皆さんは上杉謙信の子孫の現在を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 上杉謙信の子孫は、上杉家32代目当主(米沢藩主上杉家16代目)である上杉邦憲さん
- 謙信の養子・景勝は、関ヶ原の戦いで敗北し、領地を4分の1に減らされた
- 上杉家は、お家断絶の危機を回避したが、30万石から15万石へ領地削減された
- 財政悪化により、断絶寸前まで追い込まれた上杉家は、上杉鷹山の改革で復活した
この記事では「上杉謙信の子孫の現在」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は上杉謙信の子孫について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、上杉謙信の子孫に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
上杉謙信の子孫の現在
子孫は宇宙探査機「はやぶさ」の宇宙工学博士
2024年現在、上杉謙信の子孫は、上杉家32代目当主(米沢藩主上杉家16代目)である上杉邦憲さんです。
宇宙工学者として名高い上杉邦憲さんは、JAXAで日本の宇宙開発に大きく貢献しました。
- ハレー彗星探査機「さきがけ」
- 月周回衛星「ひてん」
これらの打ち上げプロジェクトを成功に導き、小惑星探査機「はやぶさ」のプロジェクトでは文部科学大臣賞を受賞。
小惑星に素早く触れる姿から名付けられた「はやぶさ」という名前に、上杉さん自身が提案したというエピソードも残っています。
現在も上杉家は直系で続いています。
そして当主である上杉邦憲さんの長男・上杉裕憲さんが、家督を継承する予定であると考えられます。
また上杉裕憲さんには、2021年に上杉紀憲さんというお子さんが誕生したとのことです。
ちなみに、上杉邦憲さんのお母上様は、徳川宗家つまり徳川家康の子孫です。
そのため上杉さんも徳川家康の子孫なのですが、それだけではありません。
上杉邦憲さんは
- 吉良上野介
- 石田三成
- 佐々成政
- 今川義元
- 北条氏康
- 武田信虎(信玄の父)
など、歴史上の有名人の血を引いているのです。
ちなみに石田三成の子孫は、津軽藩の忍者の棟梁として活躍し、現在まで続いています。
上杉謙信に子供はいなかった
上杉謙信には子供がいなかったため、姉の子つまり甥の上杉景勝を養子として家督を継がせました。
そのため、上杉謙信の現在の子孫は、正確にいえば上杉謙信の甥・景勝の子孫なのです。
謙信は仏教を深く信仰していたため、生涯妻をもたなかったのです。
そのため、姉の子である景勝を養子として、後継者にしたのです。
それから、徹底的に調査しましたが、上杉謙信の子孫の中に、芸能人さんはおられないようです。
北条義時や岩倉具視の子孫には、芸能人として活躍しておられる方がいるようです。
上杉家の先祖は、紫式部の先祖と同じ人物
上杉家は平安時代の貴族・藤原定方という人物を祖としています。
藤原定方は、あの学問の神様・菅原道真と同じ時代を生きた人物です。
藤原定方のひ孫には、源氏物語の作者である紫式部がいます。
同じく定方のひ孫にあたる源倫子は、藤原道長の妻になって子供を何人も産んで、子孫につなげています。
つまり、上杉家の子孫は、紫式部や藤原道長の子孫と、同じ先祖をもつということです。
その後、鎌倉時代に上杉家から足利家へ嫁入りした女性が、室町幕府の初代将軍・足利尊氏を産んでいます。
関ヶ原の戦いのあと30万石に転落
上杉謙信の死後、家督を継いだ甥で養子の景勝は、関ヶ原の戦いで敗北し、領地を4分の1の30万石に減らされています。
戦国時代の英雄、上杉謙信の死後、家督を継いだのは甥の上杉景勝。
豊臣政権下では会津120万石を領していましたが、関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、米沢30万石に減封されてしまいます。
これが米沢藩の始まりです。
米沢藩は、現在の山形県米沢市と福島県福島市一帯に領地を持ち、実際の石高は、約51万石と推定されています。
景勝は関ヶ原の敗戦後、徳川幕府に恭順。
1615年の大坂の陣では、鴨野の戦いで敵の半数以下の兵力で勝利を収めるなど、武功を上げました。
徳川家康もその活躍を認め、減封されたとはいえ、上杉家の武力は健在であることを天下に示しました。
景勝の後を継いだのは、嫡男の上杉定勝。
