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源頼朝は何をした人?どんな人?分かりやすく簡単に解説!【年表付き】

源頼朝みなもとのよりともとは、どんな人なのかを、簡単にまとめると、以下のとおりです

  • 源頼朝とは、鎌倉幕府をつくった人物。
  • 頼朝は、はじめて武士が日本を支配する体制をつくり上げた。
  • 頼朝は、父の仇である平家を倒し、日本全国を支配した後、落馬して亡くなった。

この記事では源頼朝について、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

これを読めば、誰かに説明できるほど、源頼朝に詳しくなれます。


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目次

源頼朝みなもとのよりともは何をした人?どんな人?

源頼朝みなもとのよりともとは、鎌倉幕府かまくらばくふをつくった人です。武士が日本を支配するシステムをつくりあげた人なのです。

源頼朝は、武家による臨時政府である幕府を初めて誕生させた人物です。

つまり、日本の支配権を天皇から奪い取った人なのです。

当時の日本では、天皇を頂点にお公家さんによって組織された朝廷ちょうていという政府が、日本を支配していました。

朝廷が日本を支配していた時代は、天皇やお公家さんにとって都合の良い政治が行われ、武士にとって全然都合のよくない政治が行われた時代でした。

鎌倉幕府が誕生するまで、日本は武士の世ではなく、天皇とお公家さんの世だったのです。

頼朝は、本来の政府である朝廷にかわって政治をおこなう【鎌倉幕府】という臨時政府を樹立することに成功します。

これにより、公家が支配していた日本を、今度は武家が支配するようになるのです。

こうして武士にとって都合の良い政治が行われるようになりました。

日本はその後、幕府という臨時政府によって支配される形が、明治維新まで約700年も続くことになります。

源頼朝は、武士のための世の中をつくった人物なのです。

人気マンガ【ワンピース】で例えていうならば、それまで「天竜人」が支配していた世界をぶち壊し、「海賊」が支配する世界にしたようなものです。

⇒⇒⇒⇒⇒⇒朝廷ちょうていとは何か?について詳しくはコチラ

⇒⇒⇒⇒⇒⇒幕府ばくふとは何か?について詳しくはコチラ


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プロフィール

《源頼朝》
「引用元ウィキペディアより」

【名前】源頼朝

【幼名】鬼武者

【妻】北条政子

【弟】源義経

【父】源義朝

【母】由良御前

【義父】北条時政

【義弟】北条義時

【あだ名】鎌倉殿かまくらどの

【生年月日】1147年5月9日

【没年月日】1199年2月16日


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簡単年表

源頼朝の生涯を、ザッと年表にすると、以下のとおりです。

  • 1147年(1歳)、源頼朝誕生
  • 1159年(13歳)、平治の乱
  • 1159年(13歳)、伊豆へ流罪
  • 1177年(31歳)、北条政子と結婚
  • 1180年(34歳)、挙兵・石橋山の戦い
  • 1181年(35歳)、平清盛病死
  • 1184年(38歳)、木曽義仲討伐
  • 1185年(39歳)、平家滅亡・壇ノ浦の戦い
  • 1185年(39歳)、鎌倉幕府誕生
  • 1189年(43歳)、源義経自害・奥州合戦
  • 1192年(46歳)、征夷大将軍に就任
  • 1199年(53歳)、落馬して死去


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源頼朝の生涯を分かりやすく簡単に解説

ここでは、源頼朝の生涯を、ザッと簡単に解説させていただきます。

  • 源義朝みなもとのよしともの子として誕生
  • 平治の乱へいじのらんで平清盛に敗北
  • 北条政子ほうじょうまさこと出会う
  • 平清盛を倒すために挙兵
  • 平家を倒し鎌倉幕府設立
  • 征夷大将軍に就任
  • 最期は落馬し死去

頼朝誕生

【1147年】、源頼朝は、源義朝みなもとのよしともの三男として誕生します。

父・義朝は、【1156年】に起こった保元の乱ほうげんのらんという戦乱において、平清盛とともに後白河天皇ごしらかわてんのうに味方して、敵方であった実父・源為義みなもとのためよしと戦い勝利。

