武田信玄の性格をカンタン解説!父親追放・長男処刑のサイコパス?

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『桜と信玄像:はるぴーさんによる写真ACからの写真』

「武田信玄」の名前は知っていても、どんな武将かを説明できる人は以外に少ないかもしれません。

信玄は実父「武田信虎」を追放し、嫡男「武田義信」を廃嫡、さらには自害に追いやっています。

では冷酷非情な武将だったのか・・・・というと、そう簡単に判断できることでもないのです。

この記事では「武田信玄に詳しくない方のために、どんな性格の武将なのか」をわかりやすく詳しく解説していきます。

これを読んで「武田信玄ってそういう武将だったのか」と疑問をスッキリと解消してくださいね。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 「武田信玄」は父「信虎」を追放し、息子「義信」を死に追いやった。その反面、領民を大切にした「情けの人」だった
  2. 武田信玄が父「信虎」を追放した理由は、信虎が暴君であり、領民が苦しんでいたため。息子「義信」を死なせたのは、信玄が目指した「駿河侵略」に反対し、信玄の命を狙ったため
  3. 信玄は父と子に対して非情な決断を下しているが、決してサイコパスというわけではない。信玄の行為は、国と領民を守るためには仕方ない決断だった。

武田信玄の性格をカンタン解説!智将であり「情けは味方」の人情派?

「武田信玄」は戦国時代一の智将であり、人情に厚い性格の持ち主でした。

《武田信玄》
「引用元ウィキペディアより」

信玄は、こんな言葉を残しています。

「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」

この言葉をわかりやすく解説すると、以下のようになります。

どれだけ城の守りを強固にしようとも、人の気持ちが離れてしまえば、国を治めることはできない。

人に厚い情けをかければ、城を強固にするよりもずっと強く国を守ってくれる。

恩を仇で返すようなことをすれば、いざという時に自分を守るどころか、窮地に追いやってしまう。

だから、人の気持は大切にしなければならないのだ。

この言葉からわかる通り、信玄は民衆を大切にし、人の気持ちを大切にする人情家だったということです。


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しかしそれと同時に信玄は『殺さなければ殺される』・・・そんな厳しい戦国時代を生きる武将でした。

領主として国と民衆を守り、また自分の身を守るためには非情に徹さなくてはならないことも数多くあったでしょう。

人の気持を大切にする人情家だった信玄ですが、自分と領国を取り巻く環境を冷静かつ冷徹に観察し、必要であれば非情な手段も辞さない武将であったのです。

次項で述べますが、実父を追放し、実子を廃嫡したのも、それがその時「信玄」が置かれた状況を打破するための最適な手段だったからでしょう。

状況に応じて何をどうすればよいかを冷静に判断し、最適な手段を選択し、実行できる現実主義者でもありました。

信玄は義理人情に厚い人情家であり、現実主義者だったのです。


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父『武田信虎』を他国へ追放!息子を死なせて他国を侵略!

父「武田信虎」を追放した理由

「武田信玄」は、身内に対して非情と思える処置を行っています。

実父「武田信虎」を追放し、そして嫡男「武田義信」を廃嫡したのです。

1541年6月】、信濃の「海野氏」との戦いに勝ち、意気揚々と息子【晴信(信玄)】と帰還した武田信虎。

しかし甲府を目前にしたところで足軽たちに行く手を阻まれ、「これより先、一歩たりとも甲斐の国にお入れできません」と言い渡された「武田信虎」。信虎は仕方なく、娘が嫁いでいた「駿河国」の今川氏の本拠地「駿府」に身を寄せました。

信玄の父「信虎」は、足軽たちに追い出されたわけではなく、すべて信玄の命令だったのです。

《武田信虎》
「引用元ウィキペディアより」

当時、「甲斐の国」は飢饉に見舞われ、民衆の間で領主である「信虎」に対する怨嗟の声が満ちていました。


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信虎についての一次史料は少なく、信虎について今残されている史料に描かれているその人物像は、領主としての適性に欠け、「暴君」だったと記録されています。

信玄が父を追放したことを正当化するために、そのような記述ばかりが残った可能性もありますが、人情家だった「信玄」が実父を追放しなければ、と思うほどの出来事があったのでしょう。

