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レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析
歴史学者ではないが、一次史料・学術書を徹底調査し歴史をわかりやすく整理。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに史実と演出の違いを分析。経営経験から歴史上の決断を現代ビジネスに接続する解説が得意。大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺等に複数回訪問、京都市各所にも何度も訪問。
徳川綱吉の死因は、幕府公式記録『徳川実紀』によれば麻疹(はしか)とされています。宝永6年(1709年)1月10日(新暦2月19日)、江戸城内にて数え年64歳(満62歳)で死去しました。しかし正室・鷹司信子も約1か月後に同じく麻疹で亡くなっており、江戸時代から「無理心中説」や「刺殺説」など複数の異説が囁かれてきました。この記事では、徳川綱吉の死因をめぐる諸説を史料にもとづいて整理し、大奥の人間関係や大河ドラマでの描かれ方も交えて、その真相に迫ります。
- 徳川綱吉の公式死因である麻疹と、囁かれる複数の異説(窒息死説・無理心中説・刺殺説)が理解できる
- 正室・鷹司信子の約1か月後の死の謎と、大奥で語り継がれた俗説の信憑性がわかる
- 綱吉と柳沢吉保の関係、桂昌院の権力、大奥の派閥争いなど複雑な人間関係が把握できる
- 大河ドラマ『八代将軍吉宗』での描かれ方や、綱吉の「名君か暗君か」論争も整理
徳川綱吉の死因|公式記録「麻疹」と囁かれる複数の異説

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 死亡日 | 宝永6年1月10日(1709年2月19日) |
| 享年 | 数え年64歳(満62歳) |
| 公式死因 | 麻疹(はしか)※天然痘説もあり |
| 正室の死亡 | 宝永6年2月9日(約1か月後・同じく麻疹とされる) |
| 異説 | 窒息死説・無理心中説・刺殺説 |
| 後継者 | 甥の徳川家宣(旧名・綱豊)が第6代将軍に |
徳川綱吉はなぜ死んだのか?公式記録が示す「はしか(麻疹)」による死
徳川綱吉は宝永6年(1709年)1月10日(新暦2月19日)、江戸城内で数え年64歳の生涯を閉じました。幕府公式記録である『徳川実紀』によれば、綱吉の死因は当時流行していた麻疹(はしか)への感染とされています。麻疹は江戸時代に何度も大流行を繰り返した感染症で、特に成人が罹患すると重症化しやすく、死に至ることも珍しくありませんでした。なお、一部の史料では「疱瘡(天然痘)」と記載するものもあり、死因の記録自体にも揺れがあります(出典:Wikipedia「徳川綱吉」)。
綱吉は将軍在位期間中、側用人の柳沢吉保を重用し、生類憐みの令を発布するなど、独特の政治を展開してきました。晩年の綱吉は健康状態が優れず、特に宝永4年(1707年)の富士山大噴火(宝永大噴火)以降、幕政への関心が薄れていたとも言われています。そのような中で麻疹に感染した綱吉は、高齢であったこともあり急速に衰弱していったのです。当時の医療技術では麻疹の治療法は確立されておらず、将軍といえども病の前には無力でした。
公式記録では、綱吉は正月頃から体調を崩し始め、麻疹の症状が現れたとされています。幕府は最善の医師団を揃えて治療にあたらせましたが、綱吉の容態は日に日に悪化していきました。そして発症から程なくして、江戸幕府を約29年間にわたって統治してきた将軍は、この世を去ったのです。しかし、この公式見解には後世さまざまな疑問が投げかけられており、複数の異説が唱えられることになります。
