「銀閣寺を建てた人は誰なのか」「金閣寺とは何が違うのか」と気になって検索された方も多いのではないでしょうか。
修学旅行や観光で訪れたことはあっても、その由来をくわしく知る方は意外と少ないものです。
結論からお伝えすると、銀閣寺を建てた人は室町幕府8代将軍の足利義政です。
この記事では、銀閣寺を建てた人物の生涯から、いつ・何のために作られたのか、そして金閣寺を建てた人(足利義満)との違いまで、初めての方にもわかりやすく解説します。
読み終えるころには、銀閣寺の魅力と歴史的背景がスッキリ理解できるはずです。それでは、室町時代へと旅立ちましょう。
- 銀閣寺を建てた人は室町幕府8代将軍・足利義政だとわかる
- 銀閣寺がいつ・何のために建てられたのかが理解できる
- 金閣寺を建てた足利義満との違いが整理できる
- 関連記事で応仁の乱や室町幕府の歴史もさらに深掘りできる
銀閣寺を建てた人は誰?答えは8代将軍・足利義政
まずは「銀閣寺を建てた人は誰なのか」という最大の疑問にお答えします。あわせて、その人物がどんな将軍だったのかという基礎知識を押さえておきましょう。

銀閣寺を建てた人は室町幕府8代将軍・足利義政
銀閣寺を建てた人は、室町幕府の第8代将軍である足利義政です。「銀閣寺を作った人は誰なのか」「銀閣寺を建てたのは誰か」と問われれば、その答えは足利義政の一人に絞られます。義政は1449年に将軍へ就任し、約24年にわたって室町幕府の頂点に立った人物でした。

「Wikipediaコモンズ」より引用
正式には、銀閣寺という呼び名は通称であり、本来の名前を慈照寺といいます。義政の死後、遺言によりその菩提を弔うための禅寺となり、義政の法号「慈照院」にちなんで名づけられました。私たちが「銀閣」と呼んでいるのは、境内に建つ観音殿という建物のことを指します。つまり銀閣寺とは、足利義政が築いた東山山荘(東山殿)が、死後に正式な寺院として整備されたものなのです。
足利義政とはどんな人物だったのか
足利義政は1436年に生まれ、わずか8歳で兄の急死を受けて将軍後継者となりました。正式に将軍へ就任したのは14歳のときです。幼くして政治の頂点に立たされた義政は、当初こそ意欲を見せたものの、有力守護大名たちの力が強く、思うように政治を動かせなかったといわれています。
やがて義政は政治への情熱を失い、芸術や文化の世界に深く傾倒していきました。後継者をめぐる争いや妻・日野富子との関係など、家庭内の問題も重なり、しだいに政務から距離を置くようになります。一般には「政治から逃げた将軍」という印象で語られがちですが、その一方で文化人としての才能は群を抜いていました。この二面性こそが、足利義政という人物を理解する鍵になります。
応仁の乱を招いた将軍という評価
足利義政を語るうえで避けて通れないのが、1467年に始まった応仁の乱です。この大乱は、義政の後継者問題と有力大名どうしの対立が絡み合って勃発しました。戦いは京都を主戦場として実に11年もの長きにわたり、華やかな都はほぼ焼け野原と化してしまいます。
この乱を収めきれなかったことから、義政は「無能な将軍」という厳しい評価を受けることになりました。応仁の乱は、その後の戦国時代へ向かう契機の一つとなった出来事としても知られています。ただし、義政の評価をこの一面だけで決めてしまうのは早計かもしれません。なぜそう言えるのかは、後ほど人物像の章でくわしく見ていきます。応仁の乱そのものについて先に知りたい方は、こちらの記事が参考になります。
金閣寺と銀閣寺を建てた人の違い|足利義満と義政
「金閣寺と銀閣寺を建てた人は同じなの?」という疑問もよく聞かれます。ここでは二つの建物を建てた人物と、その違いを整理していきましょう。

「Wikipediaコモンズ」より引用
金閣寺を建てた人は3代将軍・足利義満
金閣寺を建てた人は、足利義政の祖父にあたる室町幕府3代将軍・足利義満です。つまり金閣寺と銀閣寺は、別の人物が建てた建物だということになります。義満は京都の北山に金箔を惜しみなく貼った金閣を築き、自らの絶大な権力を世に誇示しました。

