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【幕府とは】簡単に子供向けにわかりやすく解説!意味や朝廷との違いとは

皆さんは「幕府(ばくふ)」とは何なのか、ご存知でしょうか?

実は幕府について、くわしく説明できる人は、それほど多くないみたいです。

この記事では幕府を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

今は幕府について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、幕府について理解できます。

この記事を読んで、幕府とは何なのかという疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,幕府とは何か?

幕府(ばくふ)とは、臨時の政府のこと。

政府とは、政治をおこなう人達や場所のこと。

政治とは、人々の安全を守るために国を運営し支配すること

幕府は、朝廷という本来の政府から、政治を行う権限を任されている、武士たちの武士たちによる武士たちのための政府。

 

2、朝廷との違いとは何か?

朝廷とは、天皇を中心とする本来の政府のこと。

幕府とは、征夷大将軍を中心とする臨時政府のこと。

幕府は朝廷から政治を行う権利を無理やり奪い取って、自分たちにとって都合の良い政治を行っていた。

 

3,なぜ幕府は誕生したのか?

幕府が誕生する以前の日本では、お公家さんたちが政治を独占し、自分たちにとって都合の良い政治を行っていた。

そのため、武士たちは自分にとって都合の良い政治を行えずに苦しんでいた。

源頼朝は、鎌倉に幕府という臨時政府を設置することで、自分たち武士たちにとって都合の良い政治を実現することに成功した。

 

4,幕府はどのような最期をむかえたのか?

1867年】、最後の将軍・徳川慶喜がおこなった大政奉還によって、幕府は事実上消滅した。

1868年】の江戸城無血開城と、【1869年】の戊辰戦争箱館戦争の終結で、幕府は完全に消滅した。


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目次

【幕府とは】簡単に子供向けにわかりやすく解説

幕府とは、武士つまり侍たちによって設置・運営されていた【臨時政府】のことです。

政府とは、【政治】をおこなうお役所のことです。

【政治】とは、国を支配し、人々が平和で安全に暮らすことができるように、法律を守らせたりサービスを行ったりする行為のことです。

幕府というのは、「幕でおおわれた将軍の本拠地」を意味する言葉なのですが、

幕府・政府の「府」という漢字には、「役所」とか「人が多く集まる場所」という意味があります。

  • 幕でおおわれた将軍を中心とする役所のことを幕府
  • 政治を行うお役所のことを、政府

という感じで理解していただけると良いと思います。

幕府を開いた人物は、日本の歴史上3人存在しています。

この三名は、全員が【征夷大将軍】という役職についていました。

【征夷大将軍】とは、天皇が住む京都から、遠いところに存在している異民族を討伐するための役職です。

実はこの征夷大将軍には、一つの特権が与えられていました。

その特権とは「自分の好きなように政治を行って良い」というものです。

征夷大将軍は、京都から遠いところにいる敵を倒すことが仕事です。

そのため、部下たちに命令を下すときに、いちいち遠い京都の天皇に許可を求めていたら、敵にやられてしまう危険性があったのです。

ですので征夷大将軍には、京都から遠いところにある自分たちの本拠地【幕府】というところに臨時の政府を作って、天皇の許可をもらうことなく好きなように政治を行える権限が与えられていたのです。

もともと幕府には、征夷大将軍が本拠地をかまえていた、幕でおおわれた本陣、という意味があったのです。


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【幕府と朝廷】の違いとは?

幕府と聞くと、朝廷(ちょうてい)というものを思い出す人も多いと思います。

朝廷とは何なのでしょうか?

さきほど幕府のことを「臨時政府」と申しました。

幕府が臨時政府であるということは、本来の政府があるはずです。

その本来の政府が【朝廷】なのです。

【大政奉還(たいせいほうかん)】という歴史的事件をご存知でしょうか?