勝利した義朝は父・為義を処刑して出世したものの、ライバルの清盛との出世レースに出遅れていました。

これに焦った義朝は平清盛を出し抜こうと、後白河法皇お気に入りの公家・藤原信頼ふじわらののぶよりと協力し、平清盛に戦いを挑んだのでした。

平治の乱へいじのらんの始まりです。

平治の乱

1159年、頼朝は平治の乱へいじのらんで、ライバルである平清盛に敗北。伊豆へ流罪になっています。

父・義朝はというと、逃亡の途中で部下に裏切られて命を落としています。

頼朝は殺されることなく、清盛の手に捕らえられました。

このとき清盛の継母・池禅尼いけのぜんにが、源頼朝の助命を嘆願します。

なぜ清盛の継母が、頼朝の命乞いをしたのかというと、まだ13歳だった頼朝の顔が、若くして亡くなった清盛の異母弟で池禅尼の子・家盛いえもりに瓜二つであったためといわれています。(実際には、頼朝の母の実家だった熱田神宮の働きかけにより、後白河法皇らが頼朝助命の運動をしていた)

池禅尼や後白河法皇の助命嘆願によって、源頼朝は死罪から減刑されて、流罪となります。

こうして頼朝は伊豆へと流され、幽閉生活をおくることとなるのです。


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北条政子と出会う

伊豆へ流罪となった源頼朝は、そこで北条政子ほうじょうまさこと出会います。

頼朝は北条政子と出会う少し前に、その地の豪族・伊東祐親いとうすけちかの娘・八重姫やえひめと恋に落ち、千鶴丸せんつるまるという子供を授かっています。

それを知った伊東祐親は、最高権力者・平清盛の逆鱗に触れることを恐れ、千鶴丸を松川に沈めて処刑。

頼朝と引き離された八重姫は、江間小四郎えまこしろうという男性と再婚させられています。

頼朝は伊東祐親に命を狙われたものの、北条時政ほうじょうときまさにかくまわれて危機を脱します。

すると、頼朝は今度は北条時政の娘・北条政子と恋仲になります。

北条政子
「引用元ウィキペディアより」

父・時政の反対を押し切って二人は、なんとまたしても結婚してしまうのでした。

余談ですが伊東祐親は、のちに源頼朝との戦いに敗北。孫・千鶴丸を死なせた罪を後悔して自害しています。

⇒⇒⇒⇒⇒⇒北条政子について詳しくはコチラ


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平家打倒の挙兵と鎌倉幕府の誕生

1180年、頼朝は平家を倒すために挙兵。1185年には平家を倒すことに成功し、鎌倉幕府をつくっています。

圧倒的な権力を握り、自分たちにとって都合の良い政治を行い、おごりたかぶった平家に対し、以仁王や全国の武士たちの怒りが爆発したのです。

頼朝はこの平家打倒の命令に参戦し、挙兵。

初戦の石橋山の戦いには破れたものの、その後は関東を地盤として勢力を拡大し、弟・義経に大軍団を預けて平家打倒を命じます。

《源義経》
「引用元ウィキペディアより」

天才武将・源義経は、【1185年】に壇ノ浦の戦いで、父・義朝のかたきである平家一門を滅亡させることに成功。

宿敵・平家を討ち果たした頼朝は、同年、日本で最初の武家政権(武士による武士のための政府)である鎌倉幕府を誕生させ、武士の武士による武士のための政治を開始したのでした。

