徳川家康の嫡男「松平(徳川)信康」
妖刀・村正で亡くなった?
徳川家康と信康の愛刀とは?妖刀の真実をご紹介
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この記事を短く言うと
・徳川家康の祖父「松平清康」も、家康の息子「松平信康」も、「村正」で亡くなった・・らしい
・村正の呪いは、創作・・・または勘違いだろう
・松平信康の愛刀は、おそらく村正・・。家康の愛刀は「不動国行」「江雪正宗」「義元左文字」
松平(徳川)信康は「村正」で死んだ?
1579年、徳川家康の息子「松平(徳川)信康」は、謀反の疑いをかけられ、遠江国・二俣城で切腹。
介錯・・・つまりとどめを刺す役は「服部半蔵」だったが、主君に刀を向けられず、検死役「天方道綱」が代わったと言われています。
この時、切腹に使われた脇差しが、刀工集団「村正一派」がつくった「村正」・・・または介錯に使われた刀が「村正」だったとか・・・。
家康が駿河宮で怪我をしてしまった刀も、「村正」
家康の祖父・松平清康も、「村正」で命を落としたとの噂。
家康を追い詰めた名将「真田幸村」の槍も村正。
家康は、村正による不幸が多いことに気が付き、村正は、見つけ次第捨てるように!と厳命したのです。
これが「妖刀・村正」伝説の始まりでした。
村正の呪い伝説・・・真実とは?
実は「村正」の呪い伝説は創作。
なぜなら、徳川四天王の一人「本多忠勝」が愛用していた「天下三名槍」の一つ「蜻蛉切(とんぼぎり)」も「村正」の作品。
(天下三名槍は他に、結城秀康の「御手杵(おてぎね)」、福島正則から母里太兵衛へ渡った「日本号(にほんごう)」)
また、徳川四天王の筆頭「酒井忠次」の愛刀も「村正」
そして、徳川家臣団の多くが「村正」を使用していました。
村正一派は、伊勢の国の刀工集団。
つまり、家康が住んでいた「三河国」の近く。
村正は非常に優れた刀剣だったので、人気があったのです。
小説家・吉川英治の友人は、こんなことを吉川に話したことがあるとか。
「三河武士が、伊勢の刀工「村正一派」の刀を使うのは当然。
東海道・三河の武士が、例えば九州の刀なんて使わないのだから」
村正の呪い・・・・家康の勘違い・・・又は「創作」で間違いないです。
清康が亡くなったのも、信康が亡くなったのも、村正に呪われていたのではなく、周囲が村正だらけだったため。
偶然です。
ちなみにこの「村正」
本物は「東京国立博物館」「京都国立博物館」にて保存されているとのことですが、常に展示されているわけではないみたいです。
信康と家康の愛刀とは?
信康と家康が使用していた刀とは、どんなものなのか?
信康の愛刀
信康の愛刀なのですが、はっきりとはわかっていません。
しかし、おそらくですが「村正」を使っていたのではないでしょうか?
理由は簡単で、先程申し上げた通り、家康家臣団の有力武将は、好んで「村正」を使っていたため。
「荒武者」と噂の信康もまた、非常に優れた方な「村正」を好んだはず。
信康といえば、戦の話しかしない体育会系で有名ですからね。
家康の愛刀
では家康の愛刀は?
家康が使っていた刀は、数が多いですが、最も有名なところで言うと、後に息子「秀忠」に受け継がれ、孫「家光」が相続した3つの刀が有名です。
関ヶ原・大坂の陣で、家康が佩刀していた刀
「不動国行」・・・現在行方不明
「江雪正宗」・・・明暦の大火で焼失
「義元左文字」・・三好左文字・宗三左文字などの名前でも有名。京都市北区の「建勲神社」にて保管されています。
この「義元左文字」・・・・元々は「三好宗三(そうざ)」の刀でしたが、信玄の父・武田信虎に贈られました。
信虎は、娘を今川義元に嫁がせる際に、義元に「左文字」をプレゼント。
義元は「桶狭間の戦い」で敗北し、「義元左文字」は信長が戦利品として奪取。
その後「秀吉」「家康」へと渡り、明治天皇が与えた織田信長の神号「建勲(たけいさお)」を冠する「建勲神社」に、徳川本家から寄進されました。
「天下を狙う者が佩く刀」と言われているみたいです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・家康の祖父「松平清康」も、息子「信康」も村正で亡くなったと言われている
・しかし、村正の呪いは、まず間違いなく勘違いだろう
・信康の愛刀は、おそらく「村正」。家康の愛刀は「不動国行」「江雪正宗」「義元左文字」、他にもいくつもあった
以上となります。
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