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徳川綱吉の死因と大奥の謎とは?正室も翌日に死去した真相を徹底解説

江戸幕府の第5代将軍として知られる徳川綱吉は、犬公方という異名で有名ですが、その死因と大奥での出来事については、今なお多くの謎が残されています。

宝永6年1709年2月19日に64歳で亡くなった綱吉ですが、公式記録では麻疹で死亡したとされています。

しかし興味深いことに、正室の鷹司信子も翌日に死去しており、この不可解な同時死は江戸城大奥で様々な憶測を生みました。

開かずの間となった宇治の間の怪異伝説や、無理心中説など、綱吉の死因をめぐる大奥の真相には、歴史の闇に葬られた数々のドラマが隠されているのです。

綱吉と正室の冷え切った夫婦関係、側用人柳沢吉保との深い信頼関係、生母桂昌院による大奥の権力争いなど、複雑に絡み合った人間関係が、この謎めいた事件の背景にあったと考えられています。

この記事のポイント
  • 徳川綱吉の公式死因である麻疹と、囁かれる別の死因について詳しく理解できる
  • 正室鷹司信子との同時死の謎と、大奥で語り継がれた無理心中説の真相が分かる
  • 綱吉と柳沢吉保の関係、桂昌院の権力、大奥の派閥争いなど複雑な人間関係が把握できる
  • 開かずの間となった宇治の間の怪異伝説と、江戸城大奥に残された恐怖の記憶を知ることができる
目次

徳川綱吉の死因と大奥で起きた真相を徹底解説

項目内容
死亡日宝永6年1709年2月19日
享年64歳
公式死因麻疹(はしか)
正室の死亡翌日2月20日(同じく麻疹とされる)
異説窒息死説・無理心中説・刺殺説

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公式記録が示す「はしか(麻疹)」による64歳での死

徳川綱吉は宝永6年1709年2月19日、江戸城内で64歳の生涯を閉じました。幕府公式記録である徳川実紀によれば、綱吉の死因は当時流行していた麻疹への感染とされています。麻疹は江戸時代に何度も大流行を繰り返した感染症で、特に成人が罹患すると重症化しやすく、死に至ることも珍しくありませんでした。

綱吉は将軍在位期間中、側用人の柳沢吉保を重用し、生類憐みの令を発布するなど、独特の政治を展開してきました。晩年の綱吉は健康状態が優れず、特に宝永4年1707年の富士山大噴火以降、幕政への関心が薄れていたとも言われています。そのような中で麻疹に感染した綱吉は、高齢であったこともあり急速に衰弱していったのです。当時の医療技術では麻疹の治療法は確立されておらず、将軍といえども病の前には無力でした。

公式記録では、綱吉は2月4日頃から体調を崩し始め、麻疹の症状が現れたとされています。幕府は最善の医師団を揃えて治療にあたらせましたが、綱吉の容態は日に日に悪化していきました。そして発症からわずか2週間ほどで、江戸幕府を29年間にわたって統治してきた将軍は、この世を去ったのです。しかし、この公式見解には多くの疑問が残されており、後世の歴史家たちは様々な異説を唱えることになります。


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正室・鷹司信子も翌日に死去という不可解な謎

綱吉の死因をめぐる最大の謎は、正室である鷹司信子が綱吉の死の翌日、2月20日に同じく死去したという事実です。公式には信子も麻疹で亡くなったとされていますが、夫婦が相次いで同じ病気で死亡するという偶然に、多くの人々が疑念を抱きました。特に、綱吉と信子の夫婦仲は冷え切っており、別居状態が長く続いていたとされることから、この同時死には何か裏があるのではないかと囁かれたのです。

鷹司信子は五摂家の一つである鷹司家の出身で、公家の血を引く高貴な女性でした。綱吉が館林藩主だった時代に正室として迎えられましたが、子供に恵まれず、綱吉が将軍になってからは夫婦関係がさらに悪化していきました。綱吉が側用人の柳沢吉保を寵愛し、信子を軽んじる態度をとっていたことが、夫婦仲の悪化に拍車をかけたと言われています。また、綱吉の生母である桂昌院が大奥で絶大な権力を持っており、公家出身の信子を疎んじていたことも、信子の立場をますます弱いものにしていました。

