豊臣秀吉の子孫・末裔は、現在どこにいるのでしょうか?
芸能人としてタレントをやっているという噂もあるようです。
秀吉の子孫といえば、織田信長の姪である茶々(別名・淀殿)が産んだ子の子孫ということなのでしょうか?
秀吉の子孫について、くわしく解説いたします。
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- 豊臣秀吉の直系の子孫は、すでに断絶している
- 秀吉の子供や孫は、全員子孫を残せずに亡くなっている
- 日本の天皇陛下は、豊臣秀吉の姉の子孫にあたる
豊臣秀吉と茶々の子孫は現在、芸能人でタレントなのか?
豊臣秀吉の子孫が芸能人・タレントだという噂が、一部に流れているようです。
しかし実際には、豊臣秀吉の直系の子孫が、芸能人やタレントとして活動をしているという事実はないようです。
秀吉の子孫は芸能人ではありません。しかし、豊臣秀吉の姉の子孫は、とてつもない有名人です。
くわしく説明いたします。
まずは豊臣秀吉の子孫について解説いたします。
そもそも豊臣秀吉には、現代まで続く直系の子孫が存在しません。
なぜなら、死に絶えたからです。
秀吉は、幼少時に患った【おたふく風邪】によって、子供ができない身体になったといわれています。
後述しますが、秀吉の側室である茶々(別名・淀殿)が産んだ2人の息子も、実は淀殿が幼馴染の大野治長と不倫して産まれた隠し子だ、という噂が当時からありました。
現在、秀吉の直系の子孫はいません。
一人残らず、徳川家康によって、根絶やしされているのです。
豊臣家の簡単な家系図は、以下のとおりです。
粗末な家系図で申し訳ありません。
豊臣秀吉の【3人の息子】と【2人の孫】の末路
秀吉の直系の子孫は、秀吉の死後どうなったのでしょうか?
詳しく解説いたします。
秀吉の【3人の息子】の末路
秀吉の子供達は、2人が幼くして亡くなっており、最後に残ったひとり【豊臣秀頼】は、自害して亡くなっています。
豊臣秀吉には【3人の息子】がいました。
- 石松丸秀勝
- 豊臣鶴松
- 豊臣秀頼
の3人です。
側室の南殿が産んだという長子【石松丸秀勝】。
織田信長の姪・茶々が産んだ第一子【豊臣鶴松】。
茶々が産んだ第二子【豊臣秀頼】。
最初に生まれた石松丸秀勝は、秀吉の側室・南殿が産んだとされている子ですが、1576年に幼くして亡くなっています。
南殿は、他にも秀吉の娘を産んだという説がありますが、くわしいことは不明です。
織田信長の姪・茶々が産んだ最初の子・豊臣鶴松は、1589年に生まれて、1591年に亡くなっています。
鶴松が亡くなった2年後に生まれたのが、同じく茶々の息子である豊臣秀頼です。
豊臣秀頼は、1615年に起こった【大坂夏の陣】で、母親の茶々とともに自害して亡くなっています。
この豊臣秀頼の正室は、家康の孫で徳川秀忠の娘・千姫でした。
しかし二人のあいだに、子供は出来ませんでした。
つまり、千姫と豊臣秀頼の血を引く子孫は、存在しません。
ところが秀頼は、側室とのあいだに【2人の子】をもうけたとされています。(3人という説もある)
つまり、秀吉には【孫が2人いた】ということです。
秀吉の【2人の孫】の結末
秀吉の唯一の息子・豊臣秀頼が残した二人の子供は、一人は処刑され、一人は出家させられています。
秀頼は、二人の側室との間に、それぞれ子供をもうけています。
- 国松丸
- 奈阿姫
この2人の子は、母親が異なっています。
1615年の大坂夏の陣で、大坂城が落城したときに、2人は大坂城を脱出。
しかしその直後に、徳川軍に見つかって捕えられています。
兄の国松丸はその後、秀頼の正室・千姫の必死の助命嘆願も虚しく、京都の六条河原で斬首刑となり、わずか8歳で亡くなっています。
妹の奈阿姫は、千姫の助命嘆願で命を救われました。
その後、奈阿姫は千姫の養女となって出家し、天秀尼と呼ばれるようになりました。
奈阿姫は、鎌倉の東慶寺へ入れられて、縁切り寺・東慶寺を守り続けたとされています。
ちなみにこの東慶寺は、女優の戸田恵梨香さんや、俳優の大泉洋さんが出演した2015年の映画【駆込み女と駆出し男】の舞台となっています。
秀頼の子は3人いたという説もありますが、3人目の子とされる僧侶・求厭は、子供を残さず亡くなっています。
秀吉の孫・国松丸の生存説
秀吉の孫で、秀頼の子・国松が、実は秀吉に縁のある大名のもとで、生存していたという説があります。
