壇ノ浦の戦いの場所を地図付きでわかりやすく解説!なぜ壇ノ浦で戦ったの?

1185年「壇ノ浦の戦い」が行なわれた場所は、どこなのでしょうか?地図つきでわかりやすく解説いたします。

「壇ノ浦の戦い」は、現在の「山口県下関市」にある「関門海峡」で行なわれた戦いです。

なぜ「壇ノ浦」で戦いが起こったのか?

実は「壇ノ浦」の目の前にある「彦島」に「平家の本拠地」があったのです。

この「関門海峡」には、今も皇室の宝「三種の神器」の一つ「天叢雲剣」が沈んでいる可能性があるのです。


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この記事を短く言うと

  1. 「壇ノ浦の戦い」は、現在の「山口県下関市」の「関門海峡」でおこなわれた「源氏」と「平家」の戦い。
  2. なぜ「壇ノ浦」で戦いが行なわれたのかというと、この「関門海峡」の「彦島」という場所に「平家の本拠地」があったから
  3. 関門海峡には「壇ノ浦の戦い」で「天叢雲剣」が、海に沈み、今も海中にあるかもしれない

「壇ノ浦の戦い」が起こった場所を地図で解説!山口県下関市

1185年に起こった「壇ノ浦の戦い」。

《壇ノ浦の戦い》
「引用元ウィキペディアより」

「源氏」と「平家」、最期の戦いです。「源義経」がひきいる「源氏」軍」と、「平知盛」がひきいる「平家」軍が争ったこの戦い。どこで行なわれたものなのでしょうか?

「壇ノ浦の戦い」が行なわれたのは、現在の「山口県下関市」。

関門海峡(かんもんかいきょう)・・・本州と九州をわける海峡ですが、この「本州」と「九州」の間に位置している「関門海峡」で、「壇ノ浦の戦い」は行なわれました。

以下に詳しい地図をご用意いたしました。

「壇ノ浦の戦い」が行なわれた場所は、現在「壇ノ浦古戦場」として、碑が建てられています


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「壇ノ浦」で戦いが起こった理由!平家の本拠地があったから

どうして「平家」と「源氏」の最期の戦いが、この「壇ノ浦」で行なわれたのか?

理由は簡単です。この「壇ノ浦」の目の前、「彦島」という島に、「平家の本拠地」があったからです。

「源義経」がひきいた源氏軍は、この「平家の本拠地」である「彦島」を攻撃。平家はその「源氏軍」を「壇ノ浦」で迎え撃ったのです。

地図をご用意いたしました。拡大して見てみるとわかっていただけると思いますが、「彦島」は、いくつかの橋と鉄道で「本州」と結ばれている「孤島」です。

平家はこの「彦島」と、香川県高松市にあった「屋島」に拠点をつくっていました。

「宋(現在のチャイナ)」との貿易で繁栄をきわめた平家は、海運の重要ルートであった「瀬戸内海」を支配していたのです。

その瀬戸内海の入り口である「彦島」と、途中の重要拠点「屋島」に、平家は拠点をつくり、貿易を独占。

その屋島は「那須与一」が「扇」を射抜いたことで有名です。

「屋島」にも、「屋島古戦場」が存在します。

 

余談ですが「彦島」は、幕末の「下関戦争」で「イギリス」に「咀嚼」されそうになりましたが、「高杉晋作」の交渉により、なんとか奪われずに済んだ土地です。

「咀嚼されていたら、今頃は香港のようになっていた」という説もある地ですね。

まぁ・・咀嚼されなくてよかったと思いますが・・・。


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このとき海に沈んだ「三種の神器」!「あまのむらくもの剣」

三種の神器・・・・天皇が即位する際に必要とする重要な宝物です。

この「壇ノ浦」の海の底に、今もその「三種の神器」の一つが沈んでいる可能性があるのです。

三種の神器とは「八咫の鏡(やたのかがみ)」、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」、「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、別名・草薙の剣」のことです。

これら三種の神器のうち「剣」と「勾玉」は、壇ノ浦の戦いで入水自殺した「安徳天皇」とともに、海に沈みました。

「勾玉」だけは、箱ごと海上に浮上し発見されました。しかし「剣」は発見されなかったのです。

そのため、「伊勢神宮」の神倉から選び出された別の「剣」が、儀式をおこなって「天叢雲剣」とされたとのこと。


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余談ですが、「三種の神器」は「安徳天皇」とともに、「平家都落ち」にともなって「京都」から「彦島」へ移動してしまいました。

