徳川家康の家臣団で、最も地位の高かった知恵者・石川数正。
その子孫は現在まで続いているのか?
本多正信と同じように、徳川家を裏切った真相とは?
子孫は現在消息不明で、石川数正の叔父の系統が現代まで続いているようです
石川数正が徳川家康を裏切った理由は、徳川家が体育会系だったため、頭脳派の石川数正は風当たりが強かったからであると考えられます
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この記事を短く言うと
- 石川数正は、交渉事を得意とする頭脳派で、後に豊臣秀吉に乗り換えた
- 石川数正の子孫は、消息不明。しかし叔父の子孫が現代まで続いている
- 数正が徳川家康を裏切った理由は、おそらく家臣団での風当たりが強くなったため
石川数正の子孫の現在と家系図
石川数正の直系子孫について結論からいうと、その息子たちが改易されてしまったため、その後の消息は全く不明です。
石川数正の家系図をご用意いたしました。
石川数正は、徳川家康と血のつながった遠縁にあたる人物なのです。
2023年の大河ドラマ【どうする家康】で、俳優の松重豊さんが石川数正を演じておられます。
石川数正は孫娘を通じて、徳川家の重臣・大久保忠世と親戚となっています。
(大河ドラマ【どうする家康】において、大久保忠世は俳優の小手伸也さんが演じておられます。)
石川数正の直系子孫は、石川数正の息子たちが改易されてしまったため、その後の消息不明です。
しかし石川数正の叔父・石川家成の子孫が、現在まで続いているようです。
徳川十六神将の一人、石川家成。
彼は美濃国(岐阜県南部)の大垣藩の2代藩主となった人物です。
上の家系図には記されているとおり、石川家成は家康の従兄に当たります。
石川家成の母親が、徳川家康の母親・於大の方と姉妹なのです。
石川家成の息子であり、大垣藩の初代藩主・石川康通が急死したため、父・石川家成が息子の領地を相続するという、普通とは逆さまな事態になってしまいます。
そのあと石川家成は、孫を養子として家督を相続させ、明治まで家名を存続したのです。
- 石川家成の子孫・石川成之は、廃藩置県で亀山藩知事を務めています。
- 石川成之の養子・石川成徳は子爵の爵位を受けています。
- 成徳の子は、子爵・石川成秀。
- 成秀の子は、石川成道。
その石川成道さんの息子さんが、【1959年】に生まれていますので、【2023年】現在では【64歳】となっているはずです。
石川成道さんの息子さんのお名前は不明です。
おそらく石川家の通字である【成】の一文字がついたお名前なのでしょう。
石川数正とは、どんな人なの?
石川数正とは、徳川家康の家臣団のなかで、徳川四天王および徳川十六神将の筆頭である酒井忠次と並んで、筆頭の地位にいた重臣です。
しかし家康を裏切って、敵だった豊臣秀吉に乗り換えた人物なのです。
徳川家康の家臣・石川数正の叔父は、徳川十六神将の1人である石川家成という人物です。
石川数正は、卓越した頭脳から交渉事を得意としていたようです。
【1560年】の桶狭間の戦いの後、今川家に人質として捕らえられていた家康の妻と2人の子供たち、つまり
- 妻・瀬名姫(築山殿)
- 長男・松平信康
- 長女・亀姫
を、今川家との交渉の末に奪還。
【1562年】には、織田信長との交渉に挑み、織田家と徳川家のあいだで、清洲同盟を締結することに成功しています。
石川数正は、頭脳での働きのみならず、戦争での働きにも優れていたようです。
- 姉川の戦い(vs浅井・朝倉連合軍)
- 三方ヶ原の戦い(vs武田信玄)
- 長篠の戦い(vs武田勝頼)
など、家康が戦った大きな合戦の数々に従軍しています。
家康からの信任は、相当にあつかったらしく、家康の嫡男・松平信康が亡くなった後、信康が支配していた三河国・岡崎城の城主代理を務めています。
【1582年】、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた後、徳川家康は強敵・羽柴秀吉と敵対しています。
家臣団のほとんどが徹底抗戦を主張する中で、石川数正だけは戦局を冷静に分析し、秀吉との和平を主張します。
圧倒的な戦力を持つ秀吉と戦えば、間違いなく徳川家は滅びます。
石川数正は、そんな状態で秀吉と交渉を重ね、なんとか徳川家の存続を模索していました。
【1585年】、石川数正は突然、家康のもとから逃亡し、秀吉に仕えます。
実はこの突然の裏切りの理由が、今も謎のままなのです。
「人たらしと呼ばれた秀吉の人心掌握術にひっかかった」
「莫大な恩賞に目がくらんだ」
などなど、裏切りの理由は諸説あります。
その後、石川数正は【1592年】に亡くなっています。
石川数正の3人の息子たち
- 石川康長
- 康勝
- 康次
この3名が、信濃国(長野県)松本の領地10万石を相続し、【1600年】の関が原の戦いでは、徳川家康がひきいた東軍に味方します。
しかし、石川数正の裏切りに怒りを含んでいた家康は、石川家を改易(領地没収)にしてしまいます。
石川数正の裏切りの理由については、諸説ありますが、今も謎とされています。
石川数正は、なぜ徳川家康を裏切ったのか?
