皆さんは【源実朝の家系図】を、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 源実朝の先祖は清和天皇。実朝の父は鎌倉幕府を開いた源頼朝。母親は北条政子。
- 実朝には、異母兄弟を含めて、全部で5人の兄弟がいる。千鶴丸・貞暁・大姫・源頼家・三幡。
- 実朝には子供がいないため、子孫もいない。子供が出来なかった理由には諸説あり、疾患・同性愛者・恐怖という3つが説として有力
この記事では源実朝の先祖・子孫・兄弟についての家系図を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は源実朝の家系図について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、源実朝に詳しくなれます。
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源実朝の家系図
源実朝の家系図は、以下の通りです。
源実朝の先祖
実朝の父親は、鎌倉幕府を開いた伝説的な武将・源頼朝です。
母親は、尼将軍と呼ばれ、女性でありながら鎌倉幕府の土台をかためた北条政子です。
そして実朝の先祖は、清和天皇というお方です。
以下に、実朝のご先祖様を表す単純な家系図をご用意いたしました。
もともと実朝たち源氏と呼ばれる一族、つまり源という姓を名乗っている一族は、清和天皇の子孫なのです。
そのため、清和源氏と呼ばれています。
そもそも源氏とは何なのでしょうか?
源氏とは、第52代・嵯峨天皇や、56代・清和天皇などの時代に、多くなりすぎた皇族の方々が、皇族の身分を捨てることで誕生した一族です。
皇族の身分を捨てた際に、源という姓を与えられました。
その源という姓を名乗ったため、【源という姓を名乗る一族】を意味する源氏と呼ばれたのです。
嵯峨天皇の時代に源という姓を与えられて源氏となった者たちを嵯峨源氏。清和天皇の時代に源氏となったものたちが清和源氏というわけです。
ちなみに源氏と並んで有名な姓として
- 平
- 藤原
- 橘
などの姓があります。
みんなまとめて【源平藤橘】なんて呼び方もされています。
江戸時代の正親町天皇の時代の正親町源氏まで、合計で二十一の天皇から臣籍降下した源氏一族がいたため、全部まとめて源氏二十一流と呼ばれています。
実朝や、その父である源頼朝は、清和天皇の清和源氏にあたります。
清和源氏の子孫である源為義が、保元の乱で息子・源義朝と親子で敵味方に別れて戦い敗北。処刑されたのでした。
義朝はその後、平治の乱でライバルだった平家のボス・平清盛に敗れて戦死。
義朝の子である源頼朝が、父の仇である平清盛を討つために挙兵。
頼朝は弟・義経をつかって、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させたのでした。
ちなみにライバルだった平氏は、桓武天皇の子孫であったため、清和源氏に対して、桓武平氏と呼ばれています。
武士の代表である源氏と平氏は、ともに天皇の子孫なのです。
源実朝の兄弟
源実朝には、異母兄弟もふくめれば、5人の兄弟がいます。
実朝は頼朝の四男です。
長男・千鶴丸
源頼朝と、その最初の妻である八重姫の子。
八重姫の父・伊東祐親にその存在が知られ、激怒した伊東祐親によって河に沈められ、幼くして亡くなった。
長女・大姫
源頼朝と北条政子の長女。
木曾義仲の息子・源義高と婚約していたが、義高は頼朝に殺害されてしまった。
その後、後鳥羽上皇との婚姻をすすめられたが拒絶し、病死した。
次男・源頼家
頼朝の次男。北条政子が産んだ2番目の子。第二代・鎌倉幕府征夷大将軍。頼朝の死後に鎌倉幕府を率いたが、祖父である北条時政と、乳母夫である比企能員の権力闘争に巻き込まれ、最期は伊豆修善寺で北条の刺客に殺害された
次女・三幡
頼朝と北条政子の次女。姉・大姫が亡くなると、その後を継ぐように後鳥羽上皇との婚姻をすすめられたが、幼くして病死した。
次男・貞暁
頼朝とその愛人である大進局の子。隠し子であり、北条政子の嫉妬を恐れた頼朝によってその存在を秘密にされた。その後、出家して修行していたところを政子に見つかったが、徳を積み立派な僧になっていたため、政子すら心酔させたという。