定勝は藩士に質素倹約を旨とする法令を出し、平和な時代にあっても上杉家らしい気風を守り続けました。
一方、新田開発にも力を入れ、米沢藩の実高を51万石にまで増やすことに成功しました。
藩政においては、景勝時代は重臣の直江兼続が執政として権力を握っていました。
しかし定勝は、藩主権力の強化を図り、直江体制からの脱却を成し遂げました。
上杉家はキリシタンに対して寛容な政策を取っていました。
領内には、他藩から迫害を逃れてきた多くのキリシタンがいました。
しかし定勝と3代藩主の綱勝は、幕府の命に従い、キリシタンを徹底的に取り締まりました。
しかも、一門の山浦光則を処刑までしています。
しかし綱勝は子を残さずに26歳の若さで亡くなります。
後継者がいなかった上杉家は、それを理由に幕府から領地を没収されかねない、断絶の危機に直面することとなりました。
江戸時代前期15万石に転落
上杉家は、後継者がいなかった影響でお家断絶の危機を、名君・保科正之の助けにより回避しましたが、30万石から15万石への領地を削減されました。
綱勝の急逝後、米沢藩は存亡の危機に直面します。
後継者不在だった上杉家で、ギリギリで後継者となったのは、忠臣蔵の悪役で有名な吉良上野介義央の長男である綱憲でした。
綱憲の母が3代藩主・上杉綱勝の妹であったため、女系ながら上杉家の血筋を繋ぎました。
しかし末期養子という扱いだったため、本来であれば米沢藩は取り潰しの憂き目に遭うところでした。
3代将軍・徳川家光の弟である会津藩主・保科正之の尽力により、何とか存続は許されました。
ところが領地は、半減の15万石となってしまいます。
領地が半減したにもかかわらず綱憲は、藩士の解雇を断行しなかったのです。
15万石で120万石の時代と同じ人数を養うこととなり、藩財政は急速に悪化していきます。
さらに綱憲は、実家の吉良家への援助を藩の資金で行うなど、財政をさらに悪化させてしまいます。
家臣たちは
「上杉家は吉良家のものになった」
と嘆き、質素倹約を家風としていた上杉家にとって、綱憲は非常に評判の悪い藩主となりました。
この頃江戸では、新品の鍋に「上杉」と書いた紙を貼れば金気がとれるという冗談が流行するほど、上杉家の財政悪化は噂されていました。
そして、綱憲の父である吉良上野介義央が、大石内蔵助たち赤穂浪士の討ち入りによって命を落とす赤穂事件が発生します。
上杉家自体は事件に関係なかったにもかかわらず、江戸市民たちは、父親・吉良上野介が襲われたのに、救援にも行かなかったとして、上杉家を非難したのです。
財政難も相まって、武門の名家としての評判は、地に落ちてしまいます。
綱憲以降は直系での相続が続きましたが、江戸城の石垣普請など出費がかさみ、参勤交代の費用すら工面できない状況に陥ります。
藩士の俸禄を前借りしたり、参勤交代の費用を藩士に求めるなど、藩士も困窮していきます。
中級武士ですら家財道具を売払い、内職をして生計を立てる有様でした。
8代藩主上杉重定は、悪化する藩財政をよそに贅沢な生活を続けていました。
ついには妻の実家の尾張藩を通して、藩の領地返上、つまり藩主の辞任を申し出てしまいます。
領地の返上自体は、尾張藩の説得により取りやめとなりますが、藩財政の悪化は限界を超えていました。
そこで登場したのが、あのアメリカのケネディ大統領も尊敬したという名君・上杉鷹山でした。
名君・上杉鷹山の改革が成功
財政悪化により、領地を幕府へ返上する寸前まで追い込まれた上杉家は、名君・上杉鷹山の改革によって救われます。
9代藩主として迎えられたのは、日向高鍋藩出身の上杉治憲。
上杉鷹山として知られている人物です。
鷹山の祖母が4代藩主・上杉綱憲の娘であった縁で米沢藩主となり、上杉重定の娘を妻に迎えました。
鷹山が藩主となった当時、米沢藩は現代の価値で約200億円もの借金を抱えていました。
1万石の価値が約10億円といわれていますから、年間収入以上の借金を抱えていたことになります。
しかも家臣の数は加賀100万石の前田家とほぼ同水準であったといわれていますから、人件費だけでも相当な出費でした。
鷹山は徹底的な節約を行い、自身の食事は一汁一菜にとどめるなど、自ら率先して改革を推進しました。
飢饉対策にも取り組み、餓死者を減らすことで人口減少を食い止めたといいます。
さらに藩校の興譲館を創設し、人材育成にも力を入れました。
30歳の若さで後継者に家督を譲った鷹山でしたが、破綻寸前だった米沢藩を立て直したその手腕は、全国で評判となります。
当時の幕府首脳であった松平定信も、鷹山を日本一の藩主と讃えています。
