豊臣秀吉の辞世の句を超カンタン解説!秀吉最後の言葉と17年後の滅亡

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『豊臣秀吉像:Kissyさんによる写真ACからの写真』

「豊臣秀吉」は「織田信長」亡き後に天下人となり、最高位「関白」にまで上り詰めました。

しかし「秀吉」のその生涯は、果たして本当に幸せなものだったのでしょうか?

実は豊臣家、秀吉の死からわずか17年後に滅亡しているのです。

この記事では「秀吉の生涯に詳しくない方」のために、その生涯をわかりやすく解説してまいります。

これを読んで「そうだったのか、豊臣秀吉!」と、疑問をスッキリと解消してくださいね。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 天下人「豊臣秀吉」の辞世の句は
    『露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢』。
    その意味は
    「私の身は露のように生まれ出で、露のように消えていく。大坂城で過ごした日々は、まるで夢の中でまた夢をみているような、そんな出来事だった」。
  2. 秀吉は最期に、我が子「豊臣秀頼」の将来を心配して「徳川家康」「前田利家」ら五大老に対して「秀頼のことをくれぐれもよろしく頼む」と遺言している。
  3. 秀吉が亡くなった2年後、「関ヶ原の戦い」で徳川家康が「石田三成」を撃破。これにより徳川家が天下を実質的に支配。秀吉が亡くなった17年後に「大坂の陣」で豊臣家は滅亡した

豊臣秀吉の「辞世の句」!天下人・秀吉は本当に幸せだったのか?

秀吉が残した「辞世の句」全文とその意味

関白『豊臣秀吉』は、【1598918】に【62歳】で亡くなりました。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

秀吉が最期に残した辞世の句は

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢」

というものです。

その意味は

「自分は露のようにこの世に生まれ、露のように消えていく、大坂城(なにわ)で過ごした日々は、夢の中でまた夢を見ているような、そんな出来事だった」

となります。

「夢の中で夢を見ているような人生」とは、どんな人生なのでしょう?

「秀吉の人生」を簡単に振り返ってみます。


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「豊臣秀吉」の前半生を簡単におさらい

豊臣秀吉は、【1536(近年は【1537】説が有力になりました)に、尾張国(愛知県名古屋市)で生まれました。

出自についてははっきりしておらず、「足軽の子だった」とも、「農民の子だった」とも言われています。

幼い頃に実父「弥右衛門(やえもん)」と死別し、母の再婚相手「竹阿弥」に虐待されて育った「日吉(ひよし)」こと若い頃の「秀吉」。

侍になることを目指し、半ば家出のようにして「尾張」から「遠江(静岡県西部)」に行き、「今川義元」が当主を務めた名門「今川家」の家臣「松下嘉兵衛」に仕えました。

その後、【1554】頃から尾張国の領主「織田信長」に仕えるようになります。秀吉は信長の信頼を得て、織田家中で出世していきます。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

1573】、信長によって北近江の大名「浅井長政」が攻め滅ぼされた後、その旧領を与えられた秀吉は、琵琶湖東部の「今浜」を「長浜」と改名。新しくつくった城「長浜城」の城主となりました。(織田信長への感謝を示すため、「長」の一字をもらって「長浜」と改名した説があります。)

その頃、秀吉は織田家の重臣「柴田勝家」や「丹羽長秀」のような名将になりたいという理由で、2人の苗字の一字をもらっています。「羽」と「柴」で「羽柴」と名乗り、「木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)」から「羽柴秀吉(はしばひでよし)」に改名したのです。(一説には「羽柴」という)

1582】、「織田信長」が「明智光秀」に攻め滅ぼされます。「本能寺の変」です。

その頃、備中(岡山県西部)で「毛利家」と戦っていた「秀吉」は、毛利攻めから「中国大返し」と呼ばれる圧倒的な速度での進軍により畿内へ帰還。凄まじい速度で戻った秀吉は、「山崎の戦い」で明智光秀を撃破。「信長の仇討ちを果たした」という理由で、織田家中での地位を一気に高めたのでした。

さらに翌【1583】、「あんな武将になりたい」という理由で「柴」の一字をもらった恩人「柴田勝家」と「賤ヶ岳の戦い」で激突。

この戦いに勝利した秀吉は、越前「北ノ庄城」で信長の妹「お市の方」もろとも「柴田勝家」を攻め滅ぼします。

《柴田勝家》
『引用元ウィキペディアより』

織田家中の実力者「柴田勝家」を滅ぼし、「丹羽長秀」を支配下においた秀吉は、信長の孫「三法師」の後見役として立ち回りながら、天下人への階段を駆け上りました。

信長の次男「織田信雄」は、「徳川家康」と同盟。協力して「秀吉」に対抗しましたが、秀吉に城を落とされ続けた挙げ句、和睦。実質的には降伏でした。家康も次男「於次丸」(おつぎまる・のちの結城秀康)を人質に差し出し、秀吉と和睦します。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

