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江戸城は誰が建てた?太田道灌・徳川家康・家光まで築城者を簡単解説


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本記事は、信頼できる史料および各種百科事典などに基づき編集したうえで、独自の整理と考察を加えた解説記事です。一部に広告(アドセンス・アフィリエイトリンク)を含みます。最終更新日:2026年4月26日。

この記事を書いた人

レキシル史郎|歴史調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/中小企業経営者。一次史料・学術論文・大河ドラマ脚本を横断的に読み比べ、複数説を公平に整理することを編集方針としています。本記事では、城郭研究の通説と近年の発掘調査、保科正之の意思決定を「経営判断」として再評価する視点を加えました。

目次

江戸城は誰が建てたか?

江戸城は誰が建てたか、という質問は、江戸城の歴史を理解する重要な視点です。江戸城は太田道灌が最初に築城し、徳川家康が1590年に天下普請で大改造し、家康・秀忠・家光の三代で天守が3度建て替えられた複合的プロジェクトです。

江戸城
引用元「Wikipediaコモンズ」より

江戸城の歴史的基礎は1457年に太田道灌が築城した城郭にあり、1590年に徳川家康が天下普請で大改造し、家康・秀忠・家光の三代で天守が3度建て替えられた複合的プロジェクトとして発展しました。つまり「江戸城を建てた人」は一人ではなく、約180年かけて段階的に造られた共同建設の結晶といえます。本記事では、太田道灌の築城から徳川家康の天下普請、家光の寛永度天守、明暦の大火で天守が再建されなかった理由、そして現在の皇居になるまでを、史料と大河ドラマを比較しながら簡単にまとめます。

この記事のポイント(4つ)
  • 江戸城を最初に築いたのは 太田道灌(1457年・長禄元年)
  • 1590年に 徳川家康 が入城し、1603年以降の 天下普請 で巨大城郭へ拡張
  • 天守は 家康・秀忠・家光 の三代で三度建て替えられた
  • 明暦の大火で焼失した天守は、保科正之の判断により再建されなかった

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江戸城を最初に建てたのは誰?「太田道灌」の功績とは

江戸城の歴史的起源は、室町時代後期の武将太田道灌が1457年に再構築・大改造した江戸城にさかのぼるとされます。その前に、江戸氏の居館が存在したとされていますが、正確な構造や規模は不明です。江戸の地に太田道灌が江戸城を築城したのは1457年(長禄元年、一説には康正3年)とされます。扇谷上杉家の家宰として古河公方・足利成氏との抗争に備えるために築かれました(出典:Wikipedia 太田道灌)。

項目 内容
築城者 太田道灌
築城年 1457年(長禄元年、一説には康正3年)
目的 古河公方・足利成氏への防衛拠点
構造 子城・中城・外城の三郭構造
特徴 「道灌がかり」と呼ばれる複雑な防御動線

扇谷上杉家の家宰・太田道灌が1457年に築城

江戸城の歴史は、1457年(長禄元年、一説には康正3年)に太田道灌が築城したことから始まります。道灌は扇谷上杉氏に仕える家宰(かさい)という立場で、当時の関東は古河公方・足利成氏との対立が激化していました。この情勢のなかで、道灌は武蔵国豊島郡江戸の地に着目します。

江戸が選ばれた理由は、その地理的優位性にあります。武蔵野台地の東端にあたる麹町台地の先端部に位置し、北から南へ突き出した舌状台地で、東には平川が流れ込み、日比谷入江と呼ばれる浅瀬が広がっていました。後背地の関東平野と海路を結ぶ結節点として、軍事・経済の両面で高い潜在能力を秘めた立地だったのです。

江戸城には平安時代末期からの江戸氏の居館が存在したとする伝承がありますが、正確な位置や規模は考古学的にも不明瞭です。本格的な城郭としての江戸城は、太田道灌の登場を待つ必要がありました。道灌は単なる武将ではなく、築城術や和歌・連歌に通じた教養人でもあり、江戸城は彼の軍事的才能と文化的素養が結晶した傑作だったといえるでしょう。

当時の江戸城はどんな姿だったのか?「静勝軒」の眺め

太田道灌の築いた江戸城は、現在の皇居東御苑一帯に位置していたと推定されていますが、正確な縄張りや規模は一部不明確です。この時期の江戸城は、子城・中城・外城の三郭構造とされる曲輪で構成されていたとされますが、江戸城の具体的な構造は諸説が混在し、考古的推定に依存する部分もあります。子城は城の中枢部で、道灌の居館や政庁機能が置かれた場所とされ、現在の本丸北部に相当すると考えられています。