ところが、平家との戦いで天才的な能力を発揮した弟・源義経が、あろうことか兄・頼朝の命令を次々と無視して独立、敵対し始めます。

頼朝は弟・義経が逃げ込んだ奥州藤原氏に圧力をかけて義経を死に追いやり、同時に奥州合戦によって藤原氏を滅亡させることにも成功。

こうして全国を制覇した頼朝は、【1192年】に征夷大将軍に就任し、名実ともに武士の頂点にのぼりつめたのでした。

⇒⇒⇒⇒⇒壇ノ浦の戦いについて詳しくはコチラ


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源頼朝の最期

1192年、源頼朝は征夷大将軍に就任します。

そして1199年、相模川にかけられた橋の供養から戻る途中、頼朝は馬から転落し。数日後に亡くなります。

落馬事故が亡くなった原因なのか、それともなにか別のことが原因で落馬したのかは、今も不明です。

落馬した直後から頼朝は急速に衰弱していき、事故から約2週間後の1199年2月16日に急死してしまうのです。

享年53歳

源頼朝の死後、その息子である源頼家・源実朝が、征夷大将軍の地位を継承。

しかし頼朝の二人の息子たちも、頼朝の妻・北条政子の実家である北条一族の罠で殺害され、頼朝の子孫は断絶してしまいます。

その後の鎌倉幕府は、北条一族によって支配されることになります。

そして【1333年】に、足利尊氏あしかがたかうじ新田義貞にったよしさだに滅ぼされるまで、約140年の間、日本を支配することとなるのです。

⇒⇒⇒⇒⇒源頼朝の死因と最期について詳しくはコチラ

⇒⇒⇒⇒⇒鎌倉幕府滅亡の原因について詳しくはコチラ


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源頼朝のエピソード・逸話

ここでは源頼朝の、有名なエピソードや逸話について解説いたします。

頼朝は女の人にとにかくモテた!

源頼朝といえば、女好きだったことで有名です。とにかく頼朝は女性にモテたようです。

頼朝は、伊豆に流されると、伊東祐親の三女・八重姫と恋仲になり、子供を授かっています。

その八重姫というのは、かなりの美人だということで、地元でも有名な人物だったようです。

八重姫と別れると、次は地元の豪族の娘だった北条政子と交際開始。

なぜそれほどまでにモテたのかというと、理由は簡単で、流罪になった罪人とはいえ、頼朝が身分の高い都出身の都会人だったからです。

頼朝は政子と結婚したあとも、政子がいないスキを狙うようにして、何度も何度も女性問題を起こしています。

政子は、頼朝という身分の高い夫に別の女ができると、実家の北条家が危なくなると考えて、頼朝の愛人を次々とひどい目に合わせます。

わずか13歳で幽閉生活をさせられた頼朝は、心の隙間を埋めるように、女性を求めたのだと考えられます。

弟・源義経と涙の対面

【1180年】、富士川の戦いで平家軍を追い払った直後、頼朝は弟・源義経と運命の出会いを果たします。

頼朝が挙兵したと知った義経は、自分をかくまってくれていた奥州の覇者・藤原秀衡のもとを飛び出して、兄・頼朝のもとへと駆けつけたのでした。

このとき、頼朝は関東に領地をもった武士たちを味方につけていたものの、自らの直属の軍団をまったく持っていませんでした。

そのため、わずか数十人であるものの、義経が駆けつけたことは、頼朝にとってとても嬉しい出来事だったはずです。

頼朝は、黄瀬川の陣において、弟の義経と涙を流して対面したといいます。

ところが、二人は【1185年】に義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させた頃から、破局へと向かってしまうのです。

そして【1189年】、義経は兄・頼朝の罠により、奥州・平泉の地で、命を落とすこととなるのです。

安徳天皇・源頼朝の亡霊を見て落馬した?

頼朝の死因は現在も不明ですが、頼朝は亡霊を見て亡くなったという、不思議なエピソードがあります。

武士たちの長であった頼朝が、なぜ落馬などという武士としてあってはならない不名誉な失敗をしたのか?

それは自らが死に追いやった安徳天皇や、弟・源義経の亡霊を見て、驚いたため、落馬したというのです。

建久九年の冬、頼朝は相模川にかけられた橋の供養に出席した後、鎌倉へ帰ろうとしていました。

八的ヶ原というところで、頼朝は道の脇にいる人々の中に、見たことのある顔がいくつかある事に気が付きます。

  • 弟・源義経
  • 叔父・源行家

など、自分が命を奪い、すでに亡くなったはずの人の顔があることに、頼朝は驚きます。

しかし彼らは静かに頼朝と目を合わせただけでした。

稲村ヶ崎まで来ると、頼朝は海の上に子供の亡霊が現れたことに気づきます。

「われは安徳天皇」

と名乗ると、頼朝は驚き、なんとか鎌倉へ帰還したものの、すぐに発病して数日後に亡くなってしまったのでした。


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源頼朝の死因

源頼朝は、落馬した数日後に亡くなったとされていますが、実は今も正確な死因がわかっていません。

なぜ頼朝が亡くなってしまったのか、歴史の謎とされているのです。

なぜ頼朝の死因が謎なのかというと、北条氏が記した鎌倉幕府の公式記録【吾妻鏡あづまかがみ】には、頼朝が亡くなった1199年のあたりの記録だけが、スッポリと抜け落ちているからです。

なぜ頼朝の死が記されるはずの部分だけが無いのか?

