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「藤原道長」というと、彼がつくった有名な和歌を思い浮かべることはあっても、「道長」がいったい何をした人なのか、説明できる人は少ないのではないでしょうか?
実は私も大学に入るまで「藤原道長」が何をした人なのか、よく知りませんでした。
藤原道長は「4人の娘を天皇の妃にして権力を掌握し『摂関政治(せっかんせいじ)』を確立させた人物」です。
この記事では「藤原道長」についてよく知らない方のために、その人生と残した功績について、詳しくわかりやすく解説いたします。
これを読んで「藤原道長って、こういう人だったのか」とスッキリ理解してくださいね。
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この記事を短く言うと
- 藤原道長は9~10世紀(平安時代)の政治家で、「摂関政治」」によって絶大な権力を築き上げた人物。
- 道長は4人の娘たちを三代の天皇や東宮(次期天皇候補)へ嫁がせ、誕生した孫を天皇に即位させることで、その「外祖父」として権力を握った
- 摂関政治は藤原道長の死後に徐々に衰退していった。最期は後冷泉天皇が子供に恵まれなかった事により、道長の摂関政治体制は終焉した
藤原道長の生涯!年表で簡単に解説!
「藤原道長(ふじわら みちなが)」とは、いったいどんな人生を歩んだ人だったのでしょう?
その生涯を、年表で見てみましょう。
966年(藤原道長の年齢・・・0歳)
藤原道長、摂政関白太政大臣「藤原兼家」の五男(あるいは四男)として生まれる
980年(14歳)
元服(成人)し、従五位下に叙階される
986年(20歳)
父「兼家」と三兄「道兼」が、「花山天皇」を謀略で退位させる(寛和の変)
「一条天皇」即位
988年(22歳)
道長、権中納言に抜擢される
長女「彰子(のちの一条天皇中宮)」、土御門邸で生まれる
990年(24歳)
父「兼家」死去、長兄「道隆」がその後を継ぎ、関白になる
992年(26歳)
道長、権大納言に叙階
994年(28歳)
長兄「道隆」の子「伊周」、内大臣に任じられる
995年(29歳)
都に赤もがさ(はしか)大流行、公卿も大勢亡くなる
長兄「道隆」、大酒がたたり死去。三兄「道兼」が関白となるが数日で死去
道長「藤原氏長者」となり、右大臣に任じられる
996年(30歳)
甥「伊周」と弟「隆家」、「花山法皇」に矢を射かける事件を起こし失脚(長徳の変)
一条天皇中宮「定子(伊周と隆家の妹)」、連帯責任で出家
道長、左大臣に任じられる
999年(33歳)
道長が自らの長女「彰子」を「一条天皇」に女御(にょうご)として入内させる
祝いの宴の席で返歌を「藤原実資」に固辞される
1000年(34歳)
道長、娘「彰子」を中宮に、姪「定子」を皇后にする「一帝二后」を強行
1008年(42歳)
「彰子」、入内後10年目でようやく皇子出産
1011年(45歳)
「一条天皇」が「三条天皇」に譲位後出家、崩御
1012年(46歳)
「三条天皇」に入内させた「妍子」を中宮にする
「三条天皇」、「藤原済時」の娘「?子」を皇后とするが、「道長」の嫌がらせで立后儀式を公卿達が欠席する事態が発生。「実資」が急遽参内し儀式を執り行う
「三条天皇」と「道長」の関係が悪化
1014年(48歳)
道長、眼病を発症した「三条天皇」に「後一条天皇」への譲位を迫る
1015歳(49歳)
道長の圧力に屈した「三条天皇」によって、道長が「準摂政」に任じられる
1016年(50歳)
「三条天皇」譲位、「後一条天皇」即位
1017年(51歳)
摂政と藤原氏長者を息子「頼通」に譲る
道長、太政大臣に任じられるが「後一条天皇」元服後に辞する
1018年(52歳)
三女「威子」を「後一条天皇」に入内させ、中宮とする
「実資」、「道長」を「一家三立后、未曽有なり」と日記に記す
道長、「威子」の立后の宴で有名な和歌「望月の歌」を詠む(「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることを なしと思へば」)
1019年(53歳)
道長、病のため出家、「行観」と名を改める
1020年(54歳)
末娘「嬉子」を東宮「敦良親王」に嫁がせる
1028年(62歳)
「藤原道長」病没、享年62歳
藤原道長は、太政大臣の五男として生まれました。
長男ではなかったものの、宮中で大出世を果たした人だったのです。
藤原道長について詳しく知りたい!何をした人なの?
