「豊臣秀吉の辞世の句にはどんな意味があるの?」「『夢のまた夢』って結局なにを言いたかったの?」と気になって調べていませんか。
農民から天下人へと駆け上がった秀吉が、人生の最後に詠んだ一句には、栄華を極めた男の意外なほどの寂しさが滲んでいます。
豊臣秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢」。
その意味をひと言でいえば、「自分は露のように生まれ露のように消えていく、すべては夢の中で見るまた夢のようなはかない出来事だった」という、無常観に満ちた述懐です。
天下を取った人物の最後の言葉とは思えないほど、静かで切ない響きを持っています。
この記事では、豊臣秀吉の辞世の句の全文と読み方、その意味の現代語訳、「最後の言葉」として残した遺言、そして享年62の最期から豊臣家滅亡までの流れを、わかりやすく解説します。
読み終えるころには、なぜこの句がこれほど人の心を打つのか、その理由がきっと腑に落ちるはずです。
- 秀吉の辞世の句は「露と落ち露と消えにし我が身かな なにわのことも 夢のまた夢」
- 意味は「すべては夢の中の夢のようにはかなかった」という強い無常観
- 最後の言葉として家康ら五大老に「秀頼を頼む」と遺言を残した
- 句のとおり、秀吉の死から17年後に豊臣家は滅亡した(関連記事で深掘り)
豊臣秀吉の辞世の句とは?全文と読み方をまず確認

まずは豊臣秀吉の辞世の句そのものを、全文と読み方からしっかり確認しておきましょう。有名な句ですが、正確に覚えている人は意外と少なく、「なにわのことも」の部分を取り違えて記憶しているケースも見られます。ここでは句の全文・読み方に加えて、そもそも辞世の句とは何か、そしてこの句が本物なのかという疑問にもお答えしていきます。
辞世の句の全文と読み方
豊臣秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢」です。読み方は「つゆとおち つゆときえにし わがみかな なにわのことも ゆめのまたゆめ」となります。五・七・五・七・七の三十一文字からなる和歌の形式で、辞世の句としては比較的わかりやすい言葉が選ばれています。
注目したいのは「なにわのこと」という言葉です。これは秀吉が築いた大坂城のある「難波(なにわ)」の地を指すと同時に、「何は(なにわ)のことも=何もかも」という意味を重ねた掛詞になっているとする解釈もあります。つまり、大坂で過ごした栄華の日々だけでなく、自分の人生そのもの全体が「夢のまた夢」だったと詠んでいるのです。一見シンプルな句に二重の意味を込めているところに、この辞世の句の奥深さがあります。
そもそも辞世の句とは何か
辞世の句とは、人がこの世を去るにあたって詠み残す和歌や俳句のことです。死を目前にした人物が、自らの人生を振り返り、心境や悟りを短い言葉に凝縮して託すもので、戦国武将の間では特に重んじられました。いつ命を落とすか分からない時代を生きた武将にとって、辞世の句を残すことは、自分という存在の証を後世に伝える大切な行為だったのです。
武将の辞世の句には、その人の生き様や価値観がにじみ出ます。たとえば派手な合戦を好んだ武将は勇壮な句を、教養を重んじた武将は風雅な句を残しました。そうしたなかで秀吉の辞世の句は、天下人でありながら戦や権勢を一切詠まず、ただ人生のはかなさだけを静かに見つめている点で異色といえます。天下統一という前人未到の偉業を成し遂げた人物が、最後に「夢のまた夢」と詠んだ事実は、それだけで多くの人の胸を打つのです。
秀吉の辞世の句は本物なのか
「この辞世の句は本当に秀吉本人が詠んだものなのか」という疑問を持つ人も少なくありません。結論からいえば、この句の一次史料である直筆は確認されておらず、後世の文献によって伝わっています。しかし、秀吉の死の直前の心境を伝える資料として、広く受け入れられています。
武将の辞世の句のなかには、後世の軍記物や創作のなかで「いかにもその人物らしい」名句として作られ、本人の作かどうか疑わしいものも少なくありません。しかし秀吉のこの句については、彼が晩年に置かれていた孤独な状況や、子・秀頼の行く末を案じ続けた心情とも見事に符合しており、内容の面からも本人の作とするのが有力な説です。だからこそ、この句は四百年以上を経た今も色あせず、秀吉という人物の最期を語るうえで欠かせない言葉として受け継がれているのです。
