【北条義時】の子孫をザッと一覧にすると、以下のとおりです。
北条時宗、北条時行、足利義満、足利義昭、北条氏康・氏政・氏直、横井小楠、高倉健、足利惇氏
この記事では【北条義時の子孫】について、ひと目でわかるように家系図の画像つきで、カンタンに解説いたしました。
これを読めば、北条義時の子孫について、一瞬でわかります。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
【北条義時の家系図】
【家系図】北条義時と源頼朝・北条政子の関係とは?
鎌倉幕府の第2代目執権の北条義時(ほうじょう よしとき)の家系図は、以下のとおりです。
北条義時は、鎌倉幕府をつくった征夷大将軍・源頼朝の妻・北条政子の弟にあたります。
つまり北条義時は、源頼朝からすると、義理の弟にあたるというわけです。
北条義時は、源頼朝の死後、鎌倉幕府の事実上のトップに就任します。
その後、日本を支配していた鎌倉幕府は、1333年に後醍醐天皇や足利尊氏に滅ぼされるまでの約150年のあいだ、北条義時の子孫がトップとして君臨することとなるのです。
【家系図】北条義時の子孫は誰なのか?
以下に、北条義時の子孫たちの家系図をご用意いたしました。
赤色の文字で名前を表示されている人物は、北条時政から始まる鎌倉幕府のナンバー2の地位である【執権】に就任した人物。
そして、名前の前に表示されている数字は、初代執権から最後の16代目執権までの順番を意味しています。
北条義時は、北条時政の息子であり、蒙古襲来いわゆる元寇(げんこう)を食い止めた8代目執権・北条時宗の先祖です。
また、北条義時の子孫には、室町幕府をつくった足利尊氏と戦った北条時行がいます。
のちほどくわしく解説しますが、その北条時行の子孫が、明治維新の功労者である横井小楠だといわれています。
さらに、鎌倉幕府を滅ぼして室町幕府をつくった足利尊氏の孫・足利義満もまた、北条義時の子孫にあたる人物なのです。
【家系図】北条義時の妻と子どもたち
北条義時には、阿波局(あわのつぼね)という妻がいました。(ちなみに義時の妹の名前も阿波局という)
その阿波局との間に生まれたのが、北条泰時(やすとき)です。
北条泰時は、のちに三代目の執権となって鎌倉幕府を支配する人物です。
泰時は、御成敗式目(ごせいばいしきもく)という、いわば武士の法律をつくった人物です。
北条義時にはその他にも数多くの側室と子どもたちがいました。
その中でも北条政村(まさむら)という人物は、鎌倉幕府の第7代目の執権となっています。
北条政村は、8代目の執権・北条時宗と一緒に、世界最大の帝国・元からの侵略を防いだ人物です。
その他にも、北条義時には複数の側室がいたため、たくさんの娘がいました。
源頼朝について、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
北条義時の子孫たち一覧
北条義時の子孫の中で、もっとも有名な人を一覧にすると、以下のとおりです。
- 北条時宗
- 北条時行
- 足利義満
- 足利義昭
- 北条氏康・氏政・氏直
- 横井小楠
- 高倉健
- 足利惇氏
北条時宗
鎌倉幕府の8代目執権・北条時宗(ときむね)は、北条義時の孫の孫にあたります。
8代目執権・北条時宗といえば、1274年と1281年の二度にわたって日本をおそった世界最大の帝国・元(モンゴル帝国)の侵略を防いだ人物です。(元寇)
北条時宗は、18歳の若さで鎌倉幕府の事実上のトップである執権に就任し、日本最大の危機である元寇に対処したのです。
北条時行
北条時行(ときゆき)も、北条義時の子孫です。
北条時行とは、鎌倉幕府最後の得宗(とくそう)である北条高時(たかとき)の息子です。
得宗とは、北条義時の法名です。つまり北条義時は出家して、得宗という名前を名乗っているのです。
