MENU

石田三成の死因!最後の言葉【英雄の命と志】の逸話

【石田三成の死因や最後の様子】について、誰かに尋ねられても、ハッキリと答えられる方は、少ないかもしれません

実は筆者自身も、石田三成については知っていたものの、自分の手で調査してみるまで、石田三成の死因・最後については答えられませんでした

この記事では【石田三成の死因と最後の様子】について、ひと目で分かるようにまとめました

石田三成の最後について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです

これを読んで、三成についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,石田三成の死因は?

関ヶ原の戦い徳川家康に敗北したため「斬首」されて亡くなった。

 

2,石田三成の没年月日は?

旧暦・慶長5年10月1日

新暦・1600年11月6日

享年41歳

 

3,石田三成の最後の様子は?

9月21日】、田中吉政の追捕隊に捕縛。

9月22日】、大津城に護送されて、城の門前で生きさらしとなり、その後、家康と会見。

10月1日】、京都・六条河原で斬首された。

 

4,石田三成の辞世の句は?

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり


目次

石田三成の死因は何?

石田三成の死因は、徳川家康に敗北したことによる斬首刑です。

《石田三成》
「引用元ウィキペディアより」

慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)】、関ヶ原の戦いで徳川家康に敗北した石田三成は、幼なじみだった武将・田中吉政に捕らえられ、家康の命令により、京都・六条河原で処刑された。



スポンサーリンク


石田三成の没年月日と最後の様子

没年月日と享年

旧暦・慶長5年10月1日

新暦・1600年11月6日

享年41歳

最後の様子

慶長3年8月18日(新暦1598年9月18日)】、豊臣秀吉死去。

豊臣秀吉
引用元ウィキペディアより

慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)】、関ヶ原の戦い開戦。石田三成ひきいる西軍が敗北。徳川家康ひきいる東軍が勝利。

戦いに敗れた三成は、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。(伊吹山は、滋賀県と岐阜県の県境。関ヶ原の西に位置している)

9月18日】、東軍・小早川秀秋らの攻撃を受けて三成の居城・佐和山城が落城し、三成の父・正継を初めとする石田一族の多くが討死。(ただし、三成の子供たちは、その全員が逃げのびて、多数の子孫をのこした。中には家康に命を救われたものまでいる)

→→→→→【石田三成の子孫の現在と家系図】についてくわしくはこちら

9月21日】、逃亡していた石田三成は、家康の命令を受けて捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。

田中吉政
引用元ウィキペディアより

9月22日】、大津城に護送され、城門前で【生きさらし】とされ、その後、家康と会見。

9月27日】、大坂に護送

9月28日】小西行長こにしゆきなが安国寺恵瓊あんこくじえけいらと共に大坂・堺を罪人として引き回された。

9月29日】、京都に護送され、奥平信昌おくだいらのぶまさの監視下に置かれた。(奥平信昌は徳川家康の娘・亀姫の夫)

10月1日】、徳川家康の命令により、六条河原で斬首された。

首は三条河原にさらされた後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。



スポンサーリンク


石田三成の辞世の句と最後の言葉

辞世の句

筑摩江ちくまえ芦間あしまに灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり

筑摩江ちくまえ(三成の故郷)を照らす、あしの間から垣間見える漁師たちの篝火かがりび

明日の明け方には消されるあの篝火は、私が生涯をかけて忠誠をつくした豊臣家の命運のようだ。

私が死んだら、篝火が消えるように、豊臣家は徳川家康に滅ぼされるだろう

この予言通り、石田三成が亡くなった15年後の【1615年】、豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼は、母・淀殿とともに、大坂の陣で徳川家康・徳川秀忠親子に滅ぼされた。

豊臣秀頼
引用元ウィキペディアより

このとき、関ヶ原の戦いで豊臣秀頼を救うためといって徳川家康に味方し、石田三成を倒した豊臣家に恩のある縁の武将たちは、誰一人として豊臣家に味方しなかった。

最後の言葉【英雄の命】

徳川家康に捕らえられた石田三成は、その身柄を幼なじみの田中吉政に預けられた。

明日には処刑されるため、刑場へと護送される三成にたいして、田中吉政は、なにかと気をつかった。

「なにか欲しいものはあるか?」と質問すると、三成は「白湯さゆがほしい」と言った。

しかし、その地には井戸がなく、吉政は三成が柿を好んでいたことを思い出し、干し柿を渡そうとした。

「柿はタンの毒なので、遠慮する」

明日までの命にもかかわらず、体調に気をつかう三成に、周囲は失笑。

それに対して三成は

「英雄とは、志を果たすために、最期の最期まで、命を惜しむものなのだ」

と反論。

これに、笑ってしまった者たちは納得し、自らを恥じたという。

三成の子供たち3男3女は、敵首謀者の子供達であるにもかかわらず、なぜか徳川家康に処刑されることなく、全員が生き延びています。

中には、故意に家康から救われた者もいます。

そしてその血筋は、徳川家や天皇家にも引き継がれ、現在も続いています。

→→→→→【石田三成の子孫の現在と家系図】についてくわしくはこちら



スポンサーリンク


まとめ

本日の記事をまとめますと

1,石田三成の死因は?

関ヶ原の戦いで徳川家康に敗北し斬首による処刑。

 

2,石田三成の没年月日は?

旧暦・慶長5年10月1日

新暦・1600年11月6日

享年41歳

 

3,石田三成の最後の様子は?

9月21日】、田中吉政の追捕隊に捕縛。

9月22日】、大津城に護送されて城の門前で生きさらしとされた。その後、家康と会見。

10月1日】、京都・六条河原で斬首された。

 

4,石田三成の辞世の句は?

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



スポンサーリンク


石田三成・関連記事

よろしければ、以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。


スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次