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八重姫の死因と最後とは?源頼朝と別れたあと北条義時と結婚した伝説

皆さんは八重姫やえひめを、ご存知でしょうか?

実は八重姫について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

この記事では八重姫を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

今は八重姫について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、八重姫に詳しくなれます。

この記事を読んで、八重姫の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。

→→→→→『鎌倉殿の13人』登場人物・関連記事まとめはこちら


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この記事を短く言うと

  1. 八重姫とは、源頼朝みなもとのよりともの最初の妻だった女性。息子・千鶴丸せんつるまるを、父・伊東祐親いとうすけちかに殺された悲劇の女性
  2. 八重姫の子・千鶴丸をとむらうために建立された最誓寺さいしょうじには、【八重姫は北条義時ほうじょうよしときと再婚した】という言い伝えが残されている
  3. 大河ドラマ【鎌倉殿の13人】の時代考証をつとめる学者・坂井孝一さかいこういち先生は、【八重姫は、北条義時の息子・北条泰時ほうじょうやすときを産んだのではないか】と推測している
目次

八重姫やえひめの死因は?

八重姫の死因には、入水して亡くなったという説があります。

また、くわしくは後述いたしますが、北条義時と再婚して北条泰時を産んだ後、病死したという説もあります。

八重姫とは、源頼朝の最初の妻であり、悲劇的な生涯をおくったといわれている女性です。

八重姫は、伊東祐親いとうすけちかという豪族の娘であり、頼朝の最初の妻でした。(有名な北条政子ほうじょうまさこは、頼朝の再婚相手)

彼女は頼朝とのあいだに、千鶴丸せんつるまるという息子を産んでいます。

ところがその千鶴丸が、なんと八重姫の父・伊東祐親によって、川に沈められて殺害されてしまったのです。

八重姫のその後は、はっきりしていません。

彼女のその後については諸説あり、権力を握った頼朝に招かれて、好きな男性を選べといわれて、相馬師常そうまもろつねという人物と再婚といわれています。

または別の説によると、北条政子と頼朝が結ばれたことを知って絶望し、現在の伊豆の国市にある真珠が淵しんじゅがふちというところで入水し、亡くなったともいわれています。

→→→→→源頼朝とはどんな人なのかについて詳しくはこちら


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八重姫の最後の様子とは?

くわしくは後述いたしますが、八重姫は源頼朝と別れたあと、北条義時と再婚したという伝説があります。

その伝説はのちに詳しく解説いたしますが、まずは八重姫の死因を解説いたします。

史実における八重姫は、若いうちに亡くなっていた

八重姫の死因は、不明ですが、病死だろうと考えられます。

八重姫は、かなり若くして亡くなっていた可能性が高いと考えられます。

少なくとも、建久年間つまり1190年前には亡くなっていたと考えられるのです。

死因は定かではありません。

何歳で亡くなったのかも不明です。

実は北条義時は、1192年に姫の前ひめのまえという女性を妻としているのです。

姫の前とは、【十三人の合議制】の一人である、比企能員ひきよしかずの一族の女性です。

義時はこの姫の前にかなり強烈に惚れ込んでいたらしく、頼朝の館で働く美しい彼女に対して、何度も恋文を送り続けたとのこと。

しかしまったく良い返事をしてもらえないため、見かねた源頼朝が、【絶対に離婚しません】という約束の手紙を北条義時に書かせて、二人を結婚させてやったのだとか。

当時、まだ身分の低い武士でしかなかった北条義時が、八重姫と姫の前という2人の女性を正室と側室として抱えることは、当時の常識としてできないはずでした。

そのため、北条義時が姫の前と結婚したとき、八重姫との夫婦関係はすでに終わっていたと考えられるのです。

八重姫は、おそらく1192年に義時が姫の前と結婚する以前に、病気かなにかで亡くなったのでしょう。

詳しい死因や亡くなったときの状況は不明です。

しかしおそらく、義時に大切にされた八重姫は、幸福のうちに亡くなったであろうと思います。

余談ですが、姫の前はその後、1193年に北条朝時、1198年に北条重時を産んでいます。

ところが1203年、比企能員の乱が勃発し、比企一族が北条氏に滅ぼされると、姫の前は北条義時と離婚。

その後、姫の前は京都で源具親みなもとのともちかという人物と再婚しています。

大河ドラマ【鎌倉殿の13人】における八重姫の最期

ドラマ【鎌倉殿の十三人】において、5月29日の回で、義時の妻・八重姫が、川に流された孤児・鶴丸つるまる(のちの平盛綱たいらのもりつな)を助けるために、川へ入って流されて亡くなるシーンが放送されました。

