この記事では「足利義輝の子孫と家系図」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「足利義輝の子孫が、どのように続いたのか」を、カンタンに理解できます。
「足利義輝の子孫」は、息子「尾池義辰」を通じて、「明治維新」の頃の「西山大衛」氏まで続いているのです。
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この記事を短く言うと
1,「足利義輝」の家系は?
名門「足利家」は、「源義家」の末裔であり、室町幕府を開いた「足利尊氏」の家系。「足利尊氏」は「義輝」の先祖に当たる。
2,「足利義輝」の子孫とは?
【1565年】の「永禄の変」で亡くなった「足利義輝」の子孫は、息子の「尾池義辰」を通じて、明治維新をむかえた「西山大衛」氏まで続いている。
3,「足利家」の末裔は、今も続いているのか?
「義輝」の子孫である「西山大衛」の末裔が、今も続いていると考えられる。その他にも「喜連川家」や「平島公方家」を通じて、足利家は続いている。
足利義輝の家系図のわかりやすい画像
室町幕府・第13代征夷大将軍「足利義輝」の家系図をご紹介いたします。
足利義輝の家系図は、複雑なので、いくつかに分けて解説いたします。
まずは「足利義輝」と「室町幕府15代将軍」の関係を、わかりやすい家系図でご紹介いたします。
足利義輝は、御存知の通り、「室町幕府」を開いた武将「足利尊氏」の末裔に当たります。
室町幕府の13代将軍。
その子孫は、現在も続いていると考えられます。
次に、「足利義輝」の子孫について、家系図でご紹介いたします。
足利義輝の子孫の現在とは?義輝の子供達を家系図で解説
次に、「足利義輝の子孫」を中心にした家系図をご紹介いたします。
義輝には、複数の子供がいました。
しかし、父である義輝の壮絶な最期が原因なのか、子どもたちは出家して、仏門に入っています。
出家して俗世間から離れていたためか、義輝の子供には、子孫が繋がっていないのです。
ただ一人だけ、義輝の側室の子である「尾池義辰」という人物が、「義輝の子」であるという噂があります。
「尾池義辰」は、肥後細川家に千石取りとして仕えた武士です。
この「尾池義辰」の子孫である「西山大衛」という人の時代に、日本は「明治維新」をむかえています。
はっきりとしたことは、わかっていませんが、この「西山大衛」という方の子孫が、現在も続いていると考えられます。
「西山大衛」氏の息子さんのお名前は「西山直太朗」という方です。
今から約150年ほど前の明治維新に生きた方の息子さんですので、西山直太郎さんはすでにお亡くなりになっておられるでしょうが、直太郎さんのお孫さんは、もしかするとご存命かもしれません。
足利家の子孫たち!「喜連川家」と「平島公方家」
足利家は、「義輝」以外の系統から、現代まで子孫をつなげています。
もっとも有名なのが、「喜連川家」と「平島公方家」でしょう。
「平島公方家」とは、14代将軍「足利義栄」の弟「足利義助」の末裔にあたる一族です。
江戸時代には四国・阿波の蜂須賀氏に仕えていたものの、かなりの冷遇をうけて苦しんだといわれています。
【1805年】に京都へ移り住み、明治維新をむかえます。
「明治維新」のあとは、京都市西京区で帰農して、平民となっています。
【2004年】現在の当主は「足利義弘」という方。
元大学教授で、「全国足利氏ゆかりの会」の特別顧問をしておられます。
もう一つ、「喜連川家」という名門が、足利家の血筋を今につたえています。
「喜連川(きつれがわ)家」とは、「足利尊氏」の次男「足利基氏」の子孫にあたる一族です。
江戸時代に「喜連川藩」という藩を与えられ、名家であるため「5000石」しか持たなかったにもかかわらず、「10万石」の格式を与えられていた一族です。
この「喜連川家」の子孫が、「明治維新」で「足利」という名前に戻して、今も続いているのです。
【2014年】現在の当主は、「足利浩平」という方です。
「足利尊氏の末裔」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
「足利義輝」が亡くなったその後、足利家に何があったのか
