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三浦義村の子孫と家系図は?妻・子供・兄弟について完全解説

皆さんは三浦義村みうらよしむらを、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

  1. 三浦義村の妻は、鎌倉御家人・土肥実平どいさねひらの孫娘。
  2. 三浦義村の子供たち、三浦泰村・光村の兄弟は、1247年の宝治合戦ほうじかっせんで北条に滅ぼされている
  3. 三浦義村の子孫には、毛利元就・徳川頼宣・徳川頼房・徳川吉宗・水戸光圀などがいる。

この記事では三浦義村を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は三浦義村について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、三浦義村に詳しくなれます。

→→→→→『鎌倉殿の13人』登場人物・関連記事まとめはこちら


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

三浦義村の家系図と子孫

三浦義村とは、鎌倉時代に活躍した武将で、鎌倉幕府の源頼朝につかえた人物です。

北条義時のいとこにあたる人物で、生涯にわたって北条義時の盟友でした。

三浦一族は、1247年に起きた宝治合戦が原因で、義村の息子である三浦泰村・光村兄弟が亡くなったことにより滅亡しています。

ところが生き残りが何名かいたために、その生き残りの血が後世へ引き継がれています。

以下に三浦義村について、詳しい家系図をご用意いたしました。

三浦義村の女系子孫には、

  • 毛利元就もうりもとなり
  • 徳川家康の側室・養珠院ようじゅいん

など、有名な人物が数多くいます。

 

《三浦義村の家系図》
家系図の引用などはご遠慮くださいませ


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三浦義澄みうらよしずみ【三浦義村の父】

三浦義村の父。源頼朝亡き後の鎌倉幕府・宿老【十三人の合議制】の一人。

源頼朝が平家打倒のために挙兵すると、いち早くそれに味方し、

  • 一ノ谷の戦い
  • 壇ノ浦の戦い
  • 奥州合戦

など、数々の戦いに参戦。

1199年に頼朝が亡くなると、その翌年の1200年に亡くなった。梶原景時かじわらかげときを追放した直後だったという。享年74歳。

土肥遠平どいとおひらの娘【三浦義村の妻】

三浦義村の妻。御家人・土肥遠平の娘。

源頼朝が挙兵した際に、土肥実平どいさねひら・遠平の親子は真っ先に味方した。

その土肥遠平の娘が、三浦義村に嫁ぎ、三浦泰村と三浦光村を産んだといわれている。

余談だが、2022年の大河ドラマ【鎌倉殿の13人】において、俳優の阿南健治あなんけんじさんが土肥実平を演じていた。


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一条忠頼いちじょうただよりの娘【三浦義村の妻】

三浦義村の妻。甲斐源氏の棟梁・武田信義の息子・一条忠頼の娘。

父・一条忠頼は、源頼朝によって酒宴に招かれた際に暗殺されている。

余談だが、2022年の大河ドラマ【鎌倉殿の13人】では、一条忠頼の父・武田信義を、俳優の八嶋智人やしまのりとさんが演じていた

矢部禅尼やべぜんに【三浦義村の娘】

三浦義村の娘。3代執権・北条泰時の妻。

北条義時の息子・泰時と婚約しており、長男・北条時氏を産んでいる。

その後、泰時と離縁。不仲だったわけでもなく、離婚の原因は不明。

佐原盛連という人物と再婚し、三浦盛時を産む。

北条時氏の子で、矢部禅尼の孫にあたる5代執権・北条時頼が、宝治合戦で矢部禅尼の兄弟である三浦泰村・光村たち三浦一族を滅ぼすと、矢部禅尼の子・三浦盛時が三浦一族を再興した。

