徳川家康に仕えた「徳川四天王」
メンバーと、4人のその後を分かりやすく解説!
子孫は、今でも続いていて、子孫同士で交流していた!
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この記事を短く言うと
・徳川四天王とは「酒井忠次」「本多忠勝」「榊原康政」「井伊直政」の4名
・四天王はその後、それぞれに家名を保ち、明治まで藩主として存続している
・四天王の子孫は、現在まで続き、たまに互いに交流もしている
目次
徳川四天王のメンバー紹介
徳川四天王のメンバー紹介!筋金入りの名将たちです
酒井忠次(1527~1596)
「徳川四天王」の筆頭にして、「徳川十六神将」の筆頭でもある「酒井忠次」
元々は「石川数正」とともに徳川家臣団筆頭だったのですが、「石川数正」が裏切って豊臣秀吉に乗り換えたため、徳川家臣団の単独筆頭となりました。
家康が、今川義元のところへ人質に行く際に同行した家臣団の中で、最年長だった酒井忠次。
1590年「小田原征伐」を最期の戦として引退するまで家康に仕えた「徳川第一の功臣」
本多忠勝(1548~1610)
「唐の兜」とともに「家康には過ぎたるもの」と呼ばれた猛将「本多忠勝」。
結城秀康の「御手杵(おてぎね)」、福島正則・母里太兵衛の「日本号」と並ぶ【天下三名槍】の一つ「蜻蛉切」を振るう豪傑。
「徳川の軍神」とも呼ばれた武闘派で、生涯57度の戦いでかすり傷一つ負わなかった伝説は、かなり有名です。
真田幸村の兄・真田信之の妻「稲姫」の父。
「関ヶ原の戦い」において、敵方となった「真田昌幸」「真田幸村」親子の助命を家康に訴え
「聞き入れてくれないなら、真田信之とともに沼田城に立てこもり、殿を相手に戦つかまつる!」
と豪語して「昌幸」「幸村」を守った男。
榊原康政(1548~1606)
榊原康政・・・本多忠勝と同年齢で仲が良く、井伊直政とは「心友」であったと伝えられる名将。
秀吉からその首に「10万石」という懸賞がかけられたほどの武将。
関ヶ原の戦いでは、本隊を率いておきながら、戦いに遅刻するという大失態を犯した「徳川秀忠」とともに遅刻。
秀忠に対して激怒する家康をいさめ、秀忠の謝罪を受け入れさせ、徳川家の分裂を阻止。
この「家康・秀忠の徳川家分裂阻止」を、本多忠勝・井伊直政から
「関ヶ原の戦いにおいて第一の大功」
と讃えられていました。
井伊直政(1561~1602)
徳川家譜代の家臣団の中では、明らかな新参者であるにも関わらず、美少年とされた容姿に似合わぬ苛烈な働きぶりと、圧倒的な戦闘能力で、家康の信頼を勝ち取った猛将。
最終的に徳川譜代大名の中で、最大の彦根30万石を得た井伊家中興の祖。
家康の直政への信頼はかなりのもので、家康の四男「松平忠吉」の妻は、直政の娘。
ちなみに直政のもう一人の娘は、伊達政宗の長男「伊達秀宗」にも嫁いでいます。
しくじった家来は容赦なく処刑した「井伊の赤鬼」
名将「山県昌景」から、最強部隊「赤備え」を受け継ぎ、最強部隊を率いて、関ヶ原の戦いで先陣を切った話は有名です。
武田四天王の一人「山県昌景」については、以下のリンク記事で詳しく解説させていただいております。
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四天王のその後
四天王は、その後それぞれに領地をもらい、幕末まで存続しています。
酒井忠次のその後
家康の嫡男「信康」切腹事件で、織田信長から「信康が謀反をたくらんでいる」という疑いについて詰問を受け、信康を全く庇うことができなかったとか。
結果、信康は信長の命令で切腹させられ、忠次は家康に恨まれた・・・・その結果、四天王の他の3名はみんな10万石以上もらったのに、酒井忠次の息子は3万石・・・。
これに不満をもった忠次は家康に抗議したらしいですが
「お前も息子がかわいいか?」
と皮肉を言われたとか・・・。