武田信玄はその場で信虎を殺すこともできたはずですが、そうはしませんでした。

信虎が身を寄せたのは、今川氏の本拠地「駿河」であり、信虎を預かってくれた「今川義元」に対して、信玄は父「信虎」の居候代のような金銭も支払っています。

実父「信虎」を甲斐から追放すると決めたものの、同じ追放なら同盟者でありながら関係が微妙な「今川家」に送って、スパイのようなこともしてもらおう・・・と思ったのかもしれませんね。


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息子「武田義信」を死に追いやった理由

1564年】、信玄の嫡男「武田義信」は武田家家臣の「飯富虎昌(おぶとらまさ)」「長坂源五郎」らとともに、信玄暗殺を企てました。

しかしその計画は「飯富虎昌」の実弟「飯富三郎兵衛(のちの武田四天王の一人「山縣三郎兵衛昌景」)」の密書で発覚。【1565年】、謀反に加担した家臣は処刑されたり追放されたりしたのです。

1567年10月】、義信は廃嫡され、「今川義元」の娘である正室とも離縁させられ、甲府市の東光寺に幽閉。果ては自害させられました。

信玄は自分を殺そうとした息子を廃嫡し、自害に追いやったのですが、なぜでしょう?

1つには『自分がかつて父「信虎」を追放したように、息子の「義信」に似たような仕打ちをされることを恐れたため」かもしれません。

しかしそれ以外に、当時の国同士の情勢によるものが大きかったのではないかと思います。


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この事件の約3年前、「桶狭間の戦い」で「今川義元」は「織田信長」に敗れ、亡くなりました。

今川家は嫡男「今川氏真(うじざね)」が継いだのですが、この「氏真」は父「義元」に比べ、武将としても領主としても器が小さかったため、大国「今川家」は急速に衰退し始めていたのです。

しかし「義信」の正室が「今川義元」の娘であり、「氏真」とは義兄弟の間柄ですから、衰退していようと今川家に肩入れしていました。

人情家ではあっても現実主義者の「信玄」としては、衰退する一方の今川氏との結びつきを重視するよりも、別に勢いのある武家がいればそちらと同盟を結ぶなりしたほうが、甲斐の国は安泰だと考えますよね。

そんな時に、衰退する今川家に肩入れする嫡男が自分(信玄)を暗殺して領主となろうとしている・・・などという計画を耳にしたら、積極的にその芽を摘まなくてはなりません。

自分の身も危ういわけですし、さらに領主の館で不穏な出来事があれば、他国が甲斐の国に侵攻するスキを与えることにもなりかねません。そうなると、領民の安全も守れなくなってしまいます。

必要とあれば非情な手段を取ることも厭わない「信玄」は、嫡男「義信」を廃嫡(後継者候補から除外)して幽閉し、更には自害に追い込んだのです。

自分の身を守り、甲斐の国と領民を守るためには、やむを得なかったのでしょう。


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義信の正室だった「今川義元」の娘は駿府に帰しますが、義信廃嫡の翌【1568年】、信玄は「徳川家康」とともに今川氏の領国に攻め込んで今川軍を破っています。

恐らく「今川義元」を滅ぼした「織田信長」に対して、信玄は「桶狭間の戦い」以降、脅威を感じていたでしょう。

いずれ「信長」と戦う時のために、良港や金山を持つ豊かな国「駿河」を抑えておきたかったのでしょう。

3年後の【1571年】、信玄は「徳川家康」を討つため、「遠江(静岡県浜松市周辺)」「三河(愛知県豊橋市周辺)」に侵攻。遠江と三河の城をいくつも攻め落としましたが、喀血(かっけつ・血を吐くこと)したために甲府にもどったのです。

もし信玄が喀血で甲斐の国に戻らなかったら、家康はこの時に命を落としていたかもしれません。

実父を追放し、実子を廃嫡・自害に追い込んだ信玄でしたが、その行動は信玄が置かれた状況を打破するために、信玄が最適と考えて選んだものだったのです。


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最強の戦国大名「武田信玄」は、サイコパスだったのか?

「武田信玄」は実の父親を追放し、跡取りである嫡男を廃嫡して自害させ、その息子の嫁の実家である「今川氏」の領地「駿河(静岡県中央部)」に攻め込みました。

現代に生きる私達の感覚からすると、実の親を追い出し、息子を死に追いやり、その嫁の実家に攻め入ったのですから、とんでもない所業のように思えますよね。

中には「武田信玄はサイコパスだったのだ」という人もいるようですが・・・。

果たして、信玄は「サイコパス」だったのでしょうか?


