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伊達政宗の性格を逸話・エピソードから考察!野心家すぎて天下取れず

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『伊達政宗像:松波庄九郎さんによる写真ACからの写真』

「伊達政宗」が戦国時代屈指の名将だとは知っていても、その「性格」や「天下を取れなかった理由」を詳しく説明できる人は少ないかもしれませんね。

大学で日本史を専攻するまで、私も政宗について詳しくありませんでした。

若くして家督を譲り受けた伊達政宗は、伊達家の当主として、時には肉親とも激しく争いながら戦国の世を生き、徳川第3代将軍「徳川家光」の時代に天寿を全うしました。

この記事では「政宗の逸話やエピソード」からその「性格」「なぜ天下を取れなかったか」について解説します。

これを読んで「伊達政宗はそういう人だったのか!」と、疑問をスッキリと解消してくださいね。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 独眼竜「伊達政宗」は、常に天下を狙った野心家。宿敵「蘆名氏」を滅ぼし奥州の覇者となったが、豊臣秀吉・徳川家康にはかなわなかった
  2. 「政宗」は、父「輝宗」や弟「小次郎」を殺害したと言われているが、父を殺害したわけではなく、弟も殺していない説がある。その正確は「派手好き」で「筆まめ」、「苛烈な一面」もある武将だった。
  3. 政宗が天下を取れなかった理由は主に2つ。「生まれてくるのが遅すぎた」ことと「野心家すぎたために、秀吉や家康に警戒された」こと

伊達政宗の逸話・エピソード集!父や弟を殺害し、伯父と戦った戦好き?

「伊達政宗」は父と弟を殺害したといわれ、伯父『最上義光』とも戦った「身内相手でも容赦しない戦好き」「争い好きな武将」のように考えられていますね。

実際はどうだったのでしょう?

政宗の一生を簡単に振り返ってみましょう。

《伊達政宗》
「引用元ウィキペディアより」

 



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「伊達政宗」誕生から、「摺上原(すりあげはら)の戦い」まで

1567年】、「伊達政宗」は

父『伊達輝宗』

母『義姫』

のあいだに、生まれました。

生誕地は、米沢城(山形県米沢市)です。(同年、「織田信長」が美濃国を制圧)

『梵天丸(ぼんてんまる)』と名付けられた政宗は、利発で腕白な少年としてすくすくと育ったのですが、【1571年】に「天然痘」にかかり、命は助かったものの「右目」を失明します。

しかも、ただ見えなくなったのではなく、「眼球」が「眼窩(がんか・目玉がおさまる頭蓋骨の穴のこと)」から飛び出してしまいました。

息子のその姿に驚いた母「義姫」は、「梵天丸」と距離を置くようになってしまいます。

この出来事も影響したのか、母「義姫」は「梵天丸」よりも、弟の「小次郎(幼名「竺丸 じくまる」)」を溺愛するようになったのです。

病気で目が飛び出し、母親に遠ざけられた「梵天丸」はすっかりふさぎ込んでしまい、暗い少年になってしまいました。

しかし「梵天丸」の乳母だった「片倉喜多(かたくら きた)」の弟『片倉小十郎景綱』が、梵天丸を窮状から救い出します。

小十郎は伊達家の御典医(かかりつけの医師)のところへ「梵天丸」を連れていき、飛び出した右目を小刀でえぐり出しました。

かなりの荒療治でしたが、おかげで「梵天丸」の容貌は整い、それにより明るさを取り戻したのでした。

梵天丸に目をかけていた父「輝宗」は、息子の教育のために臨済宗の「虎哉宗乙(こさい そういつ)」禅師ほか数々の高名な儒学者などを米沢城に招聘しました。

そうした高名な僧や学者を師とし、「梵天丸」は学問と武芸に励み、立派な若武者へと成長していきます。

1577年】に元服した「梵天丸」は、伊達家中興の祖として尊敬を集めていた先祖である伊達家九代目当主「伊達政宗」公の名前をもらい、『伊達 藤次郎 政宗』と名乗るようになります。

2年後の【1579年】、三春城主『田村清顕』の娘『愛姫(めごひめ)』と結婚。

現代の私達の感覚で見ると、【10歳】で元服し、【13歳】でお嫁さんをもらったのは早すぎるのでは?・・・と思えますが、当時の平均寿命から考えると、早いということは全くないのですね。

子供の「梵天丸」でいられた時代は短かったのですが、乳母だった「片倉喜多」やその弟「小十郎」のように、暖かく仕え、時には厳しく諭してくれる・・。そんな周りの人に恵まれ、政宗は立派な武者となりました。

1581年】に宿敵「相馬氏」との戦いで初陣を迎えます。

政宗が初陣を迎えた翌【1582年】、天下統一を目前にした「織田信長」が「本能寺の変」で重臣の「明智光秀」に討たれ、亡くなりました。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