不仲な夫婦が偶然にも同じタイミングで同じ病気に罹り、相次いで亡くなるという状況は、あまりにも不自然です。大奥では、この二人の死について様々な噂が飛び交いました。一説には、信子が長年の屈辱に耐えかねて綱吉を殺害し、自らも命を絶ったという無理心中説が囁かれました。また別の説では、綱吉と信子の両者を毒殺した黒幕がいたのではないかとも言われています。真相は歴史の闇の中ですが、この不可解な同時死が、後に語られる開かずの間の怪談の元になっていったのです。


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「餅を喉に詰まらせて窒息死」という異説

徳川綱吉
引用元「Wikipediaコモンズ」より

綱吉の死因については、麻疹説とは別に、餅を喉に詰まらせて窒息死したという異説も存在します。この説によれば、綱吉は麻疹で体調を崩していたところ、正月に餅を食べようとして喉に詰まらせ、そのまま窒息してしまったというのです。当時、正月に餅を食べることは武家社会でも一般的な習慣でしたが、高齢者や病人にとっては危険な行為でもありました。

この窒息死説が生まれた背景には、綱吉の死が比較的突然だったという事情があります。麻疹で2週間ほど病床にあったとはいえ、将軍という立場の人物が急死したことに対して、周囲の人々は様々な憶測を巡らせました。餅を喉に詰まらせるという死因は、一見すると単なる不慮の事故のように見えますが、病弱な綱吉に餅を食べさせたのは誰なのか、本当に事故だったのかという疑問も生じます。もしかすると、誰かが意図的に綱吉に餅を勧め、窒息させた可能性も考えられるのです。

ただし、この窒息死説については史料的な裏付けが乏しく、後世に作られた俗説の可能性が高いとされています。それでも、綱吉の死因をめぐる複数の説が存在すること自体が、当時の人々がこの事件に対して強い関心と疑念を持っていたことの証拠と言えるでしょう。麻疹による病死という公式見解だけでは説明しきれない何かが、綱吉の死には隠されていたのかもしれません。


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大奥で囁かれた「無理心中説」の真相

江戸城大奥で最も広まった説が、鷹司信子が綱吉を刺殺し、自らも自害したという無理心中説です。この説は江戸時代の随筆である翁草にも記されており、単なる噂話ではなく、ある程度の信憑性を持って語り継がれてきました。翁草によれば、信子は長年の屈辱と怒りが爆発し、綱吉を刃物で刺殺した後、自らも命を絶ったとされています。

この無理心中説の動機として挙げられているのが、綱吉と柳沢吉保との関係です。綱吉は側用人の柳沢吉保を異例の厚遇で優遇し、甲斐一国を与えるなど、通常の主従関係を超えた信頼を寄せていました。この二人の関係について、当時から男色関係にあったのではないかという噂が絶えませんでした。正室である信子からすれば、夫が別の男性を寵愛し、自分を顧みないという状況は、公家の名門出身である自らのプライドを著しく傷つけるものだったでしょう。

さらに、信子は生母の桂昌院とも対立しており、大奥での居場所を失っていました。桂昌院は八百屋の娘から将軍生母にまで上り詰めた女性で、大奥で絶大な権力を振るっていました。公家出身で高貴な血筋を誇る信子は、桂昌院の出自を軽んじる態度をとっていたとされ、そのことが桂昌院の怒りを買っていたのです。夫からも姑からも疎まれ、孤立無援となった信子が、ついに綱吉を殺害するという極端な行動に出たというのが、この無理心中説のストーリーです。ただし、この説も確たる証拠はなく、大奥での噂が独り歩きして作られた伝説の可能性が高いと考えられています。

開かずの間「宇治の間」に残る怪異伝説

綱吉と信子の死にまつわる最も恐ろしい伝説が、開かずの間となった宇治の間の怪異です。大奥には宇治の間と呼ばれる部屋があり、そこで綱吉が殺害されたという伝承が残っています。この事件以降、宇治の間は誰も足を踏み入れることのできない開かずの間となり、幕末まで封印され続けたと言われているのです。

宇治の間の怪異については、様々な目撃談が語り継がれています。夜になると部屋の中から女性のすすり泣く声が聞こえる、黒紋付を着た老女の幽霊が現れるという噂が、大奥の女中たちの間で恐怖とともに伝えられました。この黒紋付の老女こそが鷹司信子の亡霊であり、綱吉を殺した罪と後悔から成仏できずにこの世を彷徨っているのだと考えられていたのです。あまりにも怪異が続くため、幕府は宇治の間を完全に封印し、誰も近づかないようにしたとされています。

