『e』
「伊達政宗」という名前をご存知の方は多いでしょう。
「政宗」は「独眼竜」という異名をもつこと有名で、その人気は「豊臣秀吉」や「織田信長」よりも高いかもしれません。
そんな人気の高い「伊達政宗」ですが、果たして「どんな功績を残した人なのか」について、あまり知られていないのではないでしょうか。
この記事では「政宗がどんな功績を残した人なのか」を中心に、その「生涯と最期」をまとめました。
一説によると、政宗は「スペイン」と軍事同盟を締結して「徳川家康」を倒そうとしていたとのこと。そのことについても分かりやすく解説させていただきます。
「伊達政宗」ファンでなくても、興味深い内容になっていると思いますので、当記事をぜひともお役立てくださいませ。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 「伊達政宗」は戦国時代の武将。「東北の覇者」「江戸幕府の平和に貢献」「仙台の新田開発」などの功績を残した
- 政宗は【1567年】に誕生。「豊臣秀吉」や「徳川家康」に表向きは屈服し、「朝鮮出兵」「関ヶ原の戦い」「大坂の陣」などに参戦した
- 政宗には「スペインと軍事同盟を締結して、徳川家康を倒そうとした」という逸話が残されている
伊達政宗の功績とは?何を成し遂げた人なのか?
伊達政宗には数々の功績がありますが、主なものは3つ
- 奥州の戦国大名「蘆名氏」を滅亡させ、東北最大の領地を誇る「東北の覇者」となったこと。
- 徳川政権を支え、徳川家光の時代には「副将軍」と称されるほどに出世。江戸時代264年に及ぶ平和の基礎づくりに貢献した。
- 仙台藩の新田開発に尽力し、「62万石」の仙台藩を、のちに「100万石」の米処とする基礎をつくった。「江戸の米の三分の一は仙台からのもの」と言われるほど、仙台の米は江戸で重宝されたといいます。
功績①伊達家を「東北の覇者」へと押し上げた
【1583年】に18歳で伊達家の家督を継承しています。
そのとき伊達家はすでに父「輝宗」の力もあって、奥州では有数の力を持つ戦国大名でした。
しかし政宗はそれに満足することはなく、奥州の周辺諸国と次々と戦端を開き、挙句の果てには伯父「最上義光」とも交戦しています。
周辺諸国のほとんどを敵としたにも関わらず、政宗はそれらを撃退することに成功。
【1589年】、「摺上原の戦い」に勝利して「会津領」を手にれた政宗は、23歳の若さで、伊達家の最大版図を実現しているのです。
功績②江戸幕府264年の基礎づくりに貢献
政宗は家康の六男「松平忠輝」へ娘の「五郎八姫」を嫁がせて婚姻関係を結び、家康の天下静謐(天下をへいわにすること)を支えました
徳川家康が亡くなったあとも、政宗は「徳川秀忠」「徳川家光」と、3代に渡って仕え、忠誠を尽くしたのです。
【1635年】、徳川家光が全国の大名を前にして「参勤交代」を命令。そのとき家光は大名たちにこう宣言しました。
「私は祖父『家康』や父『秀忠』と違い、生まれながらの征夷大将軍である。
その私の命令に従えないならば、3年の期間を与えるので、国へ戻って挙兵せよ。
私は戦の経験はないが、相手をしてやろう」
この言葉に真っ先に反応したのが「伊達政宗」でした。政宗は大名たちに向けて、以下のように宣言します。
「もしも幕府に異論ある者は、この政宗におおせられよ。
即座に攻め滅ぼしてくれる」
「大坂の陣」以来、天下泰平となって20年、歴戦の猛者である伊達政宗に対抗できる名将はことごとくが亡くなっていました。
そのため、誰一人として異論を口にできるものはなく、家光の威厳は保たれたのです。
これ以降、政宗は「副将軍」と呼ばれて恐れられるようになったのでした。
猛将「伊達政宗」はこの翌年【1636年】に亡くなっています。
功績③仙台藩の新田開発に尽力
常に虎視眈々と天下取りを狙っていた猛将「伊達政宗」でしたが、徳川家康により「豊臣秀頼」が滅ぼされた後は、徳川幕府に忠誠を誓っていました。
政宗は天下取りをあきらめ、自らの領地「仙台」の「新田開発」に着手し始めます。
もともと仙台には、田畑に開墾できる荒れ地が豊富にあったのです。
「62万石」の生産量をほこっていた「仙台」は、政宗の時代には「70万石」を超え、最終的には「100万石」を上回る大藩となります。
仙台の米は江戸へと送られ、江戸100万人の食を支える重要な基礎となったのです。
「今江戸三分一は奥州米なり」
と歌われるほどに、仙台の米は江戸へ大量に送られていたのでした。