こうして「秀吉」は、織田家中の実力者ではなく「豊臣政権のトップ」となり、【1585】には元関白「近衛前久(このえさきひさ)」の養子となって、天皇の臣下としては最高位にあたる「関白」にまで上り詰めました。

その後は「九州」「関東」「奥州」を平定。【1590年】、信長があと一歩まで行きながらも成し得なかった「天下統一・全国統一」を成し遂げます。

しかし天下人となってからの秀吉は、人が変わったように「残虐な性質」を見せるようになりました。

もともと器の大きな人ではなかったのかもしれませんが、自分の悪口を落書きした者を突き止めさせ、非常に残忍な刑を課しています。

また、息子の「豊臣秀頼」が生まれたからという理由で、跡取りにするつもりでいた甥「豊臣秀次」を切腹に追い込んでいます。それだけではありません。「秀次」の正室・側室・子どもたちまで残らず処刑したのです。

《豊臣秀次》
『引用元ウィキペディアより』

この「秀次事件」の際には、秀次の側室となるために畿内に到着したばかりの「伊達政宗」の母方の従姉妹「駒姫」も巻き添えで処刑されています。(駒姫はこの時15歳。山形城主「最上義光」の娘)

これら無残な仕打ちの他にも、「朝鮮出兵」、「宣教師やキリシタンに対する弾圧」など、残酷な行いは数知れません。

天下人・権力者としての「豊臣秀吉」に、表向きは頭を下げていても、心から秀吉を慕い仕える者は、確実に少なくなっていったでしょう。


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「豊臣秀吉」の子「秀頼」は実子ではない?

「豊臣秀吉には、正室「北政所」こと「ねね」だけではなく、数多くの側室や愛妾がいました。

しかしそれら側室たちが、秀吉の子供を授かることはありませんでした。ただ一人を除いて・・・。

秀吉が【50】を過ぎてから、「織田信長」の姪「淀殿」が「鶴松」「秀頼」という2人の男児を出産しています。しかし「この2人は秀吉の子ではない」と疑う学者もいます。(長男「鶴松」は夭折)

淀殿が次男「豊臣秀頼」を懐妊した時は「朝鮮出兵」の真っ最中。秀吉自身は九州の「名護屋城」に滞在していました。対して「淀殿」は大坂でお留守番していたのです。つまり、実父「秀吉」が「秀頼」の実父である可能性が疑われているのです。

それだけではありません。この直後に「淀殿」付きの使用人が処罰されていることから、おそらく「淀殿」が秀吉以外の男性の子供を身ごもった、その責任を「使用人」が取らされたのだ、と考えられます。

秀吉は若い頃に憧れた信長の妹「お市の方」の忘れ形見「淀殿」を側室としたのです。とはいえ秀吉はわかっていたはずです。「淀殿」が自分のことを「義父(柴田勝家)」と母「お市の方」の仇として骨の髄まで憎んでいることを。

家臣を心から信頼することができず、また信頼もされず、家庭でも妻「淀殿」に裏切られた哀しい男・・・・。それが晩年の「秀吉」だったのです。

 

余談ですが、秀吉は子供をつくることが出来ない体質だったという指摘があります。幼い頃に患った「おたふく風邪」によって、子供ができなくなったのだとか。

いくら立身出世しても、自らの血筋を残すことが出来ない。天地から、自分の血が拒絶されている・・・。不世出の天下人「豊臣秀吉」は、一体どんな思いだったのでしょうか・・・。


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決して満たされることのない「秀吉」の晩年

低い身分から天下人となり、名門「五摂家」の筆頭「近衛家」に養子入りして「関白」にまで上り詰め、位人臣を極めた秀吉。

そんな秀吉には、心から信頼を寄せることができる者が、身近にいませんでした。

おそらく1日たりとも、心から安らぎを覚えたことはなかったのではないでしょうか。

そんな状況で「自分がもう長くない」と自覚して詠んだのが、あの辞世の句だったわけです。

とてつもなく孤独で、悲哀が漂ってきますよね。

どんなに出世しても、仕事関係だけではなく、家庭でも人を信用し信頼されることがない・・・・というのは、かなり精神的に辛い状況ですよね。

皆さんの周囲にもいませんか、そんな人?

私には、決して幸せな人生とは思えないのです


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秀吉が残した最後の言葉!戦国時代を終わらせた英雄「秀吉」の遺言とは?

