豊臣秀吉の「死因」や「最後の様子」について、誰かに尋ねられても、ハッキリと答えられる方は、少ないかもしれません
実は筆者自身も、「豊臣秀吉」については知っていたものの、自分の手で調査してみるまで、「豊臣秀吉の死因・最後」については答えられませんでした
この記事では「豊臣秀吉」の「死因」「最後の様子」について、ひと目で分かるようにまとめました
「豊臣秀吉」の「最後」について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです
これを読んで、秀吉についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,豊臣秀吉の『死因』は?
複数の説があるが、以下の通り
- 脳梅毒
- 大腸がん
- 感冒(風邪)
- 祟り(たたり)
- 毒殺説など
ただ、「天ぷらを食べて亡くなった」という説は間違い。
天ぷらが死因と噂されたのは、「豊臣秀吉」ではなく「徳川家康」。
2,豊臣秀吉の「没年月日」は?
旧暦・慶長3年8月18日
新暦・1598年9月18日
享年62歳(満61歳)
3,豊臣秀吉の『最後の様子』は?
徳川家康たち「五大老」や「五奉行」に、息子の「豊臣秀頼」の後見を頼み続けて、亡くなった。
4,豊臣秀吉の『辞世の句』は?
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速(なにわ)のことも 夢のまた夢」
豊臣秀吉の『死因』は何?
秀吉の死因は、諸説あり
豊臣秀吉の「死因」については、「諸説あり定かとはなっていない」、というのが現状です。
秀吉の死因は、これまで様々な説が唱えられてきました。
- 脳梅毒
- 大腸がん
- 痢病(赤痢・疫痢など)
- 尿毒症
- 脚気(かっけ)
- 腎虚
または感冒(かんとう・風邪のこと)で亡くなった説もあるのです。
秀吉は「50代後半ころ」から、高齢であったためか、無意識のうちに失禁したこともあった、と記録されています。
病死説の他にも、くわしくは後述いたしますが
「善光寺にあった阿弥陀三尊(あみださんぞん)の祟(たた)り」で亡くなった
という説まであります。
「『天ぷら』を食べて急死した説」の真相とは?
「豊臣秀吉は『天ぷら』を食べて急死した」と噂されているようです。
結論から言ってしまうと、この噂は間違いです。
「天ぷら」は16世紀、すなわち秀吉の時代に、ポルトガルのカトリック宣教師から日本へ伝わったといわれています。
もしかすると秀吉も、「天ぷら」を好んで食していたかもしれません。
しかし、秀吉は「天ぷらを食べて急死した」のではありません。
「天ぷらが死因」といわれているのは、秀吉ではなく「徳川家康」です。
おそらく「家康が天ぷらで亡くなった」という噂と、「秀吉の死因」が混同したのでしょう。
家康は、亡くなる数ヶ月前に「鯛(たい)の天ぷら」を食べて体調を崩しています。
とはいえ、家康も「天ぷら」が原因で亡くなったわけではありません。
家康が「天ぷら」を食べたのは、亡くなる数ヶ月前なので、死因とは無関係です。
「沈惟敬による毒殺説」
明国の使節「沈惟敬(しん いけい)」による毒殺説もありますが、これは信ぴょう性が乏しいとされています。
「沈惟敬」とは、秀吉の「朝鮮出兵」で、「小西行長」らと和睦交渉をおこなった人物。
しかし、この和睦交渉は、明国と秀吉の両方をだまそうとした、いわゆる「欺瞞外交(ぎまんがいこう)」だったため、「沈惟敬」は秀吉を激怒させ、「慶長の役」、つまり「二度目の朝鮮出兵」をまねいてしまったのです。
さらに、明国の皇帝をも激怒させた「沈惟敬」は、あわれにも処刑されてしまうのでした。
沈惟敬が秀吉に謁見したのが【1596年】。
【1598年】に秀吉が亡くなるまで「2年」の間があいているので、「沈惟敬による毒殺説」は、無理がある説となるのです。
豊臣秀吉の『没年月日』と『最後の様子』
「没年月日」と「享年」
旧暦・慶長3年8月18日
新暦・1598年9月18日
享年62歳
(満61歳)
「最後の様子」
【慶長3年(1598年)3月15日】、秀吉は「醍醐(だいご)の花見」を行いました。