豊臣秀吉の辞世の句の意味|現代語訳と「夢のまた夢」の真意
豊臣秀吉の辞世の句の意味を、いよいよ詳しく見ていきましょう。一句ずつ現代語訳をたどり、特に印象的な「夢のまた夢」という結びに込められた真意を読み解いていきます。あわせて、天下人がなぜこれほど寂しげな句を残したのか、その背景にある秀吉の心情にも迫ります。
句全体の現代語訳
辞世の句を現代語に訳すと、次のようになります。「自分という身は、草葉に宿る露のようにこの世に生まれ落ち、そして露が消えるようにはかなく消えていくのだなあ。大坂で過ごした栄華の日々も、いや私の人生に起こった何もかもが、まるで夢の中でさらに夢を見ているような、つかの間のはかない出来事だった」。わずか三十一文字に、生と死、栄華とはかなさのすべてが凝縮されているのが分かります。
「露」という言葉は、古来より日本の和歌で「はかないもの」の象徴として繰り返し使われてきました。朝にきらめいてもすぐに消えてしまう露に、秀吉は自分の一生を重ねています。農民の子として生まれ、天下人にまで上り詰めたその劇的な生涯を、当の本人が「露のようにはかなかった」と振り返っているのです。栄華の頂点を知る人物だからこそ、このはかなさの表現には重みがあります。
「夢のまた夢」に込められた真意
この辞世の句で最も有名で、最も心を打つのが結びの「夢のまた夢」という言葉です。単に「夢のようだった」ではなく、「夢の中で見るさらに別の夢」という二重の表現を使うことで、自分の人生のはかなさ・現実感のなさを極限まで強調しています。天下を統一し、関白という最高位にまで昇った栄光ですら、目覚めれば消えてしまう夢の中の夢にすぎなかった——そんな深い諦観がこの言葉には込められているのです。
仏教には、この世のすべては移ろい消えゆくものだとする「無常観」という考え方があります。秀吉の辞世の句は、まさにこの無常観を見事に表現したものといえます。これほどの権力と富を手にした人物が、最後にたどり着いた境地が「すべては夢のまた夢」だったという事実は、栄華の頂点が必ずしも幸福と結びつかないことを、静かに、しかし強烈に物語っています。後世の人々がこの句に強く惹かれるのは、そこに人生の普遍的な真実を感じ取るからでしょう。
なぜ天下人がこれほど寂しい句を残したのか
天下統一という空前の偉業を成し遂げた秀吉が、なぜこれほど寂しげな辞世の句を残したのでしょうか。その背景には、晩年の秀吉が抱えていた深い孤独があったと考えられます。低い身分から成り上がった秀吉には、心から信頼できる近しい人間が少なく、また天下人となってからは、その権勢ゆえに本心から慕われることも難しくなっていきました。栄華を極めるほどに、人として満たされない思いが募っていったのかもしれません。
さらに秀吉の心を最も苦しめたのは、幼い我が子・豊臣秀頼の将来でした。

「Wikipediaコモンズ」より引用
自分が築き上げた天下を、まだ幼い息子が無事に継いでいけるのか——その不安は、死の床にあった秀吉にとって何より重くのしかかっていたはずです。すべてを手に入れたはずなのに、最後に残ったのは満たされぬ思いと将来への不安だった。そう考えると、「夢のまた夢」という言葉の寂しさが、いっそう深く胸に迫ってきます。次の章では、その秀頼への思いが込められた「最後の言葉」=遺言を見ていきましょう。
秀吉の最後の言葉と遺言|「秀頼を頼む」に込めた願い
辞世の句とともに語り継がれているのが、豊臣秀吉が最後に残した言葉、すなわち遺言です。秀吉の遺言は複数の文書が知られており(厳密な分類は研究者により異なりますが代表的なものとして3種類が挙げられることが多く)、そのいずれにも幼い我が子・秀頼を案じる強い思いがにじんでいます。ここでは「秀頼を頼む」という秀吉の切実な願いが、どのような形で書き残されたのかを見ていきましょう。
その前に、秀吉の遺言や豊臣家のその後をより深く理解するために、秀吉が天下統一までに成し遂げた業績を振り返っておくと、晩年の心境がいっそう立体的に見えてきます。秀吉の功績全体については、こちらの記事で詳しくまとめています。
遺言は「秀頼を頼む」の一念だった