明智光秀を敵とした弔い合戦を制した織田家臣「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」は、織田政権の中で急速に力をつけ、天下人への階段を駆け上がり始めます。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

1583年】、秀吉は織田家家臣団の中で最大のライバルだった『柴田勝家』を「賤ヶ岳の戦い」で撃破。

越前「北ノ庄城」へ撤退した「柴田勝家」を、信長の妹「お市の方」もろとで攻め滅ぼし、秀吉は名実ともに「織田信長の後継者」となったのでした。

《柴田勝家》
『引用元ウィキペディアより』

政宗は京都周辺・日本の中央でのこうした社会情勢の中、父「輝宗」から家督を譲られることになります。

1584年】に父「輝宗」の隠居に伴い、家督を譲られた政宗は「第17代伊達家当主」となりました。

【同年】、奥州の大名「二本松氏」と「大内氏」が手を結び、政宗の正室「愛姫」の実家である「田村氏」を攻撃したため、田村氏の同盟者である「伊達家」とも敵対関係となりました。

1585年8月】、二本松・大内の両氏に怒った「政宗」は、大内氏の居城「小手森城」を攻め、城内の人を皆殺しにします。(小手森のなで斬り)

10月】、政宗の所業に恐れをなした二本松城主「二本松義継」は、政宗に降伏を申し入れ、父「輝宗」が和睦の仲介をしました。

10月8日】、この「二本松義継」は驚くべき行動に出ます。「宮守城」へ滞在していた輝宗へ「調停のお礼」のために訪ねた「二本松義継」。面会終了後に「義継」を見送りに出た「輝宗」に対して、「義継」は家臣とともに刀を突きつけ、拉致。

家臣団は輝宗を助け出すべく後を追いますが、その家臣団にたいして輝宗は叫びます。

「ワシもろとも此奴を撃て!」

この言葉を合図に伊達家臣団は一斉射撃を行い、輝宗もろとも「二本松義継」ら二本松勢を討ち取りました。

その日、鷹狩に出かけていた政宗は、急の報せを受け現場にむかいますが、そのときにはすべてが終わっていたのです。

輝宗の急死によって、政宗は窮地に追い込まれました。

父「輝宗」が睨みを効かせている間はおとなしくしていた近隣勢力も、若い「政宗」なら負かして領土を拡大できるかも・・・と考えたのでしょう。

常陸国(茨城県)の大名「佐竹氏」は奥州に介入し始め、石川氏などの同盟勢力も離反。軍事・外交的に「政宗」は否応なしに戦を続け、苦労し続けることとなります。

1587年】、信長の死からわずか5年で、最高位「関白」に上りつめた秀吉が、関東と奥州の大名(北条氏と伊達氏)に対し、大名同士の私戦を禁止した「惣無事令(そうぶじれい)」を発令。若い「政宗」はこの命令を無視。周辺諸国との戦を継続します。

1588年】には母方の伯父「最上義光」までもが、伊達家の宿敵「大崎氏」の味方をして政宗と敵対。政宗は伊達家の支配地域を次々と、伯父「最上義光」に侵略されてしまいました。

さらに「政宗」は、会津の強敵「蘆名氏」と「相馬氏」に苗代田城を落とされ、窮地に追い込まれます。ところが政宗の重臣「伊達成実(だて しげざね)」が大内氏を攻略することに成功。さらには母「義姫」が実家の最上家との間に入って仲裁。「最上家」との争いを停戦に持ち込みます。

1588年7月】、「最上氏」と「蘆名氏」の両氏と「伊達家」の間で和議が成立。政宗はようやく父「輝宗」の死後に起きたゴタゴタから開放されました。

ホッと一息つけるかと思いきや、豊臣秀吉からの命令を無視して戦を続けた政宗は、秀吉から上洛を命じられてしまうことになります。

政宗は表向きは秀吉に恭順の姿勢を示したものの、【1589年2月】に政宗は落馬して骨折してしまい、療養生活を余儀なくされてしまいます。

そのスキをつき、政宗の正室「愛姫」の実家「田村氏」の領土がまたも敵勢力からの攻撃を受けます。これを救援するため、「政宗」は否応無しにまたしても戦に駆り出されることとなります。

1589年7月】、政宗は宿敵「蘆名氏」を「摺上原(すりあげはら)の戦い」で撃破。ようやく「蘆名氏」を攻め滅ぼした政宗に、奥州の大名は恭順。伊達家の領地は東北地方でも最大勢力へと一気に拡大したのです。

