明治天皇の父「孝明天皇」が「伊藤博文に暗殺された」という噂の真相と「真の死因」をわかりやすく解説いたします。
幕末の天皇「孝明天皇」は、なぜ突然亡くなったのか?
「伊藤博文」による暗殺説があるが、デマの可能性が高い。
「伊藤暗殺説」を広めたのは、あの「安重根」だった
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
・伊藤博文が孝明天皇を暗殺したという説は、伊藤博文を暗殺した犯人「安重根(あんじゅうこん)」の主張である
・孝明天皇の死因は「天然痘」であり、病死であるというのが定説
・孝明天皇が暗殺された可能性は、きわめて低い
《「孝明天皇」を暗殺した犯人は『伊藤博文』という説について》
孝明天皇は、「1831年」に仁孝天皇の第四皇子として生まれました。

≪孝明天皇≫
『引用元ウィキペディアより』
3人の兄たちが生まれて間も無く亡くなっているため、1846年に仁孝天皇が崩御すると、15歳で孝明天皇として即位しました。
この頃から、「日本との外交を求めやってくる諸外国の船が日本近海で目撃されるようになります。
そして、1853年にアメリカの海軍軍人、マシュー・ペリーが開国を求め黒船とともに来航しました。
この時、孝明天皇は海防の強化と対外情勢の報告を幕府に命じるなどし、自ら政治に関わる道へと進んでいったのでした。
この後、日本はアメリカと通商条約を結ぶのですが、孝明天皇は最後まで日本の開国に反対していました。
日本国が異国の人であふれ、さらに異国の文化や思想が入ってくることで、天皇という国の象徴が脅かされるのではと懸念されていたのかもしれません。
ちなみに、次代の「明治天皇」は孝明天皇の第二皇子として生まれました。
孝明天皇と同様に明治天皇の兄は早世しており、1867年の孝明天皇崩御後に14歳で即位したのでした。
孝明天皇の話に戻りましょう。
孝明天皇の死因について、病死か暗殺かで論争が巻き起こりました。
ここでは暗殺説について解説していきます。
暗殺説が持ち上がった要因は、35歳の若さで崩御したところにあるといえます。
孝明天皇は悪性の痔を患ってはいましたが、それ以外は至って健康であったといわれています。
また、崩御される前、一時回復の兆しがみられましたが、その翌日に容体が急激に悪化したともいわれていました。
このことから孝明天皇は毒殺されたのではないかと噂されるようになったのです。
暗殺犯として挙げられたのは、伊藤博文や岩倉具視といった日本を開国に導いた政治家でした。
特に伊藤博文の場合は、彼を暗殺した犯人「安重根」が述べた動機の一つに、孝明天皇の殺害を挙げたことがさらに噂を広げることになりました。
先に述べたように孝明天皇は開国を強く反対し、さらに尊王攘夷思想の持ち主でした。
一方、伊藤博文や岩倉具視は開国推進派で、倒幕を目指していました。
伊藤や岩倉にとって、自分たちに賛同しない孝明天皇は目の上のたんこぶであると世間は感じたのかもしれません。
《孝明天皇の死因は?》
次に孝明天皇の死因について考察していきましょう。
孝明天皇の主治医によると、天皇は1866年12月11日から風邪をこじらせたことで床に伏せ、一時的に回復するものの、同月25日に崩御されました。
この時挙げられた死因が「天然痘」でした。
しかし、孝明天皇は当時35歳とまだ若く、さらに数週間で崩御していることに疑念を持つ研究者も少なくありません。
平成になってからも孝明天皇の死因についての論文が発表されました。
当時名城大学の教授であった「原口清」氏によるもので、原口氏は論文の中で以下の内容を説いています。
①初期の頃は天皇の容体について細かくスケッチされていたが、後半になるにつれ抽象的な表現が多くなっていること
②初期の頃の診断書と、当時の典侍のひとり中山慶子の書簡に記録された症状が、天然痘の症状と一致すること
③当時世間には回復に向かっているとの報告が出されている一方、中山慶子には天皇は予断を許さない状態にあると伝えられていること
以上のことから、主治医たちから発表された内容に信ぴょう性はなく、これまで毒殺説の根拠であった、一時回復からの急変について説明できないとし、孝明天皇は病死であったと結論づけました。
