鎌倉幕府第3代将軍・源実朝は、わずか28歳という若さでこの世を去りました。
雪の降る夜、鶴岡八幡宮の石段で起きた衝撃的な暗殺事件は、日本史上屈指の悲劇として語り継がれています。
実朝の死は源氏将軍の断絶をもたらし、その後の承久の乱へとつながる重大な転換点となったのです。
この記事では、源実朝の死因と暗殺された場所について、事件の全貌から黒幕説、そして歴史に与えた影響まで、史実をもとに詳しく解説していきます。
- 源実朝が暗殺された日時と場所の詳細
- 犯人・公暁の動機と事件当日の状況
- 暗殺事件に隠された黒幕説の真相
- 実朝の死が日本史に与えた重大な影響
源実朝の死因と暗殺された場所の全貌

| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 死亡日 | 1219年2月13日(建保7年1月27日) |
| 享年 | 28歳 |
| 暗殺場所 | 鎌倉・鶴岡八幡宮の石段 |
| 犯人 | 公暁(実朝の甥・源頼家の息子) |
| 死因 | 首を討たれたことによる死亡 |
いつ、どこで暗殺されたのか?事件の日時と場所
源実朝が暗殺されたのは、1219年2月13日(旧暦では建保7年1月27日)の夜のことでした。場所は鎌倉を代表する神社である鶴岡八幡宮の石段で、右大臣拝賀の儀式を終えて退出する際に凶刃に倒れたのです。
右大臣昇進という栄華の日
この日、源実朝は右大臣という、武士としては異例の高位に昇進した祝賀のため、鶴岡八幡宮で厳粛な儀式に臨んでいました。右大臣という官位は、実朝の父である源頼朝ですら到達できなかった位置なのです。京都からも多数の公卿が招かれ、1000騎もの武士が随行するという盛大な儀式でした。
実朝はわずか15年ほどの間に、従五位下の右兵衛佐から正二位の右大臣へと、実に11段階も官位を上昇させています。これは後鳥羽上皇の強い後押しがあってこその異例の出世でした。朝廷文化に深く通じ、和歌の才能にも恵まれた実朝は、武家の棟梁でありながら公家社会でも高く評価されていたのです。
雪の降る運命の夜
運命の1月27日、鎌倉では珍しく大雪が降り積もっていました。史料『吾妻鏡』によれば、雪は約60センチメートル(2尺)も積もったといいます。午後6時頃、実朝は御所を出発し、鶴岡八幡宮へと向かいました。神拝の儀式は滞りなく終了し、実朝が大石段を降りて退出しようとした、まさにその時でした。
雪に覆われた境内の静寂を破って、一人の僧侶が突然飛び出してきたのです。その人物は太刀を振りかざし、「親の仇はかく討つぞ」または「親父の敵を討つぞ」と叫びながら、実朝に襲いかかりました。あまりに突然の出来事に、周囲の武士たちは対応することができませんでした。
源実朝の死因は何だったのか?

引用元「Wikipediaコモンズ」より
源実朝の死因は、首を討たれたことによる即死であったと考えられています。犯人である公暁は、実朝を一撃のもとに斬り伏せ、その首を奪い取ってしまいました。享年28歳という若さでの悲劇的な最期でした。
史料によれば、公暁は実朝の首を討ち取った後、石段を駆け上がり、その首を高々とかかげて叫んだといいます。「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁なるぞ。父の敵を討ち取ったり」と。その後、公暁は実朝の首を持ったまま、雪の中を姿を消していったのです。
実朝とともにいた源仲章という人物も、この時に殺害されています。仲章は本来その場にいるはずだった北条義時の代役として実朝の隣にいました。つまり、公暁は実朝だけでなく、北条義時をも暗殺しようとしていたことがわかります
犯人・公暁とは誰なのか?