八重姫は、【アサシン善児ぜんじ】によって川へ沈められて亡くなった息子・千鶴丸と、鶴丸を重ね合わせ、救えなかった我が子を救うように、鶴丸を救い出したのしょう。

かつて救えなかった我が子を救えたことに安心した八重姫は、三浦義村みうらよしむらに鶴丸を託し、力尽きたのでした。

おそらくこのラストシーンは、八重姫が真珠が淵という川に身を投げたという伝説をモデルにして設定されたのでしょう。

この後、三浦義村は、いつもどんなときも常に北条義時の味方をし続けます。

北条義時が亡くなったあとも三浦義村は、八重姫と義時の子である北条泰時を支えるのでした。

その甲斐あってか、北条泰時はその後の武士の世において、絶大な人気と尊敬を集める武士の鑑として崇拝されることになるのです。

八重姫が頼朝と別れたあと【北条義時】と結婚したという伝説

八重姫には、鎌倉幕府・2代執権で、源頼朝の妻・政子の弟である北条義時と結婚したという伝説があります。

北条義時
「引用元ウィキペディアより」

八重姫の子・千鶴丸せんつるまるの菩提をとむらうために建てられた最誓寺さいせいじというお寺に、

「八重姫は、江間小四郎えまこしろう(北条義時のこと)と結婚した」

という言い伝えが残っているのだとか。

八重姫は最初に、源頼朝と結婚して、千鶴丸という息子を出産しました。

ところが、当時最高の権力者だった平清盛たいらのきよもり平治の乱へいじのらんで敗北して、罪人として伊豆で幽閉生活をおくっていた源頼朝と、自分の娘である八重姫が結ばれたことに、八重姫の父・伊東祐親は激怒。

祐親は、実の孫である千鶴丸を、川に沈めて殺害し、清盛から怒りを向けられることを回避したのでした。

その後、八重姫は頼朝と無理やり引き裂かれ、北条家の領地と隣合わせだった江間えまという人物と再婚。

頼朝が平家打倒のために挙兵すると、江間氏は頼朝との戦いで戦死します。

こうして、八重姫は未亡人となってしまいます。

その後、北条家の領地のお隣りにあった江間氏の領地は、頼朝の義弟である北条義時に与えられます。

北条義時は、江間の領地を与えられたため、通称・江間小四郎えまこしろうと名乗るようになるのです。

その江間小四郎(北条義時)と、八重姫が再婚したという伝説が、最誓寺に残されています。

→→→→→北条義時の家系図と子孫について詳しくはこちら

→→→→→北条義時の最期と死因について詳しくはこちら


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大河ドラマ【鎌倉殿の13人】の時代考証学者が推測する!北条泰時の母は八重姫?

2022年の大河ドラマ【鎌倉殿の13人】の時代考証じだいこうしょうを担当しているのが、創価大学の歴史学者・坂井孝一さかいこういち先生という方です。
(時代考証とは、ドラマの衣装や言葉づかいなどが、その時代と合っているかどうかを検証・指導する学者さん)