秀吉が50歳を過ぎた頃から、身体が劇的に衰えを見せ始めました。

50代後半くらいから、たびたび失禁していた・・という記録も残っています。

15983】、京都の「醍醐」で花見を楽しんだ後、秀吉の身体はますます衰えていきました。

5月頃から病床に伏せるようになり、病状はさらに悪化していきます。

自分の死期を悟った秀吉は、「徳川家康」「前田利家」「前田利長」「宇喜多秀家」「上杉景勝」「毛利輝元」らの「豊臣家五大老」と、五奉行のうち「前田玄以」「長束正家」にあてて、遺言を残しました。

秀吉の遺言は、現存しているものが「3種類」あります。


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1つ目の遺言状「浅野家遺言状」

1つは、五奉行筆頭「浅野長政」が、病床の秀吉の言葉を書き取ったもので、代々浅野家に伝えられてきました。

その内容は「11か条の覚書」からなり、「徳川家康・秀忠」親子、「前田利家・利長」親子、「上杉景勝」、「毛利輝元」らに対して、自分が亡くなったあとに任せるべき事柄を決め、その務めを果たすように言い残しています。

また、豊臣家に臣従したものが互いに争うことなく、五大老筆頭の2人「家康」と「利家」の意見を聞き、その意見次第に物事を決めよ・・・とも言い残しました。

家康に対しては

「京都の伏見城で暮らし、豊臣政権の庶務を頼む」

と言い残します。

また「前田利家」に対しては

「大坂城にいる豊臣秀頼のお守り役として世話を焼いてほしい」

と言い残しました。

「前田利家」と「秀吉」は、織田家家臣だった頃から親しい間柄でしたから『秀頼のことを頼むなら、利家が一番良い』と考えたのでしょう。

しかし、その頼みの綱の「前田利家」も、健康を害し始めていたのです。

遺言を聞き入れて大坂城に入った「前田利家」。「じい」のように秀頼の守役をはじめましたが、秀吉の後を追うように秀吉が亡くなった翌年の【1599年】に病没。

この「浅野家に伝わる遺言書」は概ね信頼できる内容ですが、「後世に浅野家に都合のいいように書き換えられた可能性があるのではないか」・・・・・という指摘もされています。


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2つ目の遺言状「早稲田大学所蔵の遺言状」

2つ目の「秀吉の遺言状」は、早稲田大学が現在所蔵しているものです。

「徳川家康」「前田利家」「前田利長」「宇喜多秀家」「上杉景勝」「毛利輝元」ら『五大老』への遺言で、以下のことを言い残しています。

五大老同士の「縁組(婚姻)」は、互いに話し合って決めること
徳川家康は3年間在京し、領地「江戸」でやるべきことがあるときは、息子「徳川秀忠」が代わりに行ってやること
五奉行のうち「前田玄以」と「長束政家」のどちらかは、必ず伏見城に滞在。五奉行のうち残る3人「浅野長政」「石田三成」「増田長盛」は、交代で伏見城に滞在し、常に五奉行の2名が伏見城にいる状態とすること。「徳川家康」が伏見城の責任を持つこと
大坂城は、五奉行のうち、2人ずつで留守を守ること
「豊臣秀頼」が大坂城に入城したのちは、諸大名は人質として、妻子を大坂に置くこと

五奉行に大坂城と伏見城の守りを頼る一方で、徳川家康をずいぶんと頼っていますね。

この遺言書の内容を誤解するのか、あるいは「浅野家遺言書」を捏造と考えているのか・・・・『秀吉が家康に全権委任した』と考える人もいますが、それは飛躍しすぎた考え方だと思います。

基本的に、「前田利家」が病没するまでは「浅野家遺言書」に言い渡されているように、「五大老」と「五奉行」が機能しています。つまり「前田利家」が亡くなるまでの間は「家康」にそれほど頼りきる必要がなかったはずなのです。

とはいえ秀吉の死から間もなく、「徳川家康」は「伊達政宗」と姻戚関係を結び、「秀吉の遺言に反する!」という理由で、「前田利家」を怒らせました。

これにより「徳川家康」と「前田利家」の対立が始まります。

五大老のうち「宇喜多秀家」「上杉景勝」「毛利輝元」、五奉行の「石田三成」らが「前田利家」に付きました。

「徳川家康」と「前田利家」の間で、「戦が始まるのではないか?」という緊張状態となります。

しかし五大老五奉行のほか、大名のうち大多数が「前田利家」につきました。そのため「家康」は、今の段階で利家と争うのは得策ではないと判断。前田利家と和睦し、騒ぎは一旦は収束へと向かいます。ところが【1599】に前田利家が亡くなると、再び緊張状態が始まったのでした。