では、なぜ公式見解に疑問が生じたのでしょうか。最大の理由は、正室・鷹司信子の死にあります。
正室・鷹司信子も約1か月後に死去という謎
綱吉の死因をめぐる最大の謎は、正室である鷹司信子が綱吉の死から約1か月後の宝永6年2月9日(新暦3月19日)に、同じく死去したという事実です(出典:Wikipedia「鷹司信子」)。公式には信子も麻疹で亡くなったとされており、享年59でした。夫婦が相次いで同じ感染症で死亡するという状況に、当時から多くの人々が疑念を抱いたのです。
鷹司信子は五摂家の一つである鷹司家の出身で、公家の血を引く高貴な女性でした。寛文4年(1664年)、綱吉が館林藩主だった時代に正室として迎えられましたが、子供に恵まれませんでした。綱吉と信子の夫婦仲については「不仲であった」とする説が根強い一方、元禄4年(1691年)にドイツ人医師ケンペルが江戸城を訪問した際には、綱吉と信子が一緒に対面しており、能の鑑賞や祭礼見物を共にした記録も残っています。つまり、夫婦関係の実態は諸説あり、一概に「冷え切っていた」とは断定できないのが現状です。
とはいえ、綱吉の生母である桂昌院が大奥で絶大な権力を持っていたこと、綱吉が側用人の柳沢吉保を異例の厚遇で重用していたことなどが、信子の立場を難しいものにしていた可能性はあります。こうした背景から、二人の相次ぐ死には「何か裏があるのではないか」という噂が大奥の内外で広まったのです。
綱吉の死にはさらに、餅による窒息死という異説も伝わっています。
「餅を喉に詰まらせて窒息死」という異説

引用元「Wikipediaコモンズ」より
綱吉の死因については、麻疹説とは別に、餅を喉に詰まらせて窒息死したという異説も存在します。この説によれば、綱吉は麻疹と急性気管支炎を併発していたところ、正月の残り餅を食べようとして喉に詰まらせ、そのまま窒息してしまったというのです。当時、正月に餅を食べることは武家社会でも一般的な習慣でしたが、高齢者や病人にとっては危険な行為でもありました。
この窒息死説が生まれた背景には、綱吉の死が比較的突然だったという事情があります。麻疹で病床にあったとはいえ、将軍という立場の人物が急死したことに対して、周囲の人々はさまざまな憶測を巡らせました。病弱な綱吉に餅を食べさせたのは誰なのか、本当に事故だったのかという疑問も生じたのです。
ただし、この窒息死説については史料的な裏付けが乏しく、後世に作られた俗説の可能性が高いとされています。それでも、綱吉の死因をめぐる複数の説が存在すること自体が、当時の人々がこの事件に対して強い関心と疑念を持っていたことの証拠と言えるでしょう。
綱吉の死因について、幕府公式記録『徳川実紀』は「麻疹」と記載していますが、ペンシルバニア大学のリサーチ論文では「疱瘡(天然痘)」と記されている史料の存在も指摘されています。また『国史大辞典』でも「天然痘」としている箇所があります。江戸時代は麻疹と天然痘の区別が曖昧だった可能性もあり、死因の記録自体が確定的ではない点は押さえておく必要があります。諸説あることを前提に読み進めていただければと思います。
大奥で囁かれた「無理心中説」の真相
江戸城大奥で最も広まった説が、鷹司信子が綱吉を刺殺し、自らも自害したという無理心中説です。この説は江戸時代の書物『日光邯鄲枕(にっこうかんたんまくら)』などに記されており、単なる噂話ではなく、ある程度の広がりをもって語り継がれてきました。信子と御台所付御年寄・伊豆局の手によって綱吉が殺害され、信子はその後自害したとされています。
