徳川家康の凄さを3つ解説!失敗と不運を乗り越えて天下人に!

今回のテーマは「徳川家康」です。
この記事では「徳川家康の凄さ」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「家康が、なぜ天下取りに成功したのか」が、カンタンに理解できます。
「徳川家康」は「他人の幸福を最も大切にした」からこそ、「天下取り」に成功したのです。
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この記事を短く言うと
1,「徳川家康」のすごいところ①
「徳川家康」はとても「我慢強い」人だった。そのため、数々の苦難を乗り越えて、最期には天下を取ることに成功した。
2,「家康」のすごいところ②
「家康」は、「織田信長」や「武田信玄」の失敗や、自分自身の失敗からも学び、同じ失敗を繰り返さないように、改善を繰り返していた
3,「家康」のすごいところ③
「家康」は「厭離穢土欣求浄土」というスローガンの通り、「他人の幸福」を最も大切なものとしていた。最後には「天下取り」に成功し、平和な時代を作り上げることに成功した。
目次
失敗と不運を乗り越えて天下人にのぼりつめた「徳川家康」!その「3つの凄いところ」とは?
「織田信長」「豊臣秀吉」に続き、最後に「天下」を取った「徳川家康」
その「すごいところ」は数限りなくたくさんあるのですが、特にすごいところを「3つ」だけピックアップしてみたいと思います。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」
家康のすごいところ3つをザッと申し上げると、以下の通りです。
- 「忍耐力」
- 「自分と他人の失敗から学び、改善する」
- 「他人の幸せを最優先とする」
徳川家康には、「織田信長」や「豊臣秀吉」に比べると、「ヒーロー」と呼ぶにはふさわしくない失敗がたくさんあります。
そのため、「信長・秀吉」よりも人気が劣ります。
しかし最期には、世界史上でも珍しいほど長期の「平和な時代」をつくりあげ、天下万民を幸福へと導いたのです。
「信長・秀吉・家康」たち「三英傑」の中でも、最も人類に貢献した人物なのではないでしょうか。
「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」の【年表】については、以下のリンク記事をどうぞ。
「徳川家康」の凄さ・その①「忍耐力」
「徳川家康」のすごいところといえば、「忍耐力」でしょう。
「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥(ホトトギス)」
そう歌われたように、家康はとても「我慢強い人」なのです。
「織田信長」との同盟によって「家康」は、強敵「武田信玄」からの盾として利用されてしまいました。
それにもかかわらず家康は、「信長との同盟締結」から「武田家滅亡」までの、実に20年もの間、最強「武田軍団」を防ぎ続けたのです。
その忍耐力は、並のものではありません。
それだけではありません。
【1582年】、「本能寺の変」で「織田信長」が亡くなると、家康は天下人「豊臣秀吉」の圧力におされて、臣従を余儀なくされます。
「家康」は、血と汗と涙で手に入れた「三河・遠江・駿河・甲斐・信濃」の5カ国を、秀吉に取り上げられてしまうのです。
代わりに与えられたのが、「後北条氏」の善政によって治められていた「関東」の未開の地でした。(北条氏の善政になついていた関東は、北條氏を滅ぼした家康にとって、とても治めにくい土地だった)
家康は、この未開の地を開拓し、ついには世界一の大都市「江戸」の下地をつくることに成功します。
「武田家の圧力」「秀吉の圧力」その他、数々の逆境にさらされた家康。
それでも自暴自棄になることなく、決して諦めることなく、最期には「天下取り」という最大の成功を手に入れているのです。
「本能寺の変」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「徳川家康」の凄さ・その②「自分と他人の失敗から学ぶ」
家康は、「自分」と「他人」の失敗から学び、それを活かすことに、とても優れていました。

三方ヶ原の戦いで敗北し逃げ帰った徳川家康肖像:徳川美術館所蔵、wikipediaより、パブリックドメイン
たとえば「本能寺の変」で、「織田信長」は嫡子「織田信忠」と一緒にいたため、そろって「明智光秀」に討ち果たされてしまいました。