また原口氏は、孝明天皇崩御の時点ではまだ倒幕の意思はないと説明し、岩倉による暗殺説を真っ向から否定したのでした。
これに対し、反論したのが歴史学者の「石井孝」氏でした。
しかしながら、原口氏と石井氏の考えを証明する証拠はなく、この論争の決着には至っていませんが、今のところ天然痘による病死説が有力視されています。
《天皇は本当に暗殺されたのか?》
先に述べたように、孝明天皇は病死か暗殺かの論争は決着せず、現在もこの論争は続いています。
ここでは、孝明天皇が暗殺された可能性について考えてみましょう。
孝明天皇は開国反対や尊王攘夷の他にも、「公武合体」という思想を持っていました。
公武合体とは、天皇と江戸幕府とが一枚岩となって諸外国に立ち向かうとするものです。
孝明天皇は、弱体化しつつある江戸幕府と天皇の権威をつなぐことで、政治を立て直そうとしていたのでした。
ここで天皇と幕府が繋がると困るのが、倒幕派の人々です。
その中には、暗殺犯と噂された伊藤博文や岩倉具視も含まれます。
つまり倒幕のために孝明天皇を暗殺したのではないかと考える人も少なくないのです。
しかし通常、日本国の象徴である天皇を、暗殺しようと企てるでしょうか。
これから開国しアメリカやイギリスといった列強諸国と渡り歩かなくてはならない段階の中で、万が一天皇を暗殺したと知れたら、国家の統率をとるなどできるわけがありません。
明治維新という大事な転換期に、孝明天皇を暗殺する可能性は極めて低いと考えられます。
また、天皇の診断書や関係者の書簡に残されている天皇の病状からみても、天然痘により崩御したと考える方が自然でしょう。
《『孝明天皇』について、レビュー(評論)!》
伊藤博文による「孝明天皇」暗殺は、ちょっと無茶な気がします。
後に「内閣総理大臣」となった伊藤博文ですが、孝明天皇が崩御された頃の伊藤は、まだまだ若手。長州藩の実権は、「維新三傑」の一人「木戸孝允」が握っていました。
柏手を打つ・・・・・・・・・・歴史学者「磯田道史」先生がおっしゃるには、幕末に御所が火事になり、孝明天皇が御所から避難なさった際、それを見た京都市民は、天皇に対して、神社で行うように柏手を打ったのだそうです。
現代は「テレビ・新聞」などのメディアが発達したので、天皇陛下のお姿を拝することは簡単です。
しかし当時はそうではなかったのです。
そんな稀なる天皇陛下に対して、まだまだ若手で、外国との取引を担当していた「伊藤博文」が、暗殺なんてできるのか?
到底無理としか思えません。
伊藤博文暗殺説は、安重根による「暗殺」を正当化するためにねつ造されたもの。
そう考えるのが自然でしょう。
それにしても、安重根の「伊藤博文暗殺」は、「日韓併合」に最後まで反対していた伊藤博文という防波堤を失わせ、結局「日韓併合」を後押しする結果となりました。
安重根・・・かの国では「英雄」となっていますが・・・。
安重根が英雄なら、「日露戦争」で後に戦うこととなるロシア皇帝「ニコライ二世」を、皇太子時代に襲撃した巡査「津田三蔵」も英雄なのでしょうか?
ちなみに津田三蔵は、西郷従道らがロシアを恐れて「極刑」を求めたのに対し、伊藤博文が「日本は法治国家なので、法に基づいて裁くべき」と主張し、結局「無期懲役刑」に。
事件の数か月後に、「無期懲役」判決の後、肺炎で亡くなっています。
《まとめ》
孝明天皇の死因についてまとめると、
・天皇崩御前、容体が急変したことから暗殺説が噂され、伊藤博文ら政治家が暗殺犯に挙げられた。
・孝明天皇の死因は天然痘であることが今のところ有力視されている。
・当時の情勢から暗殺の可能性は極めて低い。
となるでしょう。
最後に死因が天然痘であることの謎も述べておきましょう。
天然痘は基本的に飛沫や接触によって感染するタイプです。
宮中から出ることの少ない天皇は、一体どこで天然痘に感染したのでしょうか。
この時期に天然痘が流行していたのかもしれませんが、もしかしたら誰かが宮中に感染者を送り込んだ可能性も……
「もしかしたら」と、想像がふくらむばかりです。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
↓↓↓↓↓↓
コメント