徹底した節約により幕閣への運動費が捻出できず、江戸城の普請に駆り出されるなど、借金返済は思うように進みませんでした。
しかし膨大な額の借金は、鷹山から2代後の上杉斉定の時代にようやく完済されました。
幕末!新政府軍に降伏
幕末、上杉家は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦ったものの、土佐藩の仲介で降伏しています。
鷹山の跡を継いだ治広、斉定を経て、12代藩主となった上杉斉憲の時代に幕末を迎えます。
斉憲は早くから佐幕派(幕府を助ける一派)として活躍し、京都警備など中央政局に深く関与していきます。
その功績により、米沢藩は3万石を加増され、領地は18万石まで拡大しました。
上杉家の領土が加増されるのは、上杉景勝が豊臣秀吉によって会津に移封されて以来250年ぶりのこと。
長年財政難に苦しんでいた上杉家にとって、大喜びでした。
藩内では洋式軍備の改革を行い、上杉家は近代的な軍備を備えた雄藩としての地位を確立します。
斉憲は京都で西国の有力な藩の大名たちと親交を結んでいました。
長州藩が京都から追放された「八月十八日の政変」では長州藩を擁護するなど、一定の影響力を持っていました。
しかし、京都警備の役を解かれて米沢に帰還した直後、大政奉還によって幕府が消滅します。
そして、旧幕府方と、薩長の新政府による、戊辰戦争が始まります。
上杉家・米沢藩の隣にある会津藩が、朝敵とされて討伐の対象となってしまいます。
このとき上杉家は、かつて恩義のあった会津藩主・保科正之を思い出したのです。
上杉は、付き合いのあった西国の有力藩との親交を活かして、両者の調停を試みます。
しかし交渉は失敗。
やがて奥羽越列藩同盟を結成し、斉憲は仙台藩主・伊達慶邦と並んで、総督として同盟を率います。
旧領である越後を受け持ち、一時期は国際貿易港だった新潟港を奪取するなど、新政府軍を圧倒します。
しかし劣勢に追い込まれ、斉憲の妻の実家である土佐藩の仲介もあり、松平容保がひきいる会津藩などが抗戦を続ける中、新政府軍にいち早く降伏します。
その後は新政府側として出兵し、最終的には4万石の減封処分を受け、明治時代を迎えることとなりました。
余談ですが、会津藩主・松平容保の子孫は、現在の徳川宗家の当主です。
明治維新のあと華族・伯爵家へ
明治維新後、上杉家は華族となり、伯爵の爵位をあたえられています。
茂憲は藩士教育と投資に力を注ぎ、藩の資金や自費を惜しみなく旧藩士に提供。
自身もイギリス留学を経験しました。
こうした人材育成策の影響もあり、米沢出身者は海軍に入隊する者が増加。
なんと「米沢海軍」と呼ばれるほどの一大勢力を築きます。
太平洋戦争で機動部隊司令長官として活躍した南雲忠一をはじめ、海軍の中核を担った人物を数多く輩出しました。(南雲中将は、太平洋戦争のミッドウェー海戦でアメリカ軍に敗れ、敗戦の責任を背負わされた人物)
帰国後、上杉茂憲は沖縄県令に任命されます。
当時まだ不安定だった沖縄を、名家の権威で統治しようという意図がありました。
茂憲は旧家臣池田成章の補佐を受けながら、積極的に活動。
人材育成に力を入れ、のちに社会運動家として活躍する謝花昇ら若者を県費で東京に留学させています。
茂憲の県令時代は2年足らずで終了しますが、離任時には私財を奨学資金として沖縄に寄付しました。
上杉憲章・上杉隆憲と続き、大正・昭和時代を迎えます。
上杉隆憲の妻・敏子は、徳川宗家第17代当主・徳川家正の次女でした。
こうして上杉家と徳川家は、昭和に入って姻戚関係となります。
敏子の母は、最後の薩摩藩主・島津忠義の娘でした。
つまり敏子と上杉隆憲のあいだに生まれた子は、上杉・徳川・島津と、名門の戦国大名家の血を引いていることになります。
その敏子と隆憲の子が、先ほど解説いたしました、宇宙工学博士の上杉邦憲さんなのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 上杉謙信の子孫は、上杉家32代目当主(米沢藩主上杉家16代目)である上杉邦憲さん
- 謙信の養子・景勝は、関ヶ原の戦いで敗北し、領地を4分の1に減らされた
- 上杉家は、お家断絶の危機を回避したが、30万石から15万石への領地削減された
- 財政悪化により、断絶寸前まで追い込まれた上杉家は、上杉鷹山の改革で復活した
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント