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豊臣秀頼の子孫の現在とは?秀頼の子孫が今も続いている可能性がある

皆さんは豊臣秀頼の子孫について、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

  1. 秀頼の子孫は、断絶している
  2. 秀頼には、国松丸や天秀尼という子供がいた
  3. 国松丸は、木下延由と名前をかえて生き延びたという言い伝えがある

この記事では豊臣秀頼の子孫のゆくえを、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は秀頼の子孫について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、秀頼の子孫に詳しくなれます。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。


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目次

豊臣秀頼とよとみひでよりの子孫は、今も続いているのか?

結論から申し上げると、豊臣秀頼の子孫は断絶しています。現在まで続いていません。

秀頼には、何人かの子供がいたといわれています。

この子供達は、全員が子孫を残さずに亡くなっています。

そのため、秀頼の子孫は江戸時代に断絶しているのです。

しかし、【秀頼の子孫が続いてる】という伝説があります。

詳しくは、後ほど解説いたします。


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秀頼の子供達とは?

秀頼の正室は、徳川家康の孫にあたる千姫せんひめという人物です。

千姫
引用元Wikipediaより

秀頼と千姫のあいだには、子供が産まれませんでした。

ただし、秀頼には複数の側室がいて、その側室が子供を産んでいるのです。

長男・国松丸くにまつまる

長男・国松丸は、1615年の大坂夏の陣で父・秀頼が自害したのち、徳川軍に捕まって処刑されています。

国松丸は、豊臣秀頼の側室・伊茶という女性が産んだ子だといわれています。

正室の千姫に遠慮した秀頼は、国松を養子に出し、産まれたあと一度も面会したことがなかったのだとか。

1614年、大坂冬の陣が勃発すると、国松は大坂城に入城し、父・秀頼と初めて面会。

1615年、大坂夏の陣で大坂城が落城すると、脱出したものの徳川軍に捕らわれてしまいます。

秀頼の正室・千姫の必死の助命嘆願じょめいたんがんがあったものの、許されず京都の六条河原で処刑されてしまいます。

享年8歳。

ただし、このとき処刑された国松丸は替え玉だったという伝承があります。

国松丸は、真田信繁(幸村)の子・真田大助幸昌さなだだいすけゆきまさとともに逃げて生き延びたというのです。

詳しくは、のちほど解説いたします。


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長女・天秀尼てんしゅうに

長女・天秀尼は、父・秀頼が大坂夏の陣で亡くなったあと、千姫に救われて鎌倉・東慶寺とうけいじで出家しています。

豊臣秀頼と側室のあいだに産まれたのが、長女・天秀尼です。

天秀尼
引用元Wikipediaより

正式な名前はわかっていませんが、奈阿なあ姫または泰姫ともいわれています。

母親が不明なので、兄・国松丸と同母妹なのか異母妹なのか不明です。

天秀尼は、大坂夏の陣で父・秀頼が自害した後、千姫の養女となって命を救われています。

千姫の必死の助命嘆願のおかげだったといわれています。

その後も天秀尼と千姫の関係は続き、天秀尼は千姫に守られ続けたのだとか。

1645年、37歳で亡くなったといいます。

十三回忌には、千姫が香典をおくっています。

尼として生きていたため、天秀尼には当然子供はいません。

東慶寺は縁切寺として有名なお寺で、天秀尼は千姫に訴えて、加藤明成という武将の妻を保護したという伝説があります。


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男・求厭ぐえん

1688年、求厭という僧侶が亡くなる直前に、【自分は秀頼の第二子である】と告白したというのです。

求厭がいうには、大坂夏の陣のときに、江戸へ隠されて生き延びたのだとか。

増上寺から京都・伏見へと移り、そのまま亡くなったといいます。

求厭が本当に秀頼の子であるのかどうか、全く不明です。

産まれた時期には諸説あり、はっきりしていません。

そのため享年もはっきりしていませんが、80歳前後だったといわれています。

当然ですが、僧侶であるため子供はいません。

豊臣秀綱とよとみひでつな天草四郎時貞あまくさしろうときさだ

1637年に天草・島原の乱を起こした天草四郎時貞は、豊臣秀頼の子・豊臣秀綱であると名乗ったといいます。

天草四郎時貞
引用元ウィキペディアより

島原の乱とは、三代将軍・徳川家光の時代に九州・島原で起こった農民反乱です。

この首謀者である天草四郎時貞は、豊臣秀頼の息子・秀綱と名乗っていたといわれています。

天草四郎時貞が本当に秀頼の子である可能性は、低いといわれています。

→→→→→【天草四郎時貞は秀頼の息子なのか?】についてくわしくはこちら


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国松丸の生存説!現在も子孫が続いているのか?

秀頼の長男・国松丸には、木下延由きのしたのぶよしと名前をかえて生き延びたという言い伝えがあるようです。

秀吉の正室・北政所きたのまんどころ(通称・ねね)には、木下家定きのしたいえさだという兄がいました。

木下家定は、1600年の関ヶ原の戦いで活躍した武将・小早川秀秋こばやかわひであきの実父です。

小早川秀秋
引用元ウィキペディアより

木下家定には、木下延俊のぶとしという息子がいました。(木下延俊は、小早川秀秋こばやかわひであきの兄)

さらに、その木下延俊には、二人の息子がいました。

  • 三男・木下俊治としはる
  • 四男・木下延由のぶよし

長男と次男は、幼くして亡くなっています。

三男・木下俊治は、父から家督と3万石の領地のうち2万5千石を継承して、日出藩主となっています。

四男・木下延由は、3万石のうち5千石を継承しています。

この四男・木下延由は、1万石未満だったため、大名ではないものの旗本交代寄合はたもとこうたいよりあいとして、明治まで続いたといいます。

木下家の18代目・木下俊という人が、木下家に一子相伝いっしそうでん口伝くでんで代々引き継がれた秘密について解説しています。

それによれば、木下延由は豊臣秀頼の長男・国松丸と同一人物だというのです。

言い伝えは以下の通りです。

「国松丸は、大坂城が落城した際に、真田信繁さなだのぶしげ(幸村)の子である真田大助幸昌さなだだいすけゆきまさとともに薩摩(鹿児島)に逃れた」

「その後、薩摩から日出藩ひじはん木下延俊きのしたのぶとしのもとへ逃げ、その四男としてむかえられた」

木下家の菩提寺である長流寺には、木下延由の位牌いはいが納められているといいます。

そこには

木下縫殿助豊臣延由とよとみのぶよし

と刻まれているといいます。

この木下延由の子孫は、1868年の明治維新めいじいしんをむかえた木下俊清としきよという人物まで続いたのだとか。

そのほかにも、木下延由の子孫が、各時代で旗本へ嫁入りしています。

そのため、木下延由の子孫は、各地に繋がっていることになります。

もし万が一、木下延由が本当に国松丸と同一人物なのであれば、少なくとも1868年の『木下俊清きのしたとしきよ』まで、その血筋は続いたことになります。

ただ、あくまでも言い伝えであり、それを裏付ける証拠は存在していません。

木下延由=国松丸は、信ぴょう性に乏しいかもしれません。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 秀頼の子孫は、断絶している
  2. 秀頼には、国松丸や天秀尼という子供がいた
  3. 国松丸は、木下延由と名前をかえて生き延びたという言い伝えがある

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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