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3つ目の遺言状「毛利博物館所蔵の遺言状」

3つ目の遺言書は、秀吉直筆の遺言状を書き写したもので、現在は山口県の毛利博物館が所蔵しています。

大河ドラマ『真田丸』でも登場した「秀吉の遺言状」とは、この遺言状のことです。

秀吉は、「徳川家康」「前田利家」「前田利長」「宇喜多秀家」「上杉景勝」「毛利輝元」ら「五大老」に向けて

くれぐれも秀頼のことを頼む

と書き残しました。

数え歳で5歳にならない子供「秀頼」を残して逝ってしまうことが大変心残りだった秀吉。

「かえすがえすもくれぐれも頼む」

と記しています。

しかし秀吉のその願いも虚しく、秀吉逝去の翌【1599】、頼みの「前田利家」が亡くなり、豊臣政権は崩壊に向かっていったのです。


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秀吉が死んだ17年後の悲劇!息子・秀頼の死と、豊臣家滅亡の経緯

豊臣秀吉の死から17年後の【1615年】、「大坂夏の陣」で豊臣家は滅亡しました。

低い身分から天下人となっただけではなく、鎌倉時代以来の公家の頂点である名門「五摂家」の筆頭である「近衛家」の元関白「近衛前久」の養子となり、関白まで上り詰めた「秀吉」。

その秀吉亡き後、豊臣家は【17年】しか保たなかったのです。

その【17年】の間、一体何があったのでしょうか?


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【1600年】関ヶ原の戦い

1598】に秀吉が亡くなってからわずか2年後の【1600年】、「天下分け目」と称された「関ヶ原の戦い」が勃発します。

1599】に秀吉が秀頼の守役として頼りにしていた「前田利家」が亡くなります。これをきっかけにして「豊臣政権」は崩壊への道をたどり始めたのです。

1600】、豊臣家五大老の1人だった「徳川家康」が畿内(京都周辺)を離れたのを見計らい、家康と同じ五大老「毛利輝元」と五奉行の1人「石田三成」が家康討伐のために挙兵。

家康は秀吉が亡くなって間もなく、「伊達政宗」や「福島正則」らと姻戚関係となりました。これは「秀吉の遺言」に違反する行為。そのため秀頼の守役だった「前田利家」は激怒。

この時「石田三成」や「毛利輝元」は利家の味方につき「家康と戦うことも辞さず」と覚悟を決めていました。

しかし「現段階で利家と戦うのはまずい」という現実的な判断下した「家康」は、利家と和睦。このとき豊臣政権にたった波風は一旦は治まっていたのです。

それは「前田利家」という重石があったからこその状態でした。やはり「前田利家」という人物は、人望においては徳川家康も敵わない大人物だったと言えます。

利家が亡くなったあと、家康に対抗できるほどの人物はいなくなりました。

また、無謀にも家康に戦いを挑もうとする「毛利輝元」や「石田三成」を諌める者もいなかったのです。

家康は「利家」という目の上のこぶがいなくなったことで、更に傍若無人な振る舞いをします。

まずは「前田利家」の息子で五大老の後継者「前田利長」に難癖をつけて屈服させます。

さらに「会津」の領主である五大老「上杉景勝」に臣従を迫るという強引な挑発を開始。

これに激怒した「上杉景勝」とその家老「直江兼続」は、「いつでもかかってこい」と記した通称「直江状」を家康に送り、ついに開戦。大軍団を率いた家康は、「会津」へ向けて出陣。

「家康は3年のあいだ在京せよ」という秀吉の遺言を見事に無視したのでした。


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「秀吉の遺言」を次々と無視する家康の行為に「三成」や「輝元」は怒りを覚えていたはずです。

その2人にとって、秀吉の死からわずか2年後に家康が畿内を離れたことは、さらなる「遺言」への違反。さらに怒りの炎に油を注ぐことになったでしょう。

家康は恐らく、秀吉が亡くなる前から「いかにして豊臣家を追い落とし、織田信長公の望みであった『天下静謐』を実現するか」・・・虎視眈々と機会を伺っていたはずです。

わざと畿内を離れ、「輝元」や「三成」が自分に対して挙兵するよう、挑発したのかもしれません。挙兵さえしてくれれば、「毛利輝元」「石田三成」を討伐する名目が出来ます。

なぜ家康は「秀吉の遺言」を次々無視し、「三成」や「輝元」を怒らせたのか?

