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織田秀則とはどんな人?織田信長の孫の生涯と最後をわかりやすく解説

皆さんは織田秀則とはどんな人かを、ご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

    1. 関ヶ原の戦いで、兄と共に西軍に与した織田秀則は、家康ひきいる東軍相手に勇猛果敢な戦いを繰り広げた
    2. 織田秀則は、1615年の大坂の陣では、開戦前に大坂城を脱出した
    3. 1625年、織田秀則は京都で静かに亡くなった

この記事では「織田秀則」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は「織田秀則」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、「織田秀則」に詳しくなれます。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。


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目次

プロフィール

 

織田木瓜紋
引用元ウィキペディアより

【名前】織田秀則おだひでのり

【幼名】吉丸

【父】織田信忠

【祖父】織田信長

【兄】織田秀信(幼名・三法師)

【生誕】1581年(天正9年)

【死没】1625年(寛永2年10月27日)

【享年】45歳
【主君】豊臣秀吉・秀頼


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生涯年表

 

出来事
1581年(1歳) 織田信長の息子・織田信忠の次男として誕生
1582年(2歳) 本能寺の変で、祖父である織田信長と、父・織田信忠が死去
1590年(10歳) 豊臣秀吉が小田原合戦に勝利し、天下統一達成
1596年(16歳)
  • 大坂城下で暮らし、キリスト教に入信し、パウロという洗礼名を得る。
  • 兄の織田秀信も同時にキリスト教に入信。
  • ルイス・フロイスは秀則を「素性を知らずに彼と少し話した場合、その品格によりドイツの貴族と判断してしまう」と評価したといいます。
1598年(18歳)
  • 豊臣秀吉・死去
  • 京都妙心寺の塔頭として見性院を創建。見性院は後に美濃の石河氏により桂春院として整えられ、現在も存続。
1600年(21歳)
  • 関ヶ原の戦いに際し、兄・織田秀信と共に、石田三成の西軍に属し、美濃岐阜城に篭城。
  • 一般には偽書とされる『江源武鑑』によると、秀信の弟・織田秀則に大いなる働きがあったと記述。
  • 戦後、豊臣家を頼り、家来として士官。
1615年(36歳) 大坂夏の陣が勃発。豊臣秀頼が母・淀殿と共に自害。豊臣家滅亡。

このとき織田秀則は、開戦前に織田信雄や織田有楽斎たちと共に、大坂城を脱出。

1616年(37歳) 徳川家康・死去
1625年(45歳) 京都で死去、45歳。


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生い立ちと最期

生誕から関ヶ原の戦いまで

1581年、戦国時代末期、天下統一目前に控えた織田信長の嫡男・織田信忠に、二人目の息子が生まれます。

吉丸と名付けられたその子の兄は、織田信長の後継者・三法師こと織田秀信でした。

吉丸は、のちに織田秀則と名乗ることになります。

弟・織田秀則は、幼少期より兄の織田秀信と共に過ごし、その血筋を受け継ぐかのような、堂々とした風貌と品格を備えていました。

1596年、16歳になった若武者は兄と共にキリスト教に入信し、パウロという洗礼名をあたえられます。

同時期に元服し、正式に兄の家臣として活動を開始します。

宣教師ルイス・フロイスの記録によると、織田秀則の気品は、まるでドイツ貴族のようだったと称賛されており、織田信長の血脈を受け継ぐ武将としての素質を早々に示していました。

織田信長
引用元ウィキペディアより
クリックすると拡大できます

兄は豊臣政権下で活躍し、幼い頃からその兄を支え、政務を代行するなど、若き武人は兄の片腕として尽力します。

1598年には京都の妙心寺に寺院を建立し、その名声は京の都にまで轟きました。

しかし、関ヶ原の戦いを境に、彼の運命は大きく変わります。

関ヶ原の戦いには敗北し、豊臣家を頼る

天下分け目の関ヶ原の戦い。兄と共に西軍に与した織田秀則は、徳川家康がひきいる東軍相手に一歩も退かぬ勇猛果敢な戦いを繰り広げます。

その活躍は戦記にも記され、織田信長の血脈を受け継ぐ武将としての才覚を遺憾なく発揮しました。

しかし、戦局は西軍に不利に傾き、織田軍は米野の戦いで敗北。

岐阜城も陥落し、兄・織田秀信は、高野山への流罪が決まります。

当初は兄と共に高野山へ向かう予定だった織田秀則でしたが、最終的に彼は異なる道を選びます。

それは、豊臣秀頼に仕えることでした。

豊臣秀頼 京都市養源院蔵:Wikipediaよりパブリックドメイン

高野山は織田信長による宗教弾圧を受けていたため、織田家に対して敵対心を抱いており、兄を苦難から守るための配慮だったとも言われています。

織田秀則が頼った豊臣家には、淀殿をはじめとする織田家の縁戚が多く、身を寄せやすい環境でもありました。

兄と袂を分かった織田秀則は、新たな主君の下で再起を期します。

大坂の陣(豊臣家滅亡)と織田秀則の最期

織田秀則は、関ヶ原の戦いののち、豊臣家存続に力を尽くしたものの、1615年の大坂の陣では、開戦前に大坂城を脱出しています。

関ヶ原の戦後、天下は徳川家康の手に渡り、豊臣家は窮地に立たされます。

織田秀則は、豊臣家臣として淀殿に仕え、苦境に立つ主家を支えました。

彼と共に、信長の血縁である織田信雄、織田有楽斎、織田信包らも淀殿を支え、豊臣家の存続に尽力します。

しかし、1614年、徳川家康による大坂冬の陣が始まります。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

秀則の動向は詳細に伝わっていませんが、織田信長の次男・織田信雄や、同じく織田信長の弟である織田有楽斎らと同様に、大坂城が落城する前に脱出していたようです。

その後、秀則は誰にも仕えることなく、10年後の1625年、京都にて45歳でその生涯を閉じました。

戦国武将としての華やかな活躍は、関ヶ原と共に過去のものとなりました。

残ったのは、戦乱の世を生き抜いた一人の男の静かな最期です。


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徳川家康の次男・結城秀康につかえた説

一説によると秀則は津田信益と改名し、徳川家康の次男・結城秀康に仕えていたという異説も存在します。

福井藩の津田信益という人物は、娘が結城秀康の側室となるなど、親密な関係を築いていました。

結城秀康
引用元Wikipediaより

しかし関ヶ原の戦当時、秀則は19歳だったため、娘を側室に差し出すには年齢に無理があることから、同名の別人ではないかという見方が有力です。

一方、結城秀康は家康の息子でありながら、秀吉の養子でもあり、新豊臣派であったことから、西軍に属した秀則をかくまってもおかしくありません。

真偽は闇の中ですが、この異説は、秀則の晩年における新たな可能性を示唆しています。

ちなみに結城秀康は、父・徳川家康より先に、1607年に病死しています。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 関ヶ原の戦いで、兄と共に西軍に与した織田秀則は、家康ひきいる東軍相手に勇猛果敢な戦いを繰り広げた
  2. 織田秀則は、1615年の大坂の陣では、開戦前に大坂城を脱出した
  3. 1625年、織田秀則は京都で静かに亡くなった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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