瀬名姫、またの名を築山殿とは、いったい何者なのかを、超簡単に、分かりやすく解説いたしました。
天下人・徳川家康の正室だった瀬名姫ですが、その最期は、めちゃくちゃ悲惨なものだったといいます。
敵とのスパイ行為を疑われて、息子と共に処刑された。
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この記事を短く言うと
・瀬名姫とは、徳川家康の妻。両親や伯父「今川義元」を亡くした悲劇のお姫様
・最期は夫・家康の部下に惨殺された。直後に、息子「松平信康」も切腹している
・悪女と言われているが、おそらくそれは作り話
瀬名姫(築山殿)とは何者?
瀬名姫とは、駿河国(現在の静岡県中部)の大名・今川義元の姪にあたる人物です。
築山という場所に住んでいたため、築山殿と呼ばれたといいます。
井伊直虎と遠縁・・・直虎の「いとこおば」との説もあります。
徳川家康の妻となり、長男「信康」、長女「亀姫」を出産しています。
しかし、今川義元は1560年に「桶狭間の戦い」で織田信長によって敗死。
その後、徳川家康は今川家を裏切って、織田信長と同盟し、今川家を攻撃!
瀬名姫の両親は、娘婿・家康の裏切りの責任を取って自害。
今川家の本拠地「駿府城」に、子供たちと一緒に住んでいた「瀬名姫」は、夫・家康の裏切りを理由に処刑されかけました。
寸前のところで命を救われた「瀬名姫」たちは、家康の待つ岡崎城へ移住。
しかし家康家臣団は、敵である「今川家」の人間である・瀬名姫を信用せず、仕方なく彼女は岡崎城へ入れずに「築山」という場所にあったお寺で軟禁生活・・・。
伯父を亡くし、夫は伯父の仇と同盟し、両親は夫の裏切りのせいで自害。
夫の家臣に信頼されず、城に入れず、お寺で軟禁生活・・・。
更に彼女の過酷な運命は続きます。
悲惨な最期とは?
息子の信康が、夫・家康に謀反を疑われる事態が発生します。
これまでの定説では、信康は母・瀬名姫とともに武田勝頼と内通し、家康殺害を企てていたと言われています。
しかし最近の説では、信康は勝頼と内通していたわけではないものの、家康と対立し、本気で謀反を企んでいたと考えられているようです。
おそらく家康を殺害しようとしたのではなく、父を国外追放した武田信玄を見習って、追放しようとしたのでしょう。
瀬名姫は、別に内通していたわけでも、何でもないみたいです。
瀬名姫は、1579年8月29日に殺害されます。
その最期は、遠江国敷知郡小藪村・・現在の浜松市中区富塚で、家康の家来・野中重政と岡本時仲に暗殺・・・。
つまり、突然斬りかかられたみたいですね・・・。
信康が謀反を企てていた可能性は、かなり高いようですが、彼女は無関係。
それなのになぜ、瀬名姫は亡くなったのか?
どうやら「信康を切腹させれば、彼女が正気を失って、何をするかわからないから未然に防いだ」という説があるようです・・。
翌月の9月15日、信康は二俣城で切腹しています。
最初に「瀬名姫」が亡くなり、次に「信康」が切腹・・・・という順番です。
「悪女」の噂は本当か?
瀬名姫には、数々の悪評があります。
中国人医師と不倫関係にあったと言われたり・・・。
信康の妻・織田信長の娘「徳姫」をいびったり・・・。
また、夫の家康に対してもかなり冷たかったなど・・・。
まさに絵に描いたような悪女・・・なわけですが・・。
しかし、彼女は全く無関係な「謀反騒動」に巻き込まれ、無理矢理、家康によって命を奪われているのです。
家康からすると、後世「仕方なかった」と言い訳するためにも、彼女が悪女であったほうが都合が良かったのでしょう。
家康の都合で、悪女に仕立てられたと考えるほうが、現実的じゃないでしょうか。
「信康切腹の真相」について、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説させていただいております。
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「松平(徳川)信康の子孫」について、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・瀬名姫とは、徳川家康の正室で、今川義元の姪
・瀬名姫は、息子・信康の謀反に加担してなかったにもかかわらず殺害された、という説がある
・悪女と言われているが、悪女であるとは思えない
以上となります。
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