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井伊直政の家臣団名簿一覧!「井伊の赤鬼」が率いる赤備え軍団とは?

「徳川四天王」の一人「井伊直政」

「井伊の赤鬼」と呼ばれ、家臣からも恐れられた直政率いる「井伊家家臣団」の名簿一覧!

徳川軍最強!「赤備え」軍団とは、誰が所属していたのか??


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この記事を短く言うと
・井伊直政は、自分にも敵にも味方にも厳しい、まさに「鬼」だった

・直政の家来には、武田家旧臣が多数いる

・直政は、武田信玄に仕えた名将「山県昌景」の真似をして、自らの部隊の軍装を「赤備え」とした


家臣にも厳しい「直政」

徳川四天王」の一人にして「井伊の赤鬼」の異名を取った猛将「井伊直政

直政は歴戦の武将であり、生涯57度の戦争で、かすり傷一つ負わなかった「本多忠勝」とは違い、いつも重装備であったにもかかわらず、毎回負傷していたという、イケイケの武闘派。

自分に対して相当厳しい武将だったらしく、とにかく仕事に時間を費やしており、「戦闘」だけではなく「外交」や「内政」においても、優れた手腕を発揮したと言われています。

それだけではなく、直政は家臣たちに対しても、かなり厳しい人で有名でした。

些細なミスでも許さず、即処刑という、まさに鬼。

直政から呼びつけられた家臣は、直政の前に行く前に、家族との別れを済ませていた・・・なんて逸話もあるほどです。

井伊直政・・・・相当な美少年だったらしく、豊臣秀吉の母・大政所や、家康ですらもその姿に魅了されていた・・・と言われていますが・・・見た目によらず、苛烈な性格だったのです。



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井伊家・家臣団一覧

井伊直政が率いた家臣団・・・・どういう人達がいたのでしょうか?

中野直之

中野三孝 (中野直之の息子)(弟は松下一定)

松下一定 (中野直之の次男)松下清景の養子となって松下家の家督を相続する。

松下清景 (井伊直政の養父)後の井伊家筆頭家老

奥山朝忠 (通称・六左衛門)

井平弥三郎 1590年・小田原征伐で討死。

木俣守勝 (通称・清三郎)家康の直臣・・・・後に明智光秀に出仕し、その後徳川家に帰参。井伊直政を補佐し、家老となる。守勝は旧武田の家臣たちの勧誘を続けたと言われています。

勧誘された武田家の旧臣たちは井伊直政の部隊に編成され、「井伊の赤備え」として活躍することになります。

木俣守勝は、赤備え先鋒部隊八百人を指揮していたと言われています。

元々「赤備え」は、徳川全軍の精鋭部隊。木俣守勝の先発隊800は、その中でも軍を抜いたエリート部隊だったみたいです。



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椋原政直 井伊直政の附家老

西郷正友

西郷重員 西郷正友の子

近藤康用 井伊三人衆。小牧・長久手合戦から井伊直政の家臣としてつけられる。

菅沼忠久 井伊三人衆。小牧・長久手合戦から井伊直政の家臣としてつけられる。

鈴木重時 井伊三人衆。

鈴木重好 鈴木重時の子。後に井伊家から追放され、水戸徳川家に出仕。

小野朝之 小野政次の甥・(通称・亥之助、小野万福)

横地吉晴 井伊家家老

熊井戸半右衛門 鉄砲隊の隊長

大久保与兵衛 徳川家康から与力として直政につけられる

八股甚左衛門 徳川家康から与力として直政につけられる

萩原図書 直政の息子・井伊直孝の傅役

齋藤半兵衛  甲斐武田の旧臣。井伊直政の家来になる

飯島半右衛門 甲斐武田の旧臣。井伊直政の家来になる

成嶋勘五郎  甲斐武田の旧臣。井伊直政の家来になる

広瀬景房   甲斐武田の旧臣。 井伊家家老。三科形幸・早川幸豊とともに「井伊の赤備え」を創設

三科形幸   甲斐武田の旧臣。 井伊家家老。広瀬景房たちとともに、直政へ「山県昌景」の兵法を伝授

石黒将監   甲斐武田の旧臣。

石原吉次   甲斐武田の旧臣。元・山県昌景の鉄砲指南。

孕石泰時   甲斐武田の旧臣。元・山県昌景家臣。

三浦元貞   元・北条家臣。井伊直政家老

長野業実   武田信玄の猛攻から上州を守り続けた名将・長野業政の子孫

内藤昌月   武田四天王の一人・内藤昌秀の養子

加藤新左衛門 直政の名前に泥を塗ったとして、直政から自刃を命じられて亡くなった。

長野無楽斎  林崎夢想流の開祖・林崎甚助重信の弟子。映画「超高速参勤交代」の主人公「内藤政醇(まさあつ)」も「林崎夢想流」の居合術を習得している。



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赤備えとは?

「赤備え」とは、全身の装備を「赤」で統一した部隊のこと。

当時は「赤備え」の他にも「黒備え」「黄備え」など、色によって統一した部隊が存在していました。

特に「北条綱成」の「黄色備え」や、飯富虎昌・山県昌景の兄弟が率いた「赤備え」が有名だったのです。

武田が滅亡した後、武田家旧臣の多くは、徳川家康に仕えました。

上の「井伊家家臣団」の名簿を見ればわかると思いますが、「武田家旧臣」が多数います。

武田旧臣は、井伊直政につけられたのです。

徳川四天王の一人「榊原康政」は、これに不満を持ち、井伊直政と険悪な空気になりましたが、同じく四天王の一人「酒井忠次」が、二人の間を取り持ち、そこから二人は心友となったみたいですが・・・。

話を戻しましょう。武田旧臣を多く抱えた井伊直政は、武田最強の「山県昌景」隊をならい、装備を赤備えに。

1584年「小牧・長久手の戦い」で、「井伊の赤備え」は初陣を果たしたのでした。

1615年「大坂の陣」において、直政の次男「井伊直孝」が率いる赤備え部隊を見た徳川家康は、めちゃくちゃ落ち込みました。

何故かと言うと、井伊直孝隊の赤備え兵士たちの甲冑は「傷一つ無くキレイ」だったから。

平和に慣れて堕落した赤備えを、家康は悲しんだのです。

ところが赤備えの中に「使い古された赤い甲冑を着た老兵」を発見した家康は

「あの者たちは甲斐武田の旧臣だろう。

あれこそが本物の『赤備え』だ」

と賞賛したと言われています。



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この大阪の陣には、徳川軍「井伊直孝」の他にも、豊臣軍に「赤備え部隊」が存在していました。

「真田幸村」の「赤備え」です。

この「真田・赤備え」は、徳川家康をあと一歩のところまで追い込んだものの、井伊直孝や松平忠直たちの反撃により全滅。

「飯富虎昌」→「山県昌景」→「井伊直政」→「真田幸村」・・・。

歴戦の名将たちに率いられた「赤備え」は、「最強部隊」の代名詞となったのでした。

「山県昌景」については、よろしければ以下のリンク記事をご利用下さいませ。

↓↓↓↓↓



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・井伊直政は、自分に厳しい武将だったが、味方にも厳しかった

・武田旧臣・山県昌景の家来たちが、井伊直政に数多く仕えた

・山県昌景の旧臣たちを召し抱えた井伊直政は、山県昌景にならい、軍装を「赤備え」とした

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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