家康はわざと「秀吉の遺言」を無視し続け、自分に「味方する者」と「敵対する者」を浮き彫りにしたのです。

そのうえで反対勢力を撃破。それにより「豊臣家」という巨大勢力の力を半減させようとしたのです。【1600年】、ついに「石田三成」が「毛利輝元」を総大将にして挙兵。「関ヶ原の戦い」が目前に迫ります。

「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「伏見城の戦い」では西軍(石田三成軍)に属していた武将「小早川秀秋」。その後は積極的に西軍に味方せず、伊勢などで鷹狩をしていたのだとか。

秀吉に義理の父「小早川隆景」から相続した所領を奪われ、厳封(領地削減)されてしまった小早川秀秋は、内心では秀吉を恨んでいたのでしょう。

「毛利輝元」や「石田三成」に対して、最初はいい顔をしたのかもしれません。ところが秀秋はさっさと西軍から離脱。「関ヶ原の戦い」の前日に関ヶ原へ赴き、西軍側の武将を追い出して、関ケ原の重要拠点であった「松尾山城」を占拠。

恐らく小早川秀秋は、最初から家康(東軍)に味方するつもりでいたのでしょう。

西軍は「家康」率いる「東軍」にあっさりと敗れ、「石田三成」「小西行長」「安国寺恵瓊」らは処刑。こののち豊臣家は一気に衰退していきます。豊臣家は関白家でありながら、【1603年】に家康が開いた「徳川幕府」の1大名として扱われることとなるのです。

《石田三成》
「引用元ウィキペディアより」

それでも当初、家康は豊臣家を存続させようと考えていたようです。

もしも豊臣家を滅ぼすつもりなら、「関ヶ原の戦い」直後にそうしていてもおかしくありません。ところが家康は、そうしていません。

「関ヶ原の戦い」で勝利した家康は、かつては200万石の所領を持っていた豊臣家の領地を、勝手に「東軍」の武将たちへ「関ヶ原の戦いの恩賞」として分け与えます。

それにより豊臣家は「60万石」の中規模の大名へと転落。

1603年】、「征夷大将軍・源氏長者」という、当時の日本で最大の権力を持つ地位に上りつめた「徳川家康」は、潰そうと思えばいつでも潰せた「豊臣家」を存続させたのでした。

もしかすると、かつての盟友「織田信長」の妹「お市の方」の孫である「豊臣秀頼」を、滅ぼすつもりにはならなかったのかもしれません。

「家康」は「豊臣秀頼」について、滅ぼすまでもなく、主従関係を逆転させて「臣従させればいい」と考えたのかもしれません。


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余談・・・「関ヶ原の戦い」では、なぜ「東軍」「西軍」と呼ぶのか?

余談ですが、なぜ「関ヶ原の戦い」では「石田三成軍」を西軍、「徳川家康軍」を「東軍」と呼ぶのでしょうか?

実はこのとき、「石田三成」も「徳川家康」も、自軍のことを「豊臣軍」と自称していました。

なぜか?

実はこの「関ヶ原の戦い」は、「豊臣家に仕える家臣同士の戦い」であり、決して「徳川軍」対「豊臣軍」の戦いではないからです。

この時「徳川家康」は、あくまでも豊臣家の部下。対して「石田三成」もまた「豊臣家の部下」でした。

そのため、双方が

「われこそは豊臣軍!対して敵軍は、豊臣家に従うふりをした逆臣である」

と主張したのでした。

双方ともに「豊臣軍」では、どっちがどっちだかわからなくなります。

そのため、この戦いの主将同士の「本拠」の位置により、「西軍」と「東軍」と呼ぶようになったのです。

「石田三成」は、近江国(滋賀県)の佐和山城を拠点としていました。

対して「徳川家康」は武蔵国南部(東京都)の江戸城が本拠地。

これにより、西に位置する「佐和山城」の石田三成を「西軍」。東に位置する「江戸城」の徳川家康を「東軍」と呼ぶようになったのでした。


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「関ヶ原の戦い」~【1611年】「二条城会見」

「関ヶ原の戦い」の後、「猿」とあだ名されていた秀吉の子「豊臣秀頼」は、母「淀殿」からの遺伝が強かったのか、父とは異なり身長の高い若武者に成長していきました。

以下の肖像画からは想像も出来ませんが、どうやら「秀頼」は相当な巨漢だったらしく、巨大な岩を一人で持ち上げるほどの怪力でもあったのだとか。

豊臣秀頼 京都市養源院蔵:Wikipediaよりパブリックドメイン

秀頼の母「淀殿」の両親である「浅井長政」と「お市の方」は、2人とも背が高かったと言われています。その娘「淀殿」も、当時の女性としては長身だったようです。

秀吉が「朝鮮出兵」で九州「名護屋城」に滞在していた頃に「淀殿」が懐妊しています。そのため「豊臣秀頼」は「秀吉」の実子ではなく、「淀殿」の幼馴染(乳兄弟)の武将「大野治長」の子ではないかと言われていました。