それ以来、北条義時の直系子孫たち、つまり北条家の本家は、【北条得宗家】と呼ばれるようになるのです。
北条高時は、鎌倉幕府を支配していた最後の得宗なのです。
高時は、足利尊氏や新田義貞、そして後醍醐天皇や楠木正成らに攻められ、鎌倉幕府の滅亡と同時に亡くなっています。
高時の息子である北条時行は、諏訪へ逃亡して、父・高時の仇を討つために挙兵。
室町幕府をつくったカリスマ・足利尊氏を相手に、なんと三度も鎌倉を奪還することに成功しているのです。
ちなみに北条時行は、週刊少年ジャンプに連載されている人気マンガ【逃げ上手の若君】の主人公です。
足利義満
鎌倉幕府の次に日本を支配した臨時政府・室町幕府の三代将軍・足利義満(よしみつ)もまた、北条義時の子孫にあたります。

《足利義満》
引用元ウィキペディアより
足利義満といえば、室町幕府の最盛期をつくりあげた日本の歴史上でも屈指の権力者です。
足利義満の祖父・足利尊氏は、北条義時の子孫である北条家を滅ぼした人物です。
なぜ、鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏の孫が、北条義時の子孫なのでしょうか?
実は、鎌倉幕府の最後の執権である北条守時の妹である赤橋登子が、足利尊氏と結婚しているのです。
赤橋登子は、足利尊氏の息子である室町幕府の二代将軍である足利義詮(よしあきら)を産んでいます。
つまり、室町幕府の歴代将軍には、北条義時の血が流れているということです。
足利義昭
室町幕府15代目・最後の将軍である足利義昭もまた、北条義時の子孫に当たります。
足利義昭といえば、織田信長の支援を受けて征夷大将軍に就任した人物です。
その後、足利義昭は織田信長と対立し、京都から追放されています。
1573年、織田信長によって足利義昭が京都から追放されたことにより、室町幕府は滅亡したと考えられています。
足利義昭はその後、各地の戦国大名に協力を要請して、織田信長包囲網をつくりあげて、信長を追いつめたものの、敗北。
信長は1582年に、足利義昭の元部下だった明智光秀によって、本能寺の変で討たれます。
その後、足利義昭は豊臣秀吉につかえ、1597年に亡くなっています。
北条氏康・氏政・氏直
北条義時が生きた平安時代から鎌倉時代、その約300年後の戦国時代に、関東を支配した後北条氏(ごほうじょうし)と呼ばれた戦国大名の一族がいました。
- 初代・北条早雲(そううん)
- 2代・氏綱(うじつな)
- 3代・氏康(うじやす)
- 4代・氏政(うじまさ)
- 5代・氏直(うじなお)
彼らは5代100年に渡って関東を支配していました。
鎌倉幕府の執権をつとめた北条義時の一族である北条氏と区別するために、後北条氏または小田原北条氏(おだわらほうじょうし)と呼ばれました。
後北条氏は、二代目の北条氏綱の時代から、それまでの【伊勢】という苗字をあらためて、【北条】という苗字を名乗るようになりました。
北条氏綱たち後北条氏が、なぜ北条という苗字を名乗り始めたのかというと、彼らが支配した関東では、北条氏の影響力が強く残っていたために、北条氏を名乗ったほうが支配するのに都合がよかったからと考えられています。
当時、関東は室町幕府の征夷大将軍・足利氏の一族が、鎌倉公方(かまくらくぼう)と名乗って支配していました。
この鎌倉公方を補佐していたのが、関東管領というNo.2の地位にいた上杉氏です。
実は、鎌倉公方と呼ばれた足利氏や上杉氏は、もともと関東を支配していた鎌倉幕府の執権だった北条氏を滅亡させて、関東を奪い取った過去があるのです。
そのため、鎌倉公方や上杉氏と関東の支配をめぐって争っていた北条氏綱は、彼らの宿敵である北条氏を名乗ることで、関東支配の正当性を主張しようとしたのです。
これまでは、【北条義時たち北条一族と、北条早雲たち後北条氏には、血縁はない】と考えられていました。
