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姫路城を建てた人物は誰?いつ何の目的でどんな理由で作られたのか解説

名城・姫路城ひめじじょうは、だれが、いつ何の目的でわかりやすく解説いたします。

姫路城を最初に作ったのは、足利尊氏あしかがたかうじとともに戦った猛将・赤松則村あかまつのりむらの息子・赤松貞範さだのり

そして現在の美しく壮大な姫路城へと改修したのは、戦国大名・池田輝政いけだてるまさです。

築城から現代にいたるまでの姫路城の歴史を、カンタンに解説させていただきます。


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この記事を短く言うと

  1. 現在の美しい姫路城は、徳川家康の娘婿・池田輝政によってつくられた
  2. 姫路城は、1346年に誕生し、1601年に池田輝政によって現在の形に改修された
  3. 姫路城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、西日本の外様大名の進軍を阻止するためにつくらせた

目次

【姫路城】を、建てた人は誰?

現在の美しい姫路城を建築したのは、戦国武将・池田輝政いけだてるまさです。

池田輝政
引用元ウィキペディアより

現在、岡山県姫路市にある世界遺産・姫路城は、池田輝政によって改築されたものです。

実は姫路城は、池田輝政が改築する約250年前、南北朝時代なんぼくちょうじだいから存在していたお城なのです。

一番最初にこの城をつくったのは、赤松貞範あかまつさだのりという武将です。

赤松貞範によって誕生した小さな姫路城を、今現在残っている美しい姫路城に大改築したのが池田輝政、というわけです

姫路城
引用元ウィキペディアより

世界遺産・姫路城は、その美しさと壮大さから、白鷺城はくろじょうまたは白鷺城しらさぎじょうと呼ばれています。


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【姫路城】は、いつ建てられたのか?

姫路城が誕生したのは、1346年です。

そして1601年から8年かけて池田輝政によって大改修され、現在の美しい城に姿を変えました。

1346年、赤松貞範によって誕生した姫路城。

ですが誕生した当時、姫路城は城というよりも、やかたとりでのような小さなものだったようです。

それを、あの軍師・黒田官兵衛くろだかんべえの父親や祖父が、本格的な城として改築したといいます。

黒田官兵衛孝高
引用元ウィキペディアより

それをさらに大改築したのが、池田輝政です。

池田輝政が生まれ変わらせた姫路城は、その後の明治維新めいじいしん太平洋戦争たいへいようせんそうを乗り越えて、現在も残っているというわけです。


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【姫路城】は、どんな目的・理由で建てられたのか?

現在の姫路城は、西日本の戦国大名たちが、京都や江戸への進軍を阻止する目的でつくられました。

1600年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康とくがわいえやすによって、外様大名とざまだいみょうと呼ばれる戦国大名たちは、西日本へと追いやられました。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

家康は、広島の福島正則ふくしままさのりや、鹿児島の島津義弘しまづよしひろのような外様大名たちが、東へ攻めてくることを警戒していたのです。

姫路城は、外様大名たちが東へ攻めてくることを阻止するための、重要な軍事基地でした。

中国・九州地方の外様大名による進軍を阻止するため、家康は信頼している娘婿の池田輝政を、姫路城に配置しました。

そして池田輝政は、敵の進軍に備えて、姫路城を巨大な城に生まれ変わらせたのです。

ちなみに、姫路城を最初につくった赤松貞範は、城を有効に活用して、南朝勢力との戦いで活躍したのです。


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その他

姫路城の【歴代城主】一覧

姫路城の歴代城主を一覧でご紹介いたします。

  1. 赤松貞範
  2. 小寺頼季
  3. 小寺景治
  4. 小寺景重
  5. 小寺職治
  6. 山名持豊
  7. 赤松政則
  8. 小寺豊職
  9. 小寺政隆
  10. 小寺則職
  11. 八代道慶
  12. 黒田重隆
  13. 黒田職隆
  14. 黒田孝高(黒田官兵衛)
  15. 羽柴秀吉(豊臣秀吉)
  16. 羽柴秀長
  17. 木下家定
  18. 池田輝政
  19. 池田利隆
  20. 池田光政
  21. 本多忠政
  22. 本多政朝
  23. 本多政勝
  24. 松平忠明
  25. 松平忠弘
  26. 松平直基
  27. 松平直矩
  28. 榊原忠次
  29. 榊原政房
  30. 榊原政倫
  31. 松平直矩
  32. 本多忠国
  33. 本多忠孝
  34. 榊原政邦
  35. 榊原政祐
  36. 榊原政岑
  37. 榊原政純
  38. 松平明矩
  39. 松平朝矩
  40. 酒井忠恭
  41. 酒井忠以
  42. 酒井忠道
  43. 酒井忠実
  44. 酒井忠学
  45. 酒井忠宝
  46. 酒井忠顕
  47. 酒井忠惇
  48. 酒井忠邦