「秀頼が秀吉の実子ではない」という話も、家康の耳に入ったのかもしれません。

いずれにせよ、威風堂々たる体躯の持ち主となった秀頼のことを、家康は「そのままにはしておけないと」考えるようになったのでしょう。

家康が「征夷大将軍」となってからも、朝廷は「秀頼」を「豊臣家の後継者」として扱っていました。いずれ関白になりうる存在としてみなしていたのです。

徳川家に対して反感を持つ大名が、秀頼を銘酒としてかつぎ上げて、江戸幕府に反旗を翻す可能性があると家康は考えたのでしょう。そうなると「秀頼」をそのままにしておくわけにはおけません。

あくまでも私見ですが、その家康の考えを後押ししたのが「淀殿」だったのではないか、と思います。

筆者が子供の頃、「関ヶ原の戦い」から「大坂冬の陣・夏の陣」に至るまでの「15年」の間に「淀殿」がとった行動を、とても不思議に思ったものです。「淀殿の行動」を書籍で読んでいた筆者は「この人は豊臣家を滅ぼそうとしているのかしら?なぜこんなことをするのだろうか?」と首をかしげたものでした。

「淀殿」はプライドが高いからなのか、実質的に天下人となった「家康」に対し、対抗的というか、反抗的な態度を取り続けました。

1605】、右大臣となった秀頼に、家康は京都での会見を提案します。ところが母「淀殿」はこの要求を拒絶。やむを得ず家康は六男「松平忠輝」を大坂城に派遣。秀頼に面会させました。(このとき「松平忠輝」は、征夷大将軍の職を兄である「徳川秀忠」が引き継ぐことを豊臣家へ報告したとされています。これは「征夷大将軍は徳川が世襲し、天下は徳川家が支配していく」という通告でもありました。)

なぜ「家康」は会見を提案したかというと、「家康と秀頼のどちらが主人であるかをはっきりさせようとした」のです。

このとき「家康」は、武門の棟梁である「征夷大将軍」しかも「源氏長者」という、豊臣家をも上回る地位についていました。

そのため、「秀頼」を呼びつけることで、世間に対し「家康のほうが主君である」と印象付けようとしたのです。

「淀殿」としては、家康より秀頼ほうが「主君」なのだから、そちらから面会に来ればよい・・・・という気持ちだったのかもしれません。

秀頼と家康の直接の対面は、【1611】に「千姫の御爺様に挨拶をする」という名目でようやく実現しました。この「二条城謁見」をもって、「豊臣秀頼」と「徳川家康」の主従関係が逆転したという説もあります。

秀頼としてはそんなつもりはなかったのでしょうが、世間の目は「秀頼が大坂城を出て、二条城へ赴いた。秀頼は家康に屈服した」と映ったでしょう。


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【1614年】「方広寺鐘銘事件」~【1615年】「大坂の陣」・・豊臣家滅亡

1614】、豊臣家が再建していた京都の「方広寺大仏殿」と「梵鐘(ぼんしょう・お寺の鐘のこと)」が完成します。

方広寺の鐘銘には「国」「君臣豊楽」という文言が掘られていました。

その鐘銘を見た家康は激怒します。「わしの諱(いみな)を2つに割るとは、けしからん」ということです。

また、京都五山(南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)の僧侶らも、「家康という諱を割ったのは良くないことだ」と言いました。

当時の武将にとって名前はそれほど重要であり、名前を割るのは呪詛をかけたと考えられても仕方のないことでした。

この「いみな(諱)」というものは、天皇または主君や両親以外の人間が、軽々しく呼んではならないものと考えられていました。

昔の大河ドラマなどを見ると、例えば「織田信長」が家来である「柴田勝家」のことを「かついえ!」と呼び捨てにしています。

実際には主君といえども、家来を「いみな」で呼ぶことはなかったようです。

ですので、信長も家来の「柴田勝家」を「かついえ」と呼ぶことはなく、通称の「権六」または官位名の「修理亮(しゅりのすけ)」と呼んでいたでしょう。

当然家来の「柴田勝家」が「信長様!」と「いみな」で信長を呼ぶことはありません。「お館様」や「上様」などの敬称または「上総介」「三郎」「尾張殿」などの通称で呼びます。主君すら家来の諱を避けたのです。家来が主君の諱を避けるのは当然であると言えます。