「Wikipediaコモンズ」より引用
足利義満が将軍だった時代は、室町幕府が最も繁栄した黄金期でした。義満は南北朝の動乱を終わらせ、明との貿易で莫大な富を築き、幕府の権威を頂点まで高めた人物です。その富と権勢の象徴こそが、まばゆいばかりに輝く金閣だったのです。祖父・義満の金閣と、孫・義政の銀閣を比べることで、室町幕府の繁栄と衰退の流れが見えてきます。金閣寺の由来をくわしく知りたい方は、こちらの記事もあわせてご覧ください。
北山文化と東山文化の違い
金閣寺と銀閣寺の違いは、それぞれが象徴する文化にもあらわれています。金閣寺に代表される足利義満の時代の文化を北山文化、銀閣寺に代表される足利義政の時代の文化を東山文化と呼びます。
北山文化は、公家の伝統文化と武家文化が融合した、豪華で華やかなものでした。金箔に彩られた金閣は、まさにその象徴です。一方の東山文化は、簡素さや静けさのなかに美を見いだす、いわゆる「わび・さび」の精神を重んじました。銀閣の落ち着いた佇まいは、この東山文化の理想をそのまま形にしたものといえます。華やかさの北山、静けさの東山。同じ室町文化でも、その性格は対照的だったのです。
表でわかる金閣寺と銀閣寺の違い
ここまでの内容を、一覧表にまとめておきましょう。金閣寺と銀閣寺の違いがひと目で整理できます。あわせて、それぞれの特徴をしっかり押さえておくと、誰かに説明するときにも役立ちます。
| 項目 | 金閣寺 | 銀閣寺 |
|---|---|---|
| 建てた人 | 足利義満(3代将軍) | 足利義政(8代将軍) |
| 正式名称 | 鹿苑寺 | 慈照寺 |
| 場所 | 京都・北山 | 京都・東山 |
| 建てた時期 | 1397年 | 1482年 |
| 文化 | 北山文化(豪華絢爛) | 東山文化(わび・さび) |
| 外観 | 金箔を貼った金色 | 銀箔はなく素木の風合い |
こうして並べてみると、同じ足利将軍家が建てた建物でありながら、その性格が正反対であることがよくわかります。私自身、実際に両方を訪れたことがありますが、金閣寺はちょうど雲ひとつない青天に恵まれ、青空の下で金色に輝く金閣が浮かび上がる様子はじつに爽快でした。これを建てた足利義満の権力の大きさが肌で感じられ、幼いころ教科書で見た「幕府の莫大な財力を惜しみなく注ぎ込んで造られた」という逸話を思わず思い出したほどです。
銀閣寺はいつ・何のために建てられたのか
続いては、銀閣寺がいつ建てられ、何のために作られたのかを見ていきます。建設の背景には、義政ならではの事情がありました。
銀閣寺が建てられたのは1482年
銀閣寺の建設が始まったのは、応仁の乱が終わった直後の1482年のことです。「銀閣寺はいつ建てられたのか」という疑問への答えは、この1482年が起点となります。義政はこの年から、京都の東山に山荘の造営を始めました。