源実朝を暗殺した公暁は、実朝の実の甥にあたる人物でした。父は鎌倉幕府第2代将軍・源頼家、つまり実朝の兄です。公暁は源頼朝の孫であり、源氏の正統な血を引く人物だったのです。
複雑な立場に置かれた公暁
公暁は鶴岡八幡宮の別当という、神社の最高責任者の地位にありました。別当とは、神社を統括する僧侶の役職です。しかし、その立場は決して自ら望んだものではありませんでした。公暁の父・源頼家は、北条氏の策略により将軍職を追われ、伊豆に幽閉された後、1204年に暗殺されています。その時、公暁はわずか6歳でした。
実朝は子供ができなかったため、甥である公暁を猶子として扱っていました。猶子とは、養子のように扱うものの、正式な相続権は与えないという複雑な立場です。公暁からすれば、自分こそが源氏の正統な血を引く者であり、次期将軍になるべき人物だという自負があったはずです。
| 公暁の経歴 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 1200年頃 |
| 父 | 源頼家(第2代将軍) |
| 叔父 | 源実朝(第3代将軍) |
| 役職 | 鶴岡八幡宮別当 |
| 享年 | 20歳 |
| 育ての親 | 三浦義村(乳母の夫) |
将軍の座を奪われた絶望
公暁の運命を決定づけたのは、実朝が後鳥羽上皇の皇子を次期将軍として迎え入れようとした計画でした。この計画が実現すれば、公暁が将軍になる可能性は完全に消滅してしまいます。公暁は1000日間も鶴岡八幡宮にこもり、実朝を呪い殺そうとしたとも伝えられています。しかし、その呪詛は効果がありませんでした。
公暁は極度の焦りを感じていたはずです。後鳥羽上皇の皇子が鎌倉に到着する前に、何としても実朝を排除し、自らが将軍の座につかなければならない。そうした切迫した思いが、公暁を暗殺へと駆り立てたと考えられているのです。
源実朝の子孫と家系図について詳しく知りたい方は、源頼朝の子孫を現在まで完全網羅した記事もご覧ください。
暗殺当日に何が起こったのか?
1219年1月27日の夜、鶴岡八幡宮では右大臣拝賀の儀式が厳かに執り行われていました。しかし、その華やかな儀式の裏で、恐るべき暗殺計画が着々と進行していたのです。
石段に潜んでいた公暁
公暁は実朝が石段を降りてくる瞬間を、じっと待ち構えていました。伝承によれば、公暁は境内の大銀杏の木の陰に身を隠していたといわれています。この大銀杏は「隠れ銀杏」とも呼ばれ、長い間その場所に立っていましたが、2010年に強風で倒伏してしまいました。現在は若い芽が育ち始めています。
儀式が終わり、実朝が石段を降りてきた瞬間、公暁は雪の中から飛び出しました。「親の仇はかく討つぞ」という叫び声とともに、太刀が振り下ろされ、実朝の命は一瞬にして奪われたのです。
源仲章も巻き添えで殺害
実朝とともに殺害された源仲章は、本来その場にいるはずだった北条義時の代役でした。史料によれば、北条義時は当日、突然の体調不良を訴えて、中門で待機することになったといいます。このため、義時の代わりに仲章が実朝の隣で儀式に参加していたのです。
北条義時が難を逃れたことについては、後に様々な憶測を呼ぶことになります。あまりにタイミングが良すぎることから、義時が事前に暗殺計画を知っていたのではないかという疑惑も生まれたのです
実朝の首が持ち去られた謎
公暁は実朝を討ち取った後、その首を持って石段を駆け上がり、姿を消しました。公暁は食事をする時も、実朝の首を手放さなかったと伝えられています。その後、公暁は乳母の夫である三浦義村に使者を送り、「自分こそが次の征夷大将軍にふさわしい。その準備をせよ」と要求しました。
しかし、三浦義村は公暁の居場所を北条義時に密告します。義時の命を受けた三浦義村は、討伐隊を差し向けました。公暁は雪の中を三浦義村の館へ向かいましたが、途中で討伐隊と遭遇し、激しく抵抗しながらも最終的に討ち取られてしまいます。享年わずか20歳でした。
源実朝の墓と首塚はどこにあるのか?