石川数正は本多正信とともに、徳川家で嫌われていた
石川数正が徳川家康を裏切った理由は、秀吉との和平を望んで徳川家臣団から憎まれ、命の危険を感じたためであると考えられます。
体育会系の徳川家の中で、石川数正は本多正信と並んで頭脳派として知られていました。
裏切りといえば、実は本多正信も一度、徳川家を裏切っています。
【1563年】、三河一向一揆の際に、一向宗(浄土真宗の一派)を信仰していた本多正信は、信仰心を優先して家康を裏切り、一向一揆に味方したのです。
本多正信に対して、石川数正は家康を裏切ることはありませんでした。
実は石川数正も、最初は一向宗を信仰していました。
しかし、石川数正は本多正信とは違い、一向宗から浄土宗に改宗して、家康の家臣で居続けたのです。
このあと本多正信は、徳川家に帰ってくるのですが、一度は裏切った本多正信に、徳川家の家来たちは怒り心頭です。
徳川四天王の1人である本多忠勝は、遠縁である本多正信に対して
「同じ本多姓でも、正信と俺は無関係だ!」
「正信は腰抜けだ」
と罵っていたといいます。
本多忠勝と同じく、徳川四天王の1人である榊原康政も
「本多正信は、腸が腐ったやつだ」
と毛嫌いしていました。
どうやら三河武士団は、想像を絶する体育会系のイケイケの武闘派だったようです。
そのため、小賢しい頭脳派は毛嫌いされる傾向にあったようです。
本多正信も石川数正も、他の体育会系家臣団から、猛烈に嫌われていたと考えられます。
本能寺の変で織田信長が亡くなった後、急激に勢力を拡大した秀吉は、小牧長久手の戦いで、徳川家康に敗北しています。
おそらく石川数正は、小牧長久手の戦いで秀吉に勝利して自信を深めた徳川家臣団の中で、ただ一人危機感を抱いていたのでしょう。
「一度は奇跡的に勝利できたものの、圧倒的な物量と兵力を持つ秀吉と戦っても、今の徳川家では勝てるはずがない」
と思っていたはずです。
なんといっても秀吉軍は10万人以上。
対して徳川軍は2〜3万人といったところです。
小牧長久手の戦いで、秀吉の首を取れていれば勝利と言って良いと思います。
しかし、池田恒興や森長可を失ったところで、秀吉からすれば痛くもかゆくもないのです
(むしろ池田恒興は丹羽長秀と並んで、秀吉からすると邪魔な存在だったかもしれない)
やはり、小牧長久手の戦いのあと、家康には万に一つも勝ち目がなかったのです。
石川数正の裏切りは、家康を守るためだった?
石川数正の裏切りは、家康を救うためという説を唱える人もおられます。
石川数正が裏切ったため、ただでさえ勝ち目のない徳川軍は、さらに勝ち目のない状態に追い込まれました。
数正は徳川軍の軍事機密を全て知っていたため、徳川軍の弱点も何もかも、全て秀吉に筒抜けになったためです。
そのため家康は、あわてて徳川軍の軍法を、尊敬していた武田信玄がつかっていた『武田流』に改めたといわれています。
徳川家康からすれば、イケイケ武闘派な家臣団に押されるようにして、最強の秀吉軍と戦わざると得ない状況に追い込まれていました。
ところがそこで、石川数正が裏切り、軍の弱点や秘密が秀吉に漏れたため、戦っても絶対に勝ち目のない状況になってしまったわけです。
石川数正が裏切ったせいで、勝ち目がなくなったことは、いくら体育会系の徳川家臣団でも、わかったはず。
もう秀吉に降伏するしかない・・・。
石川数正が裏切った理由は、徳川家臣団全員の戦意を喪失させて、秀吉に降伏することを決意させるため、いわばダメ押し・とどめの一撃だったのかもしれません。
つまり、戦争継続を主張する家康や三河家臣団が、戦いたくても戦えないようにして、家康を守るためだったと・・・。
数正はその後、秀吉から飼い殺し状態となり、窓際に追いやられたといいます。
当然でしょう。
もしかすると石川数正は家康のスパイなのかもしれませんから
石川数正はその後秀吉から、信濃国(長野県)の松本という地に8万石の領地を与えられ、松本城をつくったといわれています。
これは明らかに、関東を支配していた家康へのおさえとしての配置です。
そしてその死後、石川家は家康によって改易(領地没収)されて没落していくのです。
とはいえこの説は、かなり石川数正を美化した説であると言わざるを得ません。
実際、家康は石川数正が裏切った後も、秀吉との対決姿勢を崩してはいません。
家康が秀吉に降伏するしかない、つまり戦えない状態になったのは、天正地震と呼ばれる大地震で、甚大な被害を被ったためといわれています。
ちなみに秀吉もこの地震でとてつもない被害を被っており、秀吉古参の家臣で【功名が辻】で有名な武将・山内一豊は、妻の【ちよ】とのあいだに儲けた一人娘をうしなっています。
つまりは、家康も秀吉も、地震で戦いどころではなかったのです。
以上のことから、現実的に考えると、数正裏切りの真相は、以下で解説いたします【殺されそうになったから】であると考えられます。