しかし関白「豊臣秀吉」からすると、政宗の行為は「惣無事令」と自分への恭順を無視したということで、決して許すことのできない行為でした。

秀吉は正宗に対して脅しをかけます。

「蘆名氏の所領であった『会津』から撤退しない場合は、奥羽に出兵する」

と政宗に通告したのです。



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秀吉の「小田原征伐」開始。政宗、秀吉に恭順

1589年11月】、「後北条氏」が「真田昌幸」の領地に位置する城「名胡桃城(なくるみじょう)」に侵攻。それを口実として、秀吉は「小田原討伐(北条征伐)」を行うことになりました。

父「輝宗」の代から「後北条氏」と同盟関係にあった「政宗」は、『秀吉と戦うか』または『秀吉軍として北条家と敵対し、小田原へ参陣するか』の判断を強いられます。

悩み抜いた末、【1590年】、秀吉に下ることにした政宗。ところが「惣無事令」の後で手に入れた領地「会津」を没収されるなど、苦労して拡大した地を秀吉に取り上げられ、政宗の支配地域は一気に「半分」になってしまいました。

この「小田原参陣」の直前、兄「最上義光」にそそのかされた母「義姫」が政宗を毒殺しようとします。それに気づいた「政宗」は、母を成敗するかわりに弟「小次郎」を殺害した・・・とも言われているます。これは母「義姫」による「政宗暗殺未遂」の容疑を、弟「小次郎」にかぶせて母を守り、同時に伊達家の内でくすぶっていた「小次郎を政宗の跡目として伊達家当主にしよう」とする動きを封じる意味もあったと考えられます。

1591年】には、会津領主「蒲生氏郷」とともに「会津」の農民一揆を平定。しかし「政宗」がこの一揆を扇動したという疑いを掛けられ、秀吉から更に領土を取り上げられてしまいます。

1593年】、秀吉による朝鮮半島への出兵「文禄の役」に参戦。

このときの伊達家臣団の軍装が見事だったことから、「しゃれた身なりの人」を意味する「伊達者(だてもの)」という言葉が生まれました。

1595年】、関白「豊臣秀吉」は、跡取りとして扱っていた甥「豊臣秀次」に謀反の疑いをかけ、切腹へと追い込みます。(秀次事件)

《豊臣秀次》
『引用元ウィキペディアより』

政宗の母方の従姉妹「駒姫」は、秀次と結婚するため上洛したばかり。ところが「秀次」の他の妻子とともに、秀吉の命令で処刑されてしまいました。このとき「政宗」自身も、「秀次」と親しかったために謀反への関与を疑われてしまいます。

危うく「伊予国(愛媛県)」への転封・減封をされそうになった政宗でしたが、家臣の直訴でなんとか難を逃れ、無罪とされます。

しかし「秀吉」の「政宗」に対する疑いは強く、次に謀反を疑われた場合は隠居して息子に家督を譲ることを約束させられるのでした。

秀吉はよほど、政宗が恐ろしかったのかもしれません。

1598年】、秀吉が亡くなると、政宗はその遺言を無視して「徳川家康」の六男「松平忠輝」に長女「五郎八姫(いろはひめ)」を嫁がせます。



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「関ヶ原の戦い」~「大坂の陣」・・・・豊臣家滅亡

1600年】、徳川家康が会津領主「上杉景勝」「直江兼続」らを討伐するために出陣。家康が畿内を留守にしたとたん、【石田三成】が【毛利輝元】を総大将に、家康に対して挙兵。家康は政宗が秀吉に奪われた所領を返還することを条件にして、政宗に自分の味方をするように迫ります。政宗も条件をのみ、家康に味方することとなりました。

《石田三成》
「引用元ウィキペディアより」

「関ヶ原の戦い」が勃発し、「最上義光」の領地へ上杉家の重臣「直江兼続」が侵攻。最上氏から救援要請を受けた政宗は、援軍を派遣。

《直江兼続》
「引用元ウィキペディアより」

政宗の援軍もあり、「直江兼続」は「最上義光」に敗れ、米沢城へ撤退。政宗は「関ヶ原の戦い」に関連した戦いでの恩賞は、思ったほど得られませんでした。

その理由は、政宗がどさくさ紛れに奥州北部「南部」氏の領地をかすめ取ろうとしたため・・・と言われています。これにより政宗に約束されていた領地、通称「百万石のお墨付き」は反故となりました。

1601年】、家康の許可を得た政宗は居城「岩出山城」からを「仙台」に移し、仙台の城下町を建設します。

さらに【1613年】には家康の許可を得て、「支倉常長」らを「慶長遣欧使節」として「ローマ」へ派遣しました。

1614年】、豊臣家と徳川家の戦い「大坂冬の陣」では、和議成立後の「大坂城の外堀埋め立て」について、その作業の一部を伊達藩が担います。

1615年】、「大坂夏の陣」では豊臣家家臣「後藤又兵衛基次」を滅ぼしますが、「真田信繁(幸村)」に苦戦。撤退を余儀なくされたものの、家康に協力して豊臣家を滅ぼすことに成功しました。