1256年に70歳で亡くなった。


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三浦泰村みうらやすむら【三浦義村の次男】

三浦義村の子。妻は北条泰時の娘。

武勇に優れた人物で、父・義村にしたがって1221年の承久の乱じょうきゅうのらんで活躍した。

父の死後、4代将軍・藤原頼経ふじわらよりつねと5代将軍・藤原頼嗣ふじわらよりつぐに接近し、三浦は北条家にも劣らないほどの力を得た。

警戒した5代執権・北条時頼から穏便な引退をすすめられたが、これを拒絶。

最後は、北条と安達の策略によって挙兵させられ、宝治合戦が勃発。

1247年、頼朝の墓所である法華堂で、弟・光村とともに自害。三浦氏は滅亡へと追い込まれた。

享年不明

三浦光村みうらみつむら【三浦義村の四男】

三浦義村の子。三浦泰村の弟。

幼い頃は駒王丸と名乗って、頼朝の孫・公暁こうぎょうの門弟として付き従っていた。

ところが公暁が3代将軍・源実朝を暗殺すると三浦氏に戻された。

兄・泰村以上の武闘派で、北条家へ敵意を持っていたという。

1247年、宝治合戦が起こると、兄・泰村に決起するように呼びかけるが、兄は最後まで執権・北条時頼との和平を模索し続けた。

最期は頼朝の墓所・法華堂に兄とともに立て篭もり、兄・泰村の優柔不断な態度に不満を述べて自害した。

享年43歳。琵琶の名手だったという。


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三浦胤義みうらたねよし【三浦義村の弟】

三浦義村の弟。

2代将軍である源頼家の愛妾を妻としており、頼家の子・禅暁ぜんぎょうの義理の父にあたる。

頼家の子・公暁が3代将軍・源実朝を暗殺すると、公暁の弟である禅暁にも疑いが向けられ、処刑される。

禅暁の助命嘆願を必死に行った三浦胤義は、禅暁の死と妻の悲嘆を受け、北条家への復讐を誓う。

1221年、承久の乱が勃発すると、三浦胤義は兄・義村や北条義時と敵対し、後鳥羽上皇の軍に味方する。

ところが結果は惨敗。京都・東寺に立てこもり抵抗を続け、兄・義村と対面を果たすも無視され、自害したという。

享年不明。

三浦盛時みうらもりとき【三浦義村の孫】

三浦義村の孫。矢部禅尼の息子。

母・矢部禅尼が北条泰時と離婚したあと、佐原時連と再婚して、三浦盛時が誕生した。

北条泰時の子・北条時氏とは異父兄弟であり、北条と関係が深かったため、1247年の宝治合戦では、三浦ではなく北条に味方したという。

甥にあたる5代執権・北条時頼ほうじょうときよりが亡くなると、出家した。

毛利時親もうりときちか【三浦義村の孫】

三浦義村の孫。大江広元の曾孫ひまごにあたる。

8代執権・北条時宗ほうじょうときむねから時の一文字をもらって時親と名乗ったという。

伝説によると、のちに鎌倉幕府を滅亡へ追いやる宿命の名将・楠木正成くすのきまさしげが幼い頃、毛利時親から兵法を学んだといわれている。

末裔である毛利元就の居城となる安芸・吉田郡山城を築城した。


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三浦義村の子孫

戦国時代・江戸時代に活躍した、三浦義村の血を引く子孫をご紹介いたします。

残念ながら三浦義村の男系子孫は、1247年の宝治合戦でほとんどが亡くなっているので、断絶しています。

以下にご紹介いたします子孫は、義村の娘の血を引く女系子孫です。

毛利元就もうりもとなり【三浦義村の子孫】

三浦義村と大江広元の子孫。戦国時代を代表する智将。

安芸の小豪族・毛利家の次男として誕生し、父・兄を早くに亡くしたことで毛利家の家督を継承する。

当時日本最大級の大名・大内家や、名将・尼子経久あまごつねひさが率いる尼子家に支配されていた中国地方を、並外れた知略で生き延びた。

強大な大内家と尼子家を滅ぼして中国地方を制圧。小豪族から中国地方の覇者へと一気に駆け上がった。


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養珠院ようじゅいん【三浦義村の子孫】

三浦義村の子孫。徳川家康の側室。本名はまん

徳川家康の側室となって、のちの徳川御三家のうち紀州徳川家を起こす徳川頼宣とくがわよりのぶと、水戸徳川家を起こす徳川頼房とくがわよりふさを産む。

勇敢な女性だったらしく、徳川家康に嫌われていた日蓮宗の僧侶・日遠に帰依していた。

日遠が家康を怒らせ、処刑されそうになると、その助命を願い出て

「師である日遠が死ぬなら、自分も一緒に死ぬ」

と言って、家康の怒りをしずめ、日遠を救った。

1654年に死去。享年不明。

徳川頼宣とくがわよりのぶ【三浦義村の子孫】

徳川家康の十男。徳川頼房の兄。徳川御三家の一つである紀州徳川家の祖。

1615年、大坂夏の陣に14歳で出陣し、先陣を願ったが父・家康から却下され、悔しがったという。

「殿はまだまだお若いので、手柄をあげる機会はいくらでもある」

と、松平正綱まつだいらまさつなという武将から慰められると

「14歳のうちに武功あげられる機会は、今をおいて他にはない」

と言い、家康を喜ばせた。

1671年に死去。享年70歳。


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徳川頼房とくがわよりふさ【三浦義村の子孫】

徳川家康の十一男。徳川頼宣の同母弟。水戸徳川家の祖。

甥にあたる3代将軍・徳川家光とくがわいえみつと年齢が近かったため、よく相談相手になったという。

非常に子沢山であったため、水戸家はその血筋を幕末まで続けることが出来た。

頼房の男系子孫には、15代将軍・徳川慶喜とくがわよしのぶ

女系子孫には、薩摩藩の名君・島津斉彬しまづなりあきらや、佐賀藩主・鍋島直正なべしまなおまさがいる。

1661年に死去。

徳川吉宗とくがわよしむね【三浦義村の子孫】

徳川幕府8代将軍。紀州徳川家・徳川頼宣の孫であり、徳川家康の曾孫ひまごにあたる。

兄二人が急死したために紀州藩主に就任。紀州藩の財政を再建させることに成功した。

7代将軍・徳川家継とくがわいえつぐが、後継者を残すことなく幼くして亡くなったため、紀州藩主から徳川幕府8代将軍に就任した。

財政難に苦しんだ徳川幕府を立て直し、中興の祖と呼ばれる。

しかしその幕政改革の方針は増税ばかりで、民衆は苦しみ、息子の9代将軍・徳川家重いえしげの代には一揆いっき(反乱)が頻発したという。

水戸光圀みとみつくに【三浦義村の子孫】

徳川頼房の子。徳川家康の孫にあたる。

大日本史を編纂した歴史家で、水戸学の祖といわれる。

水戸黄門として知られており、全国を旅したとされているが、実際には関東からほとんど出たことがない。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  • 三浦義村の妻は、鎌倉御家人・土肥実平の孫娘。
  • 三浦義村の子供たち、三浦泰村・光村の兄弟は、1247年の宝治合戦で北条に滅ぼされている
  • 三浦義村の子孫には、毛利元就・徳川頼宣・徳川頼房・徳川吉宗・水戸光圀などがいる。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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