伊達政宗の生涯と最期
「伊達政宗」は、【1567年】に出羽国「米沢」、現在の山形県生まれ。
【1583年】、18歳で伊達家を継ぎました。
片目が無く、龍にも例えられる強さから『独眼竜』と呼ばれた伊達政宗。戦争に強い武将というイメージが強いですが、実際は、負け戦さも多くしていました。
政宗の祖父「伊達晴宗」の時代から、伊達家は周辺諸国との争いや講和を繰り返していました。政宗が家督を継いだ翌年【1568年】には父「輝宗」が、伊達家を裏切った武将『畠山義継』に人質に取られてしまいます。この時、政宗の家臣たちは「義継」もろとも「輝宗」をも銃殺。
その後、ライバルといえる常陸(茨城県)の猛将「佐竹義重」と戦いを続けます。政宗は「人取橋の戦い」では大敗したものの、【1589年】に「佐竹義重」と宿敵だった会津「蘆名氏」の連合軍を「擦上原(すりあげはら)の戦い」で撃破。
蘆名氏を滅ぼして会津領を手に入れた24歳のときには、東北一の領地をもつ大名となりました。
【1590年】、伊達家の同盟国「小田原北条氏」を討伐するために、「豊臣秀吉」が「北条征伐」を開始。
政宗は秀吉に屈服し、蘆名氏から奪った会津領を秀吉に差し出して家名を存続することに成功しています。
その後は秀吉の家来として「朝鮮出兵」にも参加。
【1598年】に豊臣秀吉が亡くなった跡は、徳川家康の六男「松平忠輝」に長女「五郎八姫」を嫁がせて関係を強化。
【1600年】の「関ヶ原の戦い」では、伯父「最上義光」とともに「上杉謙信」「直江兼続」らと交戦し、上杉軍が徳川家康の背後を攻撃しないように牽制。
この功績もあって、政宗は仙台の領地を安堵。
【1614~1615年】には、「大坂の陣」に参加して「真田幸村」らと交戦。豊臣家を滅ぼして、「天下静謐(平和の実現)」に大きく貢献しました。
その後は領国「仙台」の新田開発に力を注ぎ、のちの米どころ「仙台」の基礎づくりに邁進。
仙台の米はその後、次々と江戸へ送られ、巨大都市「江戸」の食料を支える事となるのです。
【1636年】、江戸の伊達屋敷で死去。享年70歳。死因は「食道がん」であると考えられています。
政宗は日本という国を、スペインに売り渡そうとした?
政宗の特徴として、「常に天下を狙っていた野心家」という点が挙げられると思います。
「豊臣秀吉」「徳川家康」たち、時の天下人に対して、政宗は常に反抗的な態度を取り続けました。
家康が「征夷大将軍」に任命された10年後の【1613年】、政宗は巨大な西洋式帆船を建造。スペインへと送り出しています。
「支倉常長」という武将が率いたこの一団は、ローマへと至ってローマ教皇「パウルス5世」に謁見。当時世界最強国であった「スペイン」の国王「フェリペ3世」にも謁見しています。
表向きの目的は「貿易関係の強化」だとのことですが、政宗には別の目的がありました。
一説によると政宗は、このとき「フェリペ3世」に対して「軍事同盟」を申し込んだと言われています。
世界最強国「スペイン」と協力して「徳川家康」を倒し、日本の領土をスペインと山分けしようとしたのだとか。
もちろん政宗は、スペインに日本の半分を明け渡したとしても、すぐに武力で取り返せると考えていたのでしょう。
いくらスペインが世界最強国でも、2つの理由で日本のほうが有利だからです。
- 当時の日本は刀鍛冶で鍛えられた「製鉄技術」により、高度な「鉄砲」を量産できたため、恐るべき軍事大国となっていた
- スペインはたしかにこのとき「世界最強国・覇権国」ではあったものの、【1588年】の「アルマダの海戦」でイギリスの「エリザベス女王」ひきいるイギリス海軍に「無敵艦隊」を撃破されていたため、没落し始めていた
もともとスペインは日本へ「宣教師」というスパイを送り込み、侵略を目論んでいました。豊臣秀吉の「朝鮮出兵」は、そのスペインによる日本侵略を阻止するための行為であったと噂されるほどです。
政宗はそんなスペインに、協力者として名乗りを上げ、「徳川家康」を倒そうとしたのでした。
しかしスペインはこの軍事同盟の申し出を受けず、政宗の野望は失敗に終わります。
もしも政宗の目論見通り、日本にフィリピン「マニラ」の総督府から、スペインの艦隊が日本へ襲来していたら・・・歴史は大きく代わっていたかもしれませんね。
言い方は悪いかもしれませんが、政宗は国土を外国勢力へ売り渡した「日本最初の売国奴」となってしまっていたかもしれないのです。く
『伊達政宗』について「ひとこと」言いたい!