1867年】、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が、幕府が握っていた政治をおこなう権限を、朝廷へ返した事件です。

大政奉還図
『引用元ウィキペディアより』

「朝廷へ政治権限を返した」と申しましたが、「返した」ということは、幕府が持っていた【政治をおこなう権利・権限】は、もともとは朝廷が持っていたものということになりますよね。

当時の日本には、【朝廷】という本来の政府が、京都に存在していました。

朝廷とは、天皇を中心とするお公家さん達の政府なのです。

本来の政府が、京都にあり天皇を中心とするお公家さんたちが組織した朝廷です。

臨時の政府が、鎌倉・室町・江戸に存在し、征夷大将軍を中心に武家・武士たちが組織した幕府です。

幕府は、朝廷から政治を行う権限をまかされて、朝廷のかわりに政治をおこなう組織なのです。

現代に例えていうなら、東京都の国会議事堂にある日本政府が、神奈川県鎌倉市にある【鎌倉幕府株式会社】に対して、政治を行う権限を与えて、日本政府の代わりに鎌倉幕府株式会社が政治を行っていたようなものなのです。

それにしても、どうして朝廷という本当の政府があったにも関わらず、幕府という臨時政府が必要になったのでしょうか?

その理由を、これからじっくりと解説してまいります。

 

「朝廷とは何か」については、以下のリンク記事で、くわしくわかりやすく簡単に解説しております。


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なぜ幕府は誕生したのか?幕府成立までの経緯を解説

幕府とは【武士の武士による武士のための政府】

朝廷という本来の政府があるにもかかわらず、なぜ幕府という臨時政府が必要だったのでしょうか?

その理由は簡単で、武士たちが、自分たちにとって都合の良い政治を行いたかったためです。

武士たちは、自分たちにとって利益となる政治(日本の支配と運営)を行うために、

幕府という、武士たちの、武士たちによる、武士たちのための政府

を作り上げたのでした。

日本の歴史において、幕府は3つ存在していました。

  • 源頼朝がつくった鎌倉幕府
  • 足利尊氏がつくった室町幕府
  • 徳川家康がつくった江戸幕府

最初に幕府という臨時政府をつくったのは、源頼朝です。

《源頼朝》
「引用元ウィキペディアより」

頼朝は、【1185年】に鎌倉幕府を誕生させました。

源頼朝が鎌倉幕府を誕生させるまで、武士たちはとても身分の低い者たちでした。

頼朝は、そんな身分の低い武士たちの生活を豊かにして強くするために、幕府という臨時政府をつくったのです。


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幕府がつくられる以前、日本を支配していたのはお公家さんだった

鎌倉幕府が誕生する前の日本は、平安時代と呼ばれ、平安貴族つまりお歯黒をぬったお公家さんたちが、日本を支配していたのです。

お公家さんたちに政治を行わせると、ある問題が発生するのです。

その問題とは、「お公家さんに政治を行わせると、お公家さんにとって都合の良い政治が行われる」ということです。

平安時代の日本には、藤原道長白河法皇などの権力者が誕生しています。

なぜ藤原道長白河法皇が、権力を握れたのかというと、彼らが自らにとって都合の良い政治をおこなっていたからです。

藤原道長は、摂関政治という政治のやり方で

「この世界は、すべて私のための世界だ」

と言うほどの権力を手にしました。

《藤原道長》
「引用元ウィキペディアより」

白河法皇は、院政という政治のやり方で

「鴨川の水、サイコロ、比叡山延暦寺の僧侶、この3つ以外は全て私の思いのままだ」

と言うほどの権力者になりました。

《白河法皇》
「引用元ウィキペディアより」

権力者になれば、お金持ちになれることはもちろんですが、たくさんの人に命令することができますので、自分の好きなことができるようになります。

下手をしたら、自分が嫌いな人を、いつでも殺すこともできたくらいです。

権力者であるお公家さんにこき使われていたのが、ボディーガードとして働いていた武士たちです。

お公家さんたちが、自分たちにとって都合の良い政治を行おうとすればするほど、その反対に、武士たちにとっては都合の悪い政治が行われてしまうことになります。

そのため、お公家さんが政治を行うことに対して、武士たちは、段々と不満をつのらせていったのです。

そんな中で登場したのが、武士として初めてお公家さんをも超える権力を握った偉人・平清盛でした。


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お公家さんの支配から脱した最初の武士【平清盛】登場

そんな権力を持たない武士たちの中から、平氏と呼ばれる者たちが権力を手にしていきます。

平氏のトップだった平清盛は、天皇に対して平氏一族の女性を嫁がせることで、自分たちの手で政治を行えるように、権力を手に入れていきます。

《平清盛》
「引用元ウィキペディアより」

平清盛は、ついに自らの孫を天皇に即位させて(安徳天皇)、政治を自分の都合の良いように行えるようになりました。

「平家ではない者たちは、みんな人間ではない」

という言葉を残すほど、平清盛は権力を握ったのでした。(この言葉を言ったのは、平清盛ではなく、清盛の妻の弟にあたる平時忠という人物)

