石川数正の家系図と現代の子孫を解説!本多正信と同じく裏切り者?

徳川家の家臣団で、最も地位の高かった知恵者「石川数正」。その子孫は現在まで続いているのか?
「本多正信」と同じように、徳川家を裏切った真相とは?
子孫は現在消息不明?叔父の系統が現代まで続いていた!
裏切った理由は、徳川家が「体育会系」だったため、頭脳派の石川数正は風当たりが強かったから
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この記事を短く言うと
・石川数正は、交渉事を得意とする頭脳派で、後に豊臣秀吉に乗り換えた
・石川数正の子孫は、消息不明。しかし叔父の子孫が現代まで続いている
・数正が徳川家康を裏切った理由は、おそらく家臣団での風当たりが強くなったため
石川数正とは?
徳川家康の家臣「石川数正」
徳川十六神将の一人「石川家成」の甥。
卓越した頭脳から交渉事を得意としていたようです。
桶狭間の戦いの後、今川家に人質として捕らえられていた「瀬名姫(築山殿)」「信康」「亀姫」を、今川家との交渉の末に奪還。
1562年には、織田信長との交渉に挑み、「清洲同盟」を締結。
姉川の戦い・三方ヶ原の戦い・長篠の戦いなど、数々の合戦にも従軍しています。
家康からの信任は、相当にあつかったらしく、家康の嫡男「信康」が亡くなった後、信康が支配していた「岡崎城」の城代を務めています。
家臣団のほとんどが「徹底抗戦」を主張する中で、石川数正だけは戦局を冷静に分析し、「講和」を主張します。
圧倒的な戦力を持つ「秀吉」と戦えば、間違いなく徳川家は滅びます。
そんな状態で秀吉と交渉し、なんとか徳川家の存続を模索しました。
1585年、石川数正は突然、家康のもとから逃亡し、秀吉に仕えます。
「秀吉の人心掌握術にしてやられた」
「莫大な恩賞に目がくらんだ」
などなど理由は諸説あります。
その後、石川数正は1592年に亡くなり、息子の「石川康長・康勝・康次」が、信濃・松本の領地10万石を相続し、関が原の戦いで東軍に味方します。
しかし、石川数正の裏切りに怒りを含んでいた家康は、石川家を改易してしまいます。
石川数正の裏切りの理由については、諸説ありますが、未だに謎とされています。
子孫は現在何をしているのか?
子孫は現在何処にいるのでしょうか?
結露から言うと、石川数正の息子たちが「改易」されてしまい、その後の消息は全く不明です。
しかし、石川数正の叔父「石川家成」の子孫が、現在まで続いているようです。
「徳川十六神将」の一人、石川家成。
彼は「美濃大垣藩」の2代藩主にして、家康の従兄に当たります。
初代藩主である息子「康通」が急死したため、その後を父である「家成」が相続するという逆さまな事態に・・・。
その後、孫を養子として家督を相続し、明治まで家名を存続したのです。
「石川家成」の子孫「石川成之」は、廃藩置県で「亀山藩知事」を務め、その養子「石川成徳」は「子爵」の爵位を受けています。
「成徳」の子は、子爵「石川成秀」。
「成秀」の子は、「石川成道」
「成道」の息子は1959年に生まれていますので、2017年現在「58歳」となっているはず。
この方の名前は不明ですが、おそらく石川家の通字「成」の字がついた名前なのでしょう。
なぜ徳川家を裏切ったのか?
石川数正は、なぜ徳川家を裏切ったのでしょうか?