【同年5月頃】、秀吉は病に伏せるようになり、日に日に病状は悪化。
【5月15日】、「徳川家康」「前田利家」「前田利長」「宇喜多秀家」「上杉景勝」「毛利輝元」ら「五大老」およびその嫡男たちと、「五奉行」のうちの「前田玄以」「長束正家」に宛てた遺言書を作成。
これを受けた五大老は、起請文(きしょうもん・誓約書のこと)に血判をつけて返しています。
【7月4日】、京都・伏見城に「徳川家康」ら諸大名を呼び集めた秀吉は、家康に自分の嫡男「豊臣秀頼」の後見人となるように依頼。
【8月5日】、秀吉は「五大老」に宛てた、二度目の遺言書を作成。
この遺言状には
「秀頼のこと、頼みます。
この他には、なにも思い残すことはありません。」
と、五大老へ向けて記されています。
【8月17日】、秀吉が亡くなる前日、「阿弥陀三尊像」が信濃へむけて京都を出発。(これは秀吉の病が、前年に秀吉の命令で「甲斐善光寺」から「京都方広寺」へ移されていた「信濃善光寺」の本尊である「阿弥陀三尊の祟り」であるという噂があったので、阿弥陀三尊を信濃へもどすことが目的だった。この「祟り」が噂された「方広寺」で起こった「方広寺鐘銘事件」が、豊臣家を滅亡へと誘うことになる。)
【慶長3年(1598年)8月18日】、豊臣秀吉、死去。
秀吉の死は、「朝鮮」との戦争中であったため、敵の反撃を恐れて、しばらくの間は秘密とされることとなりましたが、情報は早くから民衆の間に広まっており、その日のうちに日記に記すものもいたほどです。
秀吉の遺骸は、しばらく伏見城の中に置かれることが決められます。
【慶長4年(1599年)4月13日】、秀吉が亡くなってから約半年後、伏見城から秀吉の遺骸が運ばれ、「阿弥陀ヶ峰」の山頂に埋葬。
【4月16日】、朝廷から「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号が与えられます。
【4月19日】、さらに「正一位の神階」が与えられたのでした。
秀吉の死後
豊臣家の家督は「豊臣秀頼」が継承。
徳川家康たち「五大老」「五奉行」がこれを補佐する体制が定められています。
そして、「朝鮮からの撤兵」も決定。
五大老五奉行により、明軍と講和し、全軍が朝鮮から撤退。
朝鮮半島での戦闘は、日本軍の中心であった「毛利輝元」「島津義弘」ら西国大名を大きく消耗させる結果となりました。
このことが、秀吉が亡くなったあとの豊臣政権において、大名たちによる対立の激化をまねくことになってしまいます。
【1600年】、秀吉の死から2年後、「関ヶ原の戦い」で、五奉行の一人「石田三成」と、五大老の筆頭「徳川家康」が激突します。
豊臣秀吉の『辞世の句』と意味
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速(なにわ)のことも 夢のまた夢」
【私はまるで、露(つゆ)のように現世へと生まれ落ち、そして露のように、消えていっていく。
なんとも儚い身であるものよ。
浪速の国(大坂城)で過ごした栄耀栄華・豪華絢爛なる日々もまた、まるで夢の中のそのまた夢のように、儚いものだったよ。】
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,豊臣秀吉の『死因』は?
複数の説があるが、以下の通り
- 脳梅毒
- 大腸がん
- 感冒(風邪)
- 祟り(たたり)
- 毒殺説など
ただ、「天ぷらを食べて亡くなった」という説は間違い。
天ぷらが死因と噂されたのは、「豊臣秀吉」ではなく「徳川家康」。
2,豊臣秀吉の「没年月日」は?
旧暦・慶長3年8月18日
新暦・1598年9月18日
享年62歳(満61歳)
3,豊臣秀吉の『最後の様子』は?
徳川家康たち「五大老」や「五奉行」に、息子の「豊臣秀頼」の後見を頼み続けて、亡くなった。
4,豊臣秀吉の『辞世の句』は?
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速(なにわ)のことも 夢のまた夢」
以上となります。
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