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武田信玄が患った病気とは何か?死因はガンや結核ではなく寄生虫

武田信玄が患っていた「病気」について、わかりやすく詳しく解説いたします。

1573年、織田信長との決戦直前に、病気で亡くなった名将「武田信玄」。

信玄は、どういう病気で亡くなったのか?

「肺結核」「がん」など、いくつかの説がありますが、最新の研究によれば「日本住血吸虫症」なる病気で亡くなった可能性があるのだとか。

「武田信玄」はもともと病弱だったのです。


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この記事を短く言うと

  1. 「武田信玄」は若いころから持病の「結核」で苦しんでいた。しかし死因は「食道がん」や「胃がん」または日本住血吸虫症」という病気であると言われている。
  2. 信玄は、宿敵「織田信長」を倒す直前、信濃国「駒場」で病死する。1573年4月12日・享年53歳だった。
  3. 信玄は「自分の死を三年隠せ」「遺骸は諏訪湖へ沈めよ」などの遺言を残したが、織田信長には、即座にその死を知られてしまった。

武田信玄が患っていた病気とは何か!死因は寄生虫だった?

武田信玄(たけだ しんげん)

本名「武田晴信(たけだ はるのぶ)」

「戦国最強」と評価された名将の中の名将です。

《武田信玄》
「引用元ウィキペディアより」

 

信玄の病気!「肺結核」を持病として患っていた

武田信玄は、「肺結核」を患っていたことで有名です。

武田信玄、実は病弱で、若い頃から「病気」で苦しめられていました。

「労咳(ろうがい)」、つまり「肺結核」を若いころから持病としてもっていたみたいです。そのため、何度か「血」を吐いたこともあるのだとか。

信玄は「温泉好き」として有名でした。山梨県各地に「信玄の隠し湯」という温泉地があるほどです。しかし「肺結核」のような進行性の病気に「温泉療養」は逆効果です。

身体を治す目的で「温泉」に通っていたはずが、そのせいでいつの間にか身体をより悪くしていたのかもしれません。



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武田信玄の死因と命日

結核を患っていた信玄ですが、その「死因」は「ガン」であると考えられています。

武田四天王の一人「高坂昌信(高坂弾正)」が残した資料「甲陽軍鑑」によると、信玄の死因は「胃がん」または「食道がん」であるとされています。

日本住血吸虫症にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう

近年の研究で、この「日本住血吸虫症」というものが「武田信玄の真の死因ではないか」と言われています。

寄生虫によって起こる「日本住血吸虫症」という病気は「高熱」などの症状をみせたのち、死に至るのだとか。

昔、「山梨県」などの一部地域で発生していた感染症なのだそうです。

「日本住血吸虫症」は20世紀に撲滅していますが、これこそが信玄の「真の死因」なのではないかと近年注目されています。

信玄のお墓はどこ?墓所は2か所あった

武田信玄のお墓は、複数あるようですが、「山梨県」の「甲府市」と「甲州市」にあるお墓が有名です。

「山梨県甲府市岩窪町」に、「武田信玄公墓所」があります。

信玄のご遺骸はどちらにあるのでしょうか?

信玄が亡くなると、その側近であった「土屋昌続」は、火葬された信玄の遺灰をこっそりと自宅に持ち帰って埋葬した可能性が指摘されています。

詳しくは後述しますが、信玄は遺言で、「自分が死んだことを三年の間隠し通せ」と指示しています。

そのため、おおっぴらに埋葬することができなかったのです。



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武田信玄の最後の場所はどこ?信濃国・駒場で亡くなった

信玄が亡くなった最後の状況を解説

武田信玄が亡くなった時の状況とは、どんなものだったのでしょうか?

信玄は、織田信長と戦っている最中に亡くなりました。

1573年、織田信長は「浅井長政」「朝倉義景」「石山本願寺」「足利義昭」など、多くの敵に囲まれていました。「第一次信長包囲網」です。

武田信玄は、その「信長包囲網」の一つとして、征夷大将軍「足利義昭」の求めに応じて出撃したのでした。

信玄の出撃に、織田信長は焦ります。

最強「武田信玄」を、信長は極端に恐れていたのです。

しかし「織田信長」を倒すまで、あと一歩のところで「信玄」は病死。

信玄の死から9年後、武田家は信玄の息子「武田勝頼」の時代に滅亡します。

この時「織田信長」を倒せていたら、「武田家滅亡」はなかったはずですが・・・。不運としか言いようがありません。



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亡くなった、最後の場所はどこ?