それだけ「名前」は当時の人達にとって重要なものだったのです。

「二条城謁見」以降、「豊臣家」は「徳川家」の臣下と見られていましたから、主君である「徳川家康」の諱を、家来の「豊臣家」が分断するなど、あってはいけないことだったのです。

この事件をきっかけとして家康と秀頼は決裂。ついに「大坂冬の陣」が勃発してしまいました。「大坂冬の陣」は徳川・豊臣の和睦によって終戦。しかし半年もたたないうちに勃発した「大坂夏の陣」によって、「豊臣家」はついに滅亡。

「豊臣秀頼」と「淀殿」は自害。秀頼の幼い息子「国松丸」は京都で処刑されてしまうのでした。


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仮説「淀殿は豊臣家を滅ぼそうとしていた・・・」

淀殿は、実は高い政治能力を持っていた女性でした。

その淀殿の妹「江」が、秀吉の甥「羽柴秀勝」との間にもうけた娘「完子(さだこ)」を自分の養女として五摂家の一つ「九条家」に嫁がせ、豊臣家と五摂家の結びつきを強めるなど、高い外交能力を発揮していたのです。

その甲斐があって「朝廷」は、秀頼を豊臣家の後継者として認め、いずれは関白になる者・・・とみなしていたのです。

その見識を持ってすれば、家康の怒りをいなしつつ鎮め、豊臣家を存続させることは可能だったのではないか・・・と私には思えます。

ところが、淀殿は家康には徹底的に歯向かいました。

筆者個人の考えですが、「ある目的」があってそうしていたのではないか・・・と思うのです。

その「目的」とは「豊臣家の滅亡」。淀殿は「豊臣家を滅亡させようとしていた」のではないでしょうか?

荒唐無稽かもしれませんが、そう考えると、淀殿がとった行動の説明がつくのです。

淀殿の母「お市の方」は、「織田信長」亡き後「柴田勝家」と結婚。ところがわずか1年後の【1583年】、「賤ヶ岳の戦い」で豊臣秀吉に敗北したことが原因で、「勝家・お市」夫婦は自害に追い込まれました。

わずか1年とはいえ、義理の父となった「柴田勝家」と母「お市の方」を死なせたのは、他の誰でもない・・・・豊臣秀吉その人です。

秀吉は淀殿にとって、母と義理の父の敵でもあるのです。(ちなみに淀殿の兄「万福丸」も秀吉に殺害されている)

現代人の感覚とは違うと言っても、よくそんな相手の側室になるなぁ・・・・・・・と、筆者は子供の頃に思っていました。

しかし淀殿が「復讐のために側室になったのだとしたら?」と、筆者は大人になってから思い至ったのです。

秀吉が遠征で留守にしている間に他の男の子供を懐妊し『あなたの子供ですよ、跡取りですよ』というのは、ある意味で非常に効果的な「報復・復讐」ではないでしょうか。

正室「北政所(ねね)」や他の側室との間にも子供を授かることのなかった秀吉は、淀殿が産んだ子を「自分の子ではない」と気づいたかもしれません。しかし、かつて自分が憧れた女性「お市の方」の面影がある「淀殿」、そして「淀殿」が産んだ子供も、処分などできなかったのでしょう。

「自分の子ではない」と騒げば、「秀吉は淀殿に浮気された」「他の男に側室を寝取られた」と、秀吉はあざけられるでしょう。自分に従属する武将たちにバカにされるだけでなく、謀反を起こされるスキを与える危険性もあるかもしれません。

「自分の子ではない」と知っていても、騒ぐこともできず、浮気した妻を責めることもできない。

これはかなり辛い状況だと思います。

腹の底で自分を恨んでいる「淀殿」が、自分が亡くなったあとに豊臣家に何をするかわからない・・・。

そんな恐怖を内心抱きつつ、その想いを打ち明け相談できる人物もいない秀吉・・・。おそらく秀吉は、そう遠くない将来、豊臣家が滅亡に追い込まれるのを予感していたのでしょう。

「前田利家」とは親しかった秀吉。しかしいくら親しいとはいえ「秀頼が淀殿の浮気でできた子かもしれない」ということを、打ち明けるわけにもいかなかったはずです。

秀吉の危惧は的中。あえて家康に敵対心をむき出しにし続けた「淀殿」は、「大坂冬の陣・夏の陣」という災いを豊臣家に招き入れ、滅亡に追い込みました。

豊臣家が滅亡したのは、秀吉が関白となってから、わずか【30年後】の出来事です。

まさに「なにわのことも 夢のまた夢」となったのでした。


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『豊臣秀吉』について「ひとこと」言いたい!