体育会系の「徳川家」の中で、石川数正は「本多正信」と並んで「頭脳派」として知られていました。
「裏切り」といえば、実は「本多正信」も一度、徳川家を裏切っていますよね。
1563年、三河一向一揆の際に、「一向宗(浄土真宗)」を信仰していた「本多正信」は、信仰心を優先して家康を裏切り、一向一揆に参加します。
石川数正も一向宗を信仰していましたが、浄土宗に改宗して家康に従いました。
この後「本多正信」は、徳川家に帰ってくるのですが、徳川家の家来たちは怒り心頭。
本多忠勝は、遠縁である本多正信に対して
「同じ本多姓でも、正信と俺は無関係だ!」
「正信は腰抜けだ」
と罵り、榊原康政も
「正信は、腸が腐ったやつだ」
と毛嫌いしていました。
どうやら「三河武士団」は、想像を絶する体育会系のため、イケイケの武闘派であり、小賢しい頭脳派は毛嫌いされる傾向にあったようです。
本多正信も石川数正も、他の体育会系家臣団から、猛烈に嫌われていたと考えられます。
おそらく石川数正は、小牧・長久手の戦いで秀吉に勝利し、自信を深めた徳川家臣団の中で、ただ一人危機感を抱いていたのでしょう。
「圧倒的な物量と兵力を持つ豊臣秀吉と戦っても、勝てるはずがない」
と・・・。
一説には、「体育会系で、交渉事が不得手な三河武士団のことを考え、交渉を秀吉の側から助けるために、わざと裏切り者を装って、秀吉に乗り換えた」とも言われているようです。
それほどの美談なら、息子の代で改易された説明がつきません。
おそらくですが、「小牧・長久手の戦い」で勝ったにもかかわらず、秀吉との「講和」を主張する石川数正に、徳川家臣団の風当たり・批判が強くなったのでしょう。
そのため石川数正は、闇討ちや暗殺を恐れて、秀吉に乗り換え・・・。
ここで死んでも犬死になりますからね。頭脳派の石川数正としては、ここで死ぬくらいなら秀吉に乗り換えたほうがお得だと考えたのでしょう。
「本多正信」「徳川四天王」については、以下のリンク記事をご利用下さいましたら、理解が深まるものと存じます。
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「本多忠勝」「榊原康政」については、以下のリンク記事をご利用いただけましたら、更に理解が深まるものと存じます。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・石川数正は、徳川家康の家来で、後に秀吉に乗り換えた頭脳派
・子孫は消息不明。石川数正の叔父「家成」の子孫は、現在も存続している
・石川数正が徳川家を裏切ったのは、おそらく徳川家臣団の風当たりが強くなったため
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
コメント
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私も取材を受けた、德川家康公没400年を記念して静岡新聞社から出版された「徳川家臣団 子孫たちの証言」で石川数正の子孫の方のインタビューも載っていますよ。正確には、20数年前に他界された石川家当主 故石川徳市氏の夫人豊子氏に対するインタビューです。現在の石川家は静岡に在住していて、家督は徳市氏の弟が継がれているようです。
当サイトにおこしくださいまして、ありがとうございます!
石川家の家督は、静岡の「石川徳市」氏のご舎弟が継いでおられるんですね。
とても貴重なコメントを下さいまして、誠にありがとうございます!
私の祖父も石川数正の子孫です。
定政の子孫だそうで、保科正之に従い高遠藩に始まり会津で幕末を迎えております。
50数年前に松本城で何かイベントがあったらしく「城主一族」として招待を受けたそうです。
正直祖父も半信半疑で聞いていた話だったのでびっくりしたそうです。
100年以上たっても子孫を探し出せるリサーチ力に驚きました。
いつもお世話になっております。
この度は、当サイトをご利用いただきましただけではなく、貴重なコメントを頂き、誠にありがとうございます。
それも、石川数正公の末裔のお方から直接お言葉を頂けるとは、大変光栄です。
拙い文ではございますが、ご利用いただけましたことに心より感謝申し上げます。
松本城での「城主一族」としてのご招待のお話、大変価値あるエピソードを教えていただきましたことにも、感謝申し上げます。
そして、100年以上経過しても、偉人の末裔を探し出せる調査能力という件についても、同感です。
やはり偉人の子孫ともなると、その血筋をたどることは結構容易なのかもしれません。
貴重なお言葉をありがとうございました。
もしよろしければ、またぜひ当サイトをお役立てくださいませ。
ありがとうございました。