この無理心中説の動機として挙げられるのが、綱吉と柳沢吉保との関係です。綱吉は側用人の柳沢吉保を異例の厚遇で優遇し、甲斐一国(15万石余)を与えるなど、通常の主従関係を超えた信頼を寄せていました。この二人の関係について、当時から男色関係にあったのではないかという噂が絶えず、正室である信子の嫉妬が殺害の動機だったとされるのです。
ただし、この無理心中説の信憑性について、Wikipedia「鷹司信子」の項目でも「信憑性に乏しい」と明記されています。そもそも信子が綱吉の約1か月後に亡くなっている(「翌日」ではない)という時系列を考えると、「その場で刺殺して自害した」というストーリーには無理があります。1か月の空白をどう説明するのか、この点だけでも俗説の域を出ないと考えるのが妥当でしょう。
もう一つ注目すべきは、綱吉の後継者問題です。綱吉には実子がなく、甥の徳川綱豊(のちの徳川家宣)が後継者に指名されていました。Wikipediaでは、綱吉が柳沢吉保の子・吉里を将軍継嗣にしようとしたのを阻止するために暗殺されたという説も紹介されています。死因をめぐる異説が複数存在すること自体が、綱吉の治世への不満や後継者問題の緊張を反映しているのかもしれません。
こうした俗説は、大奥の「開かずの間」伝説と結びつき、さらに恐ろしい物語へと発展していきます。
開かずの間「宇治の間」に残る怪異伝説
綱吉と信子の死にまつわる最も恐ろしい伝説が、開かずの間となった「宇治の間」の怪異です。大奥には宇治の間と呼ばれる部屋があり、そこで綱吉が殺害されたという伝承が残っています。この事件以降、宇治の間は誰も足を踏み入れることのできない開かずの間となり、幕末まで封印され続けたと言われているのです。
宇治の間の怪異については、さまざまな目撃談が語り継がれています。夜になると部屋の中から女性のすすり泣く声が聞こえる、黒紋付を着た老女の幽霊が現れるという噂が、大奥の女中たちの間で恐怖とともに伝えられました。この黒紋付の老女こそが鷹司信子の亡霊であり、綱吉を殺した罪と後悔から成仏できずにいるのだと考えられていたのです。
現代の研究者の中には、この開かずの間の伝説は、綱吉と信子の不可解な死を隠蔽するために幕府が意図的に流した噂ではないかと推測する人もいます。真相が明らかにならないよう、超自然的な恐怖で人々を遠ざけたというわけです。いずれにせよ、宇治の間の怪異伝説は、徳川綱吉の死因をめぐる謎を一層深いものにしています。
筆者は、綱吉の死因にこれほど多くの異説が生まれた最大の理由は、生類憐みの令への民衆の不満にあると考えます。経営者の視点で見ると、どれほど理念が正しくても、現場(民衆)の負担を無視した政策は、必ず反発を生みます。綱吉の死後に「殺された」という俗説が歓迎される土壌があったからこそ、これほど多くの異説が残ったのではないでしょうか。「悪い将軍は殺されたに違いない」という物語を、人々が求めていたのだと筆者は考えます。
ここまで綱吉の死因にまつわる諸説を見てきました。次に、こうした異説が生まれる背景となった大奥の複雑な人間関係を整理していきます。
徳川綱吉と大奥をめぐる複雑な人間関係の全貌

| 人物 | 続柄・関係 | 綱吉との関係性 |
|---|---|---|
| 鷹司信子 | 正室 | 五摂家出身・子供なし・夫婦仲は諸説あり |
| 柳沢吉保 | 側用人 | 異例の信頼関係・甲斐一国拝領・男色疑惑 |
| 桂昌院 | 生母 | 大奥の実権者・綱吉より4年前に死去(宝永2年) |
| お伝の方(瑞春院) | 側室 | 唯一の子(鶴姫・徳松)を産んだ側室 |
| 徳川綱豊(家宣) | 甥・後継者 | 兄・綱重の子。綱吉の養子となり第6代将軍に |
綱吉と正室・鷹司信子の夫婦関係|不仲説は本当か?