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池田輝政について、簡単解説

池田輝政とは、戦国時代の武将・織田信長の乳母をつとめた女性の子・池田恒興の次男です。

父・池田恒興は、織田信長の乳兄弟として、実の兄弟のようにして育った人物です。

1582年、織田信長が本能寺の変明智光秀に殺害されると、池田輝政の父・池田恒興は、明智光秀を討ち果たした羽柴秀吉に接近。

1584年、羽柴秀吉と池田恒興は、小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦うことになります。

この戦いで、池田恒興は家康に敗れて戦死してしまうのです。

あとをついだ息子・池田輝政は、秀吉の家来として活躍します。

しかし、秀吉の死後は父のカタキであった徳川家康に接近。

家康は自分の娘であるとく姫を池田輝政と結婚させ、婚姻関係を結ぶのでした。

その後、輝政は徳川幕府を支える重臣として活躍。

徳川家も、輝政を信頼して領地を拡大させていき、最終的には池田一族あわせて100万石の大領を得るに至るのです。

池田輝政は、1613年に50歳で亡くなります。

池田家はその後、1868年の明治維新まで繁栄を続けていきます。

姫路城は、山陽道をふさぐ要衝です。

西国から薩摩藩長州藩などの外様大名が徳川家を滅ぼすために攻めこんでくるときに、それを防ぐ重要な軍事拠点なのです。

そのため、徳川幕府は池田輝政をはじめとして、この姫路城を信頼できる大名に常に守らせていました。

例えばそれは家康の娘婿・池田輝政であったり、徳川四天王の酒井さかい家・本多ほんだ家・榊原さかきばら家であったり、徳川家の分家である松平まつだいら家であったりしたのです。

これら信頼できる重臣たちによって守られた姫路城は、徳川幕府にとって、重要な守備の要だったのです。


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姫路城の歴史をカンタン解説

先ほども申しましたが、姫路城を一番最初に築城したのは、赤松貞範という武将です。

赤松貞範とは、足利尊氏とともに鎌倉幕府を倒し、その後は足利尊氏の家来として後醍醐天皇新田義貞と戦った猛将・赤松則村(赤松円心)の息子です。

1346年、赤松貞範が姫路城を築城。

赤松貞範は姫路城をつくり、後醍醐天皇のひきいる南朝方との戦いに備えたのでした。

その後、姫路城は小寺氏や山名宗全らに引き継がれ、戦国時代には小寺こでら氏の家来・黒田一族が城代を務めることとなります。

この黒田氏から秀吉の軍師となった黒田官兵衛孝高くろだかんべえよしたかが誕生。

官兵衛は播磨国の攻略を目指す織田家の重臣・羽柴秀吉に姫路城を差し出して家来となります。

姫路城は一時期、秀吉の本拠地となり、その後は秀吉の義兄弟・木下家定が城主となります。

豊臣秀吉
引用元ウィキペディアより

1600年、関ヶ原の戦いが勃発。

関ヶ原での戦功により、池田輝政が姫路城の城主として入城。

そして池田輝政の手で、姫路城は現在の壮麗そうれいな姿へと改修されたのでした。

姫路城はその後、重要な地である理由から、徳川の分家や徳川四天王によって守られていきます。

1868年、明治維新の際に、戊辰戦争ぼしんせんそうで池田輝政の末裔・池田茂正いけだしげまさ薩長さっちょう・新政府軍に味方して、姫路城を砲撃。

一触即発の事態となりますが、豪商・北風正造きたかぜしょうぞうが大金を使って戦争を止め、姫路城は新政府軍に明け渡され、戦火をまぬがれたのでした。

太平洋戦争の際に、焼夷弾による爆撃をうけるも、奇跡的に戦火をまぬがれ、姫路城は現在まで、その美しい姿をとどめているのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 現在の姫路城は、徳川家康の娘婿である池田輝政が現在の美しい姿に築城した
  2. 姫路城は、赤松貞範が築城し、その後、黒田官兵衛・羽柴秀吉・池田輝政などが治め、戦火を免れて現在に至っている
  3. 江戸時代の姫路城は、もともと西国の外様大名を防ぐ目的で、巨大な城郭としてつくられた。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

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