【1565年】、「足利義輝」が「三好三人衆」らに殺害されると、弟「足利義昭」が「織田信長」や「明智光秀」の協力を得て、兄「義輝」の仇討ちに動き始めます。
「義輝」が暗殺されると、弟「義昭」は、「三好三人衆」や「松永久通」らによって、奈良・興福寺に幽閉されます。
それを「細川藤孝」らが救出し、越前国の大名「朝倉義景」のもとへと逃亡。
「義昭」は、兄「義輝」の仇討ちのために、各地の大名に協力を要請。
織田信長はその要請に応えて、「義昭」をつれて京都へ進軍します。(上洛)
これにより、「三好三人衆」らを追い出した義昭は、15代征夷大将軍に就任。
しかし、信長と敵対した「足利義昭」は、【1573年】に京都から追放され、「室町幕府」は滅亡してしまいます。
義昭はその後も信長と徹底抗戦を続け、【1582年】には「織田信長」が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれることとなります。
その後、「足利義昭」は「豊臣秀吉」につかえて、【1597年】に死去。
義昭には、「三人の子供」がいたと言われています。
- 「義尋(ぎじん)」
- 「一色義喬(いっしきよしたか)」
- 「永山義在(ながやまよしあり)」
の三人です。
義昭の子「義尋(ぎじん)」は、2人の子供をもうけたものの、その子どもたちは子孫をつなげられずに、義昭の直系は絶えてしまいます。
義昭のもうひとりの子「一色義喬(いっしき よしたか)」は、子孫が「会津松平家」に仕え、幕末の会津藩士「坂本義辰」という人物が「義昭の末裔」だと主張していたようです。
実は義昭には「永山義在(よしあり)」という、もうひとりの息子がいたという説があり、その子が「薩摩藩」で幕末まで子孫をつなげた、という説があります。
足利家の直系は、「義尋」で絶えたものの、足利家の血は、今も各系統で続いています。
「足利義昭の子孫」について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ
「足利義輝の最期」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「足利義輝」の家である「足利家」は、「源義家」の末裔であり、室町幕府を開いた「足利尊氏」の家系。「足利尊氏」は「義輝」の先祖。
2,【1565年】に亡くなった「足利義輝」の子孫は、息子の「尾池義辰」を通じて、「西山大衛」氏まで続いている。
3,「義輝」の子孫である「西山大衛」の末裔が、今も続いていると考えられる。その他にも「喜連川家」や「平島公方家」を通じて、足利家は続いている。
以上となります。
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ありがとうございました。
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コメント
コメント一覧 (2件)
はじめまして、義輝の記事は大変勉強になりました。
実は私も義輝の子孫になります。
足利義辰には3人の息子がおり、私は讃岐の丸亀に残っていた子孫です。
代々、御殿医、医者や歌人として使えていたそうです。
姓は義輝の家臣であった尾池に匿われた為、尾池の名前で代々続いております。
こんにちは
この度は当サイトをご利用いただき、貴重なコメントまでいただき、心より御礼を申し上げます。
まさか剣豪将軍「足利義輝」公の末裔のお方からお言葉をいただけるとは、言葉に尽くせないほど嬉しく存じます。
思いもかけないお方からのお言葉に、大変興奮しております。
まさか義輝公の血を今に伝えるお方からメッセージを頂けるとは!!
心の底から御礼を申し上げます!
ご先祖さまについて、私の未熟な文章でご紹介させていただき、至らぬ点も多々あったことと存じます。
私のような未熟者の筆にお言葉をいただき、何やら救われたような、そんな心地がいたします。
大変貴重な情報と、この上なくあたたかいお言葉に、今一度御礼を申し上げます。
当サイトをご利用いただき、とても貴重なお言葉と情報をくださいましたこと、本当にありがとうございます。
もしよろしければ、またぜひ当サイトをお役立てくださいませ。
本当にありがとうございます!
至らぬ文章で、失礼をいたしましたこと、お詫び申し上げます。