翌1483年には、まだ建物が完成していないにもかかわらず、義政はこの東山の山荘へ移り住んで生活を始めたと伝えられています。それほどまでに、義政はこの理想の住まいの完成を待ちきれなかったのでしょう。建設はその後も続けられましたが、完成を見ることなく義政は世を去ります。慌ただしく動いた室町の世にあって、義政の情熱がこの地に注ぎ込まれていったのです。
建設の目的は義政の隠居後の住まい
では、銀閣寺は何のために作られたのでしょうか。最大の目的は、足利義政が隠居後に暮らすための住まいとしてでした。義政は将軍の職をすでに息子の足利義尚に譲っており、将軍の邸宅である室町御所も義尚に渡していたため、自分の新たな住まいを必要としていたのです。
義政は、西芳寺(苔寺)の瑠璃殿や祖父・義満の金閣などを手本にして、この銀閣を設計したといわれています。応仁の乱で荒れ果てた京都の喧騒から離れ、東山の静かな地に自分だけの理想郷を築こうとしたのです。そこには、戦乱に疲れた義政が心の安らぎを求めた切実な思いがあったのかもしれません。単なる別荘ではなく、義政の美意識と人生観が凝縮された空間だったといえるでしょう。
銀閣寺は「将軍の権威を示す建物」ではなく「義政個人の隠居後の住まい」として建てられました。権力誇示が目的だった金閣とは、出発点からして大きく異なるのです。
銀閣寺に銀箔は貼られていなかった
銀閣寺について、多くの方が抱く疑問があります。「金閣が金箔なら、銀閣には銀箔が貼られていたのか」というものです。結論からいうと、銀閣に銀箔が貼られていた痕跡は確認されておらず、現在では「当初から貼られていなかった」とする説が有力とされています(当初は貼る予定だったとする異説もあります)。
かつては「完成当時は銀箔で輝いていた」という説もありましたが、調査の結果、銀箔の痕跡は確認されませんでした。なぜ銀箔がないのかについては、「もとから貼るつもりがなかった」とする説と、「応仁の乱後の財政難で貼る余裕がなかった」とする説があり、はっきりとは分かっていません。ただ、銀箔をまとわない素木の落ち着いた姿こそが、わび・さびを尊ぶ東山文化の精神に深く合致しています。私が訪れたのは鉛色の曇り空が広がる黄昏どきでしたが、その静かな雰囲気が銀閣の佇まいをいっそう際立たせ、金閣の華やかさとは対極にある侘しさと静かな美しさに、思わず見入ってしまいました。
足利義政の生涯と人物像|無能な将軍は誤解か
銀閣寺を建てた足利義政には「無能な将軍」という評価がつきまといます。しかしその人物像をたどると、別の一面が見えてきます。ここで義政の実像に迫ってみましょう。
政治家としての足利義政
政治家としての足利義政は、たしかに高い評価を得ているとは言いがたい人物です。応仁の乱を収拾できず、後継者問題でも優柔不断な態度を取り続け、結果として戦乱の世を招いてしまいました。財政難のなかでも東山の山荘造営をやめず、民衆に重い税を課して資金を集めたとも言われる点も、批判の対象となっています。
ただし、この評価には当時の時代背景も考慮する必要があります。義政が将軍に就いたころ、すでに幕府の権力は弱まり、有力守護大名たちが力を競い合う難しい時代に入っていました。誰が将軍であっても、混乱を完全に抑えるのは至難の業だったとも考えられます。義政一人の責任に帰すのは、いささか酷な面もあるのです。歴史を評価するうえでは、一面的な見方に偏らない姿勢が大切だといえるでしょう。
文化人としての卓越した才能
政治の面では評価が分かれる義政ですが、文化人としての才能は誰もが認めるところです。義政は美しい建物や庭園を生み出す芸術的なセンスに、人一倍恵まれた人物でした。銀閣寺の庭園や周辺の建物は、当時から人々の話題をさらうほど洗練されていたといいます。
義政が育んだ東山文化は、茶の湯、生け花、水墨画、書院造の建築など、現代の日本文化の重要な源流ともいえる数々の芸術を花開かせました。義政のもとには、優れた文化人や芸術家が数多く集まり、その美意識が後世に受け継がれていったのです。戦乱の時代にあって、これほどの文化的遺産を残した将軍は他にいません。私が訪れたとき、東大寺正倉院の名香である蘭奢待の逸話をふと思い出しました。この香木をかつて切り取った記録が残る人物は、足利義満・足利義政・織田信長・明治天皇などごく限られた権力者だけです。信長と並ぶこの事実を思うと、義政を単なる無能な将軍と片づけてよいのか、私は強い疑問を抱かずにはいられませんでした。

「Wikipediaコモンズ」より引用
銀閣寺に込められた義政の願い
近年の研究では、義政が銀閣寺を建てた背景に、単なる趣味や逃避を超えた意図があったとする見方も出てきています。荒廃した京都とは対照的な、静謐で美しい理想郷を東山に築くことで、幕府の権威と文化の力を世に示そうとしたのではないか、というのです。
武力ではなく、芸術と文化の力で人々の心をまとめ、戦乱に疲れた世に平安をもたらそうとした。そう考えると、銀閣寺は義政なりの「平和への祈り」が形になったものとも受け取れます。現代を生きる私たちすら魅了する芸術的な空間を生み出せた人物が、本当にただの無能だったとは考えにくいものです。義政の評価は、いま静かに見直されつつあるのです。
銀閣寺と東山文化が現代日本に残したもの
銀閣寺の価値は、建物そのものだけにとどまりません。ここでは、銀閣寺と東山文化が現代の私たちにまで残した影響を見ていきます。
書院造が日本家屋の原型になった
銀閣寺の境内には、観音殿(銀閣)とともに東求堂という建物があります。この東求堂のなかの同仁斎という小部屋は、書院造という建築様式の原型として、建築史上きわめて重要な存在です。書院造とは、畳を敷き詰め、床の間や違い棚、障子や襖を備えた様式を指します。