この時「真田信繁(幸村)」に撃破された政宗隊は、「真田信繁(幸村)」から

「関東勢100万といえども、男は一人も無く候」

とあざけり笑われたと言われています。

そのあまりにも見事な武者振りに惚れ込んだ政宗は、その後「真田信繁(幸村)」の娘「お梅」を引き取り、重臣「片倉小十郎重長」へ継室として娶らせます。

こののち、仙台に「真田家」の家系が代々受け継がれ「仙台真田家」が今も続いています。

真田信繁/真田幸村肖像:上田市立博物館所蔵品:Wikipediaよりパブリックドメイン

「大坂の陣」が終わり、世の中が安定してからの政宗は、もっぱら領土内の開発に尽力。それと同時に徳川家へ忠誠を誓い、家康亡き後も「徳川秀忠」と「徳川家光」、三代にわたって徳川家へ仕えます。

特に三代将軍」「徳川家光」には「伊達の親父殿」と慕われ、参勤交代で江戸城に上がるたび家光にせがまれ、祖父「家康」の若い頃の話や「関が原の戦い」の話をしていたそうですよ。

自ら料理を作るなど健康に気を使い続けた政宗でしたが、【1634年】頃から食欲不振に悩まされるようになり、【1636年】、江戸の仙台藩上屋敷で亡くなりました。

享年70歳。



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性格を考察!伊達政宗とはどういう人だったのか?

政宗の生涯をざっと見てきましたが、「伊達政宗」という武将が、いったいどんな性格であるのか、読み取れましたでしょうか?

父・弟を殺し、伯父とも戦い、「豊臣秀吉」に逆らった「争い好き」なとんでもない人に思った人もいるでしょうね。

しかし、人の性格・性質というのは、一面的に見てはなりません。

では、これらの出来事から「伊達政宗の性格」をどう読み解くか、筆者の考えを書いていきましょう。



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「政宗」は父を殺していない

「二本松義継」に父「輝宗」が拉致された後、政宗が急を聞いて駆けつけた時には、義継もろとも父「輝宗」も亡くなっていました。

「鷹狩に出ていた政宗が実は父殺しを行ったのだ」

と主張する学説もありますが、輝宗亡き後に政宗が周辺諸国をことごとく敵に回して窮地に陥った事実を考えると、「父殺し」を実行してもデメリットのほうが大きかったはずです。

しかも、母「義姫」に疎まれるようになった政宗を不憫に思ったのか「元々武将として有能なやつよ」と思ったのか、どちらにしても「輝宗」は息子「政宗」の教育に対して非常に熱心でした。

政宗も、そんな父の愛情をしっかりと感じて育ったはずです。

また輝宗は伊達家家臣の中から特に優秀な若者を選び、政宗が子供の頃から仕えさせてもいます。

その中の1人が、天然痘で飛び出した右目をえぐり出した「片倉小十郎景綱」です。輝宗は政宗を慈しみ、その「片倉小十郎」や姉「片倉喜多」とともに守り育てさせていたのです。

万一、輝宗の拉致現場に政宗が間に合っていたとしたら、伊達家のために父の命令に従って父ごと銃撃するようにと家臣に命じたでしょう。しかし「父殺し」を行えば、伊達家臣団の離反を招きかねませんので、もし万が一政宗がそのような命令を下したら、「片倉小十郎景綱」や「片倉喜多」が全力で止めたでしょう。

よって、私の考えですが、『政宗は父殺しを行っておらず、父を殺した人非人ではない』と思います。



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弟「小十郎」を殺してはいない

小田原参陣の前に、伯父である「最上義光」にそそのかされて義姫が政宗を毒殺しようとしました。ところがその毒殺が未遂に終わり、怒った政宗が母の代わりに弟「小十郎」を殺害。「義姫」は実家「山形」へ逃げたと言われています。

しかし実際には、「義姫」は実家へ逃げ帰ってなどおらず、政宗が「朝鮮出兵」をした頃から母子で何度も手紙のやり取りをしているのです。

政宗の弟「小十郎」は【1590年】に急死していますが、その死因が何であるかはっきりわかっていません。

政宗に殺されたという話は、江戸時代の書物に書かれた話で、同時代の一次史料ではないのです。

ただし小次郎は政宗によって「7代の勘当」を言い渡されており、法要が営まれたのは、政宗から数えて8代目の子孫の時代です。「小次郎」が亡くなってから実に【203年】が経っていました。

それだけ長期間にわたって勘当を言い渡されるほどのことを小次郎がしたのでしょう。もしかしたら母「義姫」ではなく、「小次郎」自身が兄「政宗」を毒殺しようとしたのかもしれません。