吾妻鏡の記録が抜け落ちている理由も含めて、その死は今も謎に包まれているのです。

通説によると、頼朝は【飲水病】つまり現代でいうところの「糖尿病」で亡くなったとされています。

また吾妻鏡には、「頼朝は亡くなる数日前に落馬していた」という記録があります。

この落馬が原因で亡くなったのか、または何かの病気が原因で落馬したのか、ハッキリしていません。

一説によると、頼朝を大変尊敬していた徳川家康が、吾妻鏡の頼朝が亡くなった部分の記録を削除したといわれています。

「武士としてとても不名誉な死に方だ。

これは歴史に残してはいけない」

家康はそう言って、頼朝の死が記された吾妻鏡の記録を削除したというのです。

  • 糖尿病
  • 落馬により負傷し、感染症つまり破傷風にかかって亡くなった
  • 馬から落ちた際に川に落ち溺死
  • 愛人の家に行く途中で、不審者と間違えられて斬り殺された
  • 安徳天皇や義経の亡霊に呪い殺された
  • 毒殺された

などなど

頼朝の死因には、数々の説があるのです。

⇒⇒⇒⇒⇒源頼朝の死因について詳しくはコチラ


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源頼朝の家系図と子孫

頼朝の子孫は現在も続いているのでしょうか?

結論から言ってしまうと、頼朝の子孫は、頼朝の孫の世代で断絶しているため、子孫は現在までつながっておりません。

《源頼朝の家系図》
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

頼朝には妻・北条政子とのあいだに、男女2人ずつ、合計で4人の子供がいました。

ところが、これらの子供すべて、母親の政子が生きているうちに亡くなっているのです。

  • 長女・大姫は病死
  • 長男・頼家は暗殺
  • 次男・実朝は甥・公暁こうぎょうにより暗殺
  • 次女・三幡さんまんは若くして病死

四人の子どもたち以外にも、頼朝には隠し子が何人かいましたが、妻・政子によって軒並み殺害されてしまっています。

長男・頼家には、一幡いちまんや公暁といった子供がいたものの、彼らもまた、若くして亡くなっています。

そのため、頼朝の子孫は、現在まで続いておりません。

ただ一人、島津忠久しまづただひさという人物が、実は頼朝の隠し子なのではないかという噂があります。

この島津忠久の子孫が、戦国時代にその名を轟かせた猛将・島津義弘。また、西郷隆盛を見出した名君・島津斉彬なのですが、忠久が頼朝の子であるという逸話は、極めて可能性の低い作り話であると考えられます。

⇒⇒⇒⇒⇒源頼朝の家系図と子孫について詳しくはコチラ


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源頼朝ゆかりの地

ここでは頼朝にゆかりの地について解説いたします。

源頼朝のお墓

頼朝のお墓は神奈川県鎌倉市の白旗神社にあります。

余談ですが、すぐ近くの法華堂には、頼朝の妻・政子の弟・北条義時のお墓もあります。

源頼朝の像

神奈川県鎌倉市・源氏山公園には、頼朝の像が建てられています。

この山のふもとに、源氏の屋敷が有り、頼朝の先祖である八幡太郎義家はちまんたろうよしいえという武将が、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝祈願したといわれています。

1980年、頼朝が鎌倉に入った800年を祝って、この地に頼朝の像が建てられたのでした。

源頼朝落馬地の標柱

源頼朝の死因という説がある落馬。その落馬した地の標柱が、神奈川県藤沢市辻堂にあります。

対面石(頼朝・義経対面の地)

頼朝のもとに駆けつけた義経が、初めて対面した地といわれているのが、現在の静岡県駿東郡清水町です。

この対面石に腰掛けて、二人は涙を流して対面したといわれています。

源頼朝・生誕の地

頼朝が誕生した地が、愛知県名古屋市熱田区にあります。

頼朝の母・由良御前ゆらごぜんは、熱田神宮の宮司の娘だったといわれています。

愛知といえば、戦国三英傑とよばれる信長・秀吉・家康の出身地ですが、頼朝も愛知出身だったのです。

 


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  • 源頼朝とは、鎌倉幕府をつくった人物。
  • 頼朝は、鎌倉幕府という臨時政府をつくり、それまで日本を支配していたお公家さんにかわり、武家・武士が日本を支配する体制をつくり上げた。
  • 頼朝は、父・義朝の仇である平家一門と、実弟・源義経を倒し、日本全国を支配した後、落馬が原因で亡くなった。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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