この書院造は、その後の武家屋敷や和風住宅の基本スタイルとなり、現代の和室にもその面影が色濃く残っています。私たちが思い浮かべる「畳の和室」のルーツは、まさに銀閣寺の東求堂にあるのです。義政が東山に築いた空間は、500年以上の時を超えて、今も日本人の暮らしのなかに生き続けているといえます。何気ない和室の一室にも、室町時代の美意識が宿っているのです。
わび・さびの精神と現代文化
東山文化が育んだ「わび・さび」の精神も、現代日本に深く根づいています。わび・さびとは、簡素さや静けさ、不完全なものの中にこそ美を見いだす感性のことです。豪華さを競うのではなく、控えめなものに価値を置くこの美意識は、茶の湯をはじめとする日本独自の文化を支える土台となりました。
銀閣に銀箔が貼られなかったことが、結果としてこのわび・さびの美をいっそう際立たせたのは、歴史の興味深いところです。現代でも、シンプルで落ち着いたデザインを好む日本人の感性の根底には、東山文化の精神が流れているといえるでしょう。室町幕府がどのように始まり、どう終わっていったのか、足利将軍家のその後に興味のある方は、こちらの記事もおすすめです。
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銀閣寺を建てた人に関するよくある質問
ここでは、銀閣寺を建てた人について検索でよく寄せられる疑問に、Q&A形式でお答えします。記事の総まとめとしてお役立てください。
銀閣寺を建てたのは誰ですか?
銀閣寺を建てたのは、室町幕府の第8代将軍・足利義政です。義政が隠居後の住まいとして東山に築いた山荘が、その死後に正式な寺院として整備され、銀閣寺(慈照寺)と呼ばれるようになりました。「銀閣寺を作った人は誰か」という問いの答えも、同じく足利義政になります。
銀閣寺はいつ建てられたのですか?
銀閣寺の建設が始まったのは1482年です。応仁の乱が終わった直後にあたります。翌1483年には完成前にもかかわらず義政が移り住み、その後も造営が続けられましたが、1490年に義政が亡くなるまで完成を見ることはありませんでした。
金閣寺と銀閣寺を建てた人は同じですか?
いいえ、別の人物です。金閣寺を建てたのは3代将軍・足利義満で、銀閣寺を建てたのは8代将軍・足利義政です。義満は義政の祖父にあたります。同じ足利将軍家ですが、建てた時代も目的も大きく異なる二つの建物なのです。
銀閣寺は何のために作られたのですか?
銀閣寺は、足利義政が将軍を引退した後に暮らすための住まいとして建てられました。将軍の邸宅を息子に譲っていた義政は、新たな住まいを必要としていたのです。戦乱に荒れた京都を離れ、東山に静かな理想郷を築こうとした義政の思いが込められています。
銀閣寺に銀箔は貼られていますか?
いいえ、銀閣には銀箔は貼られていません。近年の調査で、銀箔が貼られていた痕跡は確認されていません。理由ははっきりしませんが、財政難説や、もとから貼る予定がなかったとする説があります。銀箔のない素木の姿が、東山文化のわび・さびの美をかえって引き立てています。
銀閣寺を建てた人まとめ
ここまで、銀閣寺を建てた人について多角的に解説してきました。最後に要点を振り返っておきましょう。
銀閣寺を建てた人は、室町幕府8代将軍の足利義政です。1482年から応仁の乱後の東山に建設が始まり、義政の隠居後の住まいとして造営されました。金閣寺を建てた3代将軍・足利義満とは別人であり、豪華絢爛な金閣の北山文化に対し、銀閣はわび・さびを尊ぶ東山文化を象徴しています。義政は政治の面では評価が分かれますが、書院造や茶の湯など現代日本文化の源流を生んだ卓越した文化人でもありました。
「応仁の乱を招いた無能な将軍」という一面的な評価だけでは、足利義政という人物の本当の姿は見えてきません。銀閣寺という静かな美の空間は、戦乱の世に文化の力で平安を願った義政の心を、今に伝えているのかもしれません。次に銀閣寺を訪れる機会があれば、ぜひその背景に思いを馳せてみてください。気になった応仁の乱や室町幕府については、関連記事もあわせてお楽しみいただければ幸いです。

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