源実朝の墓と首塚は、実は複数の場所に存在しています。これは、実朝の首が事件後に行方不明になったという謎と深く関係しているのです。
鎌倉・寿福寺の墓
鎌倉市にある寿福寺には、源実朝の供養塔があります。寿福寺は源氏ゆかりの寺院で、実朝の母である北条政子の墓もここにあります。しかし、ここに実朝の遺体が実際に埋葬されているかどうかは不明です。
秦野市の源実朝公御首塚
神奈川県秦野市の山間部には、源実朝公御首塚と呼ばれる場所があります。伝承によれば、三浦義村の家臣・武常晴が実朝の首を拾い上げたものの、義村には渡さず、波多野氏のいる秦野まで運んだといわれています。
武常晴の父は和田合戦で和田義盛側についたため、和田を裏切った三浦義村とは対抗関係にありました。この因縁から、武常晴は実朝の首を義村に渡すことを拒否し、波多野氏に託したとされているのです。現在、この首塚の近くには金剛寺が建てられ、毎年11月23日には実朝まつりが開催されています。
首が行方不明になった謎
史料『愚管抄』によれば、実朝の首は八幡宮の裏山の雪中から発見されたと記されています。しかし、一方で秦野市に運ばれたという伝承もあり、真相は今も謎に包まれたままです。公暁が討ち取られた時、実朝の首がどこにあったのか、そして誰がそれを回収したのか、確実な記録は残されていないのです。
| 場所 | 所在地 | 内容 |
|---|---|---|
| 寿福寺 | 神奈川県鎌倉市 | 供養塔がある。北条政子の墓も隣接 |
| 源実朝公御首塚 | 神奈川県秦野市 | 武常晴が首を運んだとされる伝承地 |
| 金剛寺 | 神奈川県秦野市 | 首塚近くの供養寺。毎年実朝まつり開催 |
北条政子の生涯と演説については、北条政子の演説の全文を現代語で解説した記事で詳しく紹介しています。
源実朝はなぜ暗殺されたのか?黒幕と事件の真相

公暁が実朝を殺した理由と動機
公暁が源実朝を暗殺した最大の理由は、征夷大将軍の地位を奪い取るためでした。しかし、その背景には複雑な事情と深い絶望が隠されていたのです。
征夷大将軍の地位を奪うため
公暁は源頼朝の孫であり、源氏の正統な血筋を引く人物でした。父の源頼家が第2代将軍だったことを考えれば、自分こそが次の将軍になるべきだという思いは、当然のものだったでしょう。実朝には子供ができず、公暁は実朝の猶子として扱われていました。これは、表向きは後継者候補であることを示していたのです。
しかし、実朝と北条義時には、公暁を次期将軍にする意思はありませんでした。公暁の父・源頼家は北条氏によって暗殺されています。もし公暁が将軍になれば、父の死の真相を知り、北条一族に復讐する可能性が高かったからです。
親王将軍計画への焦り
公暁の運命を決定づけたのは、実朝が後鳥羽上皇の皇子を次期将軍として迎え入れようとした計画でした。この「親王将軍計画」が実現すれば、公暁が将軍になる可能性は完全に消滅してしまいます。
公暁は極度の焦りを感じていたはずです。後鳥羽上皇の皇子が鎌倉に到着する前に、何としても実朝を排除しなければならない。そうした切迫した思いが、公暁を暗殺という手段へと駆り立てたと考えられています。
三浦義村への将軍就任要請
実朝を暗殺した直後、公暁は育ての親である三浦義村に使者を送っています。「今こそ私は征夷大将軍になるべきだ。その準備をせよ」という内容でした。この行動からも、公暁の目的が将軍の座を奪取することだったことが明確にわかります。
しかし、この要請は公暁の計画の甘さを示しています。実朝を殺しさえすれば、自分がすんなりと将軍になれると考えていたようですが、現実はそれほど単純ではありませんでした。三浦義村は公暁の居場所を北条義時に密告し、公暁は討伐されてしまうのです。
暗殺の黒幕は誰なのか?4つの説を徹底検証
源実朝暗殺事件については、公暁が実行犯であることは明らかですが、その背後に黒幕がいたのではないかという説が古くから唱えられてきました。ここでは、主要な4つの黒幕説を検証していきます。
北条義時黒幕説とその根拠
東京大学の本郷和人教授が唱える説で、北条義時が公暁を利用して実朝を暗殺したというものです。この説の根拠は以下の通りです。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