この宇治の間の伝説は、江戸時代を通じて語り継がれ、大奥の七不思議の一つとして恐れられました。明治維新後、江戸城が皇居となった際にも、宇治の間については特別な扱いを受けたという記録が残っています。現代の歴史学者の中には、この開かずの間の伝説は、綱吉と信子の不可解な死を隠蔽するために幕府が意図的に流した噂ではないかと推測する人もいます。真相が明らかにならないよう、超自然的な恐怖で人々を遠ざけたというわけです。いずれにせよ、宇治の間の怪異伝説は、徳川綱吉の死因をめぐる謎を一層深いものにしているのです。


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徳川綱吉と大奥をめぐる複雑な人間関係の全貌

人物続柄・関係綱吉との関係性
鷹司信子正室冷え切った夫婦関係・子供なし・大奥で孤立
柳沢吉保側用人異例の信頼関係・甲斐一国拝領・男色疑惑
桂昌院生母大奥の実権者・信子と対立・側室を後押し
お伝の方側室桂昌院の後ろ盾・正室派と対立

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綱吉と正室・鷹司信子の冷え切った夫婦関係

徳川綱吉と鷹司信子の夫婦関係は、江戸時代の将軍夫婦の中でも特に冷え切っていたことで知られています。信子は五摂家の一つである鷹司家の娘として生まれ、公家社会の最高位の血筋を持つ女性でした。寛文2年1662年、綱吉が館林藩主だった時代に正室として迎えられましたが、この結婚は政略結婚であり、二人の間に愛情が芽生えることはありませんでした。

夫婦仲が悪化した最大の原因は、信子が子供に恵まれなかったことです。江戸時代の武家社会において、正室の最大の責務は男子の世継ぎを産むことでした。しかし綱吉と信子の間には一人の子供も生まれず、このことが二人の関係をますます疎遠なものにしていきました。綱吉は延宝8年1680年に第5代将軍となりましたが、将軍就任後は信子との接触をほとんど持たなくなったと言われています。大奥での信子の居場所は名ばかりで、実質的には別居状態が続いていたのです。

さらに信子を苦しめたのが、綱吉の側用人である柳沢吉保への寵愛でした。綱吉は吉保を異常なまでに重用し、政治の実権を握らせただけでなく、私生活においても常に傍に置いていました。公家出身で高いプライドを持つ信子にとって、夫が自分ではなく男性の家臣を寵愛するという状況は、耐え難い屈辱だったでしょう。信子は綱吉と吉保の関係に激しい嫉妬を抱き、そのことが後の無理心中説の根拠となっていきます。また、信子は生母の桂昌院とも対立しており、大奥で完全に孤立していました。長年の孤独と屈辱が積み重なった結果、信子の心には深い憎しみと絶望が宿っていったのではないかと推測されています。


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側用人・柳沢吉保との深すぎる信頼と疑惑

柳沢吉保
引用元「Wikipediaコモンズ」より

柳沢吉保は、綱吉が最も信頼した側近として知られています。吉保は甲斐国の小身の旗本の出身でしたが、若い頃から綱吉に仕え、その才能を認められて次第に出世していきました。綱吉が将軍になると、吉保は側用人という重要なポストに就き、幕政の中枢を担うようになったのです。通常、側用人は将軍の身の回りの世話をする役職でしたが、綱吉は吉保に政治の実権まで委ね、事実上の宰相のような立場を与えました。

吉保の出世は目覚ましく、元禄11年1698年には甲斐一国15万石を与えられ、大名に取り立てられました。これは異例中の異例の厚遇で、一介の旗本が一国の大名になるというのは、江戸時代を通じてもほとんど例がありません。この破格の待遇に対して、当時から綱吉と吉保の関係は尋常ではないという噂が立ちました。特に囁かれたのが、二人の間に男色関係があったのではないかという疑惑です。江戸時代の武家社会では男色は珍しいことではありませんでしたが、将軍と家臣の間にそのような関係があり、それが政治にまで影響を及ぼしているとなれば、大きな問題でした。