だとすれば、政宗に切り捨てられてのではなく、自害を言い渡された可能性はあるでしょう。政宗自身で手を下したのではないだろうと私は思います。



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さて、「小次郎は政宗に導かれて、とある寺へ出家した」という逸話が残されています。

現在の「東京都あきる野市」に「大悲願寺」というお寺があります。そこにかつて「秀雄」という住職がおられました。一説によるとその「秀雄」という住職が「伊達輝宗の末息子」といわれているのだとか。

もし万が一、その「秀雄」が「小次郎」のことならば、「小次郎」は【1642年】に亡くなっています。

実は「朝鮮出兵」の際、母「義姫」は渡海した政宗に対して「お金」を送り、異国の地での戦で弱気になっていた政宗を励ましているのです。これは「政宗が小次郎を殺害した」とされる日から、わずか数年後のこと。

もしも「政宗」が弟「小次郎」を斬ったのなら、母「義姫」はわずか数年でこのような行動が取れるものでしょうか?

小次郎はもしかすると生きていたのかも・・・・。そんな可能性があってほしい・・・。そんな気がします。



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伯父「最上義光」と戦ったのも、正室「愛姫」の実家の田村家の宿敵「大内氏」と「最上氏」が組んだから

父「伊達輝宗」が「二本松義継」に拉致されて命を落とし、政宗の置かれた状況は一変しました。

まだ若い領主「政宗」は周囲の強敵たちから侮られ、常陸国「佐竹氏」の侵攻や、伊達家と同盟関係にあった武将の離反に悩まされることとなります。政宗は母「義姫」の兄である山形城主「最上義光」にまで攻め込まれてしまったのです。

「最上義光」は「大内氏」とともに伊達家領土を攻略。城をいくつか攻め落とし、政宗は窮地に追い込まれました。

その政宗を救ったのは母「義姫」だったのです。

息子と兄が交戦する戦場のど真ん中に輿で乗りつけ、政宗と義光に和睦を申し入れました。

最初、和睦に渋っていた義光も、幼い頃から仲の良かった妹の頼みを無碍にすることはできませんでした。ついに「最上義光」は妹「義姫」の頼みを聞き入れ、伊達家と最上家は和睦。政宗は父「輝宗」の死から続いた窮地をようやく脱することができたのです。

その後の「関ヶ原の戦い」の時にも、政宗は上杉軍からの攻撃を受けた伯父「最上義光」の救援要請を受け、援軍を派遣。

一度は争った伯父「最上義光」ですが、政宗は母の取りなしによって関係を修復したのですね。



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戦国武将として苛烈な一面もあった

政宗は【1585年】、宿敵であった蘆名家の領地へ侵攻。「小手森城」を攻め落としました。近隣諸国への見せしめとして、城内にいたものは城主や武士だけではなく、女子供にいたるまで全員抹殺しています。

この出来事は「小手森城の撫で斬り」として後世まで伝えられ、小手森城跡のある安達郡では、現在でも伊達氏ゆかりの祝い唄「さんさしぐれ」が歌われることがありません。

それほど政宗の行動に対して、小手森城周辺地域の住民は嫌悪感を抱いていおり、今も払拭されていない・・・ということですね。

戦国時代は「殺さなければ自分が殺される時代」でした。

こうした虐殺行為は、被害人数の多少を問わず、似たようなことをやっている武将は他にもいます。この行動だけで政宗を残虐非道とは言えないでしょう。

ちなみに「織田信長」はもちろん「武田信玄」も、「撫で斬り」と呼ばれる大量処刑を行っています。「人は城 人は石垣・・・」と歌った信玄も、無差別処刑で武田家の恐ろしさを周辺諸国へアピールしたのです。



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身内の女性に対し「筆まめ」だった

母「義姫」と親しく手紙をやり取りしていた政宗は、正室「愛姫」とも手紙のやり取りをしていました。

田村家から嫁いだ愛姫についてきたお付きのものが、政宗暗殺を企てたとして処分されたことがあり、それ以降「愛姫」との夫婦仲が悪くなったとも言われています。

しかし政宗が上洛した後、秀吉の人質として京都の伊達屋敷に住むようになった愛姫と、政宗は親しく手紙をやり取りしています。【1594年】には家康の六男「松平忠輝」に嫁いだ娘「五郎八姫」が誕生していますから、この頃には夫婦仲は修復していたようです。

1613年】、娘婿「松平忠輝」の居城である越後「高田城」建築のため、新潟に滞在していた政宗は、愛姫に手紙をしたためました。

その手紙は『源氏物語』『枕草子』『徒然草』などの歴史的な書の言葉を引用し、季節や花鳥風月について語りかけられているものです。父「輝宗」が「政宗」に対して施した英才教育によって、政宗が教養深い人間に育ったことがうかがえる資料となっています。