まず、実朝が後鳥羽上皇の言うことを何でも聞いてしまうようになっていたことが問題視されます。関東武士の独立を目指していた北条義時からすれば、実朝が朝廷の操り人形になることは危険でした。鎌倉幕府は、武士が公家にこき使われない独立した政権を目指して作られたはずです。
さらに、義時は本来、実朝の隣で儀式に参加するはずでした。しかし、当日突然の体調不良を訴えて中門に留まり、代わりに源仲章が実朝の隣にいて殺害されています。このタイミングの良さが、義時の事前関与を疑わせる要因となっているのです。
そして最も重要なのは、実朝が亡くなった結果として最も得をしたのが北条義時だったことです。実朝の死後、鎌倉幕府は100年以上にわたって北条氏によって支配されることになります。
ただし、この北条義時黒幕説には明確な証拠がありません。状況証拠から推測されているものの、決定的な裏付けとなる史料は発見されていないのです
三浦義村黒幕説
作家・永井路子氏の小説『炎環』で描かれた説で、三浦義村が公暁を操って実朝と北条義時を暗殺させ、鎌倉幕府を乗っ取ろうとしたというものです。
三浦義村は公暁の乳母の夫、つまり育ての親でした。公暁には三浦義村の息子・駒若丸が付き従っていたため、義村が公暁に「父の仇は実朝と義時である」と吹き込んだ可能性が指摘されています。
計画としては、公暁を利用して実朝と義時を暗殺し、公暁を将軍に就任させて、自分は執権になるというものだったと考えられます。しかし、義時が生き延びたため計画を中止し、公暁に責任を押し付けて始末したというわけです。
ただし、この説には重大な欠陥があります。それは北条政子の存在です。当時の鎌倉幕府で最大の実権を握っていたのは尼御台・北条政子でした。過激な性格の政子が、弟の義時と息子の実朝を暗殺した三浦義村と公暁を、すんなりと将軍と執権に就任させるはずがありません。この視点が欠けているため、三浦義村黒幕説の可能性は低いとされています。
後鳥羽上皇関与説
後鳥羽上皇が鎌倉幕府を潰す目的で、実朝暗殺を目論んだという説です。しかし、この説には決定的な矛盾があります。
実朝は後鳥羽上皇に心酔しており、上皇の命令を忠実に実行する従順な部下でした。さらに実朝は、後鳥羽上皇の皇子を次期将軍として迎え入れようとしていました。つまり、実朝は自らが支配する鎌倉幕府を、後鳥羽上皇に差し出そうとしていたのです。
後鳥羽上皇にとって、実朝ほど都合の良い人材はいませんでした。そのような忠実な部下を、わざわざ暗殺する理由がないのです。このため、後鳥羽上皇黒幕説は根拠が乏しいとされています。
公暁単独犯行説
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代考証を務める歴史学者・坂井孝一教授が主張する説で、黒幕などおらず、公暁が単独で実朝を暗殺したというものです。
この説によれば、公暁は後鳥羽上皇の皇子が次の将軍になる計画を知り、焦りを感じていました。皇子が鎌倉に到着する前に、自分が実朝から将軍の地位を奪い取る必要があったのです。
公暁の計画には「実朝さえ暗殺すれば、自分がすんなりと将軍になれる」という甘い見通しがありました。これは、公暁がいかに焦っていたか、そして自分こそが次の将軍にふさわしいと強く信じていたかを示しています。
しかし、実朝を暗殺するという狂気の行為を支持する者は誰もいませんでした。三浦義村も公暁を見捨て、北条義時に密告しました。公暁の計画は、あまりにも稚拙だったのです。
多くの歴史学者は、現在この公暁単独犯行説を最も有力視しています。黒幕の存在を示す確実な証拠がなく、公暁の行動には計画性の欠如が見られるためです
| 各説の根拠 | 問題点 |
|---|---|
| 北条義時説:義時が最も得をした・体調不良のタイミングが良すぎる 三浦義村説:育ての親として公暁を操れた・公暁を討伐したのも義村 後鳥羽上皇説:幕府との対立が深刻化していた 公暁単独説:将軍の座を奪う動機があった・計画の稚拙さ | 北条義時説:決定的な証拠がない 三浦義村説:北条政子の存在を無視している 後鳥羽上皇説:実朝を殺す理由がない 公暁単独説:計画があまりにも杜撰 |
実朝暗殺が歴史に与えた影響
源実朝の暗殺は、単なる一個人の死ではありませんでした。この事件は日本の歴史に極めて大きな影響を与え、その後の政治体制を根本から変えることになったのです。
源氏将軍の断絶
源実朝の死により、源氏将軍の血統はわずか3代で途絶えてしまいました。初代・源頼朝、2代・源頼家、3代・源実朝と続いた源氏の直系は、ここで完全に断絶したのです。