ところが、清盛たち平家による政治は、長く続きませんでした。

なぜなら、清盛たちが行った政治は、彼ら平氏一族にだけ都合の良いものであり、武士たち全員にとって都合の良い政治ではなかったためです。

清盛は、自分と血のつながった平家一族にだけ利益のある政治をおこない、それ以外の武士たちのことを、それほど大切にしなかったのです。

そのため平家一族は、大切にしてもらえなかった武士たちに見捨てられて、最終的に滅ぼされてしまったのです。


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平清盛のあとを継いだ【源頼朝】が、鎌倉に幕府を作った理由

平家一族を滅ぼして、武士のトップにのぼりつめた源頼朝は、平清盛と同じ失敗を繰り返してはならないと考えました。

そして頼朝は、「自分たちにとって都合の良い政治を行うためには、どうすればよいのか」、を必死に考えたのです。

その答えが「幕府をつくる」ということだったのです。

源頼朝は、この本来の政府である【朝廷】とは別に、【幕府】という臨時政府を、朝廷がある京都から遠い関東の鎌倉という場所につくりあげることを思いついたのです。

平清盛は、【幕府】という臨時政府をつくりあげて、自分にとって都合の良い政治を行うのではなく、【朝廷】という本来の政府において高い役職を自分の一族で独占することで、自分たち平家一族にとって都合の良い政治を実現させようとしたのです。

そんな清盛の失敗を見ていた頼朝は、清盛とは違った方法で、自分たちにとって都合の良い政治を実現する方法を思いつきます。それが【幕府をつくること】だったのです。

ところが、この頼朝の「幕府という臨時政府をつくって、武士たちにとって都合の良い政治をおこなう」という野望を妨害する人物があらわれました。

後白河法皇です。


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後白河法皇が幕府をつくることに最期まで抵抗した理由

実は後白河法皇は、頼朝が幕府をつくることに、最期まで反対し抵抗していたのです。

《後白河法皇》
「引用元ウィキペディアより」

なぜなら、源頼朝たち武士が、幕府という臨時政府をつくって自分にとって都合の良い政治をおこなってしまったら、後白河法皇たちは自分にとって都合の良い政治を行えなくなるからです。

そのため、権謀術数の達人で権力闘争の名人であった後白河法皇は、頼朝たちの幕府設置に反対しつづけたのでした。

実は、平清盛たち平家一族が圧倒的な権力を握っておきながらも、あっという間に滅びて理由は、後白河法皇という平清盛と並ぶもうひとりの権力者が、清盛たちがおこなっていた「平家一族にとって都合の良い政治」を、徹底的に邪魔していたからなのです。

それを知っていた源頼朝は、後白河法皇に政治を邪魔されないように、後白河法皇の本拠地である京都から距離のある鎌倉に、幕府を設置しようとしたのです。

ところが、そんな後白河法皇も寿命には勝てず亡くなります。

すると、後白河法皇が亡くなったのと同じ年の【1192年】、源頼朝は征夷大将軍という役職に任命されました。

先程も申しましたが、征夷大将軍は天皇の許可をもらうことなく、好きなように政治を行える権限が与えられていました。

1192年】、源頼朝が征夷大将軍に任命されたことで、朝廷という本来の政府から「幕府という臨時政府をつくって、自分の好きなように、自分にとって都合の良い政治をおこなっても良いですよ」という許可を事実上もらったことになるのです。


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朝廷も黙っていなかった!幕府を滅ぼそうとした本来の政府【朝廷】