武田信玄は「信濃国」の「駒場」というところで亡くなりました。

1573年2月(元亀三年3月)、武田信玄ひきいる武田軍は、三河へ侵攻。

1573年3月元亀三年4月、三河・野田城を攻め落とします。

ところが、そこで武田軍の進軍は停止してしまいます。

理由は「信玄」の病状が、一気に悪化したから。

武田軍は、信玄の病状が悪化したことを理由に、これ以上の進軍は不可能と判断。

1573年5月初旬、本拠地である「甲斐」へ帰ることを決断するのです。

1573年5月13日(元亀三年4月12日)、武田信玄は帰国する途中、三河街道の途中「信濃国・駒場」という場所で亡くなります。

享年53歳。

父「信虎」を追放して武田家の当主となり、戦国最強と呼ばれるほどにまで「武田家」を育て上げた名将「武田信玄」。

信長を倒し、天下を手に入れるまで、あと一歩のところで亡くなったのでした。



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武田信玄の遺言!辞世の句がとても信玄らしかった

信玄の遺言!遺体は諏訪湖に沈められた?

志なかばで亡くなった「武田信玄」。その時、いくつかの遺言を残しています。

遺言を一覧にまとめてみました。

「信玄が死んだことを、三年の間隠し通せ」

「信玄の遺骸は、甲冑を着せて諏訪湖の底へ沈めよ」

「信玄の孫『武田信勝』を武田家の次期当主とし、その父『武田勝頼』を、信勝が成人して当主となるまでの後見人とする」

「勝頼は、信玄が死んだら越後の『上杉謙信』を頼ること」

「重臣・山県昌景は明日の朝、瀬田に武田家の旗をたてよ」

これらの遺言は、「遺骸を諏訪湖へ沈めよ」という遺言以外は全て守られました。

信玄の遺骸は、さきほどご説明したとおり「土屋昌続」によって埋葬されています。信玄の遺骸は亡くなった直後、火葬されたとのことです。

「自分の死を三年隠せ」という遺言は、実質的には守ることが出来ませんでした。信玄が亡くなった直後、織田信長や徳川家康に、そのことがすぐさまバレてしまったからです。



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辞世の句!

武田信玄が残した辞世の句は、以下のとおりです

大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流

(この世の中は、流れにまかせて生きるべきだ。その中で自分を見つけ、そして死んでいく。見せかけを飾って生きるな。本音で生きるのがもっとも楽で、もっともかっこいいものだ)

流れに任せよ。

「柳に風」と受け流すことが得意だった名将「信玄」らしい辞世です。



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『武田信玄』について「ひとこと」言いたい!

武田信玄・・・・最強「上杉謙信」と互角に戦った名将。

しかし、その遺言は、残念ながら裏目に出ることになります。

信玄のあとを継いだ四男「武田勝頼」は、武田家の宿敵「諏訪家」の姫を母に持つ人物。もともと「武田本家」ではなく、「諏訪家」を継ぐはずの人物でした。

しかし兄「武田義信」が謀反をおこして処刑されたため、四男でありながら武田本家を継承することとなったのです。

もともと継承権を持たない勝頼が、「孫・信勝の後見人」という形ではあっても、武田本家を継承してしまったのです。そのため、武田家臣団が勝頼を信頼することはありませんでした。

勝頼は必死に武田家をひっぱっていきますが、最期は家臣たちに次々と裏切られ、織田信長・徳川家康の連合軍に敗北。亡くなります。

天目山の戦い」・・・・1582年3月、この戦いを最期に、勝頼とその息子「信勝」は命を落としてしまうのです。

さすがの名将「武田信玄」も、自分の死後を予想することまでは出来なかったのです。勝頼に武田家を任せるなら、もっと慎重に家臣団に勝頼を補佐させる体制を作り上げるべきだったのです。

豊臣秀吉。

天下人であった「秀吉」も、自らの死後に息子「秀頼」を徳川家康に殺されています。

信玄も秀吉も、自らの死後に、息子達が生き残れる「体制づくり」に、もっと心血を注ぎ込むべきだったのかもしれません。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 武田信玄は、持病の「結核」で苦しんでいた。しかし死因は「結核」ではなく「胃がん」「食道がん」と言われている。最近の研究では「日本住血吸虫症」という病気で亡くなった可能性があると指摘されている
  2. 武田信玄は、織田信長との決戦を前にして、1573年5月13日、信濃国「駒場」で病死する。享年53歳。この9年後、武田家は信長の手で滅亡する。
  3. 信玄は、自分の死を三年隠せ、と遺言したが、信長には即座にその死を知られてしまった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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