秀吉の最後の言葉を貫いているのは、ただひとつ「秀頼を頼む」という願いでした。山口県の毛利博物館が所蔵する遺言状(秀吉の直筆そのものではないとされる伝本)には、徳川家康・前田利家ら五大老に向けて「くれぐれも秀頼のことを頼む」「かえすがえすもくれぐれも頼む」と、同じ願いが繰り返し記されています。数え年で5歳にもならない幼子を残して逝かねばならない父親の、痛切な思いがそのまま言葉になっているのです。
天下を統一し、最高位の関白にまで昇り詰めた人物が、最後に書き残した言葉が政治の理想でも自らの誇りでもなく、ただ我が子の身を案じる懇願だった——この事実は、秀吉という人物の人間らしさを強く感じさせます。同時に、これほど念を押さなければ安心できないほど、秀吉が豊臣家の将来に不安を抱いていたことの裏返しでもありました。その不安は、残念ながら後に現実のものとなってしまいます。
現存する3種類の遺言状
秀吉の遺言は、代表的なものとして3種類が伝わっています。1つ目は五奉行筆頭の浅野長政が病床の秀吉の言葉を書き取り、代々浅野家に伝えられた「浅野家遺言状」。11か条からなり(ただし後世に改変されたとする説もあります)、家康には伏見城での政務を、前田利家には大坂城での秀頼の守り役を託す内容です。2つ目は早稲田大学が所蔵する遺言状で、五大老の縁組は話し合いで決めることや、伏見城・大坂城の留守を五奉行が交代で守ることなど、政権運営の具体的な取り決めが記されています。
そして3つ目が、毛利博物館が所蔵する遺言状(写本・伝本とされています)です。大河ドラマ「真田丸」にも登場したこの遺言状こそ、「くれぐれも秀頼のことを頼む」という有名な一文が記されたものです。3通を読み比べると、政権の制度設計を冷静に指示する一方で、私情としては徹底して秀頼の安泰を願っていた秀吉の姿が浮かび上がってきます。なお浅野家本については、史料として扱う際には史料批判による注意が必要です。
遺言は守られたのか
秀吉が幾度も念を押した遺言は、しかし長くは守られませんでした。最大の誤算は、秀頼の守り役として最も頼りにしていた前田利家が、秀吉の死の翌1599年に病没してしまったことです。利家は織田家家臣時代からの秀吉の盟友であり、家康に対抗しうる人望を備えた唯一の重石でした。その利家を失ったことで、豊臣政権の均衡は一気に崩れていきます。

「Wikipediaコモンズ」より引用
さらに徳川家康は、秀吉の死後まもなく伊達政宗らと無断で姻戚関係を結ぶなど、「大名同士の縁組は話し合いで決める」という遺言にあえて反する行動を取り始めます。これに前田利家が激怒し、両者は一触即発の緊張状態に陥りました。利家の存命中はかろうじて和睦が保たれましたが、その死をもって抑えは失われます。秀吉が「かえすがえすも」と願った秀頼の安泰は、こうして早くも揺らぎ始めたのです。次の章では、その秀吉自身がいつ・どこで・どのように最期を迎えたのかを見ていきます。
豊臣秀吉の最後|いつ・どこで・何歳で亡くなったのか
辞世の句と遺言を残した豊臣秀吉は、いったいいつ・どこで・何歳でこの世を去ったのでしょうか。ここでは秀吉の最後の様子を、衰えが見え始めた晩年から臨終、そして墓所までたどっていきます。「夢のまた夢」という句がどんな状況で詠まれたのかを知ると、その言葉の重みがいっそう深く感じられるはずです。
いつ・何歳で亡くなったのか
豊臣秀吉が亡くなったのは1598年9月18日(旧暦の慶長3年8月18日)、享年62でした。生年については1536年説と1537年説があり、数え方によって享年が前後しますが、一般には62歳で世を去ったと伝えられています。農民とも足軽の子ともいわれる低い身分から天下人にまで上り詰めた波乱の生涯は、こうして幕を閉じました。
秀吉の身体に衰えが目立ち始めたのは50歳を過ぎたころからで、50代後半にはたびたび体調を崩していたという記録も残っています(具体的な症状については史料により差があります)。そして1598年3月、京都の醍醐で盛大な花見(醍醐の花見)を楽しんだ後、秀吉の体調は急速に悪化しました。5月ごろから病床に伏せるようになり、回復しないまま夏の終わりに息を引き取ったのです。あの華やかな花見が、結果的に天下人の最後の大舞台となりました。
どこで最期を迎えたのか

