皆さんは和田義盛を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 和田義盛は、源頼朝に仕えて数々の武功を挙げた猛将
- 最期は北条義時との和田合戦に敗北し、江戸義範に討たれた
- 和田義盛のお墓は鎌倉市由比ヶ浜と、南伊豆町にある
- 和田義盛の子孫は、織田信長に仕えた宿老・佐久間信盛
この記事では和田義盛を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は和田義盛について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、和田義盛に詳しくなれます。
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和田義盛の生涯
和田義盛とは、源頼朝につかえて数々の功績を残した猛将で、北条義時を相手に激戦の末に壮絶な最期を遂げた人物です。
鎌倉幕府のトップ機関である『十三人の合議制』の一人にも数えられている人物です。大変な猛将で、強弓の使い手として有名だったといいます。
和田義盛は、坂東八平氏と呼ばれる8つの平氏一族の一つである三浦氏の支族として誕生。
和田という場所に所領があったため和田と名乗ったのです。
1180年、源頼朝が平家打倒のため挙兵すると、三浦一族は頼朝に味方することを決定。和田義盛も頼朝に味方することとなります。
大雨で頼朝と合流できなかった義盛は、石橋山の戦いで敗北した頼朝を追って安房(現在の千葉県)で頼朝と合流しています。
侍所別当という役職をご存知でしょうか?
侍所とは、幕府の軍事部門のことであり、別当とは長官の意味です。
つまり侍所別当とは、幕府の軍事部門トップのことなのですが、和田義盛は、安房で再起を図る頼朝に対して、手柄を立てたら自分を侍所別当に任じてほしいと頼んだと言います。
その後、義盛は実力者・上総広常を味方にするため、使者として説得工作を成功させるなど、頼朝に大きく貢献。
義盛はその後、富士川の戦いに参戦し、平維盛がひきいた平家軍団10万を撃破することに成功します。
その後、頼朝の軍団は、粟津の戦いで木曾義仲を滅ぼし、一ノ谷の戦いで平家軍団を撃破するなどしているのですが、義盛はこれらの戦いには参戦していません。
義盛はどこにいたのかというと、頼朝の弟・源範頼とともに別の場所で戦っていたようです。
範頼が九州へ軍をすすめるにあたり義盛も従軍。心配性だった範頼は、何事も和田義盛に相談したといいます。
このとき、義盛は北条義時らとともに九州で平家軍を撃破しており、そのおかげで源義経らは屋島の戦いに勝利できたとも考えられるわけです。
こうして屋島と九州を失った平家は、九州の彦島・壇ノ浦で孤立。
この壇ノ浦の戦いで、義盛は平家武者を自慢の強弓で挑発するものの、逆にさらに凄まじい強弓を打ち返されてしまい、笑いものにされたといいます。
激怒した和田義盛は、平家軍を相手に奮戦。こうして壇ノ浦の戦いで平家は滅亡することとなったのです。
平家を滅亡させた頼朝は、自分に反逆した裏切り者・源義経を謀略で殺害し、次に奥州を3代にわたって支配してきた実力者・藤原泰衡を討伐し、日本全土を統一。
義盛もまた、このとき畠山重忠と功績争いをしたといわれています。
1199年、源頼朝が亡くなると、鎌倉幕府内での権力闘争が激化。
- 梶原景時の変
- 比企能員の変
- 畠山重忠の乱
など、数々の権力闘争で、義盛は一貫して北条氏の味方をしています
二代将軍の源頼家が北条氏に暗殺され、三代将軍・源実朝の時代になると、北条一族が肥大化。
それに対して対抗できる勢力は、和田義盛のみとなっていたといいます。
義盛は義時に張り合うため、上総国の国司を望んでいるのですが、失敗しています。
そんな中で、事件が起こります。
前将軍・源頼家の子である千寿丸を担いだ泉親衡という御家人が、北条義時を倒そうと謀反を起こしたのです。
この謀反は失敗に終わったが、和田義盛の二人の息子と、甥の胤長が捕まってしまいます。
義盛の息子たちは長年の功績を理由に釈放されたが、甥の胤長は主犯であったため流罪となってしまうのです。
一族90人で庭先に座り込みをしてまで赦免を要求した和田義盛の目の前を、北条義時によって縛られた胤長が通過するという、義時による義盛への挑発行為が行われ、義盛は激怒します。
胤長はそのまま流罪となってしまうのですが、胤長の邸宅は義盛へ明け渡されました。
しかしここでも義時が、胤長の屋敷を和田義盛から強奪するという挑発行為が行われ、義盛は激怒し、挙兵。
同族で、本家筋であった三浦義村を味方にひきいれ、万全の体制で北条義時を相手に戦いを開始。
ところが、いとこの三浦義村が土壇場になって和田義盛を裏切り、北条義時の味方に着いてしまい、形成不利となってしまいます
3千以上の兵が鎌倉市街地で壮絶な戦闘を2日にわたって行い、結果として和田義盛は敗死してしまうのです。
これ以降、三浦義村は裏切りものとして、「友をも喰らう犬」と呼ばれたといいます。
和田義盛の最後と死因
和田義盛は、最愛の息子・義直が討ち取られると
「今は戦う甲斐もなし」
と号泣し、そこへ江戸義範という武将の部隊が襲いかかり、討ち果たされたといいます。
死因は定かではありませんが、おそらく首を討たれたことで亡くなったのでしょう。
享年67歳。
武闘派であり、数々の戦歴を誇る猛将・和田義盛は、圧倒的な軍勢を誇る北条氏を徹底的に苦しめたものの、この戦いで234人もの一族のものが首をさらされたといいます。
和田義盛のお墓の場所
和田義盛のお墓は、和田塚という名前で現在にも残されています
場所は、神奈川県鎌倉市由比ヶ浜3−4−7
ところが、実は和田義盛には、静岡県の南伊豆町にも『和田塚』と呼ばれるお墓があるのです。
実は和田義盛には、不思議な生存伝説があります。
和田合戦で敗北した和田義盛は、落武者となって南伊豆へ落ち延び、庄屋の娘を嫁にして子供を授かり、和田から山田へと名前を変えたというのです。
南伊豆町には、和田の谷と呼ばれる場所があり、そこに和田塚が残されています。
これもまた、和田義盛のお墓といわれているようです。
和田義盛の子孫
和田義盛の子孫には、織田信長に仕えた猛将・佐久間信盛がいます。
和田義盛の一族は、ほとんどが和田合戦で亡くなったものの、孫の和田朝盛とその子・家盛は生き延びています。
その後の承久の乱で、和田朝盛は後鳥羽上皇に味方して戦い、子の家盛は幕府軍に味方して戦っています。
家盛は、和田氏の一族である佐久間氏に養子入りして、佐久間家盛と名乗っています。
その佐久間家から、織田信長に仕え、宿老として近畿方面軍司令官として本願寺と戦った佐久間信盛が生まれています。
佐久間信盛は、その撤退戦の上手さから、【退き佐久間】と評価された人物です。
ただ、その佐久間信盛は、織田信長から職務怠慢を責められて追放。
信盛の子である信栄は、織田信長が本能寺の変で亡くなると、信長の子である織田信雄に仕えています。
その後、佐久間家は織田家から徳川家に乗り換えて旗本として仕え、家名を存続したといいます。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 和田義盛は、源頼朝に仕えて数々の武功を挙げた猛将
- 最期は北条義時との和田合戦に敗北し、江戸義範に討たれた
- 和田義盛のお墓は鎌倉市由比ヶ浜と、南伊豆町にある
- 和田義盛の子孫は、織田信長に仕えた宿老・佐久間信盛
以上となります。
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