実朝には子供がおらず、兄の頼家の子である公暁も暗殺事件で討ち取られました。これにより、源頼朝の血を引く男系の子孫は完全に消滅することになります。鎌倉幕府を開いた源頼朝の直系が、たった3代で途絶えるという事態は、当時の人々に大きな衝撃を与えました。
承久の乱への発展
実朝が亡くなった2年後の1221年、承久の乱が勃発します。これは後鳥羽上皇が率いる朝廷軍と、北条義時が率いる鎌倉幕府軍の戦いでした。
実朝が生きていた頃、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の命令に忠実に従っていました。しかし、実朝を失った後の鎌倉幕府は、北条義時が実権を握り、後鳥羽上皇の意思を無視するようになります。後鳥羽上皇にはもはや幕府を制御できなくなったのです。
そのため後鳥羽上皇は、北条義時を排除して、自分の言うことを聞く人物を鎌倉幕府のトップに据えようと考えました。こうして承久の乱が起こったのです。
兵力差は歴然としていました。後鳥羽上皇軍が約2万に対し、北条義時軍は約19万という圧倒的な戦力でした。結果は鎌倉幕府軍の圧勝に終わり、後鳥羽上皇は隠岐へ流罪となりました。この勝利により、鎌倉幕府の権威は決定的なものとなったのです。
北条氏による幕府支配の確立
実朝の死後、鎌倉幕府の征夷大将軍には、藤原氏出身の九条頼経が迎えられました。しかし、これは名目上のことで、実際の権力は執権である北条義時が握っていました。
こうして鎌倉幕府は、1333年に滅亡するまでの約100年間、北条氏による執権政治が続くことになります。将軍は形だけの存在となり、執権北条氏が実質的な支配者として君臨したのです。
親王将軍・摂家将軍の時代へ
源氏将軍が断絶した後、鎌倉幕府の将軍職は大きく変化します。九条頼経のような摂家出身者が将軍となる「摂家将軍」の時代を経て、後に皇族出身者が将軍となる「親王将軍」の時代へと移行していきます。
承久の乱で朝廷をも制圧した鎌倉幕府は、天皇の選定にまで口を出すようになりました。武士が日本を支配する体制がこうして確立され、この体制は1868年の明治維新まで約650年間続くことになるのです。
暗殺に関わった人物たちのその後
源実朝暗殺事件に関わった人物たちは、その後どのような運命をたどったのでしょうか。それぞれの人物のその後を見ていきます。
公暁の最期
公暁は実朝を暗殺した数時間後、三浦義村の館へ向かう途中で討伐隊に遭遇し、激しく抵抗しましたが最終的に討ち取られました。享年わずか20歳という若さでした。
公暁は三浦義村に「自分を将軍にする準備をせよ」と要求していましたが、義村は公暁を裏切り、北条義時に密告しました。育ての親に見捨てられた公暁は、雪の中で孤独な最期を迎えることになったのです。
北条政子の悲しみ
源実朝の母である北条政子にとって、この事件は計り知れない悲しみをもたらしました。夫の源頼朝を失い、長男の源頼家を北条氏の策略で失い、そして最愛の次男・実朝までも暗殺によって失ったのです。
しかし、政子は悲しみに暮れているだけではありませんでした。実朝の死から2年後、承久の乱が勃発した際、政子は御家人たちを前に伝説の演説を行います。「皆の者、心を一つにして聞きなさい。これは最期の言葉です」という有名な演説により、動揺していた御家人たちの心を一つにまとめ上げ、鎌倉幕府の勝利に導いたのです。
北条義時の生涯と子孫については、北条義時の子孫を現在まで完全網羅した記事で詳しく解説しています。
北条義時の権力掌握
北条義時は実朝暗殺事件で危うく命拾いしました。その後、義時は執権として鎌倉幕府の実権を完全に掌握します。承久の乱では後鳥羽上皇を破り、武家政権の優位を決定的なものとしました。
義時の死後も、北条氏は執権として鎌倉幕府を支配し続けます。北条氏による執権政治は、1333年に鎌倉幕府が滅亡するまで続くことになるのです。
三浦義村の立ち回り
三浦義村は実朝暗殺事件で微妙な立場に置かれました。育て子である公暁が実朝を暗殺し、自分のところに助けを求めてきましたが、義村は公暁を見捨てて北条義時に密告しました。
その後、義村は北条氏の重臣として鎌倉幕府で重要な地位を占め続けます。義村は常に北条氏の側につくことで、自らの一族の安全と繁栄を守り抜いたのです。三浦氏はその後も御家人の有力者として存続していくことになります。
よくある質問
- 源実朝は何歳で亡くなったのですか?