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派手好きだった

1590年】の「小田原征伐」以前のことです。伊達政宗は豊臣秀吉から何度も上洛を求められたにも関わらず、なかなか腰を上げませんでした。

これ以上無視するとまずい・・・・というタイミングで小田原に赴き、秀吉と対面しています。ところがそのときの政宗は、僅かな手勢を率いただけで、しかも秀吉の前に「死装束」である「白装束」を着て現れ、周囲の度肝を抜きました。

僅かな手勢で白装束・・・・これは「いつ成敗されても文句言いませんよ」という意志表示ですね。

秀吉が「派手好み」と知っていた政宗は、秀吉の気を引くためにあえてこんな登場をしたのですが、一歩間違えれば斬り捨てられても文句を言えないような登場の仕方です。

また「朝鮮出兵・慶長の役」の際には、京都の人たちが驚く「派手な衣装」で伊達家家臣団を行列させました。

この家臣団の姿から「伊達者(だてもの)」という言葉が生まれたのですが、政宗自身も秀吉に負け劣らず、派手な衣装や行動が好きだったようです。



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自分で料理するほど健康に気を使っていた

「徳川家康」は、自分で薬の調合を行うほど薬に詳しく、健康に気を使っていました。

対して政宗は「料理好き」。特に豊臣家を滅亡させ、徳川幕府の支配が安定した頃からは、さらに料理熱が高まり、二代将軍「徳川秀忠」を手料理でもてなしたことがあるほどでした。

同時に愛煙家でもあった政宗。1日3回、時間を決めてタバコを吸っていたそうです。

当時は「薬」と考えられていたタバコを積極的に吸うことで、健康維持に役立てようとしたのでしょうね。

病状の記録から考えた「伊達政宗」の死因は恐らく「食道がん」ではないかと考えられています。「食道がん」は長年の喫煙習慣が原因で発症することが多いと言われています。

皮肉なことに、健康維持に役立てるつもりが、かえって寿命を縮めてしまったのかもしれませんね。



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「伊達政宗」の性格

あくまでも私見ですが、これらの逸話・エピソードを総合して考えた『伊達政宗の性格』は、『派手好き』で世間をあっと驚かすような行動を取る一方、意外に『几帳面』で『健康オタク』な『筆まめ』な人。

父親から施された教育の成果で、『非常に深い教養を持つ人』。

さらに『肉親に対する情は厚かったが、戦国武将として敵に対しては苛烈な行動を取ることも厭わない武将だった』のではないでしょうか?

敵に回したらイヤですけど、味方にしたら頼もしい人でしょうね。

もしかしたら、身近にいたらものすごく魅力的な男性かもしれません。



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独眼竜と呼ばれた名将「政宗」が、天下に届かなかった理由とは?

伊達政宗が天下を取れなかったのは、なぜでしょう?

天下が取れなかった理由①「生まれてきたのが遅すぎた」

1つには『生まれてきたのが遅かった』ということが挙げられますね。

天下を取った「三英傑」の生まれた西暦をまとめてみましょう。

  • 織田信長は【1534年】生まれ
  • 豊臣秀吉は【1537年】生まれ
  • 徳川家康は【1543年】生まれ
  • 伊達政宗は【1567年】生まれ

政宗が元服した【1577年】、「織田信長」は畿内をほぼ制圧し、近江国に「安土城」を築城し始めています。

政宗が初陣を迎えた年に、信長は天下統一目前まで日本の支配を広めていました。

しかし信長は【1582年】、「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれてで亡くなります。そして織田家家臣の中から「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」が天下人への階段を駆け上がります。

政宗が母「義姫」の取りなしによって伯父「最上義光」と和睦した【1588年】、豊臣秀吉はすでに九州まで西日本を制圧し、最高位「関白」になっていました。

これから政宗が天下取りをするにしても、「秀吉」が亡くなるのを待ち、横から天下を奪う以外にないですよね。

政宗は表向き「秀吉」に恭順を示したものの、豊臣家家臣団の中での政宗の待遇は恵まれてはいませんでした。従姉妹であり伯父「最上義光」の娘「駒姫」を殺されたり、「会津・米沢」の所領を奪われたりもしていたため、秀吉に対する恨みは相当強かったでしょう。

天下取りのためには、豊臣家臣団と一戦交える必要があり、それには「強力な味方となる武将」がまず必要だと、政宗は考えたでしょう。そこで豊臣家臣団を見回し、自分と同じように秀吉に不満を抱く武将はいないか・・・注意深く観察していたのではないでしょうか。

そうして見渡した家臣団のなかで、生まれ育った三河や馴染みのある駿府を強引に取り上げられ、当時不毛だった「江戸」の地に転封された「徳川家康」が政宗の目にとまったはずです。