徳川綱吉と鷹司信子の夫婦関係は、従来「冷え切っていた」と語られることが多い一方で、近年の研究では必ずしも不仲とは言い切れないという指摘もあります。信子は五摂家の一つである鷹司家の娘として生まれ、公家社会の最高位の血筋を持つ女性でした。寛文4年(1664年)、綱吉が館林藩主だった時代に正室として迎えられています。
夫婦仲が悪かったとされる根拠は、二人の間に子供が生まれなかったことです。江戸時代の武家社会において、正室の最大の責務は男子の世継ぎを産むことでしたから、この点が疎遠さの原因になった可能性はあります。しかし『徳川「大奥」事典』(竹内誠著)によれば、綱吉と信子は一緒に能を鑑賞したり祭礼見物をしたりと、行動を共にする機会が多かったとの記録もあります。側室のお伝の方が鶴姫・徳松を産んだ後もこの関係は変わらなかったとされており、不仲説の根拠は必ずしも盤石ではありません。
一方で、綱吉の生母・桂昌院との対立があったことは、複数の史料に示唆されています。桂昌院は大奥で強い影響力を持っており、公家出身の信子との間に確執があったとする説は根強いのです。夫婦仲の実態は諸説あるものの、大奥の権力構造の中で信子の立場が容易ではなかったことは確かでしょう。
では、綱吉が最も信頼したとされる側用人・柳沢吉保とはどのような関係だったのでしょうか。
側用人・柳沢吉保との深すぎる信頼と疑惑

引用元「Wikipediaコモンズ」より
柳沢吉保は、綱吉が最も信頼した側近として知られています。吉保は上野国館林藩士(のち旗本)・柳沢安忠の長男として江戸に生まれ(出身を武蔵国川越と記す史料もあります)、若い頃から綱吉に仕えました(出典:Wikipedia「柳沢吉保」)。綱吉が将軍になると、吉保は側用人という重要なポストに就き、幕政の中枢を担うようになったのです。通常の側用人は将軍と老中の取次役でしたが、綱吉は吉保に政治の実権まで委ね、事実上の大老格ともいえる立場を与えました。
吉保の出世は目覚ましく、元禄元年(1688年)に1万2千石で大名に列し、元禄7年(1694年)には武蔵川越藩7万2千石の藩主となります。さらに宝永2年(1705年)には甲斐一国15万石余を拝領し、甲府藩主に移封されました(出典:甲府城年表)。館林藩士の家禄530石から甲斐一国の大名にまで上り詰めるというのは、江戸時代を通じてもほとんど例がありません。この破格の待遇に対して、当時から綱吉と吉保の関係は尋常ではないという噂が立ちました。特に囁かれたのが、二人の間に男色関係があったのではないかという疑惑です。江戸時代の武家社会では男色は珍しいことではありませんでしたが、将軍と家臣の間にそのような関係があり、それが政治にまで影響を及ぼしていたとなれば、問題は別です。
吉保自身は綱吉の死後、速やかに権力の座から退き、隠居生活に入りました。綱吉の死の真相を知っていたのか、それとも何も知らなかったのか。その答えは歴史の中に埋もれたままです。
生母・桂昌院と大奥の派閥争い
桂昌院は、京都の庶民の出から将軍生母にまで上り詰めたという、江戸時代でも稀有な経歴を持つ女性です。本名はお玉といい、京都で生まれました(出自については八百屋の娘説や二条家家司の娘説など諸説あります)。江戸城大奥に上がり(実際に大奥に上がった経緯については、家光の正室・鷹司孝子や側室・お万の方との関係も含め諸説あります)、第3代将軍徳川家光の側室となりました。そして綱吉を産んだことで、その人生は大きく変わったのです。綱吉が第5代将軍になると、桂昌院の称号を与えられ、将軍生母として大奥で絶大な権力を振るうようになりました。