しかし、とある研究では、二代目の北条氏綱の妻であった養珠院(ようじゅいん)という女性が、北条義時の子孫であった可能性が浮上しているのだとか。
そのため、北条義時の子孫かもしれない養珠院の息子・北条氏康と、その息子・氏政、孫の氏直は、北条義時の血を引く子孫であるかもしれない、というわけです。

《北条氏康》
「引用元ウィキペディアより」
北条氏康は、武田信玄や上杉謙信・今川義元・徳川家康ら名将たちと互角に戦った名将で、相模の獅子(さがみのしし)と呼ばれた人物です。
氏康の息子・北条氏政は、1590年に豊臣秀吉の大軍団に敗北し、切腹。(小田原征伐)
氏直も秀吉に敗北して、高野山へ送られましたが、そのあと1万石の領地を与えられ、明治時代まで北条家の家門を存続しています。
ただし、北条氏康ら小田原北条氏(後北条氏)とよばれる戦国大名が、北条義時たち鎌倉幕府の執権北条氏と血がつながっているのかという点について、歴史学者の小和田哲男先生は、否定しておられました。
やはり、血縁があるという説はあるものの、可能性は低いと思われます。
横井小楠
明治維新に功績を残した10名の人物【維新十傑】の一人に数えられている横井小楠(よこい しょうなん)もまた、北条義時の子孫と考えられます。

≪横井小楠≫
『引用元ウィキペディア』
横井小楠の正式な名前は、北条平四郎時存(ほうじょうたいらのしろうときあり)といいます。
実は横井小楠は、足利尊氏に抵抗をつづけた北条時行の子孫だと、自ら主張していたのです。
横井小楠といえば、国是七条という国家の基本方針をつくったことで有名です。
この横井小楠がつくった国是七条が、のちに坂本龍馬がつくった船中八策(せんちゅうはっさく)の元となり、のちの明治政府の基本方針になっています。
ちなみに維新十傑とは、以下の10名のことです。
- 横井小楠
- 西郷隆盛
- 大久保利通
- 木戸孝允
- 小松帯刀
- 大村益次郎
- 前原一誠
- 広沢真臣
- 江藤新平
- 岩倉具視
維新十傑とは、徳川家康がつくった江戸幕府を倒し、明治新政府という新しく日本を支配する政府をつくりあげたことに功績のあった10名です。(明治維新)
俳優・高倉健
日本を代表する俳優・高倉健(たかくら けん)さんも、北条義時の子孫であるといわれています。
北条義時のひ孫にあたる北条篤時(あつとき)の子孫が、高倉健さんなのだといわれています。
1333年、北条篤時は新田義貞に鎌倉を攻撃され、北条家のトップであった北条高時とともに自害して亡くなっています。
その後、北条篤時の子どもたちが、現在の山口県を支配していた大内氏の部下となり、その子孫が北九州で【小松屋】という両替商を経営してお金持ちになったといわれています。
彼らはその後、【小田】という名前を名乗ります。
高倉健さんの本名は、【小田剛一】さんです。
高倉さんは、先祖の北条氏がまつられている鎌倉の宝戒寺を、なんどもなんども訪れたといわれています。
また、鎌倉幕府が滅亡した際に、北条高時や篤時が自害した、東勝寺跡の【腹切やぐら】には、高倉健さんの名前が刻まれた塔婆があったそうです。
北条篤時は、知識人として有名だった父・北条実時(さねとき)は、数多くの書物をあつめて、金沢文庫(かねさわぶんこ)と呼ばれる書物の倉庫をつくったことで有名です。
足利惇氏(あしかが あつうじ)
北条義時の子孫には、第5代東海大学の学長をつとめた足利惇氏(あしかが あつうじ)という人がいます。
この方は1983年(昭和58年)にお亡くなりになられています。
足利惇氏さんは、足利尊氏と結婚した北条氏の女性・赤橋登子の子孫にあたります。
足利尊氏と赤橋登子の次男である足利基氏(あしかが もとうじ)の子孫が、足利惇氏さんなのです。
足利基氏の子孫は、江戸幕府につかえ、喜連川藩(きつれがわはん)という藩を支配し、明治をむかえました。