特に注目すべきは、子城に設けられた「静勝軒(せいしょうけん)」と呼ばれる道灌の居館です。南面する構造で、富士山・筑波山・箱根・足柄といった関東の名峰を一望でき、後に「江戸八景」「十境」として詩歌の題材となりました。城内には「含雪軒」「莵久波山亭」「泊船亭」といった風雅な名称の建物が点在しており、道灌が連歌や詩歌を愛好し、京文化を積極的に受容していた様子がうかがえます。

近年の発掘調査では、北の丸周辺から道灌時代の堀や墓跡、茶道具や武具などの遺物が検出されており、城内に武士だけでなく多様な職能民や生活者が居住していたことが裏付けられています。


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初代・家康の「慶長度天守」|関ヶ原の勝者が建てた白き巨塔

慶長11年(1606年)に起工し、翌年に完成した初代天守は、現在の本丸南側に位置していました。この慶長度天守の最大の特徴は「鉛瓦(なまりがわら)」の使用です。屋根は木製の基盤を鉛の板で覆った瓦で葺かれ、壁面は白漆喰の総塗籠であったと推定されています。

鉛瓦は経年により塩化鉛の被膜を生じ、鈍い銀白色に輝きます。この「雪山」のごとき白亜の外観は、当時まだ黒漆塗りの天守を誇っていた豊臣大阪城に対し、徳川の新しい支配権を視覚的に対置させる強烈なプロパガンダであったとする見方が有力です。関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康にとって、天守は単なる軍事施設ではなく、新しい時代の到来を告げる象徴だったのです。

また、鉛瓦には実用的な意味もありました。鉛は柔らかく加工しやすいため複雑な屋根の形状にも対応でき、戦時には溶かして鉄砲の弾にするという軍事的な備蓄の意味もあったとされます。家康の天守は、美しさと実用性を兼ね備えた、武将らしい建築物だったといえるでしょう。

二代・秀忠の「元和度天守」|権威を示した過渡期の姿

元和8年(1622年)、二代将軍秀忠は本丸御殿の拡張工事に伴い、家康の築いた慶長度天守を解体し、現在の天守台付近(本丸北側)へと移築・再建を行いました。この元和度天守は、外観については白漆喰・鉛瓦を踏襲していたという説が有力ですが、細部においては次代への過渡的な特徴が見られたとされます。

徳川秀忠
Wikipediaコモンズ」より引用

秀忠の時代は、大坂夏の陣(1615年)で豊臣家を滅ぼし、徳川幕府の支配が完全に確立した時期でした。このため、天守にも権威を誇示する装飾が増えたと考えられています。唐破風(からはふ)の配置や、破風の数を増やすことで、より豪華絢爛な外観を実現しようとしたのです。

解体された慶長度天守の部材の一部が、仙台城の櫓などに下賜されたとする説もありますが、考古学的な確証は得られていません。もし事実であれば、徳川家が地方の大名に対して「天守の部材」という最高の権威の象徴を与えることで、忠誠を確保しようとしたことになります。


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江戸の町を焼き尽くした振袖火事と天守焼失

明暦3年(1657年)1月18日から20日にかけて発生した「明暦の大火(振袖火事)」は、江戸市街の6割を焼き尽くし、死者は数万から10万人に及んだとされる未曾有の災害でした。この火災は、ある寺で行われた振袖の供養が原因で発生したという伝説から「振袖火事」とも呼ばれています。

猛火は江戸城本丸にも及び、本丸御殿、二の丸、三の丸が延焼しました。そして1月19日午後、強風に煽られた火の粉が寛永度天守の窓から侵入し、史上最大の木造建築は炎に包まれて焼け落ちたのです。完成からわずか19年後のことでした。

火災の被害は甚大で、江戸城だけでなく、多くの武家屋敷や町人地が灰燼に帰しました。幕府は直ちに復興体制を整え、当初は天守も再建する既定路線で、加賀藩主・前田綱紀に対して天守台の修築が命じられました。前田家は領内から5,000人の人夫を動員し、瀬戸内海から巨大な御影石を運び込み、現在皇居東御苑に残る天守台を完成させたのです。

「天守は時代遅れ」名君・保科正之が下した英断

しかし、最終的に天守の建物(上物)が再建されることはありませんでした。この決定を主導したのは、四代将軍家綱の補佐役(大政参与)であった会津藩主・保科正之です。正之は三代将軍家光の異母弟であり、幕政において絶大な影響力を持っていました。

