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江戸城は誰が作った?城の別名や歴史、天守閣のゆくえを解説

江戸城を建てた人は一体誰なのか?わかりやすく解説いたします。

現在も、東京の中心にあって「皇居」として利用されている江戸城。

この江戸城を建てたのは天才軍師「太田道灌(おおたどうかん)」。

そして「徳川家康」が、この城を日本一の城に作り変えたのでした。

その歴史を、簡単に解説いたします。


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この記事を短く言うと

  1. 江戸城を建てたのは、「上杉氏」の軍師だった名将「太田道灌(おおた どうかん)」という人物
  2. 江戸城は、かつて「江城(こうじょう)」と呼ばれるのが一般的で、または「千代田城(ちよだじょう)」とも呼ばれた
  3. 平安時代末期(12世紀末」ころ、江戸には「江戸重継」という人物が屋敷を建てて住んでおり、1590年に徳川家康が入城。その後、明治維新により、明治天皇が江戸城に入り、皇居となった

江戸城を建てた人は誰?名将「太田道灌」が築城した

江戸城(えどじょう)

現在は「皇居」として使用されている、日本で唯一「現役のお城」が「江戸城」です。

この江戸城を建てた人は、一体誰なのでしょうか?

建てた人は「太田道灌(おおた どうかん)」という人です。

《太田道灌》
「引用元ウィキペディアより」

太田道灌とは、室町時代に関東を支配していた「上杉氏」に使えた軍師です。

この「太田道灌」・・・かなり優秀な天才軍師だったものの、あまりにも優秀すぎて天才すぎたため、1486年、主君の「上杉定正」に暗殺されています。

生涯30回以上の戦いを全て生き延びた名将「太田道灌」。

最期は「上杉は滅びる」と予言し、風呂場で暗殺されたのでした。

その予言どおり、道灌がつかえた「扇谷上杉氏」は、北条氏康によって滅ぼされることとなり、関東管領であった山内上杉氏の「上杉憲政」は越後へ逃亡。

越後の「長尾景虎」を養子として関東管領職をゆずり、「長尾景虎」はのちに「上杉謙信」と名乗ることになるのです。



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江戸城には別名があった!天守閣のゆくえとは?

江戸城には、いくつか別名があります。

実は「江戸時代」には、江戸城は「江城(こうじょう)」と呼ばれるのが一般的だったのだそうです。

または「千代田城(ちよだじょう)」とも呼ばれており、現在の東京「千代田区」という地名の由来になっています。

「江戸城」と呼ばれるようになったのは、明治になってからのようですね。



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天守閣はどこにいったのか?

ご存知の通り、現在の皇居・江戸城には「天守閣」がありません。

どうして天守閣がないのでしょうか?

《江戸城》
「引用元ウィキペディアより」

もともと天守閣はあったのですが、「1657年」の「明暦の大火」で焼失してしまったのです。

そのときの将軍は、4代「徳川家綱」。

家綱は、財政が困窮していたこともあって、天守閣の再建をしませんでした。

それ以来、江戸城の天守閣は、再建されることなく「明治維新」をむかえ、現代にいたっているのです。



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江戸城の歴史!江戸氏の館から始まった!

江戸城の敷地には、もともと平安時代末期(12世紀末)頃から「江戸重継」という武将が館をかまえて住んでいました。

その後、「室町幕府」の時代、幕府の「管領(かんれい)」という重職にいた「上杉氏」が、関東管領として関東を支配していました。

「上杉氏」の一族「上杉持朝」の軍師「太田道灌」が、「1457年」に「江戸城」を築城したのが始まりです。

1590年豊臣秀吉による「小田原征伐」が完了し、「三河・遠江・駿河・甲斐・信濃」を支配していた「徳川家康」が、「北条氏」が支配していた「関東」へと移動してきたのでした。

この時、徳川家康は秀吉から、広大な湿地帯であった「江戸城」を本拠地とすることを薦められたのだとか。

家康が入場したときの「江戸城」は、荒れ果てた城となっており、周囲には小さな家が100軒ほどしかない荒れ地だったのだといわれています。

その後、家康は江戸城の修築に着手。二代目「徳川秀忠」や「徳川家光」も江戸城の改修に力をつくし、「天下普請」とよばれた江戸城の改築は、最終的に4代将軍「徳川家綱」の代「1660年」までかかったのだそうです。

その頃には、江戸城は日本最大の城郭として、世界最大級の都市「江戸」の町にそびえ立っていました。

1868年、「西郷隆盛」と「勝海舟」の会談により、「江戸城無血開城」が決定。徳川幕府による江戸城の支配は終わりました。

その後、江戸城には「明治天皇」がお入りになられ、「皇居」として利用されることとなったのです。

江戸城はその後も、代々天皇陛下の「皇居」として利用されて、現代にいたっています。



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『江戸城』について「ひとこと」言いたい!

江戸城は、徳川家康が入場したあと、「江戸城無血開城」がされるまでの約300年間、一度も攻撃を受けたことがありません。

江戸城は当時、日本最大の城郭で、難攻不落・最強の城郭でした。

そんな城にたいして、一人だけ攻撃をしようとした軍学者がいました。「由比正雪」という人物です。

1651年、軍学者「由比正雪」は、「大名の取り潰し」つづき、浪人が日本中にあふれていた現状に激怒。「徳川家光」が死んだタイミングで、浪人たちを決起させ、江戸城を落とそうとしたのです。

その計画は綿密で、暗闇を利用して城内に潜入。内側から城を攻め落とすというものでした。

しかし計画は未然にもれて、由比正雪は自害。江戸城が攻撃されることはありませんでした。

もしも「由比正雪」が、江戸城を攻めたとしたら、勝利することが出来たのでしょうか?



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筆者の勝手な想像ですが、おそらく勝利できなかったとおもいます。

なぜかというと、「由比正雪」が率いていた部隊だけでは、広大な江戸城を占拠することができたとは思えないから・・。

当時の江戸城は日本最大の城郭。由比正雪の弟子たちは約「3000名」。もっといたとしても、攻め落とした江戸城を占拠し続けることが出来たとは思えません。

かつて、天才軍師「竹中半兵衛」が、難攻不落の城「稲葉山城」を十数人で陥落させたものの、その後すぐに城を「斎藤龍興」にかえしてしまったことがありました。

竹中半兵衛は、諸豪族の協力が得られず、「城を守り通せない」と考えたのです。

もしかすると「由比正雪」も攻め落としても守り通せないと、わかっていたかもしれません。しかし、そうだとしても、最終的な「幕府を倒す」「勝利する」という目的は、達成できなかったのではないでしょうか。

もちろん、全国の大名が、一気に立ち上がって「打倒徳川」に動いていたら、勝利できたと思いますが、可能性は低いと思います。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 江戸城をつくったのは、室町時代の名将「太田道灌(おおた どうかん)」。
  2. 江戸城は、江戸時代に「江城」または「千代田城」と呼ばれていた。
  3. 太田道灌が築城したのち、徳川家康が入城し、明治維新「江戸城無血開城」で、江戸城は「天皇の城」つまり「皇居」となった。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

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