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松平信康(徳川信康)の子孫はあの悲劇のヒロインと結婚?子供たちのその後を解説

父・徳川家康の命令で切腹させられた松平(徳川)信康のぶやす

 

信康の子供は、その後も子孫を残しています

 

子孫は、大坂夏の陣で最愛の人を失った、あの【悲劇のヒロイン】と結婚していたのでした。


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この記事を短く言うと

・松平信康は、徳川家康の嫡男で、謀反の疑いにより切腹させられた

・信康には、織田信長の娘・五徳ごとく姫との間に、登久とく姫とくま姫という娘がいる

・信康の娘、登久姫は小笠原秀政へ。熊姫は本多忠政へ嫁ぎ、熊姫の息子・本多忠刻は、徳川秀忠の娘である千姫と再婚している


目次

松平信康まつだいらのぶやす(徳川信康)とは、いったい誰なの?

松平信康は、徳川家康の嫡男です。

 

そして父・家康によって処刑された、悲劇の人物としても知られています。

松平(徳川)信康
引用元ウィキペディアより

信康の母親は、戦国大名・今川義元の姪である瀬名姫(通称・築山殿)です。瀬名姫は築山という場所に住んでいたため、築山殿と呼ばれていました。

 

そして信康の妻は、織田信長の娘である五徳姫。

 

これまでの通説によれば、信康が亡くなった理由は、織田信長から宿敵・武田勝頼との内通と父・家康への謀反、つまりは裏切りを疑われたため、信長からの処刑命令を受けた父・家康によって切腹させられた・・・と考えられてきました。

 

しかし最近では、信康が守っていた城・三河国岡崎城の家臣団に担ぎ上げられて、浜松城主の家康と対立したため、家康に処分されたという説が有力になっているようです。

 

信康は、武田信玄が父・信虎を他国へ追放したように、家康を追放しようとしていたのではないか・・・と考えられています。(もしかすると追放ではなく、家康討伐も考えていたのかもしれません。)

 

徳川家を真っ二つにする火種となってしまった信康は、父・家康から切腹させられます。

 

ちなみにこの時、家康の妻であり信康の母親である築山殿つきやまどの瀬名姫せなひめ)も処刑されています

 

→→→→→【築山殿(瀬名姫)の最期】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【築山殿と信康が、処刑された理由をわかりやすく解説】についてくわしくはこちら

 


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松平信康の子供たちは、その後どうなったの?

信康には、2人の子供がいます。

 

信長の娘・五徳姫との間に生まれた登久とく姫とくま姫です。二人はその後、それぞれ小笠原おがさわら家と本多ほんだ家へ嫁いでいます。

 

2人の母の五徳姫は、信康の死後に父・織田信長に引き取られています。

 

そのため登久姫と熊姫は、祖父・家康と、家康の側室である西郡局にしのこおりのつぼねに育てられました。(西郡局の娘である督姫は、北条氏直の妻であり、のちに池田輝政と再婚。2023年の大河ドラマ【どうする家康】において、女優・北香那きたかなさんが西郡局を演じておられました)

 

長女の登久姫は、豊臣秀吉からの勧めに従い、武田信玄に敗北した信濃国の名門守護大名・小笠原家の当主・小笠原秀政と結婚。

 

彼女は子沢山で、六男二女に恵まれました。

 

しかし、32歳という若さで亡くなっています。

 

次女の熊姫はというと、徳川四天王の一人・本多忠勝の息子である本多忠政と結婚しています。

 

三男二女に恵まれ、50歳で亡くなるまで幸せな一生を送ったとのことです。

 

熊姫には、本多忠刻ほんだただときという息子がいました・・・。

 

この本多忠刻が相当なイケメンだったらしく、あの悲劇のヒロインに一目惚ひとめぼれをされることとなります。


徳川四天王・本多忠勝について、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

↓↓↓↓↓↓


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松平信康の子孫は、あの悲劇のヒロインと結婚していた

信康の孫が、千姫と結婚

徳川信康の孫で、本多忠勝の孫でもある武将・本多忠刻は、千姫という女性と結婚しています。

 

この本多忠刻・・・1615年の大坂夏の陣で、夫・豊臣秀頼を失った未亡人・千姫せんひめに一目惚れされます。

 

千姫とは、二代将軍・徳川秀忠の長女であり、徳川家康の孫娘にあたる人物です。

 

彼女は、豊臣秀吉の息子である豊臣秀頼の妻でしたが、大坂夏の陣によって、夫の秀頼が亡くなってしまい、若くして未亡人となった人物です。

 

彼女は夫・秀頼を、父である徳川秀忠と、祖父の徳川家康によって討ち取られてしまった悲劇のヒロインとして、現在でも語られています。

 

家康は、大阪夏の陣で孫・千姫を心配し

 

「千姫を大阪城から救出したものに、千姫を妻として与える」

 

と命令を出しました。

 

それにこたえたのが、猛将・坂崎直盛です。

 

坂崎直盛は、顔に大やけどしながらも千姫を炎上する大阪城から救出することに成功します。

 

しかし、顔が焼けてしまった坂崎直盛を、千姫は拒絶したのでした。

 

この時、千姫は本多忠刻を見かけて一目惚れしたといいます。

 

大阪夏の陣の翌年1616年に2人は結婚することになります。おそらく家康や秀忠が、千姫の幸せを願って、彼女の気持ちに配慮したのでしょう。

 

坂崎直盛はというと、千姫と結婚できなかったことに激怒。千姫を奪い取ろうと計画をたてましたが、未然に発覚して家臣により殺害されました・・・。

 

千姫は、従姉妹いとこでありおしゅうとさんでもある熊姫から、とても大切にされたらしく、関係は良好だったといいます。

 

その証拠に、熊姫が亡くなった時、千姫の悲しみ方は、かなりのものだったようです。


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松平信康の子孫は、その後どうなったの?

登久姫が産んだ子供たちは、小笠原家を明治まで存続しています。

 

登久姫が嫁いだおかげで、有力な徳川家の親戚大名となった小笠原家は、子供たちが

 

  • 豊前小倉藩
  • 播磨安志藩
  • 千束藩
  • 唐津藩

 

などの領地を多数受け継ぎ、明治まで存続し、現在まで子孫を続けています。

 

本家の豊前小倉藩の小笠原家は伯爵、その他の分家は子爵の爵位をもらっています。

 

最後の将軍・徳川慶喜とくがわよしのぶは、松平信康の子孫だった

大政奉還を実現し、江戸幕府の最後の将軍となった15代将軍・徳川慶喜は、女系ではあるものの松平信康の子孫にあたります。

徳川慶喜
『引用元ウィキペディアより』

信康の娘である熊姫、その熊姫の息子・本田忠刻が、千姫が結婚したことは先ほど申しました通りです。

 

その本多忠刻と千姫のあいだに生まれた娘・勝姫の子孫が、徳川慶喜なのです。

 

つまり徳川幕府を終わらせた最後の将軍・徳川慶喜は、松平信康の血を引き、同時に千姫の血を引く人物でもあるのです。

 

そして徳川慶喜は、当然ですが信康の母親である築山殿(瀬名姫)の子孫でもあります。

 

築山殿や信康の血を引く子孫が、徳川家康がつくりあげた徳川幕府を終わらせるとは、皮肉な話です。

 

→→→→→【徳川慶喜の子孫】についてくわしくはこちら

 


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・松平信康は、徳川家康の嫡男で、家康の命令で切腹させられた武将

・信康の娘・登久姫と熊姫は、それぞれ小笠原秀政、本多忠政に嫁いでいる

・登久姫の子孫は、明治まで存続している

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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