桂昌院の権力は凄まじく、大奥のあらゆる人事に影響を及ぼしていたとされます。公家出身で高貴な血筋を誇る正室の鷹司信子との間に対立があったとする説は根強く、桂昌院が信子を大奥から孤立させようとしたという見方もあります。大奥では、桂昌院を中心とする派閥と、正室の信子を支持する勢力の間で権力争いが繰り広げられていたと考えられています。
ここで重要な事実を指摘しなければなりません。桂昌院は宝永2年(1705年)6月22日に79歳で亡くなっており、綱吉の死(1709年)より4年も前にこの世を去っています(出典:Wikipedia「桂昌院」)。つまり桂昌院は、綱吉と信子の死を知ることなく先に逝っていたのです。桂昌院の死後、大奥の権力構造がどのように変化したかは史料が限られていますが、最大の権力者がいなくなったことで、綱吉晩年の大奥はそれまでとは異なる雰囲気になっていた可能性があります。
綱吉の周りには、正室以外にも複数の側室がいました。次に、その側室たちと大奥の権力構造を見ていきましょう。
徳川綱吉の側室は何人?大奥の複雑な権力構造
徳川綱吉の側室は、公式記録では3人とされています。お伝の方(瑞春院)、寿光院、清心院の3人です。このほかに大典侍(おおすけ)や新典侍(しんすけ)など京都から連れてきた公家出身の女性もいたとされますが、正式な側室としてのカウントには諸説あります。
側室の中で最も重要な存在は、お伝の方(瑞春院)です。お伝の方は桂昌院の後押しで綱吉の側室となり、綱吉の唯一の男子・徳松と鶴姫を産みました。しかし徳松はわずか5歳で夭折し、綱吉は以後男子に恵まれませんでした。このことが後継者問題を深刻化させ、最終的に甥の徳川綱豊(のちの家宣)が養子として後継者に指名される経緯につながります。
大奥の権力構造は非常に複雑で、将軍の正室、生母、側室、そして御年寄と呼ばれる女中のトップたちが、それぞれの利害関係に基づいて派閥を形成していました。大奥という閉鎖的な空間で、女性たちは権力と生き残りをかけて日々戦っていたのです。そのような緊張感に満ちた環境が、綱吉と信子の死をめぐるさまざまな憶測や陰謀説を生み出す土壌となったと考えられます。
1995年放送の大河ドラマ『八代将軍吉宗』では、津川雅彦さんが徳川綱吉を演じ、正室の鷹司信子は松原智恵子さんが演じました。筆者が印象的だったのは、津川雅彦さんが演じた綱吉が、単なる暗君ではなく、どこか憎めない人間味を持った人物として描かれていた点です。主人公・吉宗(西田敏行さん)との対比の中で、綱吉の政治の限界と人間的な弱さが浮かび上がる構成は見事でした。史実では綱吉の死後に吉宗が将軍になるまで家宣・家継の2代を経ていますが、大河ドラマではこの綱吉と吉宗の「世代の対比」が物語の大きな軸になっています。史実と演出の違いを意識しながら観ると、綱吉という人物の多面性がよりよく理解できるのではないかと筆者は考えます。
綱吉の人間関係を整理したところで、次に「綱吉は結局、名君だったのか暗君だったのか」という評価の問題を考えてみましょう。
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徳川綱吉は名君か暗君か?生類憐みの令と財政から再考する
徳川綱吉の評価は時代によって大きく変化してきました。「犬公方」というあだ名に象徴されるように、江戸時代から暴君として語られることが多かった一方で、近年は「名君」として再評価する動きも活発です。ここでは、生類憐みの令と財政政策の両面から、綱吉の功罪を整理します。
生類憐みの令は「悪法」か「福祉政策の先駆け」か?