『家康と組んで、秀吉亡き後の天下をとり、家康亡き後はわしが・・・』

と、政宗が思ったのかどうかはわかりません。

しかし秀吉の死後、「大名同士の婚姻は、禁じる」という秀吉の遺言を、政宗は無視。自分の娘を家康の息子「松平忠輝」へ嫁がせるほど、家康との結びつきを深めました。

自分(政宗)より『24歳』も年上の「家康」が天下を取ったあと、待っていればいずれ亡くなる。そうしたら天下は自分のもの・・・。

こんな思惑を、政宗が抱いていたかどうか・・・。今となってはわかりません。

縁戚関係となる約束をして「徳川家康」と深く付き合ううちに、政宗は「自分には天下取りは無理だ」と自覚したのではないでしょうか。

私は個人的には、「本能寺の変」の黒幕は「豊臣秀吉」で、信長の目指した「天下静謐(てんかせいひつ)」の世を実現するために邁進したのが、信長の弟分「徳川家康」だったと思っています。

信長には、平和な世の中を実現するのため、幕府を開くなど、様々な構想があったでしょう。

「ルイス・フロイス」によれば

「信長と家康は兄弟のように仲がよい」

と記録されるほど親しかったようです。そんな家康に対してならば、信長は自らの理想実現を手伝ってもらうため、「天下静謐」を実現するための構想を、くわしく打ち明けていたと思います。

家康の心の中には、信長の理想とした「天下静謐の世を実現するための、その構想を受け継ぐのだ」・・・という確固たる目標があったはずです。豊臣秀吉のやり方に不満を持ち、自分と縁戚関係になる政宗にも、その「天下静謐の構想」を、ふと打ち明けたのではないでしょうか。

「いずれ、豊臣家を滅ぼして幕府を開く。その後まもなく、私(家康)の寿命は尽きるだろう。そのときには政宗殿、わしの代わりに「秀忠」やその子(徳川家光)を補佐してやってもらいたいのだ。」

あくまでも私の想像ですが、家康は政宗にそう打ち明けたのかもしれません。

天下を取ったあと、「平和な世の中」を実現するために、各大名家の力を削ぎ、民衆が幕府に不満を持たないよう、社会基盤を整備する・・・・。平和を維持するために、やらなければならないことが山程あります。

他の大名を攻め滅ぼし、領土を拡大するだけなら、強力な武将でさえあれば誰でも可能でしょう。

しかしその後に平和な世の中を実現し維持するとなれば、戦後処理を行い、世の中を安定させる政策を作り、実践する能力・・・すなわちずば抜けた「政治力」が必要となります。

家康と接するうち、自分が持つ政治力が家康よりも劣ると悟った政宗は、徳川家に忠誠を誓い、2代「徳川秀忠」にて料理を振る舞い、3代「家光」が「参勤交代」を導入したときには、率先して実行。

天下に届かなかったのではなく、「徳川家康」に出会い、「自分には天下を取ったあとの平和な世の中の実現は無理だ」と悟り、自ら手を引いたのだ・・・・と私は思います。



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天下が取れなかった理由②「野心家すぎて警戒された」

伊達政宗が天下を取れなかった理由の一つとして、「野心家すぎた」という点が挙げられると思います。

政宗はいつも「虎視眈々」と天下を狙っていました。

秀吉に屈したあとで、政宗はライバル「蒲生氏郷」が支配した旧領「会津」の反乱を先導した疑いがあります。

このとき政宗は、言葉巧みに秀吉からの追求をかわし、なんとか無罪とされています。

さらに「関ヶ原の戦い」の時、政宗は陸奥国北部の「南部」氏の領地で反乱をあおり、そのどさくさ紛れに領地を拡大しようとした・・・と言われています。

政宗のこの行為に激怒した家康は、「関ヶ原の戦い」に勝利した暁にと約束していた「100万石」の褒美を反故にしています。

政宗は常に、手段を選ばずに領土拡張を狙っていたのです。

関ヶ原の戦いののち、政宗は自領「仙台」に巨大な山城を築きます。

当時、「城」の主流は「平城」といって、平地につくるのが常でした。戦闘用ではなく、行政の拠点としての威厳を示すためという、城の目的が昔とは大きく異なってきたからです。

しかし政宗は「山」に実践的な城をつくりあげたのでした。

さらには「瑞巌寺」という寺を建立。家康はこれを「江戸に向けてつくられた出城である」として警戒。実際、政宗の所領には、江戸のある南にむけて城塞が集中して築かれており、家康との戦いを想定していることがうかがえます。