『会津藩家世実紀』によれば、正之は次のような論理で天守再建に反対したとされます。第一に「軍事的無用論」。「天守は織田信長が築いて以来、城の守りというよりも遠くを見渡すための楼閣に過ぎず、実戦的な防御機能は低い」と主張しました。実際、江戸時代に入って天守が実戦で使用されたことはほとんどなく、象徴的な意味合いが強くなっていたのです。

第二に「復興優先論」。「今は被災した庶民の救済と江戸市街の復興が最優先であり、象徴に過ぎない天守の再建に巨額の国費を費やすべきではない」と訴えました。保科正之の英断により、天守再建用に見積もられていた予算や資材は、市街地の区画整理、防火帯(広小路)の設置、本丸御殿の実務機能の回復へと振り向けられたのです。


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明治天皇の入城と「東京城」への改称

明治元年(1868年)9月、「江戸」を「東京」とする詔書が出され、同年10月13日に明治天皇が江戸城に入城。江戸城はその日のうちに東幸の皇居と定められ、「東京城(とうけいじょう)」と改称されました。翌1869年、明治天皇は再度東京へ行幸し、事実上の遷都が実現します。

その後、1873年(明治6年)には西の丸御殿が火災で焼失し、1888年(明治21年)に新たに「明治宮殿」が完成しました。明治宮殿は和洋折衷の壮麗な建築でしたが、1945年(昭和20年)の東京大空襲により焼失してしまいます。

昭和の空襲と戦後の復興、現在の皇居へ

戦後の復興期、皇居は仮宮殿で運営されていましたが、1968年(昭和43年)に現在の新宮殿が完成し、宮中行事や一般参賀の舞台となっています。本丸・二の丸・三の丸跡は「皇居東御苑」として一般公開され、太田道灌の縄張りを伝える石垣や、現存する天守台、富士見櫓、桜田門などを見学できます。

こうして見ると、江戸城は「誰か一人が建てた城」ではなく、太田道灌の縄張り、徳川家康の天下普請、家光の天守、保科正之の英断、そして明治以降の宮殿建築が積み重なった、約570年の歴史の結晶であることが分かります。

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Q3. なぜ天皇は江戸城(皇居)に住むようになったのですか?

A. 1868年の江戸開城後、明治新政府が東京を新たな政治の中心と定め、明治天皇が江戸城へ入城して「東京城」と改称したためです。正式な遷都の詔は出されていないとする見解もありますが、事実上、江戸城が皇居として機能するようになりました。背景には、京都に比べて江戸が広大な城郭・武家屋敷を備え、近代国家の首都インフラとして使いやすかったことがあります。

Q4. 徳川家康は江戸城以外に何を建てましたか?

A. 家康は城のほか、日光東照宮の前身となる久能山東照宮、駿府の街割り、伏見城の再建などを行いました。都市計画レベルでは、江戸の上水道(神田上水)や河川改修、街道整備(五街道の起点設定)も家康主導で進められています。「城を建てた人」というより「日本の近世都市インフラを設計した人」と捉えると、家康の業績がより立体的に見えてきます。


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まとめ|江戸城を建てた3人と180年の物語

江戸城の築城と歴史的再構築は太田道灌と徳川三代が主な要因であり、その詳細は研究で広く知られています。江戸城は太田道灌が最初に築城し、その後徳川家康・秀忠・家光が大改造を進め、現在の石垣・縄張りの多くは徳川時代に整備されたとされます。この約180年にわたる共同プロジェクトの結晶こそが江戸城です。

さらに、明暦の大火後に天守の再建を断念した保科正之の決断、無血開城を成し遂げた勝海舟と西郷隆盛、明治天皇の入城を経て、江戸城は「皇居」として現代まで生き続けています。歴史を「人物 × 決断 × 時代背景」の三層で読むと、ただの石垣や堀が、リーダーたちの判断の積み重ねとして立ち上がって見えてくるはずです。

本記事と合わせて、👉 小学生にもわかる関ヶ原の戦いの流れ、👉 江戸幕府が260年続いた理由を簡単に解説 も読むと、家康が江戸城に込めた構想の大きさがより鮮明になります。

参考資料

この記事を書いた人(再掲)

レキシル史郎|歴史調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/中小企業経営者。一次史料・学術論文・大河ドラマ脚本を横断的に読み比べ、複数説を公平に整理することを編集方針としています。
最終更新日:2026年4月26日

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