「藤原道長」の功績とは?道長は「摂関政治」で権力を握った人物
「藤原道長」は平安時代(794~1185年)の貴族政治家であり、「摂関政治」を確立させた人です。
「摂関政治」とは平安時代に藤原北家一族が、「摂政・関白・内覧」などの内裏の要職を独占し、政治の実権を代々独占し続けた政治のことを言います。
道長はその藤原北家一族の太政大臣「藤原兼家」の子として生まれましたが、五男だったため、出世は望めない立場でした。
しかも長兄「道隆」は、自分の子「伊周(これちか)」を可愛がってスピード出世させ、8歳年上の叔父である「道長」の身分を超えて内大臣にしてしまいます。
ただし、長兄「道隆」の「伊周」に対する過度な引き立ては、「一条天皇」の母「東三条院詮子(道長の姉)」や、他の藤原北家一族の反感を買うことになりました。
特に「東三条院詮子」は弟「藤原道長」を可愛がっており、甥「伊周」のことは、それほどよく思っていなかったのです。
道長が30歳の頃、「はしか」の流行で公卿が次々と亡くなり、政治に携わる人が減ってしまいました。
その「はしか」大流行の最中、関白だった長兄「道隆」が亡くなり、後を継いで関白となった三兄「道兼」も就任後わずか数日で亡くなります。
この時、姉「東三条院詮子」の後押しもあり、藤原氏の長である「藤原氏長者」となった「藤原道長」は、右大臣に任じられました。
「一条天皇」は中宮「定子」を寵愛し、その兄である「伊周」を重んじようとしましたが、母「東三条院詮子」に押されたことにより「一条天皇」は「道長」を登用したのです。
その後、「伊周」が「花山法皇」に弓を射かけるという事件が発生。
当時、貴族同士の小競り合いは珍しいことではありませんでしたが、退位した元天皇への事件は政治上の問題に発展。
道長はこの事件が宮中の噂になるのを待ち、「一条天皇」を動かして「伊周」を失脚させ、それをきっかけに一気に政治の表舞台に躍り出ることに成功したのです。
五男として生まれた道長でしたが、姉の後ろ盾と好機にめぐまれたことで、権力の階段を駆け上がりました。
娘を天皇に嫁がせ外戚となることで政治権力を掌握。遂には公卿の就く位の中で一番高い「太政大臣(だじょうだいじん)」にまで上り詰めたのです。
とはいえ太政大臣とは、道長の孫である「後一条天皇」の元服の時に冠を被せる役目を果たすための名誉職でした。
道長の歌として有名な和歌「望月の歌」
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることを なしと思へば」
という和歌は、栄華の絶頂の、娘「威子」が孫「後一条天皇」の中宮となった日の祝いの席で詠んだものです。(「威子」と「後一条天皇」は、「叔母」と「甥」の関係だったが、当時はそういった親戚同士の結婚もめずらしくなかった)
藤原道長の最期!死因は「糖尿病」?
位人臣を極め、この世の栄華を極めた「道長」でしたが、病には勝てませんでした。
「藤原実資」の日記には
「道長は喉がかわき、水をたくさん飲みたがり、ひどく痩せ、目が悪くなった」
と書かれています。おそらく「糖尿病」だったのだろうといわれています。糖尿病に「眼病」の合併症を患っていたと考えられます。
亡くなる数日前、背中にできものができた道長は、激痛に喘ぎながら【62歳】の生涯を閉じました。
娘を天皇に次々と嫁がせ、権力を掌握していった!