裏切りの真相は、殺されそうになったため
石川数正裏切りの真相としては、『裏切り者と疑われて、徳川家臣団で殺害されるかもしれないほど追い詰められていたから』ではないでしょうか
また別の説によれば、体育会系で交渉事が不得手な三河武士団のことを考え、交渉を秀吉の側から助けるために、わざと裏切り者を装って秀吉に乗り換えた、とも言われているようです。
しかし、裏切り者を装ったという説ですが、その可能性は低いでしょう。
理由は簡単です。
それほどの美談なら、石川数正の息子の代で、石川家が改易(領地没収)された説明がつきません。
おそらくですが、小牧・長久手の戦いで勝ったにもかかわらず、秀吉との和平を主張する石川数正を、イケイケな徳川家臣団は、臆病者だと思ったことでしょう。
石川数正への徳川家臣団の風当たり・批判が、とてつもなく強くなったことが容易に想像できます。
そのため石川数正は、闇討ちや暗殺を恐れて、秀吉に乗り換えたのでしょう。
ここで死んでも無駄死にになりますからね。
頭脳派の石川数正としては、ここで死ぬくらいなら秀吉に乗り換えたほうがお得だと考えたのでしょう。
石川数正が徳川家で孤立していたことを、秀吉が知らないはずがありません。
おそらく秀吉はおいつめられた数正をさらにおいつめるために、【石川数正が秀吉と密かに繋がっていて、徳川を裏切ろうとしている】と噂を流しているはずです。
数正は、秀吉の思惑通り、追いつめられていたため、裏切ったと考えられます。
秀吉は、人の家臣を奪って自分の家来にするのがとても得意でした。
伊達政宗の家来である鬼庭綱元や、上杉景勝の家来である直江兼続なども、自分の部下に勧誘しています。
さらにいえば、この時代は自分の働きを認めてくれない主君のもとを離れて敵方に寝返るのは、それほど珍しいものではありません。
たとえば家康の部下であった渡辺守綱も水野勝成も、一度は家康を裏切っていますし、のちに家康に味方する武将・藤堂高虎なんて主君を裏切りすぎて
『7回主君を裏切らない奴は武士じゃねー』
なんていっています。
あの豊臣秀吉ですら、主君だった松下之綱を裏切って逃げ出していますし、家康だって恩人だった今川義元・氏真親子を裏切って織田信長についています。(松下之綱はその後、秀吉に仕えている)
数正の裏切りは、確かに家康にとってショックであったはずですが、裏切りや出奔なんて、それほど珍しい行為ではないはずなのです。
→→→→→【徳川四天王で最強は誰?】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 石川数正は、徳川家康の家来で、後に秀吉に乗り換えた頭脳派
- 子孫は消息不明。石川数正の叔父・石川家成の子孫は、現在も存続している
- 石川数正が徳川家を裏切ったのは、おそらく徳川家臣団の風当たりが強くなったため
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
コメント
コメント一覧 (4件)
私も取材を受けた、德川家康公没400年を記念して静岡新聞社から出版された「徳川家臣団 子孫たちの証言」で石川数正の子孫の方のインタビューも載っていますよ。正確には、20数年前に他界された石川家当主 故石川徳市氏の夫人豊子氏に対するインタビューです。現在の石川家は静岡に在住していて、家督は徳市氏の弟が継がれているようです。
当サイトにおこしくださいまして、ありがとうございます!
石川家の家督は、静岡の「石川徳市」氏のご舎弟が継いでおられるんですね。
とても貴重なコメントを下さいまして、誠にありがとうございます!
私の祖父も石川数正の子孫です。
定政の子孫だそうで、保科正之に従い高遠藩に始まり会津で幕末を迎えております。
50数年前に松本城で何かイベントがあったらしく「城主一族」として招待を受けたそうです。
正直祖父も半信半疑で聞いていた話だったのでびっくりしたそうです。
100年以上たっても子孫を探し出せるリサーチ力に驚きました。
いつもお世話になっております。
この度は、当サイトをご利用いただきましただけではなく、貴重なコメントを頂き、誠にありがとうございます。
それも、石川数正公の末裔のお方から直接お言葉を頂けるとは、大変光栄です。
拙い文ではございますが、ご利用いただけましたことに心より感謝申し上げます。
松本城での「城主一族」としてのご招待のお話、大変価値あるエピソードを教えていただきましたことにも、感謝申し上げます。
そして、100年以上経過しても、偉人の末裔を探し出せる調査能力という件についても、同感です。
やはり偉人の子孫ともなると、その血筋をたどることは結構容易なのかもしれません。
貴重なお言葉をありがとうございました。
もしよろしければ、またぜひ当サイトをお役立てくださいませ。
ありがとうございました。