ところで、豊臣家を滅亡に導いた原因の1つを作ったのは、他の誰でもない秀吉自身です。

え、なんで?と思われるでしょうね。

子供に恵まれなかった秀吉は、姉の息子「豊臣秀次」を養子として、豊臣家を継がせるつもりでいました。

しかし「秀頼」が誕生したことで、秀吉は甥「秀次」を疎んじるようになったのです。

やがて秀吉から謀反の疑いをかけられた「秀次」は、紀伊国・高野山へ監禁され、自害を言い渡されます。

それだけでは済まず、秀次の妻子数十名も、すべて処刑されてしまいました。

秀吉がここまで苛烈な処罰を課したのは、秀吉自身が「お館さま(織田信長)」を死に追いやる行為を過去に行っており、いつ自分も身内に寝首をかかれるかわからなという恐怖心を抱いていたからではないか、と私自身は思っています。つまり「本能寺の変」の黒幕は「豊臣秀吉」なのではないか・・・ということです。

女子供をゆるして生かせば、将来に禍根を残す危険性がある。そのため、ここまで苛烈だったのでしょう。そのはずが秀吉のこの行為は、結果として豊臣家を滅亡に追い込む一因になりました。

子沢山の秀次を子供もろとも滅ぼしたことは、豊臣家の跡取りである「秀頼」に何かあった場合に、代わりに豊臣家を継ぐ資格のある人間を滅ぼすことでもあったからです。

こうして、豊臣家は深刻な「後継者不足」に陥りました。


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秀次を「秀頼が成人するまでの後見役」としておけば、秀吉が亡くなってから【17年】で豊臣家が滅亡することはなかったでしょう。

なんといっても「秀次」はそれなりに優秀で、周囲からの評判もよい人物だったからです。とても教養の深い人物で、文学を好み、武芸の修行も怠らなかった人と考えられています。

「小牧・長久手の戦い」では「徳川家康」に敗北したものの、これは「秀次」にとっては初陣つまりデビュー戦にも等しい戦いでした。

対して家康は「野戦の名人」と呼ばれ、「武田信玄」「武田勝頼」らとの激闘で鍛え上げられた名将。

「秀次VS家康」は、今で言えば「幕下力士」が「横綱」に挑むようなもの。

この後「秀次」は、各地の戦場でそれなりに結果を残しています。二代将軍「徳川秀忠」が「関ヶ原の戦い」に大遅刻した失敗に比べたら、秀次の失敗など大したことはありません。むしろ「徳川秀忠」よりも優秀だといえるはずです。

そんな「秀次」とその「子どもたち」を死なせてしまったことは、秀吉にとっては大失敗と言わざるを得ません。秀次が生きていたら、歴史は変わっていたかもしれませんね


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「豊臣秀吉」の辞世の句・・・『露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢』。
    意味は「我が身は露のようにこの世に生まれ、露のように消えていく。大坂城(なにわ)で過ごした日々は、まるで夢の中でまた夢をみているような出来事だった」。
  2. 秀吉は最期に、嫡子「豊臣秀頼」の将来を心配し「徳川家康」「前田利家」たち五大老に向けて「我が子『秀頼』のことをくれぐれもよろしく頼む」と遺言を残した。
  3. 秀吉が亡くなった2年後の【1600年】、「関ヶ原の戦い」で徳川家康が「石田三成」を撃破。これにより徳川家が天下を実質的に支配。秀吉が亡くなった17年後の【1615年】に「大坂の陣」で豊臣家は滅亡した

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この記事を短くまとめると、以下の通り

「豊臣秀吉」は尾張の農民、もしくは足軽の子として生まれ、幼くして実父と死に別れ、継父に虐待され、遠江の今川家家臣「松下嘉兵衛」に仕え、武将への道を歩き始めました。

後に織田家家臣となり、その才気を「織田信長」に認められ近江国「長浜城」の城主となります。

信長の死後、織田家中で頭角を表し、天下人となりました。

しかし実子には恵まれず、「豊臣秀頼」が実の子か否か、当時から疑われていたのです。

家庭人としては孤独な生活を送った秀吉は、天下人となって幸せな人生を歩んでいたとは言い難い状態だったでしょう。

50歳を過ぎた頃から身体が衰え始め、50代後半には失禁していたという記録も残っています。

秀頼の将来を案じ、「徳川家康」や「前田利家」に遺言を残しています。

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢」

という辞世の句を残し、62歳で他界。

それからわずか17年後、「大坂夏の陣」で徳川家康の手により、豊臣家は滅亡。

文字通り「なにわのことも 夢のまた夢」となったのでした。

『京都東山・豊国廟:kimtoruさんによる写真ACからの写真』

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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