正室の鷹司信子は、この綱吉と吉保の関係に激しい嫉妬を抱いていたとされています。夫である綱吉が自分を顧みず、吉保ばかりを寵愛している状況に、信子の怒りは日増しに募っていきました。大奥では、信子が綱吉を殺害した動機として、吉保への嫉妬が挙げられることが多かったのです。一方、吉保自身は綱吉の死後、速やかに権力の座から退き、隠居生活に入りました。もし本当に綱吉との間に特別な関係があったのなら、その喪失感は計り知れないものだったでしょう。吉保は綱吉の死の真相を知っていたのか、それとも何も知らなかったのか。その答えは歴史の中に埋もれたままです。


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生母・桂昌院と大奥の派閥争い

桂昌院は、八百屋の娘から将軍生母にまで上り詰めたという、江戸時代でも稀有な経歴を持つ女性です。本名はお玉といい、京都の八百屋の娘として生まれましたが、美貌と才覚によって江戸城大奥に上がり、第3代将軍徳川家光の側室となりました。そして綱吉を産んだことで、その人生は大きく変わったのです。綱吉が第5代将軍になると、お玉は桂昌院の称号を与えられ、将軍生母として大奥で絶大な権力を振るうようになりました。

桂昌院の権力は凄まじく、大奥のあらゆる人事を掌握していました。側室の選定から女中の配置まで、すべて桂昌院の意向で決まったと言われています。桂昌院は自分の出自が低いことにコンプレックスを持っており、公家出身で高貴な血筋を誇る正室の鷹司信子を快く思っていませんでした。信子が桂昌院の出自を軽んじる態度をとったことで、二人の対立は決定的なものとなったのです。桂昌院は信子を大奥から孤立させ、自分の息のかかった側室たちを綱吉の周りに配置していきました。

大奥では、桂昌院を中心とする派閥と、正室の信子を支持する派閥の間で熾烈な権力争いが繰り広げられていました。しかし綱吉が生母である桂昌院の味方をしたため、信子派は完全に劣勢に立たされていました。このような状況下で、信子は次第に追い詰められていったのです。桂昌院は綱吉の死後も長生きし、宝永2年1705年に73歳で亡くなりました。皮肉なことに、桂昌院は自分が支配した大奥で起きた綱吉と信子の不可解な死を知ることなく、この世を去ったことになります。もし桂昌院が生きていたら、二人の死の真相をどう受け止めたでしょうか。それとも、何か知っていたのかもしれません。

側室たちと大奥の複雑な権力構造

徳川綱吉には、複数の側室がいましたが、その中でも特に注目されるのがお伝の方です。お伝の方は桂昌院の強い後押しで綱吉の側室となった女性で、大奥での権力争いにおいて重要な役割を果たしました。桂昌院はお伝の方を通じて綱吉に影響を与え、正室の鷹司信子を排斥しようとしたのです。お伝の方は桂昌院の信頼を得て、大奥で大きな発言力を持つようになりました。

大奥の権力構造は非常に複雑で、将軍の正室、生母、側室、そして御年寄と呼ばれる女中のトップたちが、それぞれの利害関係に基づいて派閥を形成していました。綱吉の時代の大奥は、桂昌院を頂点とするピラミッド構造が確立しており、その支配は絶対的なものでした。桂昌院に逆らうことは、大奥で生きていくことを放棄するに等しかったのです。正室の信子も、この巨大な権力構造の前には無力でした。

側室たちの間でも競争と嫉妬が渦巻いていました。綱吉の寵愛を得ようと、側室たちは様々な策を弄しました。しかし綱吉は女性にあまり興味を示さず、側室たちの努力は報われないことが多かったようです。これが、綱吉と柳沢吉保の男色関係の噂に信憑性を与える一因となりました。大奥という閉鎖的な空間で、女性たちは権力と生き残りをかけて日々戦っていたのです。そのような緊張感に満ちた環境が、綱吉と信子の死をめぐる様々な憶測や陰謀説を生み出す土壌となったと考えられます。


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よくある質問

徳川綱吉の生類憐みの令と死因に関係はあるのか?

生類憐みの令と綱吉の死因に直接的な関係はありません。生類憐みの令は綱吉が将軍在位中に発布した動物愛護政策で、特に犬を保護したことから綱吉は犬公方と呼ばれるようになりました。この政策は民衆から不評を買い、綱吉の評判を大きく下げましたが、綱吉の死因である麻疹や、囁かれる無理心中説とは無関係です。ただし、生類憐みの令によって民衆の不満が高まり、綱吉政権への批判が強まったことが、死後に様々な噂や陰謀説が生まれる土壌を作った可能性はあります。

綱吉は本当に殺されたのか、それとも病死なのか?

