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『藤原道長』が行った『摂関政治(せっかんせいじ)』とはどういうものなのか、説明できる人は少ないのではないでしょうか?
実は私も大学に入るまでは、「藤原道長」や「摂関政治」について、日本史の教科書に記されていることしか知りませんでした。
「摂関政治」とは、「律令制」で天皇が政治権力を持つことにより国を統治していた政治を、藤原氏が「摂政・関白」となることで天皇に代わって政治をおこなう政治形態です。
平安時代に「藤原道長」が「摂関政治」を確立させ、その子「頼道」の代まで興隆を極めました。
この記事を読んで「そうだったのか、摂関政治!」と、スッキリ理解してくださいね。
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この記事を短く言うと
- 藤原道長は「摂関政治」を行って権力の頂点を極めた。「摂関政治」とは「摂政」「関白」という役職について政治を行う政治手法
- 道長は娘4人を天皇や東宮に嫁がせて、誕生した孫を天皇にすえた。天皇の外祖父として、藤原道長は絶対的な権力を手に入れた
- 院政とは、天皇が後継者に天皇の位を譲り、自分は上皇として天皇に代わり政治を行う政治手法。「白河天皇」はこの「院政」で権力を手に入れた
藤原道長の政治のやり方とは?「摂関政治」とは何か
「摂関政治」とは何か?「摂政」と「関白」について解説
『藤原道長』が政治家として頂点を極めることができたのは、「摂関政治(せっかんせいじ)」を行ったからです。
「律令制」・・・すなわち「律令(りつりょう)」という法律によって世を治めるという「法律で世の中を治める政治体制」の時代には、天皇が政治をおこなう権力を持つことで国を統治していました。
摂関政治は、平安時代に行われた政治形態のことで、『天皇に代わって藤原氏が「摂政・関白」という役職につき、実質的な政治の実行者』となった状態を言います。
この「摂関政治」という呼び名は、「摂政」と「関白」という、2つの役職の頭文字を一字ずつとって名付けられたものです。
「摂政(せっしょう)」とは
天皇が幼少、女性、病弱であるなどの理由で、政務を行うことができない場合に、代わりに政治を行う役職です。
日本史上初の「摂政」になったのは、飛鳥時代「推古天皇」即位の時に摂政に就任した「厩戸皇子(聖徳太子)」です。
それ以降、「摂政」はずっと皇族が務めていましたが、平安時代に「藤原良房」が初の皇族ではない「摂政」となりました。
その後は代々「藤原北家」から「摂政」と「関白」が輩出されるようになります。
「関白(かんぱく)」とは
摂政とは異なり、成人した天皇を補佐する役職で、政治の最終的な決裁権は「天皇」にあります。
関白は摂政とは違います。
関白は、天皇と合議して政治を行うことはあっても、摂政のように「天皇の代わり」として政治を司ることはありません。
「摂関政治」の始まり
摂関政治の始まりは、「中臣鎌足」の子「藤原不比等」の時代までさかのぼります。
藤原氏は「藤原不比等」の時代から、天皇家の外戚となることで、政治中枢に深く関わってきました。
「不比等」は娘の宮子を「文武天皇」へ。同じく娘の「安宿媛(後の光明皇后)」を「聖武天皇」へと嫁がせています。
天皇に自分の娘を嫁がせるのは、娘に自分の血を引いた子を産ませ、その子供を次代の天皇にするためです。
その後「藤原不比等」から数えて五代目の子孫「藤原良房」の時代に、「文徳天皇」が即位しました。ところが「文徳天皇」は病弱で、ほとんど朝廷の会議に出席できませんでした。
これにより天皇不在の状態で、公卿だけによる国政の会議が行われるのが常態化してしまったのです。
坂上田村麻呂による奥羽「蝦夷討伐」が終了し、国内の懸案事項が片付いたことも後押しし、「文徳天皇」の即位と朝廷会議での不在は「天皇が成人前の子供でも構わない」という先例をうみました。これ以後、幼い天皇が誕生することとなるのです。
「文徳天皇」が崩御した後、「藤原良房」は自分の娘「明子」と文徳天皇の子である「清和天皇」を、わずか9歳で即位させます。こののち「藤原良房」は、皇族以外で初の「摂政」となります。