しかし「信長の命令で、信康は切腹させられた」というのは間違いで、現在の定説では、「家康が信康謀反を未然に防ぐために、自ら切腹させた」とされています。
酒井忠次の領地が少ないのは、おそらく「新しい家臣を増やすために、新人に領地を与えなくてはならなかったため」なのでしょう。
豊臣秀吉も、長く仕えてくれた「山内一豊」より、若手「加藤清正」や「福島正則」に大きな領地を与えていますしね。
忠次は、1590年の「小田原征伐」の後に、失明が原因で引退。
1596年、関ヶ原の戦い前に亡くなっています。
本多忠勝のその後
関ヶ原の戦いを最期の戦として、平時においては真田を守り、徳川に仕え続けました。
晩年、小刀で手を切って、人生初の負傷を経験。
「負傷したら、本多忠勝もおしまいだ」
と、自らの死期を悟り、数日後に亡くなったことは有名です。
忠勝が使用した名槍「蜻蛉切」は、実は2つ存在していたらしく、一つは現在「三島市・佐野美術館」が保管していますが、もう一つは全くの行方不明。
2つの「蜻蛉切」は微妙に形が異なると言われています。
榊原康政のその後
関ヶ原の戦いの後も、徳川家に仕え続けた榊原康政。
武闘派だった榊原康政は、関ヶ原の戦いの後の平時においては、家康から遠ざけられて激怒したとも、自ら若者へ身を引いたとも言われています。
家康から、常陸国・水戸に「25万石」を与えると言われましたが、関ヶ原の戦いでの失態を理由に固辞。
特に徳川秀忠からは、関ヶ原の失態をかばってもらった恩により、相当に信頼されていたとのこと。
1606年に、重体となり、秀忠は康政を助けるために医師を派遣したらしいですが、結局死去。
家康の参謀・本多正信を
「ハラワタの腐ったやつ」
と毛嫌いしていたらしいです。
「水戸25万石」を断り、領地の館林に帰ろうとした際に、その本多正信にとどまるよう説得されたとのこと。
正信の説得を聞かず、館林で亡くなっています。
井伊直政とは心友であり
「直政が死ねば、私の死期も近いだろう」と予言。
しかし直政の死後「4年」も生きたところをみると・・・予言は外れたかも・・・。
井伊直政のその後
関ヶ原の戦いで、娘婿の「松平忠吉」とともに先陣を務め、戦の終盤には「島津軍」の撤退を追撃。
しかし、島津豊久の決死の反撃により、銃撃を受けて負傷。
2年後の1602年、その傷と過労により死去。
最期に、自らを負傷させた「島津家」の赦免を家康に進言したと言われています。
娘婿であった「松平忠吉」もまた、関ヶ原の戦いで銃撃を受けて負傷。
松平忠吉は、直政の後を追うようにして1607年に、亡くなっています。
子孫たちは?
徳川四天王の子孫は、今でも続いています。
「酒井忠次」の子孫、「酒井忠久」さん。
「本多忠勝」の子孫、「本多隆将」さん。
「榊原康政」の子孫、「榊原政信」さん。
「井伊直政」の子孫、「井伊直岳」さん。
井伊直政の子孫である、「井伊直岳」さんは、婿養子であるため井伊家の血を引いているわけではなく、本名は「井伊岳夫」さんと言います。
どうやら「井伊家の当主」として振る舞う席では「井伊直岳」と名乗っているようですね。
徳川家康の末裔で、現当主の「徳川恒孝」さんとともに、2011年・家康公シンポジウムにて、四天王の子孫が勢揃いしていました。
徳川家と四天王の子孫は、今でも交流を持っているようですね。
「徳川四天王の中で最強は誰なのか?」について、以下のリンク記事で考察してみました。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・徳川四天王とは「酒井忠次」「本多忠勝」「榊原康政」「井伊直政」の4名
・酒井忠次は関ヶ原の戦いの4年前に、本多忠勝・榊原康政・井伊直政は、大阪の陣を前に亡くなっている
・四天王全員の藩が、幕末まで存続し、子孫を今に存続させている
以上となります。
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