近年の研究では、生類憐みの令は捨て子保護や病人・高齢者の救済も含んだ福祉政策的な側面が注目されており、単なる「犬を守るための悪法」という評価は見直されつつあります。綱吉は儒学を重んじ、元禄3年(1690年)に上野忍ヶ岡の林羅山邸内にあった孔子廟を湯島に移して湯島聖堂を整備するなど、文治政治を推進した将軍でもありました。武断政治から文治政治への転換を進め、江戸時代の平和な社会の基礎を築いたという功績は、認められるべきでしょう。
しかし、いかに理念が正しくても、実際の運用で民衆を苦しめた面は否定できません。犬を傷つけただけで厳罰に処される事例が相次ぎ、「犬公方」というあだ名が定着したのは、政策の理念と運用のギャップが大きかったことの証拠です。
綱吉が残した財政問題と、吉宗・田沼意次への影響
筆者が注目するのは、綱吉時代に悪化した幕府財政がその後の将軍たちに与えた影響です。綱吉は元禄文化の華やかさの裏で幕府の財政を悪化させ、勘定奉行・荻原重秀による貨幣改鋳(元禄金銀、元禄8年〈1695年〉)で物価上昇を招きました。この財政問題は、甥の家宣による新井白石の登用と正徳の治、さらに八代将軍・徳川吉宗の享保の改革へとつながっていきます。
筆者は、綱吉はやはり暗君であったと考えます。なぜなら、綱吉は幕府の財政を悪化させながら、減税や規制緩和といった民を救う政策を行わなかったからです。結果として、八代将軍吉宗が享保の改革、つまり増税による財政再建を余儀なくされました。増税政策は九代将軍・徳川家重の時代に一揆の頻発を招き、民衆の生活はさらに苦しくなります。この流れの中で、十代将軍・家治の時代に田沼意次が商業振興や規制緩和の政策を進め、ようやく民衆は息を吹き返しました。経営者の視点で見ると、名君とは「減税で重税を緩め、規制緩和で民の自由を守り、歳出削減で政府の関与を減らす」リーダーのことではないでしょうか。生類憐みの令の理念自体は評価できても、財政運営の失敗がその後100年にわたって民衆を苦しめた責任は、綱吉にあると筆者は考えます。もちろん、これは諸説あるテーマであり、綱吉を名君とする研究者の見解にも傾聴すべき点は多いです。
綱吉の財政政策がその後の将軍たちにどう影響したのか、さらに詳しく知りたい方はこちらの記事もおすすめです。
それでは最後に、徳川綱吉にまつわるよくある質問と、記事のまとめをご紹介します。
よくある質問(FAQ)
徳川綱吉はなぜ死んだのか?
公式記録では麻疹(はしか)による病死とされています。宝永6年(1709年)、当時流行していた麻疹に感染し、数え年64歳で亡くなりました。ただし天然痘説や、正室・鷹司信子による刺殺説(無理心中説)、餅を喉に詰まらせた窒息死説など複数の異説があり、真相は確定していません。正室も約1か月後に同じく麻疹で死去しており、この不可解な状況が陰謀説を生む原因になりました。
徳川家康は何の病気で死んだのか?
徳川家康の死因は、近年の研究では胃がんが有力とされています。元和2年(1616年)、鯛の天ぷらを食べた後に体調を崩し、同年4月17日に享年75(満73歳)で死去しました(出典:国立公文書館「家康の死」)。「天ぷらの食べ過ぎが死因」という俗説が有名ですが、食欲不振・腹部のしこり・体重減少などの症状から胃がんだったと推定されています。
脚気で死んだ徳川将軍は?
脚気が死因とされる徳川将軍は、13代・徳川家定と14代・徳川家茂です。特に家茂は慶応2年(1866年)7月20日、大坂城で脚気衝心(脚気による急性心不全)のため享年21(満20歳)で亡くなりました。家茂は甘いものが大好きで虫歯だらけだったことでも知られ、栄養の偏りが脚気を悪化させたと考えられています。ビタミンB1の不足が原因で、江戸時代の白米を主食とする上流階級に多く見られた病でした。
徳川家茂の死因はいつですか?