もしも「織田信忠」が生きていたら、織田家が「豊臣秀吉」に乗っ取られて没落するようなことには、ならなかったはずです。
【1598年】、豊臣秀吉が死去すると、家康は一緒にいた後継者である「徳川秀忠」を、遠く「江戸」まで移動させています。
「秀吉」の死によって、混乱が起こるかもしれないと思った家康は、秀忠を安全な本拠地「江戸」へ避難させたのです。
もし万が一、「家康」が何かしらの理由で命を落としても、後継者である「秀忠」が生きていれば、徳川家は安泰だからです。
(実際に家康は、「前田利家」や「石田三成」によって、何度も命を狙われたという説がある。)
「武田信玄」の失敗からも、家康は貪欲に学んでいます。
信玄といえば、家康がもっとも長く苦しめられた宿敵です。
その「武田信玄」は【1573年】、天下取り目前で「病死」してしまうのです。
家康は、このとき「三方ヶ原の戦い」で大敗しているのですが、病死した信玄の二の舞にならないようにと気をつけたのか、「健康」にとても気を使っているのです。
「鷹狩」によって身体を動かし、「薬の調合」を趣味として健康に気を配り、「感染症」を予防するために遊女を遠ざけて「出産経験」のある女性を側室に選んだりしています。
他にもあります。
家康は「三方ヶ原の戦い」で大敗した自分の姿を、絵師に描かせて、「しかみ像」と呼ばれる絵を、後世にまで残しています。
この大敗で、家康は大便を漏らしながら逃げ帰ったと言われています。
大失敗を絶対に忘れないように、この「絵」を身近において忘れず、後の大成功に活かしたのでした。(一説によると、この「しかみ像」の絵は、後世に描かれたものともいわれている)
「徳川家康の正室・側室一覧」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「徳川家康の正室と側室一覧!妻達の家系図から「女好き」な性格と判明」の記事はコチラ
「武田信玄」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「徳川家康」の凄さ・その③「他人の幸せを最優先とする」
「最も多くの人間を喜ばせたものが、最も大きく栄える」
徳川家康といえば、江戸時代【263年】にも及ぶ「天下泰平」、つまり平和を実現した人物です。
「応仁の乱」から【123年】も続いた戦国時代に疲れ果てた全国民を、「家康」は「平和」によって癒やし、守ったと言って良いでしょう。
「平和によって最も多くの人間を喜ばせた徳川家康とその末裔が、最も大きく栄えた」と言って良いはずです。
家康は、「平和」を実現することを、何よりも大切にしていました。
「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」
この「厭離穢土欣求浄土」という言葉は、徳川家康が旗印とした言葉です。
「地獄のようなこの世を、極楽浄土に変えていこう」
というスローガンです。
家康はこの理想を実現したのです。
この世を「戦乱の地獄」から救い、平和な「極楽浄土」へと変えた。
家康は、「天下万民」の幸福を第一として考えたのです。
「織田信長」や「豊臣秀吉」は、外国への出兵を目論んでいました。
それに対して徳川家康は、平和をもっとも大切としたのです。
「他人(万民)の幸福を最も大切にした」
これこそが、家康のもっともすごいところなのではないでしょうか。
「徳川家康」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「徳川家康についてわかりやすく簡単に解説!そもそも何をした人なの?」の記事はコチラ
「応仁の乱」については、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「徳川家康」は「我慢強い」人だった。その忍耐力で、数々の苦難を乗り越えて、最期には天下を取ることに成功した。
2,「家康」は、「織田信長」や「武田信玄」の失敗や、自分自身の失敗からも学び、同じ失敗を繰り返さないように、改善を繰り返していた
3,「家康」は「厭離穢土欣求浄土」というスローガンの通り、「他人の幸福」を最も大切なものとしていた。最後には「天下取り」に成功し、平和な時代を作り上げることに成功した。
以上となります。
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ありがとうございました。
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