46歳で亡くなった。
三男・源実朝
頼朝と政子の子。政子が産んだ2人目の男児。鎌倉幕府第3代征夷大将軍。
北条と比企の権力闘争に巻き込まれ、比企能員とともに滅んだ兄・源頼家と対立した北条にかつがれた。
兄の死後、その後を継いで鎌倉幕府三代目の征夷大将軍に就任。
北条義時や政子の操り人形ではなく、後鳥羽上皇という強力な後ろ盾をもって鎌倉幕府を統制しようとした。
ところが、甥であり猶子でもあった兄・頼家の息子・公暁によって暗殺され、源氏将軍は完全に断絶することとなる。
源実朝の子供
源実朝には、子供がおりませんでした。
妻である西八条禅尼とのあいだには、子供ができなかったようです。
しかし実朝は、20代というかなり若い頃から、「自分には子供ができない」とわかっていたようです。
そのため実朝には、と呼べる人はおりませんでした。
ただし、実朝には一人、猶子と呼べる人がいました。
甥の公暁です。
実朝は兄・頼家の子である公暁を猶子、つまり養子とは違って後継者ではないものの「我が子」と同じあつかいをされるべき子としていたのです。
その公暁によって実朝は暗殺されるので、皮肉な話です。
源実朝の子孫
実朝は、ゆいいつの猶子であった公暁に暗殺され、子供もいなかったため、子孫はおりません。
実朝の死によって、源氏将軍の血筋は完全に断絶してしまったのです。
断絶したのは、実朝の子孫だけではありません。
実朝の父である源頼朝の子孫も断絶しているのです。
実は、実朝が亡くなった時点で、源頼朝の血を引く人間は、二人だけ残っていました。
公暁と竹御所です。
公暁は実朝の首を落とした直後に討ち果たされて亡くなっています。
ところが、竹御所という女性だけは、生き残っています。
竹御所とは、実朝の兄・頼家の娘です。
祖母・北条政子に守られて、ひっそりと育った竹御所は、ゆいいつ北条政子よりも長生きした源頼朝の末裔です。
ところが、その竹御所もまた、夫・藤原頼経の子供を死産した直後に、33歳の若さで亡くなっています。
彼女の死をもって、源頼朝・北条政子の血筋は、完全に断絶したのです。
源実朝に子供がいない理由とは?
どうして源実朝には、子供がいないのでしょうか
実は実朝に子供がいない理由は、日本史上でも有名な謎の一つになっています。
「実朝に子供ができなかった理由」について、代表的な3つの仮説をご紹介いたします。
【仮説①】見ればわかるほどの身体的な問題があった
実朝に子供ができなかった理由として、よく言われていることが
「一目で子供ができないとわかるほどの身体的な問題があった」
というものです。
実朝は、20代で
「私には子供ができないだろう」
とハッキリと宣言しているのです。
つまり、自分には子供ができないのだということが、疑いもなくわかるほどの疾患が身体にあった可能性があるのです。
豊臣秀吉は、幼い頃に患ったおたふく風邪が原因で、子供ができない体になったにも関わらず、子供を作ろうと数多くの側室をかかえていたといわれています。
秀吉は自分が子供のできない身体だと知らなかったというわけです。
ところが源実朝は、豊臣秀吉とは違い、自分には子供ができないとハッキリわかっていました。
その理由が、「目で見える男性としての疾患だ」というの説があるのです。
【仮説②】異性に興味がもてなかった
実朝が同性愛者であったため、子供ができなかったという説があります。
2022年の大河ドラマ【鎌倉殿の13人】では、この説を採用しています。
異性に興味を持てなかったため、実朝は女性との間に子供を儲けることができなかったというわけです。
実は当時としては当然であった側室つまり正妻以外にも妻を持つことを、実朝はしていません。
兄・源頼家は数多くの側室をもっており、多くの子を残しました。
しかし弟・実朝は、正妻である西八条禅尼のほかに、側室はおろか愛妾すらもっていません。
これは実朝が同性愛者であったためかもしれません。
歴史家・坂井孝一氏は、【実朝は、後鳥羽上皇に遠慮して、側室を持つことができなかった】という可能性を指摘しています。
どういうことでしょうか?