朝廷は、源頼朝に対して「幕府をつくって、自分にとって都合の良い政治をおこなっても良いですよ」と許可を与えたと申しました。

しかしそれでは、朝廷は自分にとって都合の良い政治を行えなくなります。

それでも幕府は、圧倒的な軍事力で朝廷を屈服させて、「自分にとって都合の良い政治を行っても良い」という許可を、無理やり朝廷からもぎとっていたのです。

それに不満を抱き、自分の都合の良い政治を行いたいと考える人が、朝廷にも現れました。

後鳥羽上皇後醍醐天皇です。

後鳥羽上皇は、鎌倉幕府から政治を行う権限を取り戻そうと、承久の乱を起こしましたが、北条政子義時の姉弟に敗北します。

《後鳥羽上皇》
「引用元ウィキペディアより」

後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼすことに成功し、政治を行う権限を朝廷という本来の政府に取り戻すことにも成功したものの、その直後に足利尊氏たち武士に「政治を行う権限」を奪い返されて、室町幕府をつくられてしまいました。

《後醍醐天皇》
「引用元ウィキペディアより」

日本はその後も、権力者たちによる「自分にとって都合の良い政治を行う権限」を争う戦いが繰り返されることとなります。


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都合の良い政治をしたがる人々が繰り返した、権力闘争の歴史

幕府をつくった頼朝でしたが、その死後、頼朝の息子たちは「自分にとって都合の良い政治を行いたい」と強く願っていた頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏との権力闘争に敗れて滅亡します。

その北条一族も、自分にとって都合の良い政治をしたいと強く願っていた後醍醐天皇によって滅ぼされました。

後醍醐天皇もまた、足利尊氏たち武士によって滅ぼさ、足利尊氏は室町幕府を設置します。

その室町幕府も、自分たちに都合の良い政治をしたいと考えていた織田信長に滅ぼされることとなります。

信長明智光秀に、光秀豊臣秀吉に、豊臣家は徳川家康に滅ぼされました。

その徳川家康がつくり、265年ものあいだ日本を平和に支配していた江戸幕府は、西郷隆盛たち朝廷軍に滅ぼされる運命をたどるのです。

こうして歴史を眺めてみると、みんな「自分にとって都合の良い政治を行うこと」で、自分たちの一族や大切な人々を繁栄させたいと願っていることが、よくわかります。

この「自分にとって都合の良い政治を行うために喧嘩や戦争をすること」を権力闘争と呼びます。

人間の歴史とは、【天下】と呼ばれる「自分にとって都合の良い政治を行う権利」をめぐって戦う、権力闘争の歴史でもあるのです。


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幕府消滅の瞬間とは?1867年の【大政奉還】で幕府は消滅した

現在の日本には、幕府という臨時政府は存在しておりません。

1603年】に徳川家康が設置した江戸幕府は、【1867年】に最後の将軍・徳川慶喜がおこなった大政奉還で、事実上消滅します。

徳川慶喜
『引用元ウィキペディアより』

事実上消滅と申しましたが、大政奉還で江戸幕府が完全に消滅したわけではありません。

大政奉還は、あくまでも「政治を行う権限を朝廷という本来の政府に返す行為」なので、幕府という臨時政府・お役所・組織は、そのまま残っていたからです。

「幕府」という会社を運営する権利は、「朝廷」という会社へ返したけど、「幕府」という会社のビルや機械や社員は、そのまま手つかずで残っていたようなものです。

実際、幕府が大政奉還をしても、幕府が保有していた日本最強の軍団は解散することもなく、そのまま薩摩長州の朝廷軍と戦っています。

しかし、大政奉還で事実上消滅した江戸幕府も、【1868年】の江戸城無血開城で消滅し、【1869年(明治2年)】の箱館戦争(戊辰戦争)の終結によって、完全に消滅します。(明治維新

こうして朝廷は、源頼朝によって奪われていた「自分たちにとって都合の良い政治を行う権利」を、約【713年】ぶりに奪い返したのです。(朝廷も【1885年(明治18年)】に内閣制度が始まったことで完全に消滅した)

その後の日本は、明治新政府によって戦後まで支配されますが、明治新政府による政治は、江戸幕府で日本を支配していた武士たちにとって、とても都合の悪い政治でした。(廃藩置県・秩禄処分・廃刀令などで、武士の特権は次々と奪われていた)