挙句の果てには「スペイン国王」に親書を送り、軍事同盟の締結を提案。ともに徳川幕府を倒そうと持ちかけた説まであります。

政宗は時の権力者に対して、いつも挑戦的な姿勢を崩しません。

右と言われれば左、左と言われれば右と、常に「へそまがり」なのです。

こうした姿勢は「豊臣秀吉」「徳川家康」ら天下人を警戒させます。

「豊臣秀吉」に屈した「徳川家康」は、秀吉が亡くなるまでの十数年間、常に平身低頭して野心を隠しつづけました。

「三河から関東への国替え」「孫娘の千姫と豊臣秀頼の婚姻」「東海道への秀吉子飼いの大名衆配置」などなど、秀吉は徹底的に家康を警戒したものの、家康は秀吉の死後、これらを次々と逆手にとって利用します。

そうすることで、最後には天下を取ったのです。

政宗にも、この「家康」のような「忍耐力」と「機転」と「野心を隠すしたたかさ」があったなら、もしかすると下剋上の機会があったかもしれません。

「野心的すぎた」

これもまた、政宗が天下に届かなかった理由の一つなのではないでしょうか。



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『伊達政宗』について「ひとこと」言いたい!

「伊達政宗」の血液型は「B型」でした。

これは墓所の発掘調査で、遺骨から鑑定されている確かなものです。

政宗は、血液型が判明している数少ない歴史上の人物の1人です。

他には「源頼朝」の妻「北条政子」が遺髪から「O型」。

「上杉謙信」が血判状から「AB型」と判明していますよ。

政宗の墓所からは、カトリックで使うお祈りの道具「ロザリオ」も出土しています。ところが「政宗」には、洗礼を受けたという記録はありません。

ただ、部下の「支倉常長」に持たせたローマ教皇あての親書には

「洗礼を受けたいけれどなかなかその機会がない」

としたためられていました。

本気でカトリックに入信するつもりだったのか、それとも何か他に目的があったのかはわかりません。しかし政宗の墓所の出土品を見ると、キリスト教に対してまったく興味がなかったわけではなさそうですね。

ロザリオは【1620年】にローマから帰国した「支倉常長」から献上されたのかもしれませんね。

家康の許可を得てローマに送った「支倉常長」。その「支倉常長」が日本へ帰国した時、すでに「キリスト教禁教令」が出されていました。

つまり「支倉常長」は、帰国はしたものの、その功績を表立って認められることがなくなってしまったのです。帰国した2年後「支倉常長」は、失意のうちに亡くなります。支倉常長の息子は「キリスト教徒」であったため、処刑され支倉家は断絶。とはいえ「常長」の孫の代で家は再興されます。

政宗は、帰国した「常長」をみて何を思ったのでしょうね。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 独眼竜「伊達政宗」は戦国時代の奥州を制覇した覇者。宿敵「蘆名氏」を滅ぼし奥州で最大の勢力となったが、豊臣秀吉・徳川家康にはかなわず、天下を取れなかった
  2. 「政宗」は、父「輝宗」や弟「小次郎」を殺したと言われているが、父を殺害したわけではなく、弟も殺していない説がある。その性格は「派手好き」「筆まめ」「苛烈」「料理好き」。
  3. 政宗が天下を取れなかった理由は2つ。「生まれてくるのが遅すぎたため、天下の大勢がすでに定まっていたため」と「政宗が露骨な野心家すぎたために、豊臣秀吉や徳川家康に警戒された」

以上となります。



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この記事を短くまとめると、以下の通り

「伊達政宗」は「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」より20年以上も遅れて誕生。そのことが原因の1つとなり、天下取りができなかった「戦国時代最後の猛将」です。

父「輝宗」と弟「小次郎政道」を殺したと言われていますが、一次史料からその事実は確認できません。

父の死がきっかけで、実の伯父「最上義光」とも争う羽目に陥りますが、「最上義光」の妹にあたる母「義姫」の取りなしで和睦します。

やっと落ち着いたかと思いきや、「豊臣秀吉」に上洛を命じられて恭順。

しかし豊臣家家臣団では厚遇されず、所領を取り上げられ、「豊臣秀次」の側室であった従姉妹「駒姫」も殺されます。

恐らく政宗は、秀吉を強く恨んでいたでしょう。

秀吉の死後、政宗は「徳川家康」と縁戚関係になり、豊臣家滅亡後、徳川家を支えます。

戦国武将としての苛烈さはありましたが、残されている逸話からうかがえる政宗の性格は、意外に「几帳面」で「健康オタク」な「筆まめ」、「深い教養を持った派手好き」な、「肉親に対する情の厚い人」だったようです。

そんな政宗は、三代将軍「徳川家光」の代まで生き、徳川幕府の安泰を見守ってから、江戸において【70歳】で亡くなりました。

『仙台城から見た仙台の街:あけびさんによる写真ACからの写真』

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

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