天皇の外祖父となった藤原良房によって、藤原氏の「摂関政治」が始まったのです。
「摂関政治」の隆盛と衰退
藤原氏が政治の中枢から追いやられた時期もありましたが、天皇の外戚となって政治の実権を握る手法は、「藤原良房」から脈々と「藤原北家」へ受け継がれていきます。
藤原道長の父「藤原兼家」が「藤原氏長者(藤原氏のトップ)」となった頃には、藤原北家で「摂政・関白」位を独占する状態になっていました。父「藤原兼家」が作った「摂政関白独占」の状態を、五男である藤原道長が受け継ぎ、さらに発展させたのです。
道長の政敵であった叔父が伝染病で亡くなり、「一条天皇」の母である藤原道長の姉「東三条院詮子」の後押しにより道長は、ライバルであった甥「伊周」の追い落としに成功。ライバルの排除に成功した藤原道長は、「藤原氏長者」となり、出世を果たしました。
道長は娘4人を次々と天皇や東宮に嫁がせ、「藤原良房」以来158年ぶりに「天皇の外祖父(母方の祖父)」となります。
「後一条天皇」の外祖父として、道長が最高位「太政大臣」にまで上りつめたこの頃が、「摂関政治」の頂点だったと言えるでしょう。
摂関政治を「道長」は約30年、その子「頼道」は50年にわたって維持し続けたのです。
しかし道長の血を引いた天皇「後冷泉天皇」は子供に恵まれませんでした。
道長の息子「頼道」もまた父と同じように、一人娘「寛子」を天皇の妃にしました。
しかし「寛子」は子供に恵まれず、天皇の外祖父となる「頼道」の野望は叶わなかったのです。
「後冷泉天皇」の崩御後、藤原氏を外戚にもたない「後三条天皇」が即位。「頼道」は関白を辞任して、宇治に隠居。その後【83歳】で亡くなります。
道長によって隆盛を極めた藤原北家の「摂関政治」は、道長の息子「頼道」の時代にその終焉が始まったのです。
藤原道長が権力を握った方法は「政略結婚」
「藤原道長」は娘4人を天皇と東宮(のち天皇に即位するお方・皇太子)の妃とすることで、政治中枢に深く食い込み、権力をほしいままにしました。
このように家長や一族の利益のため、当人同士の意志を無視して婚姻させることを、「政略結婚」と言います。
道長は何故、4人の娘を次々と天皇や皇太子へ嫁がせたのでしょう?
道長は、「一条天皇」に長女「彰子」を嫁がせて2人の男子(親王)産ませています。その子供の一人が、後の「後一条天皇」です。
さらに「一条天皇」の従兄弟である「三条天皇」に次女「妍子」を嫁がせました。
医療水準が高くなった現代では、10歳までに亡くなる子供はほとんどいません。
しかし道長の時代、若くして亡くなる子供は相当多かったはずです。
そのため長女「彰子」の生んだ親王が早くに亡くなってしまう可能性を考えた道長は、それまで不仲だった「三条天皇」にも娘「研子」を嫁がせて、自分の血を引いた子供を産ませようとしたのです。
同じ考えから、三女「威子」を「後一条天皇」に嫁がせ、四女「嬉子」を「御朱雀天皇」に嫁がせています。(後一条天皇と威子の婚姻は、甥と叔母の結婚だった。威子の姉「彰子」は「後一条天皇」の母親)
しかし4人も嫁がせても、男子が生まれたのは、長女「彰子」に2人と四女「嬉子」に1人だけでした。
道長は、自分の血を引いた皇子には「3人」しか恵まれなかったのです。
四女「嬉子」の生んだ「後冷泉天皇」が即位したのは、道長が亡くなって18年後のことでした。
道長が直接、自分の血を引いた子供の天皇即位を見ることができたのは、長女「彰子」の息子「後一条天皇」の時だけだったのです。
彰子の生んだ子「後一条天皇」が即位し、道長が天皇の外祖父となったのが摂関政治の頂点だったと言えます。
藤原頼道の娘「寛子」を妃とした「後冷泉天皇」は子供に恵まれませんでした。この「後冷泉天皇」が、道長の血を引いた最後の天皇となったのです。
頼道は「寛子」以外に女子に恵まれなかったため、道長のように何人もの娘を天皇の妃とすることができず、唯一の娘「寛子」も子供に恵まれませんでした。
藤原頼道の血を引いた子供が天皇位につけなかったことは、摂関政治の衰退へとつながります。
それはやがて別の政治形態「院政(いんせい)」が起こることにつながっていくのです。
「摂関政治」の終焉!「摂関政治」を終わらせた「院政」とは?