足利惇氏さんがなくなったあと、足利家は甥の足利浩平さんが継承しておられます。
北条義時の生涯年表
北条義時は、1163年に生まれ、1224年に亡くなっています。
その生涯を、ザッと年表でまとめてみました。
- 1163年(1歳)北条義時誕生
- 1180年(18歳)源頼朝が挙兵
- 1180年(18歳)石橋山の戦い
- 1185年(23歳)あしやうらの戦い
- 1185年(23歳)平家滅亡
- 1185年(23歳)鎌倉幕府成立
- 1189年(27歳)源義経死去
- 1189年(27歳)奥州合戦
- 1192年(30歳)姫の前と結婚
- 1192年(30歳)頼朝征夷大将軍就任
- 1199年(37歳)源頼朝死去
- 1199年(37歳)十三人の合議制開始
- 1199年(37歳)梶原景時の変
- 1203年(41歳)比企能員の変
- 1203年(41歳)源実朝が将軍就任
- 1204年(42歳)義時が相模守となる
- 1204年(42歳)源頼家・暗殺
- 1205年(43歳)畠山重忠の乱
- 1205年(43歳)牧氏事件
- 1205年(43歳)義時の子・政村誕生
- 1212年(50歳)次男・朝時を絶縁
- 1213年(51歳)和田合戦
- 1216年(54歳)左京大夫となる
- 1219年(57歳)源実朝暗殺
- 1221年(59歳)承久の乱
- 1224年(62歳)死去
北条義時の功績とは何か?義時は何した人なのか
北条義時という人は、承久の乱(じょうきゅうのらん)と呼ばれる、日本の歴史でもっとも重要な戦争に勝利するという功績を残した人です。
言いかえると、
北条義時は
それまで【お公家さんが支配していた日本】を
承久の乱という戦いでお公家さんに勝利したことによって
【お武家さん(武士・サムライ)が支配する日本】へと生まれ変わらせた人物
なのです。
日本という国は、源頼朝や北条義時が生まれるまで、約1000年ものあいだ、天皇やお公家さんが支配する国でした。
天智天皇が乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺して権力をにぎり、その後はお公家さんの藤原道長や、白河法皇や鳥羽法皇などの上皇が、圧倒的な権力をにぎって日本を支配してきたのでした。
天皇やお公家さんが日本を支配すると、彼らは【自分にとって都合の良い政治】を行うようになります。
彼ら権力者は、自分たちが豊かになるように、自分たちにとって都合の良いように、日本という国を経営していったのです。
そんなお公家さんが支配する日本のなかで、武家・武士・サムライと呼ばれる人々が、何をしていたのかというと、お公家さんにこき使われるボディーガードでしかありませんでした。
当時の武士には、なんの権力もなかったのです。
天皇やお公家さんが、自分にとって都合の良い政治をおこなう中で、武士たちは貧しくて不公平な生活をさせられていました。
そんなときに、平清盛という人物が登場します。
彼は、武士として初めて、日本を支配して、武士たちにとって都合の良い政治をおこなった人物でした。
ところが、そんな天才・平清盛も急に亡くなってしまい、清盛のライバルだった源頼朝が、今度こそ自分たち武士にとって都合の良い政治をおこなおうと考えて、鎌倉幕府という臨時政府をつくりあげたのです。
鎌倉幕府という臨時政府をつくって、自分たちにとって都合の良い政治をおこなおうとする武士を、お公家さんは憎んでいました。
当然です。もともとお公家さんは、朝廷という【本来の政府】で政治をおこない、権力を独占していたのに、幕府という臨時政府をつくられて、権力を奪われたのですから。
そんなお公家さんのリーダーだった後鳥羽上皇が、北条義時と鎌倉幕府を倒して、日本の支配者になろうとしました。
このとき、後鳥羽上皇と北条義時のあいだで起こった戦いが、承久の乱なのです。
