズ」より引用
後年、四天王の他の3名がいずれも大領を与えられたのに対し、酒井忠次の嫡男・酒井家次の知行が比較的小規模にとどまったことで、忠次が家康に抗議したところ、家康から「お前も子はかわいいか」と皮肉を返されたという逸話があります(この逸話は歴史ファンに有名ですが、史実としての裏付けは乏しく、あくまで酒井家と徳川家の関係を象徴する語り草とされています)。
【編集部の独自分析①】ただし近年の研究では、「信長が信康切腹を命じた」という旧説そのものが見直され、家康が独自判断で処断したとする見方が有力です(参考:Wikipedia 松平信康)。となると、酒井家次の知行規模についても「忠次への懲罰」というより、新規家臣団編成のため譜代古参の知行を抑えるという判断だったと推測することも可能かもしれません。
忠次は1590年の小田原合戦の後引退し、1596年に京都で没しました。子孫は徳川家次のあと、3代・酒井忠勝の代に出羽庄内へ転封となり、以降幕末まで庄内藩主家として続きました。酒井忠次の最期と死因をやさしく確認するのもおすすめです。
本多忠勝のその後と桑名藩・岡崎藩
本多忠勝は、関ヶ原の戦いを最後の戦として、その後も徳川家に仕え続けました。晩年、小刀で手を切ってしまったことを「忠勝もこれまで」と悟り、ほどなく没したという逸話が伝わります。
本多家はその後、桑名藩・岡崎藩などを経て幕末まで続き、現在のご子孫が本多隆将さんです。本多忠勝の最期と死因を詳しく読むと、忠勝の人物像がより立体的に理解できます。
榊原康政のその後と館林藩
関ヶ原以後の榊原康政は、武闘派ゆえに平時の政治から遠ざけられたと感じ家康に怒りを抱いたとも、若手に道を譲るために「老臣は権力を争うべきではない」と自ら身を引いたとも伝えられ、諸説あります。家康からの加増提示を固辞したという逸話も伝わりますが、秀忠からは深く信頼されていたといいます。
1606年、館林で重体となり、秀忠が医師を派遣しましたが及ばず死去。家康の参謀・本多正信を毛嫌いしていた、井伊直政とは親交が深かったといった逸話も残ります。詳しくは榊原康政の最期と死因の解説もご覧ください。
井伊直政のその後と彦根藩
関ヶ原の戦いでは娘婿・松平忠吉とともに先陣を務め、終盤には島津軍の退却を追撃しました。しかし島津豊久らの決死の反撃で銃撃を受け負傷し、その傷と過労がもとで2年後の1602年に没しました。最期に、自らを傷つけた島津家の赦免を家康に進言したと伝わるエピソードは、直政の度量を物語ります。
井伊家はその後、彦根藩主家として幕末まで続きました。幕末期には大老・井伊直弼を輩出しています。現在のご当主とされる井伊岳夫(直岳)さんは前述のとおり婿養子とされる方です。井伊直政の最期と死因の詳細はこちらもあわせてどうぞ。
四天王の家がいかに長く続いたかを見ると、戦国の戦功だけでなく、その後の経営感覚や人材育成も家を残すうえで決定的だったことが分かります。
編集部の独自分析|なぜ酒井家は続いたのか
ここでは編集部独自の視点から、酒井家が現代まで続いた理由を「経営者の視点」で3点に整理いたします。歴史家の論考ではなく、あくまで歴史エディターとしての仮説整理である点をご了承ください。
【独自分析②】長期的な視点
譜代大名の多くは、幕府の人事戦略により転封(国替え)されることがありましたが、庄内酒井家は1622年の入部から長期間にわたり庄内にとどまりました。地域の経済・農政・治水に長期投資できたことが、藩政の安定と結束を生んだと考えられます。
【独自分析③】戊辰戦争後の対応
庄内藩は戊辰戦争で最後まで新政府軍と戦いましたが、降伏後は寛大な処分にとどまりました。これは、主家への一貫した忠義を貫いた家系が、新政府下においても地域の中心的な存在として尊重された一例とも捉えられます。
【独自分析④】文化財保存への取り組み
明治以降、酒井家は致道博物館を中心に旧藩主家の史料・建築・美術品を保存してきました。これは多くの旧大名家が散逸させてしまった資産を、現代の観光・教育コンテンツとして再活用できる土台になっています。歴史を「過去」ではなく「未来の資産」として運用してきた点が、現代における存在感にもつながっているといえるでしょう。
大河ドラマでの酒井忠次と史実の比較
大河ドラマでも酒井忠次はおなじみの存在です。ここでは編集部が視聴したうえで、ドラマ描写と史実のギャップを簡潔に整理いたします。
| 大河ドラマ | 演じた俳優 | 編集部メモ |
|---|---|---|
| 『どうする家康』(2023) | 大森南朋さん | 「えびすくい」など人柄重視の描写が印象的 |
| 『おんな城主 直虎』(2017) | みのすけさん | 井伊家との対比で老練な家臣として登場 |
| 『真田丸』(2016) | (出演なし/一族描写) | 真田と本多家の縁を通じ四天王の存在感を補強 |
| 『葵 徳川三代』(2000) | — | 登場せず |
ドラマでは「えびすくい」のような芸達者で温厚な人物像が強調されがちですが、史料を通読すると、忠次は徳川家臣団の重鎮として外交・調略・吉田城代として三河東部支配まで担う、実務家でもありました。「面白いおじさん」という印象だけで語るのは、編集部としてはやや勿体ないと感じます。
PR|大河ドラマで酒井忠次をもう一度見直したい方へ
大河ドラマ『どうする家康』『真田丸』『おんな城主 直虎』『徳川家康』など、酒井忠次や徳川四天王が登場する作品はU-NEXTの見放題作品(NHKオンデマンド、別途月額料金)で視聴いただけます。31日間の無料トライアル中に名場面を一気見できるのは編集部としても嬉しいポイントです。
※以下はU-NEXTの広告(PR)です📌 この記事で紹介した作品をすぐに観るなら
ドラマと史実、両方の視点で楽しむと、酒井家が現代まで続いた理由がより立体的に見えてきます。
まとめ|酒井忠次 子孫 現在のポイントと関連記事
本日の記事のポイントを、もう一度かんたんに整理いたします。
- 徳川四天王とは酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4名です
- 四天王のご子孫はそれぞれ家名を保ち、明治維新まで藩主として存続しました
- 旧庄内藩主酒井家18代当主は酒井忠久氏(公益財団法人致道博物館名誉館長)で、鶴岡市にお住まいです
- 四天王のご子孫同士の交流は、家康公シンポジウムなどで持たれています
参考資料
- 公益財団法人致道博物館 公式サイト(https://www.chido.jp/)
- Wikipedia「酒井忠久」(記事URL)
- Wikipedia「酒井氏」「酒井忠次」「庄内藩」
- 鶴岡市広報「酒井忠久さん インタビュー」
- NHK大河ドラマ『どうする家康』『おんな城主 直虎』『葵 徳川三代』公式情報
- 『藩翰譜』『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』ほか
コメント
コメント一覧 (1件)
[…] >> 徳川軍最強の四天王・榊原康政らが翻弄された理由を読む […]