秀吉が最期を迎えた場所は、京都の伏見城です。伏見城は秀吉が晩年の居城として築いた城で、大坂城や京都の中心部からは少し離れた、桓武天皇陵を望む静かな地に位置していました。天下人がなぜ最後にこの地を選んだのかは興味深いところで、俗説では「伏見」という地名が「不死身」に通じるから縁起がよいと考えたからとも言われます(史料的な裏付けはありません)。死を恐れた秀吉らしい逸話です。
私は実際に、秀吉最期の地である伏見城跡を訪れたことがあります。目の前に桓武天皇陵が広がる、とても静かな場所でした。大坂城や京都の繁華街から離れたこの地になぜ移り住んだのか、現地に立っても不思議でなりませんでしたが、「伏見=不死身」に通じるからという説を知り、死を恐れ続けた秀吉の心境に少しだけ触れた気がしました。
静かな伏見の地で、幼い秀頼の行く末だけを案じながら息を引き取った秀吉。「露と落ち露と消えにし我が身かな」という句は、まさにこの伏見城での最期の心境を表したものと解釈されています。天下を手にしながらも、最後は静寂のなかで人生のはかなさを噛みしめて世を去ったのです。
秀吉の墓所はどこにあるのか
秀吉の墓所は、京都・東山の阿弥陀ヶ峰の山頂にある「豊国廟(ほうこくびょう)」です。死後、秀吉は朝廷から「豊国大明神」の神号を授けられ、神として祀られました。麓には豊国神社があり、秀吉を慕う人々の参拝が今も絶えません。天下人にふさわしい壮大な祀られ方ですが、その後の豊臣家滅亡にともない、一時は荒廃した時期もありました。

なお、秀吉のご遺体がその後どうなったのかについては、明治時代に発掘調査が行われたという興味深い経緯があります。天下人の遺体が現在どこにあるのか、その詳細はこちらの記事で詳しく解説していますので、あわせてご覧ください。
辞世の句から17年後|豊臣家滅亡までの流れ
「なにわのことも夢のまた夢」という辞世の句は、まるで予言のように的中してしまいます。秀吉の死から17年後、豊臣家は歴史の舞台から完全に姿を消しました。ここでは、秀吉が「秀頼を頼む」と願ったにもかかわらず、なぜ豊臣家がわずか一代で滅びてしまったのか、その流れを年表とともに整理していきます。
関ヶ原の戦いから大坂の陣までの流れ
秀吉の死からわずか2年後の1600年、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が起こります。秀頼の守り役だった前田利家の死をきっかけに、徳川家康と石田三成らの対立が表面化し、ついに全国の大名を二分する大戦へと発展しました。この戦いで家康率いる東軍が石田三成らの西軍を破り、家康が天下の実権を握ります。1603年、家康は征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。

「Wikipediaコモンズ」より引用
関ヶ原の戦いで豊臣家は、かつて約222万石ともいわれた所領を約65万石(諸説あり)の一大名へと大きく削られました。それでも家康は当初、豊臣家を即座に滅ぼそうとはしませんでした。しかし1614年の「方広寺鐘銘事件」をきっかけに両者は決裂します。豊臣家が再建した方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文言が、家康の名を分断し豊臣の繁栄を願うものだと難癖をつけられたのです。

これを口実に「大坂冬の陣」、続く翌1615年の「大坂夏の陣」が勃発し、豊臣秀頼と母・淀殿は自害、豊臣家は滅亡しました。下の年表で流れを確認してみましょう。
| 年(西暦) | 主な出来事 |
|---|---|
| 1598年 | 豊臣秀吉が伏見城で死去(享年62)/辞世の句を残す |
| 1599年 | 秀頼の守り役・前田利家が病没/徳川家康と諸将の対立が激化 |
| 1600年 | 関ヶ原の戦い。家康の東軍が勝利 |
| 1603年 | 家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く |
| 1611年 | 二条城会見。秀頼と家康の実質的な力関係が変化 |
| 1614年 | 方広寺鐘銘事件をきっかけに大坂冬の陣 |
| 1615年 | 大坂夏の陣。秀頼・淀殿が自害し豊臣家滅亡 |
関ヶ原の戦いで家康が勝利できた背景には、小早川秀秋の裏切りなど複数の要因がありました。なぜ家康が天下分け目の戦いを制することができたのか、その詳しい理由はこちらの記事で解説しています。
秀吉自身が滅亡の一因をつくった?