当時、だれもが「北条義時は後鳥羽上皇に絶対に勝てない」と考えていました。
ところが鎌倉幕府のリーダーであった北条義時は、この予想をくつがえして、後鳥羽上皇がひきいる朝廷軍に圧勝したのです。
承久の乱に敗北したことで、それまで日本を支配していた朝廷という本来の政府は、完全に力を失ってしまいます。
そして鎌倉幕府という臨時の政府が、日本を支配することになったのです。
北条義時が承久の乱で勝利して朝廷の力を失わせたことによって、1868年の明治維新で江戸幕府が滅亡するまで、日本はサムライが支配する国になったのです。
義時という人は、承久の乱で勝利したことで、それまで1000年のあいだ続いた【天皇とお公家さんが支配する日本】を、【武士が支配する日本】へと生まれ変わらせた人物なのです。
承久の乱や、幕府・朝廷というものについては、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
北条義時の逸話・エピソード
北条義時の恋愛エピソード
北条義時と、その妻である姫の前(ひめのまえ)には、面白い恋愛エピソードがあります。
源頼朝につかえていた姫の前は、大変美しく、頼朝もとても気に入っていたといいます。
そんな姫の前に対して、義時は一年にわたって何度も何度もラブレターを送り続けたのだとか。
それでも姫の前は、義時を少しも相手にしなかったといいます。
これを見ていた頼朝は、義弟である義時をかわいそうに思ったのか、義時と姫の前を結婚させてあげたのです。
このとき頼朝は、義時に
「絶対に離婚しません」
という約束の手紙を書かせたといいます。
この姫の前は、義時の次男・朝時と、三男・重時を産んでいます。
ところが1203年、比企能員の変(ひきよしかずのへん)が勃発します。
比企(ひき)とは、姫の前の実家のことです。
姫の前の夫・北条義時は、妻の実家である比企氏を、大軍団で攻撃し、滅ぼしたのでした。
その後、姫の前と北条義時は離婚。
姫の前は京都へ移住し、歌人として有名な源具親(みなもとのともちか)という男性と再婚しています。
北条義時が八重姫と結婚した伝説
北条義時には、源頼朝の妻だった女性【八重姫】と結婚したという伝説があります。
源頼朝は、伊東祐親(いとうすけちか)の三女・八重姫とのあいだに、千鶴丸(せんつるまる)という男の子をもうけました。
ところが、頼朝と娘が子供をつくったことを、平家に知られることを恐れた伊東祐親は、千鶴丸を川に沈めたといわれています。
その後、八重姫は頼朝と引き離されたのです。
千鶴丸の菩提を弔うためにつくられた最誓寺というお寺には
「八重姫は、千鶴丸を失ったあと、江間小四郎と再婚した」
という言い伝えがあるのだとか。
江間小四郎とは、北条義時のことです。
義時は、頼朝と別れた八重姫を、妻としてむかえたといわれているのです。
源頼朝や八重姫については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
承久の乱の開戦前夜、義時は雷にビビっていた
北条義時の人生で最大の見せ場だった1221年の【承久の乱】直前、義時は自宅に落ちた雷に、ものすごくビビっていたという記録があります。
後鳥羽上皇がひきいる政府である朝廷と戦うことを決めた北条義時は、軍を鎌倉から京都へと向かわせます。
軍が鎌倉へ向かった6月8日、なんと鎌倉の北条義時の家に、雷が落ちたのでした。
ビビった義時は、物知りだった仲間の大江広元(おおえのひろもと)に対して
「朝廷を倒そうってときに、俺の家に雷が落ちた。
これは鎌倉幕府が滅亡する前触れなのだろうか?」
と質問したのだそうです。
すると大江広元は、これを否定し、義時をはげまします。
「源頼朝公が、弟・源義経をかくまった奥州の藤原泰衡を攻撃したときにも、落雷はありましたが、戦いは勝利しました。(奥州合戦)