公式記録では綱吉は麻疹による病死とされています。しかし、正室の鷹司信子が翌日に同じく死去したという不可解な状況や、大奥で囁かれた無理心中説、開かずの間の怪異伝説などから、何らかの事件性があったのではないかという疑惑が後世まで語り継がれています。確たる証拠はないため真相は不明ですが、夫婦の冷え切った関係や大奥の複雑な権力構造を考えると、単純な病死とは言い切れない要素が多いのも事実です。歴史学者の間でも意見が分かれており、謎は深まるばかりです。

綱吉の死後、大奥はどうなったのか?

綱吉の死後、第6代将軍には甥の徳川家宣が就任しました。家宣は綱吉の政策を大きく転換し、特に不評だった生類憐みの令を即座に廃止しました。大奥の権力構造も変化し、桂昌院の影響力は急速に低下していきました。綱吉と鷹司信子が亡くなった宇治の間は開かずの間として封印され、その後も怪異の噂が絶えませんでした。家宣の正室である天英院が新たに大奥の実権を握り、綱吉時代の大奥とは異なる雰囲気になったと言われています。

綱吉の後を継いだのは誰か?

綱吉の後を継いだのは、甥の徳川家宣です。綱吉には実子がなかったため、兄の徳川綱重の子である家宣が後継者に指名されました。家宣は宝永6年1709年に第6代将軍に就任し、綱吉の政策を大幅に見直しました。特に生類憐みの令の廃止は民衆から歓迎され、家宣の評判は高まりました。しかし家宣自身も将軍在位わずか3年で病死してしまい、その後は息子の徳川家継が第7代将軍となりました。家継もまた幼くして亡くなったため、徳川将軍家の血統は一時危機に瀕することになります。家継の死によって、徳川宗家の血筋は断絶!そのため8代将軍には、紀州徳川家の当主となっていた徳川吉宗が就任することになったのです。

綱吉は名君だったのか暴君だったのか?

徳川綱吉の評価は時代によって大きく変化してきました。江戸時代には生類憐みの令のために暴君として語られることが多く、犬公方という蔑称で呼ばれていました。しかし現代の歴史研究では、綱吉は学問を奨励し、文治政治を推進した名君という評価も定着しつつあります。綱吉は儒学を重んじ、湯島聖堂を建立するなど文化振興に力を入れました。また、武断政治から文治政治への転換を図り、江戸時代の平和な社会の基礎を築いたという功績も認められています。生類憐みの令も、当時としては先進的な動物愛護思想の表れと見ることもできます。暴君か名君かという単純な二分法では語り切れない、複雑で多面的な人物だったと言えるでしょう。

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徳川綱吉の死因と大奥の真相まとめ

  • 徳川綱吉は宝永6年1709年2月19日に64歳で死去し公式には麻疹が死因とされている
  • 正室の鷹司信子が綱吉の死の翌日2月20日に同じく死去するという不可解な事態が発生した
  • 綱吉と信子の夫婦関係は冷え切っており子供もなく別居状態が長く続いていた
  • 綱吉は側用人の柳沢吉保を異例の厚遇で重用し甲斐一国を与えるなど特別な関係にあった
  • 綱吉と吉保の間に男色関係があったのではないかという噂が当時から存在していた
  • 生母の桂昌院は大奥で絶大な権力を持ち公家出身の信子と激しく対立していた
  • 大奥では信子が綱吉を刺殺して自らも自害したという無理心中説が広まった
  • 信子の動機として吉保への嫉妬と長年の屈辱が挙げられている
  • 綱吉が餅を喉に詰まらせて窒息死したという異説も存在する
  • 事件現場とされる宇治の間は以降開かずの間として封印された
  • 宇治の間では黒紋付を着た老女の幽霊が現れるなど怪異現象が報告された
  • 桂昌院を中心とする派閥と信子を支持する派閥の間で大奥の権力争いが繰り広げられていた
  • 側室のお伝の方は桂昌院の後押しで綱吉の側室となり信子派と対立した
  • 綱吉の死後は甥の徳川家宣が第6代将軍となり生類憐みの令を即座に廃止した
  • 綱吉の死因をめぐる謎は現代でも完全には解明されておらず歴史学者の間でも意見が分かれている
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