豊臣家がわずか一代で滅んだ原因の一つを、秀吉自身がつくっていたという見方があります。子に恵まれなかった秀吉は、当初、姉の子である甥・豊臣秀次を養子として後継者に定めていました。ところが晩年に秀頼が誕生すると、秀吉は秀次を疎んじるようになり、ついには謀反の疑いをかけて切腹に追い込みます。それだけでなく、秀次の妻子数十名までも残らず処刑してしまったのです。
私は以前、処刑された秀次の妻子の墓がある京都・瑞泉寺を訪れたことがあります。坂本龍馬から名前をとった龍馬通りのすぐ近く、龍馬が所属した海援隊の本部があった酢屋の近く、繁華街のど真ん中に、秀吉に命を奪われた妻子たちの墓がいくつもいくつも、ひっそりと並んでありました。もともとは「畜生塚」と呼ばれる粗末な墓に葬られたと伝わります。秀頼可愛さのあまりここまでの粛清を行った秀吉に、私はどうしても同情できない気持ちになりました。
有能と評された秀次とその子らを失ったことで、豊臣家は深刻な後継者不足に陥りました。もし秀次が秀頼の後見役として生きていれば、家康に対抗する力が残り、わずか17年での滅亡は避けられたかもしれません。秀吉が我が子の安泰を願って打った手が、かえって豊臣家の未来を細らせてしまった——歴史の皮肉というほかありません。

なお、辞世の句の研究家や歴史好きのあいだでは、「淀殿が意図的に家康に反抗し豊臣家を滅亡へ導いた」「本能寺の変の黒幕は秀吉だった」といった大胆な説も語られることがあります。ただしこれらはあくまで一部で唱えられる私見・少数説であり、史料で裏づけられた定説ではありません。本記事でも、興味深い視点として紹介するにとどめ、史実とは切り分けて考える必要がある点を申し添えておきます。
こうした豊臣家の興亡や、秀吉の晩年の苦悩は、大河ドラマでもたびたび描かれてきました。映像で見ると、辞世の句に込められた心情がいっそうリアルに伝わってきます。動画配信サービスのU-NEXTなら、戦国時代を舞台にした歴史大河を月額料金内で楽しめる作品が揃っているので、秀吉の生涯をもっと深く味わいたい方にはぴったりです。
※以下はU-NEXTの広告(PR)です📌 この記事で紹介した作品をすぐに観るなら
とくに「真田丸」は秀吉の遺言状や大坂の陣が、「どうする家康」は秀吉死後の関ヶ原までの流れが描かれており、この記事の内容とあわせて見ると理解が深まります。秀吉の最期を美しく悲しく描いているのが大河ドラマ「徳川家康」でしょう。秀吉の最期を醜いというか、暴君の最期として描いているのが大河ドラマ「功名が辻」または「利家とまつ」かと思います。気になる作品があれば、ぜひチェックしてみてください。
豊臣秀吉の辞世の句に関するよくある質問(FAQ)
最後に、豊臣秀吉の辞世の句や意味について検索されることの多い疑問を、FAQ形式でまとめました。記事の要点を素早くおさらいするのにお役立てください。
Q1. 豊臣秀吉の辞世の句の意味は?
「自分は露のように生まれ露のように消えていく、大坂で過ごした日々も人生の何もかもが、夢の中で見るまた夢のようにはかなかった」という意味です。天下を取った秀吉が人生のはかなさを詠んだ、無常観あふれる句として知られています。
Q2. 「夢のまた夢」とはどういう意味ですか?
「夢の中で見る、さらに別の夢」という二重の表現で、人生のはかなさ・現実感のなさを強調した言葉です。天下統一という栄光ですら、目覚めれば消える夢にすぎなかったという、秀吉の深い諦観と無常観が込められています。
Q3. 秀吉の最後の言葉(遺言)は何ですか?
「くれぐれも秀頼のことを頼む」という、幼い我が子の将来を案じる言葉でした。徳川家康ら五大老に宛てた遺言状に「かえすがえすもくれぐれも頼む」と繰り返し記され、子を思う父としての切実な願いがそのまま残されています。
Q4. 豊臣秀吉はいつ・何歳で亡くなりましたか?
1598年9月18日(旧暦の慶長3年8月18日)に、享年62で亡くなりました。京都の伏見城で病に伏し、醍醐の花見の半年後に息を引き取っています。生年には1536年説と1537年説があり、享年は数え方で前後します。
Q5. 秀吉の辞世の句は本物ですか?