何も恐れることはありません。
雷は縁起(えんぎ)の良いしるしです。」
それでも不安だった義時は、なんと占い師に命令して、雷が縁起がよいのかわるいのかを占わせました。
すると、結果は【雷は縁起が良い】というものでした。
安心した義時は、朝廷を倒し、明治維新まで約700年つづく【武士が支配する日本】を確固たるものにしたのです。
何もしてないのに主君・頼朝から褒められた
義時は、義兄であり主君でもあった源頼朝から、何もしていないにもかかわらず褒められたというエピソードがあります。
女好きだった源頼朝は、妻・政子に隠れて愛人の家に通っていたことがありました。
それを知った妻の北条政子とその父・北条時政は激怒。
なんと頼朝の愛人の家を破壊して、鎌倉から本拠地である伊豆へと帰ってしまったのです。
これに焦ったのが頼朝でした。
頼朝は頼りにしていた時政・政子の親子から見捨てられ、途方に暮れていたのです。
そのとき頼朝は、政子の弟でおとなしい北条義時のことを思い出しました。
「義時も、姉・政子や父・時政と一緒に、伊豆へ帰ってしまったのだろうか?」
ところが義時は、姉や父とは違って、一人で鎌倉の家にいたのです。
これを知った頼朝は、心強いと思ったのか、父や姉より自分を選んでくれた義時に感激したのか、大喜びして義時を呼びだして褒めちぎったといいます。
ただ家にいただけで褒められた義時・・・。
何がなんだかわからない義時は、褒められている意味もわからぬままだったといわれています。
頼朝の息子・源実朝を暗殺した
実は北条義時には、頼朝の息子で、鎌倉幕府の三代目征夷大将軍であった源実朝(みなもとのさねとも)を暗殺したという噂があるのです。
1219年、鶴岡八幡宮で、三代将軍・源実朝が右大臣に就任した式典がひらかれました。
ところがそこで実朝が、自分の甥であり、二代将軍をつとめた兄・源頼家(みなもとのよりいえ)の息子・公暁(くぎょう)に暗殺されてしまったのです。
この式典には、義時も出席して、太刀持ち(たちもち)という役目をつとめる予定でした。
ところが直前になって義時は、体調不良を理由に、式典をキャンセル。
義時のかわりに、源仲章(みなもとのなかあきら)という人物が、太刀持ちをつとめたのでした。
なんとこの源仲章が、実朝といっしょに公暁によって暗殺されているのです。
もしも義時が体調不良で欠席していなかったら、義時が殺されていた、ということです。
義時は裏で、公暁にたいして源実朝を暗殺するようそそのかし、自分は体調不良を理由に安全なところに避難した、と考えられているのです。
しかも源仲章は、朝廷からおくられてきたスパイだったといわれているので、亡くなったことは義時からすると好都合だったのです。
実朝が亡くなったことで、義時は鎌倉幕府を乗っ取って、日本全国を支配することに成功します。
実朝と源仲章という、義時にとってこの上ない邪魔な人物2人が、同時に亡くなったわけですが、これが義時による暗殺計画だったのではないか?と疑われているのです。
真相は、今もわかっていません。
ちなみに、暗殺をやらかした公暁という人物は、北条義時とその仲間の三浦義村によって、討ち取られています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 北条義時の子孫には、北条時宗、北条時行、足利義満、足利義昭、北条氏康・氏政・氏直、横井小楠、高倉健、足利惇氏、などの人物がいる。
- 北条義時には、【好きな女性に一年もラブレターを送り続けた】、【雷にビビって占い師に占いをさせた】などのエピソードがある。
- 義時は、源頼朝の息子で、三代将軍・源実朝を暗殺したという疑惑がある
以上となります。
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