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「サイコパスの特徴」と「武田信玄が行ったこと」の関係

サイコパス・・・と言われる性格基質の特徴を上げてみましょう。

  1. 口達者
  2. 自己中心的
  3. 自慢話大好き
  4. 自分の非を認めない
  5. 結果至上主義
  6. 嘘を平気でつく
  7. 他人に共感ができない
  8. 他人を操ろうとする
  9. 良心が欠如している
  10. 危険な刺激を求める

という特徴があります。

皆さんの身近にも、こんな性格的な特徴を持った人はいるのではないでしょうか?

信玄が行った所業の数々

  • 「親を追放」
  • 「息子を廃嫡して死に追いやる」
  • 「息子の嫁の実家を攻撃する」

という行動は、上記に上げたサイコパスの特徴の「結果至上主義」や「他人に共感できない」「良心が欠如している」にあてはまるように思えますよね。


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歴史を学ぶ際の注意「現代の価値観で歴史を見てはならない」

しかしだからと言って、「信玄=サイコパス」と考えるのは、非常に短絡的で軽率なものの見方になってしまうと私は思います。

1つ、歴史を学ぶ時に忘れてはならないことがあるのです。それは

『現代に生きる私達の倫理観や価値観で歴史上の人物の行動を判断してはならない』

ということです。

例えば、昔の物語を読むとお産の時、物の怪に取り憑かれると大変だからという理由で、寝殿造りの屋敷の庭で一晩中炎を燃やし続け、「検非違使(平安時代の警察)」が弓弦を鳴らします。

医学の発達した現代でも、お産で母子ともに命を落とす事例は「2千件に1件」くらいの割合で発生しますが、『源氏物語』の時代はもっとその割合は高かったでしょう。

お産の時に母子ともに亡くなってしまうことを、平安時代の人たちは「物の怪(もののけ)」に祟られたと考えたのです。

物の怪が寄ってこないよう、あかあかと炎を燃やし、弓弦を大きな音で鳴らしてそれらを追い払おうとしていたのですね。


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現代の私達の目から見れば「ずいぶんと迷信深い」と思ってしまいますが、当時の人たちは真剣でした。

つまり同じ日本人とはいえ、「平安時代の人たち」と「現代に生きる私達」では、「価値観や倫理観」が全く違うのです。

大学で史学科に在籍した筆者は、教授からまずこのことを厳しく教え込まれました。

「同じ日本人だからと、歴史上の人物や出来事を、自分たちの価値観や倫理観で考え、判断することは傲慢であり軽率である」

と。

室町時代に成立した文化が、「通奏低音」のように現在の日本人の美意識に深く強く影響を与えているのですが、だからと言って「同じ日本人だから」と「現代の倫理観」で判断するのは軽率です。

歴史上の人物や出来事についてはまず、「なぜそういう行動を取ったのか」を考え、理解しなければならないのですね。

同じことは、戦国時代に生きた「武田信玄」の行動にも言えます。


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「父の追放」「廃嫡」は、国と民を守るため仕方なかった

信玄の生きた『戦国時代』は「殺さなければ殺されるような時代」だったのです。

信玄は父を追放しましたが、その場で殺そうと思えばできたでしょう。しかし信玄はそうしませんでした。

嫡男「義信」を廃嫡したのも、領主である自分(信玄)を殺し、自分(義信)が取って代わろうとしていたのを察知したからです。自分(信玄)の身を守り、領国の動揺を避けるためには、「廃嫡」は致し方のないことだったのでしょう。

信玄は自分の娘達のために、神社で請願を行うなど、身内に対して細やかな心配りもしていました。

「実父の追放」と「実子の廃嫡」は、そうしなければ自身の身が危うく、また「甲斐の国の平安を守るために必要」だったから行ったのです。

今川領に攻め入ったのも、「織田信長」に「今川義元」が「桶狭間の戦い」で敗れ、今川家が急速に弱体化し始めたため、「領土拡張の絶好の機会だったから」だと言えます。

逆に、信玄が今川領を攻めなかったとしたらどうなっていたでしょうか。隣国の「徳川家康」や「織田信長」が今川領を支配し、そこで莫大な軍団を養い、武田信玄が治める「甲斐国」へと侵攻してくるでしょう。そうなれば、信玄が守ろうとした甲斐国の領民たちは、田畑を焼かれたり略奪されたり、数々の苦難にあう危険性があるのです。

「信玄」は決してサイコパスではなく、「甲斐の国の領土と領民を守る領主」として、心を鬼にして己が成すべきことを成しただけだったのでしょう。


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『武田信玄』について「ひとこと」言いたい!