後世の文献によって伝わっており(直筆は確認されていません)、晩年の孤独な状況や秀頼を案じた心情とも符合しており、内容の面からも本人の作とするのが有力な説とされています。
まとめ|豊臣秀吉の辞世の句と意味
豊臣秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢」。その意味は、「自分は露のように生まれ消えていき、大坂での日々も人生の何もかもが夢の中の夢のようにはかなかった」という、強い無常観に満ちた述懐でした。天下を取った人物が最後に詠んだのが、栄華ではなく人生のはかなさだったという事実は、今なお多くの人の心を打ち続けています。
そして秀吉は最後の言葉として、家康ら五大老に「くれぐれも秀頼を頼む」と繰り返し懇願しました。しかしその願いも虚しく、句のとおり秀吉の死から17年後、豊臣家は大坂の陣で滅亡してしまいます。最後まで「秀頼を頼む」と頼み続けた秀吉と、その後に訪れた豊臣家の結末を知る現代の私たちにとって、「夢のまた夢」という言葉の虚しさはいっそう胸に迫るものがあります。天下人の栄光と孤独、そしてはかなさを見事に凝縮したこの辞世の句は、これからも語り継がれていくことでしょう。

コメント
コメント一覧 (5件)
最初に細かいこと
①1行目最高位「関白」まで上り詰めるとあるが。のぼるという漢字は、上る・登る・昇ると三種類ある。昇進したのだから昇るが適当かと思う。
②「豊臣秀吉」の前半生を簡単におさらいの1573年(一説には「羽柴」という)どういうことなのかどうしても意味が解りません。
③調べると、ほとんどが「羽柴」を名乗るのは、1573年と書いてあるのですが、ウィキペディアは桑田忠親氏の天正元年1572年7月から9月の間を採用していました。
④1600年関ケ原の戦いの説明文ついに「石田三成」がの5行下に厳封(領地削減)とありますが、減封だと思います。
⑤1614年「方広寺鐘銘事件」~3行に掘られるとあるが、彫られるだと思います。
⑥6行目に京都五山について、南禅寺以下六つの寺が書かれていますが、南禅寺を別格として天龍寺以下を書かれた方が良いのではないかと思います。
とても時間を要したのは、豊臣秀吉の辞世の句です。
私も、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢」と習った記憶がありますが、調べてみると、「なにわのことも」ではなく「なにわのことは」と書いてあったり、「なにわ」に関しても「浪速」・「なには」・「難波」と様々でとても苦労しました。
秀吉には失礼であるが、露や夢といった漢字を書けたのかなぁ、そんな素養をいつ身に付けたのであろうという疑問もあって調べてみた。
判明したこと
①江戸時代の真田増誉「明良洪範」によると、死を目前にして伏見城で詠まれたものでなく、死の10年ほど前に聚楽第が完成した時に詠まれたもので侍女の孝蔵主に保管させて死の前日に取り寄せたものらしいこと。
②秀吉の自筆辞世和歌が大阪城天守閣に所蔵されていること。素人の私には何と書いてあるのか分からなかったが、つゆとをち つゆときへにし わかみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ 松 と書かれていること。
③説明文には、「なにわの事も」は、「何もかも」と「難波(なにわ)と(大坂)の事」の掛詞で、大坂でのこともすべての事が夢のまた夢であったと詠じていると書かれていること。
私は、大坂や大坂城でのことと限定するは誤っているような気がする。
いつも貴重なお言葉やご指摘をありがとうございます
早速確認して検討し、修正いたします
調査いただいたことにもお礼を申し上げます
ありがとうございました
[…] 秀吉の死因については、脚気(かっけ)、胃がん、感染症など諸説あります(出典:レキシル「秀吉の死因は天ぷら?」)。1598年8月18日、伏見城で享年62で亡くなりました。辞世の句として伝わる『露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢』。あれだけの栄華を極めた人が、最後は「すべては夢のまた夢だった」と詠んだのは、いいところと弱さを同時に抱えた人間らしさの表れと言えます(出典:レキシル「秀吉の辞世の句」)。 […]
[…] >> 豊臣秀吉の辞世の句と意味をわかりやすく簡単に解説!秀吉最後の言葉と17年後 […]
[…] 関連記事:豊臣秀吉の辞世の句と意味をわかりやすく簡単に解説!秀吉最後の言葉と17年後 […]