平安時代の「貴族婚」を利用した、道長流の権力掌握術
「藤原道長」は、娘4人を3代に亘る天皇と東宮(道長死去後、天皇に即位)に嫁がせ、「天皇の外戚(母方の親戚)」となることで権力を掌握していきました。
何故「天皇の外戚」となることで権力を掌握できるのかというと、当時の「子供の育て方」にヒントがあります。
道長の時代、貴族は通い婚で「男性は女性の実家に通って結婚生活を営み、生まれた子供はそのまま母方で養育」していました。
御所に入内した天皇の妃たちは、皇后・中宮といえども、御所では出産しなかったのです。
妊娠すると御所を退出。実家に帰って子供を産み、生まれた後もしばらく実家で過ごしていました。
館の主である父親(生まれた子の祖父)は、娘の部屋に見舞いに行き、生まれた子供を抱き上げてあやすこともあったでしょう。
もちろん御所に娘が戻ってからも、実の父親ですから、娘と孫に面会するのは容易ですし、養育の費用も父親が出していたのです。
そういった環境なら、父親は実家で娘が生んだ孫を、自分に懐くように容易に手懐けることができますよね。
道長もそのように考え、実行しました。
藤原道長は娘を天皇に嫁がせることで、自分の血を引いた孫を生ませ、その子を自分の言うことを聞くように手懐けます。
そして自分の意のままになる子を天皇位につけることで、「天皇の外戚」として権力をほしいままにしようと考えたのです。
4人の娘「彰子」「妍子」「威子」「嬉子」を3代に亘る天皇と東宮に中宮としておくりこみ、「彰子」の産んだ「後一条天皇」が天皇として即位した時、その野望は達成されました。
3人の娘を天皇の中宮にした道長が、この世の春を謳歌したこの頃が、「摂関政治」の頂点だったと言えます。
「摂関政治」衰退!「藤原道長」の栄華終焉へ
道長の末娘「嬉子」は長女「彰子」の子「東宮敦良親王」に嫁ぎ、「親仁親王」を生みますが、「嬉子」は出産の2日後にわずか19歳で亡くなります。
道長没後、「東宮敦良親王」は「御朱雀天皇」として即位しました。
「後朱雀天皇」と「嬉子」の子「親仁親王」は「後冷泉天皇」となりますが、道長の血を引いた最後の天皇だったのです。
「御冷泉天皇」は子供に恵まれず、道長の末娘「嬉子」の早世は、絶対権力者「藤原道長」の権力の終焉を告げる幕開けとなったのです。
【藤原道長】について「ひとこと」いいたい!
道長が甥「伊周(これちか)」と政治上で争った出来事は、宮中文化の隆盛をもたらしました。
「一条天皇」の御代、後宮では皇后「定子」と中宮「彰子」のお付きの女房同士で、どちらのお妃が優れているかを張り合い競い合うようにして、国文学の最高傑作と言われる文学作品が生み出されたのです。
「定子」お付きの女官「清少納言」は『枕草子』を書き、「彰子」お付きの女官「紫式部」は『源氏物語』を書きました。
道長は『源氏物語』の主人公「光源氏」のモデルの一人とも言われています。
摂関政治を確立させただけでなく、宮中文化の隆盛をもたらした「藤原道長」は、この世の栄華を極めましたが、その道長の所業を冷ややかな目で見る人もいました。
それは、上野年表にも名前のある「藤原実資(ふじわら さねすけ)」です。
実資は「有職故実(宮中のしきたりなど)」に詳しく、資産家としても知られ、人望が篤く、道長も一目置くほど宮中の尊敬を集める人物でした。
そういう人物だったからこそ、道長の娘の立后の宴の席で、道長の返歌を固辞。道長にはおもねらないという態度を貫けたのでしょう。
当時は和歌を贈られたら返歌するのが習わしだったので、実資の行動は異例の行動です。
しかし実資に一目置いていた道長は、実資の行動をとがめるようなことはしませんでした。
宮中で人望の篤い人物「実資」を攻撃するのは、自分にとってマイナスだと熟知していたのだと私は思います。
「威子」立后の時は返歌を固辞しただけでなく、臨席した皇族・公卿を先導し、道長の有名な和歌を唱和させました。
大勢で「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることを なしと思へば」と何度も唱和されては、道長はさぞ閉口し、自分のおごり高ぶった和歌を反省したことでしょう。
それが証拠に「道長」直筆の国宝『御堂関白記』には、この日の出来事の中にこの歌の記載がありません。
実資が日記『小右記』にその事実を書き残したらからこそ、この有名な和歌は後世の私たちにまで伝わったのです。
道長はかっての長兄「道隆」のように、おごり高ぶり、皇族や公卿の不興を買い始めていたのだと、私は思います。
実資は道長の所業について、厳しい批判を日記に書き残していますが、その人物と能力は評価していました。
実資は祝いの席で和歌を大合唱させることで、道長をこらしめるのではなく、おごり高ぶりをいさめようとしたのかもしれません。
実資は道長の所業に対して、「藤原氏の繁栄に響かなければよいが・・・」という危惧を抱いていたのではないでしょうか。
そしてその危惧は的中してしまいます。
道長の死後、後を継いだ息子「頼通」が摂関政治を引き継ぎますが、一族同士で争うようになった「藤原北家」は衰退し始め、やがて「摂関政治」は衰退していきました。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「藤原道長」は平安時代の貴族政治家で、「摂関政治」を確立させた人でした。
- 道長は娘4人を3代の天皇と東宮に嫁がせ、摂関政治の地盤を固めました。
- 「摂関政治」は間接的にではあるものの宮中文化を興隆させ、この時代に書かれた『枕草子』、『源氏物語』は現在も伝わっています。
以上となります。
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