これに激怒した武士たちは、西郷隆盛を総大将にまつりあげて、明治政府に戦いを挑みます。(西南戦争

《西郷隆盛》
『引用元ウィキペディアより』

明治政府を倒して、武士たちにとって都合の良い政治を取り戻そうとしたのです。

ところが西南戦争で西郷隆盛たち武士は敗北し、明治政府が勝利。

その後の日本は、明治政府によって戦後まで支配され続けます。

そんな明治政府も、【1945年】の太平洋戦争(大東亜戦争)の終結によって滅び、現在の日本政府に支配が引き継がれることとなるのです。

 

「大政奉還」や「明治維新」とは何なのか、以下のリンク記事で、くわしくわかりやすく簡単に解説しております。


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現代の日本でも、政治家にとって都合の良い政治が行われていた!

「自分にとって都合の良い政治を行おうとするのが、人間である」

筆者はこのように断言しますが、実はこの「自分にとって都合の良い政治をおこなう」というのは、現代の日本でも続いているのです。

政治家は「自分たちにとって都合の良い政治を行っている」だけで、国民にとって都合の良い政治を、まったく行っていません。

もっともわかりやすいのが「税率」です。

日本には無数の税が存在していますが、国民はお給料の約45%を税金でもっていかれているのです。(1970年の実質的な税率は、24.3%だった)

江戸時代の税率は40%でしたので、令和の現在の税率は、江戸時代よりもはるかに高いのです。

現在の日本は、自由民主党(自民党)という政党が支配しています。

自民党にとって都合の良い政治が、現在の日本で行われており、その結果日本の税率はうなぎのぼり。自民党議員たちは、その増税で得たお金を補助金として自分たちの選挙区にばら撒き、票を手に入れて、選挙に勝ち、また増税するという手法を繰り返しているのです。

増税のおかげで日本人の豊かな生活は、まったく失われてしまっています。

では、どうすれば日本人全員にとって都合の良い政治が行えるのか?

答えは簡単で
増税と規制強化をする政治家に文句を言って落選させ

減税と規制緩和をしてくれる政治家を応援して当選させること
です。

減税と規制緩和をしてくれれば、日本人の生活は、劇的に豊かになるからです。

「日本人にとって都合の良い政治を実現する方法」については、以下に紹介いたします書籍「税金下げろ規制をなくせ」に、とてもわかりやすく、くわしく記されています。

政治家に政治を任せるシステムである以上、国民はそれに従わなくてはいけません。

しかし人間には「自分にとって都合の良い政治を行おう」とする習性があるので、国民・有権者は政治家をしっかり監視して減税を訴え続け、「政治家に国民にとって都合の良い政治を行わせる」ようにし続けなくてはいけないのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,幕府とは何か?

幕府とは、臨時の政府のこと。

政府とは、政治をおこなう人達や場所のこと。

政治とは、人々の安全を守るために国を運営し支配すること

幕府は、朝廷という本来の政府から、政治を行う権限を任されている、武士たちの武士たちによる武士たちのための政府。

 

2、朝廷との違いとは何か?

朝廷とは、天皇を中心とする本来の政府のこと。

幕府とは、征夷大将軍を中心とする臨時政府のこと。

幕府は朝廷から政治を行う権利を無理やり奪い取って、自分たちにとって都合の良い政治を行っていた。

 

3,なぜ幕府は誕生したのか?

幕府が誕生する以前の日本では、お公家さんたちが政治を独占し、自分たちにとって都合の良い政治を行っていた。

そのため、武士たちは自分にとって都合の良い政治を行えずに苦しんでいた。

源頼朝は、鎌倉に幕府という臨時政府を設置することで、自分たち武士たちにとって都合の良い政治を実現することに成功した。

 

4,幕府はどのような最期をむかえたのか?

1867年】、最後の将軍・徳川慶喜がおこなった大政奉還によって、幕府は事実上消滅した。

1868年】の江戸城無血開城と、【1869年】の戊辰戦争・箱館戦争の終結で、幕府は完全に消滅した。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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