-
源実朝は28歳で亡くなりました。1192年に生まれ、1219年1月27日に暗殺されています。わずか11歳で第3代将軍に就任してから、17年間将軍職にありました
- 実朝を殺した公暁はどうなりましたか?
-
公暁は実朝を暗殺した数時間後に討ち取られて死亡しました。享年20歳でした。三浦義村に助けを求めましたが、義村は公暁の居場所を北条義時に密告し、討伐隊が差し向けられました。公暁は雪の中を三浦義村の館へ向かう途中で討伐隊と遭遇し、激しく抵抗しながらも最終的に討ち取られたのです
- 北条義時はなぜ助かったのですか?
-
北条義時は当日、突然の体調不良を訴えて儀式の途中で中門に留まっていたため、暗殺を免れました。本来であれば義時が実朝の隣にいるはずでしたが、代わりに源仲章が実朝の隣で儀式に参加し、仲章が殺害されました。このタイミングの良さから、義時が事前に暗殺計画を知っていたのではないかという疑惑も生まれましたが、確証はありません
- 実朝の首は見つかったのですか?
-
実朝の首については複数の伝承があり、真相は不明です。史料『愚管抄』によれば、八幡宮の裏山の雪中から発見されたとされています。一方で、三浦義村の家臣・武常晴が首を拾い上げ、神奈川県秦野市まで運んだという伝承もあります。現在、秦野市には源実朝公御首塚があり、毎年11月23日に実朝まつりが開催されています
- 大銀杏と実朝暗殺の関係は?
-
鶴岡八幡宮にあった大銀杏の木は、公暁がその陰に隠れて実朝を待ち伏せしていたという伝承があり、「隠れ銀杏」とも呼ばれていました。この大銀杏は樹齢1000年ともいわれる巨木でしたが、2010年3月に強風で倒伏してしまいました。現在は若い芽が育ち始めています。ただし、実際に公暁がこの銀杏の陰に隠れていたかどうかは史実として確認されておらず、伝承の域を出ないものです
- 実朝暗殺後の鎌倉幕府はどうなりましたか?
-
実朝の死により源氏将軍の血統は断絶し、次の将軍には藤原氏出身の九条頼経が迎えられました。しかし実権は執権である北条義時が握り、以後100年以上にわたって北条氏による執権政治が続きます。実朝の死から2年後の1221年には承久の乱が勃発し、鎌倉幕府は後鳥羽上皇を破って朝廷をも制圧しました。これにより武士が日本を支配する体制が確立され、この体制は1868年の明治維新まで約650年間続くことになりました
源実朝暗殺事件の真相と歴史的意義
- 源実朝は1219年2月13日、鶴岡八幡宮の石段で甥の公暁によって暗殺された
- 暗殺の場所は鶴岡八幡宮で、右大臣拝賀の儀式を終えて退出する際に襲われた
- 死因は首を討たれたことで、享年28歳という若さだった
- 犯人の公暁は実朝の甥で、征夷大将軍の地位を奪うために暗殺を実行した
- 公暁は父・源頼家の仇討ちと称して実朝を襲撃した
- 当日は大雪が降り、約60センチも積もっていた
- 北条義時は体調不良で難を逃れ、代わりに源仲章が殺害された
- 実朝の首は行方不明となり、現在も真相は謎のまま
- 神奈川県秦野市には源実朝公御首塚があり、武常晴が首を運んだ伝承が残る
- 公暁は暗殺の数時間後に三浦義村の裏切りで討ち取られた
- 暗殺の黒幕として北条義時説、三浦義村説、後鳥羽上皇説があるが公暁単独犯行説が有力
- 実朝の死により源氏将軍はわずか3代で断絶した
- この事件の2年後に承久の乱が勃発し、鎌倉幕府が朝廷を制圧した
- 実朝暗殺後、鎌倉幕府は北条氏による執権政治が100年以上続いた
- この事件をきっかけに武士が日本を支配する体制が確立され、明治維新まで約650年間続いた

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