「院政」とは何か?「天皇」を「上皇」として操る政治手法
【1068年】に、藤原道長の血を引いた「後冷泉天皇」が崩御した後、道長の家系「藤原北家」を外戚に持たない「後三条天皇」が即位しました。
道長の子「藤原頼道」は藤原北家の影響力が低下することを恐れ、「後三条天皇」が即位しないよう、ずっと妨害していました。しかし後冷泉天皇に嫁がせた一人娘の「寛子」は子供に恵まれず、止む無く即位を受け入れます。
頼道と弟「教道」から迫害を受けていた後三条天皇は、兄「藤原頼道」の後に関白となった弟「藤原教道」の意見を聞き入れず、自分で政治を執り行いました。
こうして「後三条天皇」の御代にいったん「摂関政治」は衰退します。
後三条天皇は、「荘園整理令」を発令し、摂関家である藤原北家の経済基盤に打撃を与えます。
即位から4年で「白河天皇」に譲位。自らは太上天皇(上皇)として政治を行おうとしましたが、その直後に40歳で崩御したため、その野望は叶いませんでした。
天皇が後継者に譲位し、太上天皇となって新しい天皇の御代でも政治を執り行うことを「院政」と言います。
後三条天皇は、自らの意志で「院政」を行おうとした最初の天皇でした。
その後「白河天皇」の御代で、道長の孫で藤原頼道の子「師実」が摂政に、その師実の子「師通」が関白となります。このとき一度は衰退しかけた藤原北家による「摂関政治」が息を吹き返します。
しかし優秀だった「師通」が急病で亡くなった後、藤原北家は「摂政・関白」を誰が務めるかで争うようになってしまい、自分たちで適任者を選べる状況ではなくなってしまいました。
この状況に「白河法皇」が介入。これにより「摂政・関白」の任命に、上皇の意向が反映されるようになります。
師通の子「忠実」は藤原北家を継ぎ、「堀河天皇」の関白となりますが、まだ若いうえに政治経験に乏しい人でした。そのため「忠実」の政治家としての能力も高いと言えず、関白としては頼りない人でした。
藤原忠実が政治を任せるに足りない人物だったため、「堀河天皇」は父「白河法皇」の政治力に頼らざるを得なくなったのです。
こうして「白河法皇」の権力が強くなるにつれ、摂政・関白の権力は失われていき、摂関政治は衰退していきました。
病弱だった息子「堀河天皇」の在位中から院政を始めた白河法皇は、堀河天皇が若くして崩御した後は、孫の「鳥羽天皇」、曾孫の「崇徳天皇」の在位中に亘って43年間、院政を続けたのです。
権力者「白河法皇」の隠し子か?「崇徳天皇」と「平清盛」
余談ですが「白河天皇」は「天下三不如意(てんかさんふにょい)」で有名なお方です。
「鴨川の水、双六のサイコロ、山法師(延暦寺)。この3つはおもうがままにならない」
この3つ以外は思いのままだ・・・・・という意味で解釈されることが多いですが、実際には意味が異なるようです。
「『鴨川の水という天災』のように、または『すごろくのサイコロ』のように、『延暦寺の山法師』は思いのままにならないものだ」
というのが、この「天下三不如意」の真の意味なのです。
どんな権力者であっても「川の水」と「サイコロ」なんて思いのままにはなりません。
それらと同じくらい「山法師」に手を焼いていた・・・と言いたかったのです。
院政で権力を握った「白河法皇」ですらも、「強訴」という強硬手段をつかって朝廷に譲歩を迫る「延暦寺」は思うままにならない・・・ということですね。
延暦寺は、「白河法皇」の時代から約500年後「織田信長」によって「比叡山焼き討ち」をされるまで、政治に介入を続け、絶大な権力をにぎり続けました。
「白河法皇」は、どうやらかなり好き放題やった人物だったようです。
自分の孫「鳥羽天皇」の妻「藤原璋子」と関係をもち、のちの「崇徳天皇」を産ませたり。(あくまでも噂です。実際には崇徳天皇は鳥羽天皇の子かもしれません。)。
白河法皇が関係をもった女性を部下であった「平忠盛」へと譲ったり・・・。
この「崇徳天皇」は、父「鳥羽天皇」から「叔父子」と呼ばれてさげすまれました。(崇徳天皇が白河法皇の子ならば、崇徳天皇は鳥羽天皇の叔父にあたる。にもかかわらず鳥羽天皇の子として誕生したため「叔父子」と呼ばれた)
さげすまれた「崇徳天皇」は後に、「平治の乱」で弟「後白河天皇」と戦って敗北。流罪となった挙げ句に、日本最強の怨霊となってしまいます。(「平治の乱」といえば猛将「源為朝」が活躍した戦)
白河法皇の子ではないか・・・と噂された人物に「平忠盛」の子「平清盛」がいます。
実際には「清盛」は、白河法皇の子ではなく「平忠盛」の子でしょう。
しかし、政治家として「したたか」だった平清盛は、自ら「平清盛は白河法皇の隠し子である」という噂を広め、出世街道を駆け上がります。
「平家にあらずんば人にあらず」
(一門にあらざるものは、皆人非人なり)
という言葉が出るほど、清盛ひきいる平家は栄えることとなったのです。
「白河法皇の隠し子」という噂を利用した平清盛・・・。つまり清盛が築き上げた「平家の栄華」は、元をたどると「白河法皇の権力」が源流と言えるのです。
ちなみにこの言葉を口にしたのは、平清盛の妻の弟「平時忠」です。
『摂関政治』について「ひとこと」言いたい!