徳川家茂は慶応2年(1866年)7月20日、大坂城にて享年21(満20歳)で死去しました。死因は脚気衝心(脚気による急性心不全)とされています。家茂は第二次長州征討のさなか、大坂城で指揮をとっていましたが、体調が悪化し、若くしてこの世を去りました。妻の和宮も後年、同じ脚気衝心で亡くなっています。
徳川綱吉の生類憐みの令と死因に関係はあるのか?
生類憐みの令と綱吉の死因に直接的な関係はありません。生類憐みの令は綱吉が将軍在位中に発布した動物愛護・福祉政策で、特に犬を保護したことから「犬公方」と呼ばれるようになりました。綱吉の死因は麻疹(または天然痘)とされており、生類憐みの令とは無関係です。ただし、この政策で民衆の不満が高まっていたことが、死後にさまざまな陰謀説が生まれる土壌を作った可能性はあります。
綱吉の後を継いだのは誰か?
綱吉の後を継いだのは、甥の徳川家宣(旧名・徳川綱豊)です。綱吉には実子がなかったため、兄・徳川綱重の子である綱豊が養子に迎えられ、宝永6年(1709年)に第6代将軍に就任しました。家宣は不評だった生類憐みの令を速やかに廃止し、新井白石を登用して正徳の治と呼ばれる政治改革を進めました。しかし家宣は在位わずか3年で病死し、幼い息子の家継が第7代将軍に。家継も8歳で夭折したため、徳川宗家の直系男子が途絶え、紀州徳川家から徳川吉宗が第8代将軍に迎えられることになります。
徳川家光の時代の大奥や家族関係について詳しく知りたい方はこちらもご覧ください。
徳川綱吉の死因と大奥の真相まとめ
- 徳川綱吉は宝永6年(1709年)1月10日に数え年64歳で死去し、公式には麻疹が死因とされている
- 正室の鷹司信子が綱吉の死の約1か月後に同じく死去するという不可解な事態が発生した
- 綱吉と信子の夫婦関係については不仲説が根強いが、行動を共にした記録もあり諸説ある
- 綱吉は側用人の柳沢吉保を異例の厚遇で重用し、宝永2年には甲斐一国15万石余を与えた
- 綱吉と吉保の間に男色関係があったのではないかという噂が当時から存在していた
- 【生母の桂昌院は綱吉より4年前の宝永2年(1705年)に79歳で死去している
- 大奥では信子が綱吉を刺殺して自害したという無理心中説が広まったが、信憑性は低い
- 綱吉が餅を喉に詰まらせて窒息死したという異説も存在するが史料的裏付けは乏しい
- 事件現場とされる宇治の間は開かずの間として封印された
- 徳川綱吉の側室は公式記録では3人(お伝の方・寿光院・清心院)とされる
- 綱吉の死後は甥の徳川家宣(旧名・綱豊)が第6代将軍となり生類憐みの令を即座に廃止した
- 綱吉の「名君か暗君か」は現在も議論が続いており、近年は再評価の動きもある
徳川綱吉の死因をめぐる謎は、公式記録の麻疹説だけでは説明しきれない要素を多く含んでいます。正室・鷹司信子の死、大奥の権力争い、宇治の間の怪異伝説――これらの断片を組み合わせても、なお真相には届きません。しかし、こうした謎が300年以上にわたって語り継がれてきたこと自体が、綱吉という将軍の存在感を物語っているのではないでしょうか。
参考資料
- 『徳川実紀』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 竹内誠『徳川「大奥」事典』東京堂出版、2015年
- Wikipedia「徳川綱吉」「鷹司信子」「桂昌院」「柳沢吉保」「生類憐れみの令」
- NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』(1995年放送)
- 甲府城の歴史(略年表)|山梨県観光
- 家康の死|国立公文書館デジタル展示
レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析
歴史学者ではないが、一次史料・学術書を徹底調査し歴史をわかりやすく整理。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに史実と演出の違いを分析。経営経験から歴史上の決断を現代ビジネスに接続する解説が得意。
最終更新日:2026年4月14日

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