その坂井先生が

八重姫は北条義時ほうじょうやすときと再婚し、北条泰時を産んだのではないか

という仮説を提唱しておられました。

坂井先生の仮説によれば、八重姫は、夫の江間が亡くなったあと、頼朝の館で働くようになったのだとか。

そこで八重姫は、阿波局あわのつぼねと呼ばれるようになって北条義時と結婚した、というのです。

そして、三代執権として歴史に名を刻む名将・北条泰時ほうじょうやすときを産んだのではないか、ということです。

北条泰時といえば、その後600年以上も続くの武士の世で、武士のお手本とされる法律・御成敗式目ごせいばいしきもくをつくった偉人です。

《北条泰時》
「引用元ウィキペディアより」

とはいえこの推測には何の根拠もないと、坂井先生本人が認めておられます。

しかし、その仮説はかなり説得力があります。

その仮説によると、頼朝はかつての妻であり、息子・千鶴丸を失った八重をかわいそうに思い、自分のそばに置こうとしたのだとか。

ところが、当時の頼朝には、嫉妬深く過激な性格の北条政子がいたため、前妻の八重を自分の近くに置くことは危険でした。

北条政子もまた、八重の方を女癖の悪い夫・頼朝の近くに置くことを嫌がっていました。

そのため政子は、信頼できる弟・北条義時に、八重を嫁がせることをすすめたのでした。

義時と八重が結婚したことで、政子にしてみれば夫の浮気の心配がなくなりました。

頼朝もまた、前妻・八重の今後の生活が保証されたことに安心したと考えられるのだとか。

八重はその後、北条泰時という男児を産みました。

この北条泰時は、最初の名前を【頼時よりとき】と名乗っていたそうです。

【頼】という字は、源朝から一文字をもらったものです。

頼朝は、この北条義時の息子の北条泰時を、とても大切にしました。

なぜ大切にしたのか、その理由は不明です。

しかし、もしも北条泰時の母親が、頼朝の前妻・八重なのだとしたら、頼朝が泰時を大切にした理由も納得できます。

八重姫が名乗っていた阿波局あわのつぼねという名前は、頼朝にとっても義時にとってもかけがえのない人物の名前です。

そのため彼女が亡くなったあと、【阿波局】という名前は、北条義時の妹に引き継がれています。

義時の妹である阿波局は、頼朝の弟である阿野全成あのぜんじょうの妻でもあるため、頼朝にとっても縁の深い人物が、八重姫の通称を引き継いだことになるのです。

北条泰時は、1199年に源頼朝が亡くなると、頼時という名前から泰時へと改名しています。

その後、北条泰時は【承久の乱】で19万の大軍団をひきいて、後鳥羽上皇ごとばじょうこうの軍団を撃破。頼朝がつくった武士の世を確立する活躍するのでした。

それのみならず、北条泰時は父・義時が亡くなると、御成敗式目を制定して武士たちの行動を法律で定めました。

これは画期的なことでした。

それまで鎌倉幕府は、主に御家人たちの土地問題に対して、裁判を行うことを主な仕事としていました。

しかし、全ての裁判をさばき続けることは大変です。

そのため泰時は、事前に争い事を減らすために、法律を定めて武士たちの法律違反をコントロールしようとしたのです。

もしも、この坂井孝一先生の仮説のとおり、八重姫が北条義時の妻となっていたのならば、彼女はその後、武士の頂点に登りつめた北条義時の妻として、穏やかな一生を終えたことでしょう。

→→→→→北条泰時の死因と最期について詳しくはこちら


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八重姫は実在しなかった説

八重姫は、実在していなかったという説があります。

実は、質の高い歴史文献のなかに、八重姫という人物は登場していないようなのです。

  • 曽我物語
  • 平家物語
  • 源平盛衰記

など、いってみれば小説のような物語調の読み物の中には、八重姫は悲劇的な人物として登場しています。

しかしこれらの書籍は、真実味の薄い、質の低い資料でしかないのです。

八重姫も千鶴丸も、吾妻鏡あづまかがみのような確かな歴史資料のなかには登場しないのです。

もしかすると、八重姫も千鶴丸も、頼朝を悲劇のヒーローとしてまつりあげるためにつくりあげられたフィクションなのかもしれません。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 八重姫とは、源頼朝の最初の妻だった女性。息子・千鶴丸を、父・伊東祐親に殺された悲劇の女性
  2. 八重姫の子・千鶴丸をとむらう最誓寺には、【八重姫は北条義時と再婚した】という言い伝えが残されている
  3. 大河ドラマ【鎌倉殿の13人】の時代考証をつとめる学者・坂井孝一先生は、【八重姫は、北条義時の息子・泰時を産んだのではないか】と推測している

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

その他の人物はコチラ

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