実は、源実朝は後鳥羽上皇をとても尊敬し、崇拝していました。
そんな実朝の妻・西八条禅尼は、後鳥羽上皇の「いとこ」に当たります。(西八条禅尼の父と、後鳥羽上皇の母が、兄妹)
そのため実朝は、後鳥羽上皇に遠慮して、側室を持つことができなかったと、坂井孝一氏は指摘しているのです。
これもまた、実朝が側室を持たなかった理由として、説得力のある説だと思います。
異性に興味が持てないばかりか、自分で相手の女性(側室)を選ぶことすらできないのならば、子供ができないのも無理ないかもしれません。
ただ、本当に同性愛者というのが、子供が出来なかった理由なのでしょうか?
実は、徳川三代将軍・徳川家光も同性愛者だったといわれているのも関わらず子供をもうけています。
もしかすると、実朝は子供をつくるのが恐ろしかったのかもしれません。詳しくは、以下で解説いたします。
【仮説③】子供をつくることが恐ろしかった
これは1979年の大河ドラマ【草燃える】で採用された説です。
実朝は、子供をつくることを恐れ、あえて子供をつくらなかった、というのです。
実は、実朝たち源氏一族の人間は、そのことごとくが、まるで呪われたかのように、悲惨な死に方を繰り返しているのです。
そのため、実朝は自分で子供をつくってしまったら、その死を目の当たりにする羽目になるのではないかと恐れ、あえて子供をつくらないようにしていたと考えられるのです。
以下に、源氏一族で、悲運の悲運を遂げた人たちの名前を一覧でご紹介いたします。
- 源為義(実朝の曽祖父)
- 源義朝(実朝の祖父・頼朝の父)
- 木曾義仲(頼朝のいとこ)
- 源義賢(頼朝の叔父・木曾義仲の父)
- 源義高(木曾義仲の息子)
- 源範頼(実朝の叔父・頼朝の弟)
- 源義経(実朝の叔父・頼朝・範頼の弟)
- 義円(実朝の叔父・頼朝の弟)
- 阿野全成(実朝の叔父・頼朝の弟)
- 千鶴丸(実朝の異母兄)
- 源頼家(実朝の兄)
- 一幡(実朝の甥・頼家の息子)
- 禅暁(実朝の甥・頼家の息子)
- 栄実(実朝の甥・頼家の息子)
一門で仲良く生活していた平家とは違って、源氏では内輪揉めが激しく、同族間での殺し合いが頻発しています。
これら源氏の一族は、全員が陰謀による暗殺や、裏切りによって殺害されているのです。
特に
- 一幡
- 禅暁
- 栄実
この3人の実朝の甥たちの死は、実朝自身の存在が、原因となっています。
兄・頼家が残した幼い子供たちが、自分の間近で殺されているのです。
その有り様を目の当たりにした実朝が、自分の子供も殺されていく未来を想像して恐怖し、あえて子供をつくらない選択をしたとしても、不思議ではないのです。
そして、あろうことか実朝自身もまた、甥・公暁の刃によって、命を落とすこととなるのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 源実朝の先祖は清和天皇。実朝の父は鎌倉幕府を開いた源頼朝。母親は北条政子。
- 実朝には、異母兄弟を含めて、全部で5人の兄弟がいる。千鶴丸・貞暁・大姫・源頼家・三幡。
- 実朝には子供がいないため、子孫もいない。子供が出来なかった理由には諸説あり、疾患・同性愛者・恐怖という3つが説として有力
以上となります。
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