【小松帯刀】死因を調査!若くして亡くなったのは暗殺されたから?

幕末・薩摩の偉人「小松帯刀」について、その死因を解説いたします。

河ドラマ「篤姫」で有名になった「小松帯刀」は「薩長同盟」を成功に導いた秀才。

小松は36歳という若さで亡くなりましたが、死因は何だったのか?

病死した小松ですが、暗殺の可能性も噂されているのです。


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この記事を短く言うと

・小松帯刀の死因は「結核」または「腫瘍(しゅよう)」と考えられている

・小松帯刀が「暗殺」された可能性は低い

・若くして亡くなった原因として、「勉強のしすぎ」または「仕事のしすぎ」による過労があるのではないか。明治維新が起こったことで、小松帯刀は数々の仕事を、かなり無理をしながら進めていたのだろう。


《小松帯刀の死因とは?》

小松帯刀の死因に迫る前に、彼がどんな人物であったのかおさらいしましょう。

小松帯刀
『引用元ウィキペディアより』

小松帯刀は、1835年に薩摩藩士・肝付兼善の四男として生まれ、21歳の時に、同じ薩摩藩士の小松清猷のところで養子となり家督を継ぎました。

1858年に島津斉彬から弟の島津忠義へと藩主が代わると、帯刀は、斉彬が着手した工業施設群「集成館」の管理や貨幣造りを任されるようになりました。

さらに、忠義の実父にして薩摩藩の政治的実権を握る島津久光の側近に選ばれると、1862年には藩の家老に抜擢されいよいよ政治の中心人物となっていったのです。

小松帯刀の功績は、薩摩と長州の会合を実現させた「薩長同盟」や、徳川幕府から朝廷へ政権を返上する「大政奉還」を成し遂げただけではありません。

1863年の薩英戦争以来、緊迫した関係であったイギリスと薩摩藩の友好のため、薩摩・長州の要人を外国商人や英国公使を引き合わせたのも彼の功績といえるでしょう。

また、勉学に長けた帯刀だからこその功績といえば、薩摩藩の洋学校「開成所」の設置が挙げられます。

開成所とは西洋学問を学ぶための学校であり、英語やオランダ語はもちろん、医学や天文学、航海術など当時では最先端の西洋技術を修得できる場だったのです。

幕末の政治家として様々な功績を残した帯刀でしたが、大政奉還後から体調を崩し始め、1870年7月18日に大阪で亡くなります。享年36歳でした。

帯刀の病気については「肺結核」が死因といわれています。

この他にもオランダ人医師のアントニウス・F・ボードウィンの診察記録によると、帯刀の左下腹部に切除困難な腫瘍がある、とされています。

どちらが直接的な死因かはわかりませんが、才気あふれる若者が早世したことを惜しむ人も多かったことでしょう。


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《暗殺の可能性》

次に小松帯刀が暗殺された可能性について考察していきましょう。

歴史好きの間には、一部ですが帯刀が暗殺されたとの噂も存在しています。

帯刀は坂本龍馬も一目置く存在で、明治維新において最も重要な西郷隆盛大久保利通木戸孝允(桂小五郎)の「維新三傑」を含む、「維新の十傑」と呼ばれる10人のひとりに数えられています。(維新十傑には、ほかにも前原一誠横井小楠江藤新平岩倉具視大村益次郎・広沢真臣などがいる)

実は明治維新に尽力したこの10人のうち4人が暗殺された、という事実があるのです。

このように「維新三傑」に並ぶ有能な政治家の帯刀が、36歳という若さで亡くなっていることに疑問の声があがっています。

さらに調べていくと、面白い記述が見つかりました。

「大政奉還に反対していた会津藩や桑名藩が、小松帯刀ら薩摩藩を襲撃する計画を立てていた」というのです。

真意の程は計りかねますが、こういった証言も帯刀暗殺の疑念を持たせるのでしょう。

しかしながら、帯刀は肺病または下腹部の腫瘍によって亡くなったとされる資料が詳細に残されていますし、幼少の頃より病弱だったとの記録もあります。

このことから、小松帯刀暗殺の可能性はかなり低いと思われます


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《若くして亡くなった原因は『勉強好き』》

小松帯刀の死因が「肺病」や「腫瘍」と述べてきましたが、若くして病気を患ったのには幼少時代の過ごし方にあるでしょう。

帯刀の逸話の中に、身体を壊してまで勉学に励んでいたということがあります。

体質的に虚弱だったのでしょうか、昼夜を問わず勉強をし続けた結果、17歳になった頃から病気がちだったようです。

母親に「勉強のしすぎだ」と心配されるほどの勉強好きが、帯刀を早世させる原因だったのです。

一方、帯刀は病気がちになった頃から、大久保利通といった若手藩士の集まりに顔を出したり、療養先では身分に関係なく様々な人と交流していました。

こういった当時の情勢を学ぼうとする意識はずっと衰えることがなく、「勉強好き」な性格が小松帯刀という有能な政治家を作り上げたといえるでしょう。

なにごとにも熱中する性格だった小松帯刀。

明治維新が成し遂げられたことで、優秀な小松は大変忙しかったはずです。

その明治維新は、小松帯刀の力によるところも大きかったはず。維新の前後、難しい仕事におわれていた小松・・・その過労が、亡くなった原因なのではないでしょうか。


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《『小松帯刀』について、レビュー(評論)!》

小松帯刀・・・坂本龍馬の新政府構想の中で、帯刀は「宰相」にと考えられていました。

龍馬は「西郷隆盛」でも「大久保利通」でもない、「小松帯刀」をトップにと考えていたのです。

外務次官・・・・当時の明治政府では「大臣」「次官」などの要職は「公家」か「大名」しか付くことができない決まりになっていました。しかし小松帯刀は、そんな中で「外務次官」・・実質的な「外務大臣」への就任を要請されます。

薩長同盟締結の際、通称「お花畑」と呼ばれる小松の邸宅が使用されたわけですが、それだけ彼が果たした任務は重大だったと言えるでしょう。

小松帯刀・・・英国のアーネスト・サトウが「最も魅力的な人物」と称した男。

お坊ちゃん育ちで、穏やかな性格だったという小松帯刀・・・狸寝入りを決め込む西郷隆盛に対し、「枕を持ってきてあげてくれ」と言った逸話は有名です。

その人柄にうたれた西郷は、小松を信頼しきったのだとか。

彼が宰相だったら・・・その死を惜しまずにはいられません。


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《まとめ》

本日の記事をまとめますと

いかがでしたでしょうか。

暗殺も噂される小松帯刀ですが、彼の死因については下記のように考えられます。

・小松帯刀の死因は「肺結核」もしくは「左下腹部の腫瘍」

・病気であった詳細な記録が残っているため暗殺の可能性は極めて低い

・勉強のしすぎが若くして亡くなった原因

幕末や明治維新というと「暗殺」という言葉をよく聞きますよね。

実際に暗殺された中に坂本龍馬や大久保利通が挙げられますが、小松帯刀がこのような著名人と肩を並べていたことも「小松帯刀暗殺」と噂される要因になるのかもしれません。

それだけ小松帯刀が新しい日本をつくる中心人物であったことを感じさせてくれます。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

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ありがとうございました


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