国松は、真田信繁(別名・真田幸村)の息子・真田大助とともに薩摩(現在の鹿児島県)に逃れたのだとか。
その後、秀吉の正室【北政所】の兄で、豊後・日出藩の藩主である木下延俊の四男・延由と名乗ったというのです。(豊後は現在の大分県)
その木下延由は、父親とされていた木下延俊の死後、領地3万石のうち5千石を相続し、立石領の領主つまり旗本になりました。(旗本とは領地1万石未満で将軍に謁見できる身分のこと)
国松丸の子孫は、1923年の関東大震災で行方不明となった【ちか姫】を最後に途絶えています。
1968年、18代当主・木下俊さんは、口伝つまり口伝えで
【木下延由の正体は、豊臣秀頼の息子・国松である】
と、代々教えられてきたと、証言しています。
しかし、これは筆者の意見ですが、現実的に考えて、国松が生きているとは思えません。
木下家は、1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康に味方しています。
1614年の大坂冬の陣と、1615年の大坂夏の陣でも、木下家は徳川家康に味方して、豊臣家を敵としています。
おそらくですが、後世の子孫が
木下延俊は、豊臣秀吉の正室の兄であるにも関わらず、豊臣家の敵になった
という厳しい現実を和らげるために、国松生存説をかたりついだのではないでしょうか。
もちろん、これは何の証拠も根拠もない空論でしかありません。
ちなみに、島原の乱を起こした美少年・天草四郎時貞が、秀吉の孫にあたる豊臣秀綱であったとされていますが、こちらは可能性が限りなく低いといわれています。
→→→→→【豊臣秀頼の生存説と発見された遺体!天草四郎は秀頼の息子なの?】についてくわしくはこちら
千姫の子孫は現在も続いているのか?
千姫の子孫は、現在もつづいています。
余談ですが、千姫は秀頼の死後に再婚して、子孫を残しています。
その子孫が、徳川慶喜です。
徳川慶喜の直系子孫としては、すでに亡くなられた4代目・徳川慶朝さんの子供達がいます。
4代目当主の親戚である山岸美喜さんが、徳川慶喜家の5代目を継承しておられます。
つまり5代目・山岸さんも、千姫の子孫ということになります。
天皇陛下は、豊臣秀吉の血を引いている?
現在の天皇陛下は、豊臣秀吉の直系子孫ではありませんが、豊臣秀吉の姉の子孫です。
先ほど、「秀吉の子孫は芸能人ではないが、秀吉の姉の子孫は有名人です」と申しました。
その有名人とは、天皇陛下のことです。
秀吉の直系の子孫は途絶えましたが、秀吉の姉・日秀尼の子孫が、現代に続いています。
秀吉の姉・日秀尼の子孫は、実は現在の天皇陛下なのです。
天皇陛下は、秀吉の姉の血を引く子孫ということです。
どういうことかを解説いたします。
秀吉の姉・日秀尼には、2人の息子がいました。
- 豊臣秀次
- 羽柴秀勝
の2人です。
秀吉のあとを継いで関白となった豊臣秀次は、ご存知の通り、叔父である豊臣秀吉によって切腹させられています。
弟・羽柴秀勝は、朝鮮出兵で病死しています。
しかし秀勝は、織田信長の姪である【お江】とのあいだに、完子姫という一人娘をもうけています。
お江は秀勝の死後、徳川家康の息子で二代将軍となった徳川秀忠と再婚しています。
完子姫は、お江の姉・茶々(淀殿)に育てられています。
そして藤原道長の子孫にあたる【五摂家】の一つ【九条家】の九条幸家の妻となって、子孫を残しています。
大正天皇の皇后となられた九条節子様が、この九条家の出身なのです。
完子姫の子孫である九条節子様は、昭和天皇を出産しておられます。
つまり昭和天皇の子孫である現在の天皇陛下は、豊臣秀吉の姉の子孫にあたられるというわけです。
皇室には豊臣家に血が、現在も引き継がれているということなのです。
余談かもしれませんが、天皇陛下は、浅井長政とお市の方の子孫でもあります。
→→→→→【天皇陛下は、浅井長政とお市の方の子孫】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 豊臣秀吉の子孫がタレント・芸能人という事実はない
- 秀吉直系の子孫は、断絶している
- 秀吉の孫・国松の生存説があるが、おそらく真実ではない
- 秀吉の姉は、現在の皇室に続いているため、天皇陛下は秀吉の姉の子孫にあたられる
以上となります。
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