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徳川家康と瀬名姫(築山殿)の家系図を簡単紹介!父母・子供達とのその後も解説

徳川家康と瀬名姫せなひめ(通称・築山殿つきやまどの)の家系図について、簡単解説

父母と子供たちのその後・・・・。

かなり悲惨な一家だった?


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この記事を短く言うと

徳川家康の両親は「松平広忠」と「於大の方」、瀬名姫の両親は「関口親永」と「今川義元の妹」

・家康と瀬名姫の子供は「松平(徳川)信康」と「亀姫」

・信康は切腹・・・亀姫は「奥平信昌」と結婚し、子孫へ血筋を繋いでいる


目次

家康と瀬名姫せなひめ築山殿つきやまどの)の簡単家系図

徳川家康」と、その妻・瀬名姫

瀬名姫は、築山という場所に住んでいたため、築山殿と呼ばれていました。

家康の両親

家康は、三河国(愛知県東部)を統一した武将「松平清康」の孫。

家康の父は「松平広忠」、母親は尾張国・知多半島の領主「水野信元」の妹「於大の方」

祖父「松平清康」も、父「松平広忠」も、若干20代で亡くなっています。

幼くして父をなくした「竹千代(後の徳川家康)」

三河国の領地を守るために駿河国(静岡県)の大名「今川義元」を頼ります。

今川義元のもとで、人質として少年期を過ごしているのです。

家康は後に、豊臣秀頼を滅ぼして天下統一を達成し、260年続く江戸幕府の基礎を固めました。

瀬名姫の両親

瀬名姫・・・今川義元の姪・・。

父親は、今川家の一族・関口親永

母は、今川義元の妹・・・又は井伊直虎の大叔母にあたる女性です。

今川義元の血を引く瀬名姫こと築山殿つきやまどの

家康と瀬名が結婚したのは、将来を嘱望されていた家康を、今川家の家臣として取り込もうとした「今川義元」の策略かもしれません。

瀬名姫は、後に「信康事件」で、亡くなっています。


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家康と瀬名の子供たち

家康と瀬名姫には、2名の子供がいます。

松平(徳川)信康」と「亀姫」

兄の信康は、有名な「信康事件」で切腹しています。

これまでの通説では、「織田信長武田勝頼との内通を疑われて、切腹を命令された」と言われていました。

しかし、実際には信長の命令など、家康の命令で切腹をさせられています。

なぜ信康は切腹させられたのか?

理由は「武田勝頼と内通し、家康を追放・または監禁」しようとしたため。

徳川家へ臣従を迫る信長・・・そんな信長と同盟している徳川家の状況を嫌った信康は、武田勝頼と同盟して織田信長との同盟を破棄しようとしたのです・・・・。

家康は信康を切腹させることで、信長を敵に回す事態を回避。

苦渋の決断でしたが、おかげで徳川家滅亡は避けられたのです。


信康事件の真相」について、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

↓↓↓↓↓


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亀姫のその後とは?

亀姫・・・家康の長女。

家康と瀬名姫の子で、三河の豪族「奥平信昌」と結婚しています。

亀姫は、奥平信昌との間に「4男1女」を儲けています。

しかし、子供たちの内3人に先立たれて、相当御苦労なさったみたいです。

亀姫の四男「松平忠明」は、姫路藩18万石の領主となっています。

そして「亀姫」は、1625年・・・父・家康が亡くなった9年後に「66歳」で亡くなっています。

「瀬名姫」の血筋は、この「亀姫」と、「信康の娘」を通じて、後世にまで伝えられています。


信康の子孫」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

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まとめ

本日の記事をまとめますと

・家康の両親は「松平広忠」と「於大の方」。瀬名姫の両親は「関口親永」と「今川義元の妹」と言われている

・家康と瀬名姫の子供は「松平信康」と「亀姫」

・松平信康は切腹。亀姫は奥平信昌と結婚して、後世まで子孫を残している

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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