政宗には「天下取り」をする才能として、大切なものが欠けていたと考えられます。
それは「忍耐力」と「腹のうちを隠すしたたかさ」です。
政宗は【1590年】、「小田原征伐」をおこなっていた「豊臣秀吉」に屈服しています。
しかし心から屈服していたわけではなく、チャンスがあれば「天下」を奪い取ろうとしていたのです。
政宗は秀吉に取り上げられた「会津」の領地で反乱を先導。会津領主である「蒲生氏郷」を苦しめます。
これが秀吉にバレた政宗は窮地に追い込まれます。
ところが政宗は潔白を訴え、言葉巧みに無罪を勝ち取るのです。
おそらくですが、政宗はとても「反抗的な態度を取る人間」だったのではないでしょうか。
口では「秀吉」や「家康」に忠誠を誓うようなことを言っていても、「俺を甘く見るなよ」とでも言いたげに、常に反抗的な行動を取り続けているのです。
これでは「秀吉」や「家康」を警戒させるだけです。
政宗は「家康」に対しても反抗的な態度を崩しませんでした。
「関ヶ原の戦い」で、政宗は家康の目を盗んで、東北北部の「南部領」をかすめ取ろうとしています。これに激怒した家康は、「関ヶ原の戦い」で「上杉景勝」「直江兼続」の軍と激闘を繰り広げた政宗に、わずかな褒美しか与えなかったのでした。
もしも「政宗」に「家康」のような「忍耐力」と「腹の中を隠すしたたかさ」があったら、もしかすると天下を横取りできていたかもしれません。
たとえば「徳川家康」は、「豊臣秀吉」に屈してその配下となったものの、従順な家来を10年以上も演じ続け、ついには秀吉の死後に天下を奪い取ることに成功しています。
家康には「忍耐力」も「したたかさ」も備わっていたので、これが可能だったのでしょう。
しかし政宗にはそれができなかった・・・。
政宗はとても誇り高い人物だったのでしょう。
【1600年】、「関ヶ原の戦い」のとき、徳川家康【57歳】、伊達政宗【33歳】。
家康のような人生経験豊富な「したたかさ」を、まだ若かった政宗は備える暇がなかったのかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 伊達政宗は、戦国時代の出羽、現在の山形県生まれ。
18歳で伊達家を継ぎ、周辺諸国と争いが続きましたが、24歳の時には東北一の代表となりました。
豊臣に仕えた後、徳川にも仕え、最後には仙台藩主となり、仙台の発展に貢献しました。 - 伊達政宗は1567年に生まれ。
小さな時に病気で片目が見えなくなり、独眼になりました。
多くの戦をし、敗戦もありましたが、大きな大名になり、その後、徳川につき、仙台藩主となります。
家光の時に、江戸で1636年、享年70歳に亡くなりました。 - 伊達政宗は仙台藩主時代にスペインへ、家臣の支倉常長たちをスペインへ派遣しました。
貿易ができるように関係を結ぶことが目的でしょうが、軍事同盟を結び、徳川を破って日本を分け合おうと約束したのではという説もあります。
以上となります。
政宗は多くのエピソードもあり、また、実績も多く人気の高い武将の1人です。
ですので、スペインの派遣で徳川を破り、日本を分け合おうとしたのではないか、と言われています。
年齢のことを考えると、この話はありえないのではと思いますが、政宗のエピソードなどから考えるとありえそうで面白いですよね。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
コメント