道長の時代、男性は女性の家に通って結婚生活を営み、生まれた子供は女性の実家で養育していました。
天皇に嫁いだ妃も例外ではなく、妊娠すると実家に戻り、そこで子を産み育てたのです。
道長の娘も同様に、生まれた子供を父の屋敷で生み育てました。
生まれた子は、祖父である道長に懐いたでしょうし、道長も手懐けたことでしょう。
こうして自分の意のままになる「未来の天皇」を育てていくのが道長の政治手法だったのです。
天皇家の外戚となることで権力中枢に深く食い込む手法は、飛鳥時代に「蘇我氏」もおこなっていました。
しかし藤原氏の方法は蘇我氏のものより、もっと「したたか」だったと言えるでしょう。
なぜなら藤原氏の栄華は、後世の「徳川家」の栄華より長いからです。
中臣鎌足の息子「藤原不比等」の生きた時代から藤原道長の生きた時代までは、「約300年」もの隔たりがあります。
「徳川家康」が開いた徳川幕府は264年続きましたが、それに対して藤原氏が天皇家の外戚となることで政治中枢に深く食い込み続けた年月は、徳川幕府よりも長い年月だったのですから。
藤原氏は蘇我氏よりもはるかにしたたかだったからこそ、これだけ長く政治中枢に食い込み続けたのだと私は思います。
しかし藤原道長が行った政略結婚は、「娘が産んだ子供と自分の娘を結婚させる」、「叔母と甥が結婚する」という近親結婚でした。
結果として、子供に恵まれなかったり、生まれた子供が病弱だったり、ということが続きます。
近親結婚による虚弱体質の影響か、道長の孫「後一条天皇」は長生きできず、「後冷泉天皇」も子供に恵まれませんでした。
不自然な結婚で一時的に栄華を極めても、道長の野望は永続できなかったのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 藤原道長は「摂関政治」で権力の頂点を極めた。「摂関政治」とは「摂政」「関白」という役職について政治を行う政治手法。「摂政」と「関白」とは、天皇の代わりに政治を行う要職
- 道長は娘たちを天皇や東宮に嫁がせて、誕生した孫を天皇にすえた。そうすることで自らは「天皇の外祖父」として、権力を手に入れた
- 「院政」とは、天皇が後継者に位を譲り、自分は上皇として天皇に代わり政治を行う手法。「白河天皇」はこの「院政」で絶対的な権力を手に入れた
この記事を短くまとめると、以下の通り
「摂関政治(せっかんせいじ)」は、平安時代に行われた政治形態です。
「律令制」では天皇が権力を握り政治をつかさどっていたのに対し、「摂関政治」では、藤原北家が「摂政・関白」の位を独占。藤原氏が天皇に代わって実質的な為政者となり政治をつかさどったのです。
「藤原良房」が始めた摂関政治を、「藤原道長」はさらに発展させて、確立させました。
その手法は娘4人を天皇・東宮(皇太子・のちに天皇となる予定の皇子)に嫁がせ、自分の血を引いた子供を産ませ、天皇にする政略結婚でした。
2人の孫を天皇に即位させることに成功した道長でしたが、近親結婚の影響なのか、1人は長生きできず、1人は子供に恵まれなかったのです。
一時的に栄華を極めた「摂関政治」は、道長の子「頼道」亡き後、徐々に衰退し始め、「白河天皇」が太上天皇(上皇)となって「院政」を始めた頃、終焉を迎えたのです。
以上となります。
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