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徳川綱吉の死因と最期とは?評価は低いが本当は名君で天才政治家だった

「生類憐れみの令」でおなじみ「徳川綱吉」の最期と死因などをわかりやすく解説いたします。

「犬将軍」と呼ばれるほど、「犬」を大切にした暗君「徳川綱吉」。

最期は「病死」したと言われています。病名は「はしか」・・・。

綱吉を「名君」とする声もあるが、「暗君」のイメージも強いですよね。

どちらが本当か、調査してみましょう。


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この記事を短く言うと

  1. 「徳川綱吉」は「1709年2月19日」に、「はしか」で亡くなっている。
  2. 綱吉は「生類憐れみの令」という悪法で、評価を落としてはいるが、実は「名君」だったのではないか。
  3. 綱吉は、儒教の影響で母「桂昌院」をとても大切にした。子供には恵まれず、長男「徳松」長女「鶴姫」に先立たれている。

徳川綱吉の死因と最期!「大人のはしか」で亡くなった

第五代徳川将軍「徳川綱吉」

《徳川綱吉》
「引用元ウィキペディアより」

綱吉は「1709年2月19日(宝永6年1月10日)」に「64歳」で亡くなっています。

その死因は「はしか」。

正確に言えば「成人麻しん」。つまりは「大人のはしか」で亡くなっているのです。

当時の「はしか」は、子供だけの病気ではありませんでした。前身に「発疹」が出て、発熱。そのまま亡くなる人も多かったのです。

1708年は、「疱瘡(ほうそう)」つまり「天然痘」と、この「はしか」が大流行していました。

綱吉もまた、「はしか」にかかって苦しんだのでした。

とはいえ、一時は回復傾向にあったらしく、回復祝いに「笹湯」をつかったと言われています。「笹湯」とは「お風呂」に「酒」と「ネズミの糞」を入れて浸かること・・・。

その「笹湯」をつかった直後に、綱吉は亡くなってしまったのです。

ちなみに、綱吉が亡くなる直前の「新年の挨拶」は、六代将軍となる「徳川家宣」が代役を務めています。



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綱吉の死因には、異説があります。

それは、「綱吉の正妻・信子による『無理心中説』」です。

信子は精神のバランスを崩し、綱吉とともに亡くなったとか・・。

また、「お正月のお餅を喉に詰まらせて亡くなった」という説もあります。「気管支炎」と「はしか」・・・さらには「お餅」で、完全に息の根が止まったと・・。

かなり苦しそうな死に方ですが・・・。この可能性は低いでしょう。「はしか」で亡くなったというのが、正しいのではないでしょうか。

 

綱吉の後継者は、綱吉の兄「徳川綱重」の息子で「学者将軍」とあだ名された天才「徳川家宣(いえのぶ)」。

娘婿「徳川綱教」が候補者となっていましたが、「水戸黄門」が反対して「家宣」となったのでした。



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綱吉の政治と評価!「生類憐れみの令」の真実

「犬公方(いぬくぼう)」または「犬将軍」。これは「綱吉」のあだ名です。

徳川綱吉といえば「生類憐れみの令」。「生類憐れみの令」といえば、「天下の悪法」と呼ばれた、とんでもない法律・・・と言われています。

「犬をいじめたら処刑」だとか、「虫を殺したから処罰」なんて逸話も残っているほど。

しかしこの「生類憐れみの令」は、「犬をいじめたら処罰」という目的のものではなく、主に「捨て子」「病人の行き倒れ」を保護せよ。というのが目的だったようです。

今で言うところの「福祉政策」なわけですが、この「福祉政策」のため、最近では「綱吉」の再評価が進んでいるのだとか。

実際、綱吉が将軍をつとめていた時代、その前半は「天和の治」と呼ばれる「善政」が行われており、「八代将軍・吉宗」もこれを評価しています。

綱吉は非常に「勉強熱心」な将軍であり、「湯島聖堂」を建てて学問を奨励していました。

「命を大切にした」という点では、名君と呼べるのかもしれません。

綱吉は、非常に運が悪く、「火山の噴火」などの天災が続き、そのせいで民衆が生活に苦しんでいます。この民衆の苦しみが、「綱吉の評価」を下げてしまっているのです。

公平な目で見れば、平穏な生活をしていたこの時代の領民を見れば、綱吉は「優れた政治家」「名君」と言って良いのではないでしょうか。



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母「桂昌院」と綱吉の子供達!親より先に亡くなっていた

綱吉といえば、母「桂昌院」が有名です。三代将軍「徳川家光」の側室で、女性で珍しく「従一位」という「最高の官位」を与えられている人物です。

儒教を大切にした綱吉は、その儒教の教えに従って、母親をとても大切にしました。「生類憐れみの令」は、この桂昌院が綱吉にはじめさせた、という説があるようですが、これは間違いです。

綱吉には、あとを継がせる「実子」がいませんでした。子宝に恵まれなかったのです。

綱吉の実子は、二人。一人が長男「徳松」。しかし「徳松」は、わずか5歳で亡くなっています。

もう一人が「鶴姫」。綱吉はこの「鶴姫」を溺愛したと言われています。庶民に「鶴」という字の使用を禁じたり、「鶴の紋所」の使用を禁じたりしたほど。

「鶴姫」は、紀州徳川家のお殿様「徳川綱教(つなのり)」に嫁いでいます。

この「綱教」、実は八代将軍「徳川吉宗」の実の兄。つまり「鶴姫」は「徳川吉宗」の義理の姉にあたるのです。

ところが「鶴姫」は子供を産むこともなく、27歳の若さで「天然痘」により亡くなってしまうのでした。

 

それから、綱吉には「女性だったのではないか」という説があります。「綱吉女性説」です。

しかし現実的に考えて、また調査してみたところ、綱吉が女性であった可能性は低いです。低身長だったという噂はありますが、男性で間違いないと考えられます。



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『徳川綱吉』について「ひとこと」言いたい!

綱吉は本当に「暗君」だったのでしょうか?それとも「名君」だったのでしょうか?

歴史の資料をみてみると、悪法「生類憐れみの令」で処刑されたり流罪になった人が結構いるようです。

「鉄砲で鳥を撃ち落として切腹」「スズメを吹き矢で撃って処刑」「犬殺しを密告したものには賞金」などなど。

学者「新井白石」も「生類憐れみの令」を「天下の悪法」と罵っています。

しかし、これだけで綱吉を暗君と言って良いのでしょうか?

綱吉は「犬」を大切にするだけでなく、「捨て子」や「病人」を助けるようにと一般市民に義務付けています。

当時は「行き倒れてもシカト」が当たり前だったようですので、それを改善させるため、「命の尊さ」を領民に教えようと、極端な法律をひろめたのではないでしょうか。

徳川綱吉・・・・「赤穂四十七士(忠臣蔵)」や「水戸黄門」で「バカ殿」として描かれる人物ですが、実際には「名君」だったのかもしれません。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 徳川綱吉は、1709年に「はしか」で亡くなっている
  2. 綱吉は「生類憐れみの令」で評価を落としてはいるものの、「名君」と言って良い善政をおこなっている
  3. 儒教の影響で「母・桂昌院」をとても大切にした。子供の「徳松」「鶴姫」には先立たれている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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