戦国最強の武将、というと私は「武田信玄」を思い浮かべます。

なぜなら信玄には、戦国の覇者「織田信長」も、天下人となった「徳川家康」も、敗北していますから。

特にのちの天下人「徳川家康」は、人生において唯一と言って良い敗北を「武田信玄」によって負わされています。【1573年】の「三方ヶ原の戦い」です。

《武田家の家紋・武田菱》
「引用元ウィキペディアより」

もし「足利義昭」の要請に応えた信玄が無事上洛を果たしていたら、信玄と家康はどうなっていたでしょうか?信玄が上洛した頃には「信長」も「家康」も討ち取られて亡くなっていたでしょうから、その後の歴史は全く異なっていたかもしれません。

さて、その信玄は追放した実父「信虎」よりも寿命が短く、上洛途上に三河で血を吐き、甲府に戻る途中「信濃国・駒場」で亡くなりました。

記録によれば、信玄は若い頃からたびたび吐血していたようです。

また「隔の病」だったとも記録されていました。


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「隔の病」は、【胃がん】などの消化器系の【がん】のことです。

若い頃から吐血していたのなら、「結核(けっかく)」かなとも思いますが、あの時代の人が「結核」を患ったら、もっと寿命が短かったのではないでしょうか。

もしかしたら、信玄は若い頃から呼吸系統が弱く、ひどく咳き込み過ぎて気管支を傷つけ、吐血していたのかもしれません。

その症状を繰り返すうち、「肺がん」にでもなってしまったのでしょうか?

いずれにせよ、歴史に「タラレバ」は許されないのですが、信玄が「家康」や「伊達政宗」のように長生きしていたら、戦国時代の歴史は全く異なるものになっていたでしょう。

ところで、【1988年】に放映された「中井貴一」さん主演のNHKの大河ドラマ『武田信玄』は名作の呼び声が高い大河ドラマですよね。私の中の「甲斐のお館様」のイメージはあのドラマ以来、「中井貴一」さんが演じた「武田信玄」になりました。

機会があったら、みなさんも一度見てみてくださいね。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「武田信玄」は父「信虎」を追放し、息子「義信」を死に追いやった。しかし決して暴君ではなく、領国の「甲斐」を大切にした名君だった
  2. 武田信玄が父「信虎」を追放した理由は、信虎が暴君であり、苦しんだ領民を救うためだった。息子「義信」を死なせたのは、義信が信玄と対立し、その命を狙ったため
  3. 信玄は父と子に対して非情な決断を下している。しかし決してサイコパスというわけではない。信玄の「信虎」「義信」への仕打ちは、国と領民を守るためには甲斐国の領主として仕方ない決断だった。

以上となります。


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この記事を短くまとめると、以下の通り

『武田信玄』は人情家で現実主義者な人物で、「戦国時代一の武将」でした。

人の気持を考え、領民を大切にした領主でもあった「信玄」ですが、自らが置かれた不利な状況を打破するためには、非情な手段を選ぶこともあったのです。

実父「信虎」を追放し、実子「義信」を廃嫡・自害に追い込んだのは、自分自身と領国・領民を守るために信玄が選んだ最も非情な手段でした。

身内に対するその非常さから、「信玄はサイコパスではないか」と考える人もいますが、歴史上の人物の行動や価値観を、現代に生きる私達の倫理観、価値観で判断してはなりません。

同じ日本人でも、当時とはものの見方・考え方が全く異なる上に、信玄の生きた戦国時代は「殺さなければ殺されるような厳しい時代」だったのですから。

「足利義昭」の要請に応え、信長を討つべく上洛を開始した信玄でしたが、三河まで到達したところで喀血、甲斐国「甲府」に戻る途上で亡くなりました。

享年【53歳】でした。

『武田信玄墓所:源五郎さんによる写真ACからの写真』

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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