この間に、京都では「後白河法皇」の手で「後鳥羽天皇(のちの後鳥羽上皇)」が即位します。

しかし、この「後鳥羽天皇」の即位には、「三種の神器」という「即位に必要不可欠な要素」が欠けていました。

そのため、このことは生涯にわたって「後鳥羽天皇」のコンプレックスとなったのです。

「三種の神器なき即位」・・・そう陰口を叩かれ続けた後鳥羽天皇の立場は、非常に不安定なものとなっていました。

それを払拭するかのように、後鳥羽上皇は「和歌」や「武術」まで数々の能力を身に着け、歴代天皇のなかでもトップクラスの優秀さを発揮したのでした。

しかし、そんな後鳥羽上皇でしたが、「鎌倉幕府」と執権「北条義時」への不満から「承久の乱」を起こし敗北。

最期は「隠岐の島」へ流罪となり、寂しく生涯を終えたのでした。

 

承久の乱」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

「【承久の乱とは】世界一わかりやすく解説!原因は北条政子の弟だった」の記事はコチラ

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『壇ノ浦の戦い』について「ひとこと」言いたい!

壇ノ浦の戦い・・・・逸話では前半は「平家」が有利であり、潮の流れが変わった後半は「源氏」が有利だった・・・と言われています。

しかし近年では、この「潮の流れが変わったために、源氏が勝利した」という説は否定されています。

海上では弟「源義経」がひきいた軍が矢の雨をふらせ、陸上からは兄「源範頼」の軍が矢をふらせた・・。

水陸両方からの圧倒的な数による攻撃により、平家は敗退したと考えられています。

もしもこの「壇ノ浦の戦い」で、平家が勝利していたら、歴史はどうなっていたのでしょうか?

平家は滅びることはなかったのでしょうか?

うまく立ち回れば、おそらく平家は滅びることはなかったと思います。

それはなぜか・・・。


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このとき東北地方には、源頼朝が恐れた「藤原秀衡」がいました。

さらに京都には、平清盛や源頼朝も苦戦した「後白河法皇」という「したたか者」がおりました。

そして何よりも「源義経」がいます。

脳機能学者の「中野信子」さんが、あるテレビ番組でこんなことを言っていました。

「義経は、兄の頼朝をバカにしていた」

頼朝は弟「義経」をとても警戒していました。そして、義経は兄「頼朝」をよく思わず、しかも京都育ちの義経は、方言のきつかった「頼朝の家来たち」と会話ができなかった可能性もあるのだとか。

物語などで「仲の良い兄弟」として描かれている「源頼朝」と「源義経」は、実は宿敵同士だったのです。

2人が不穏な中であるということは、平家は「外交」戦略を正しく取ることさえ出来たら、「源氏」を「頼朝」と「義経」に分断できたはず。

さらに、「秀衡」と「後白河法皇」を味方にできていたら、戦局を膠着状態にすることも出来たはずです。

「義経」「秀衡」「後白河法皇」という三者を味方にできていたら、いくら天才政治家「源頼朝」でも、そう簡単には平家を滅ぼせなかったはず。

《源頼朝》
「引用元ウィキペディアより」

もしも平家の外交力が、もっとすぐれていたら、「木曽義仲」も味方にできていたはずなのですが・・・。

外交力さえあれば、戦争に負けても形勢を立て直すことができます。それは歴史が証明しているとおりです。

「ノモンハン事件」で日本に大敗北した「ソ連」が、外交で「勝利した」ことにできたのも、「外交大国」であるソ連ならでは。

平家に外交力がなかったこと・・・・それが敗因の一つではないかと思います。

外交に強い人材さえいたら、平家は「壇ノ浦の戦い」まで追い詰められることもなく、滅びなくてもよかったのではないでしょうか。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「壇ノ浦の戦い」は、現在の「山口県下関市」にある「関門海峡」で行なわれた戦い。
  2. なぜ「壇ノ浦」で戦いが行なわれたのかというと、「壇ノ浦」の近く「彦島」に平家の本拠地があったから。
  3. 三種の神器の一つ「天叢雲剣」が、現在も関門海峡に沈んでいる可能性がある。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「【応仁の乱とは】簡単にわかりやすく解説!ひと目でわかる勢力図はコチラ」の記事はコチラ
「後醍醐天皇の性格を分析!その政治と隠岐脱獄でわかる理想主義の素顔」の記事はコチラ
「鎌倉幕府を作った人は誰?幕府成立の年と、なぜ鎌倉が選ばれたかを解説」の記事はコチラ

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