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【井伊家家臣団一覧】井伊直政が率いた武田家臣団・赤備えの名簿はコチラ

徳川四天王の一人・井伊直政いいなおまさをご存知でしょうか?

井伊の赤鬼と呼ばれ、家臣からも恐れられた直政ですが、そんな直政が率いる井伊家家臣団の名簿一覧をご用意いたしました。

徳川軍最強の赤備え軍団とは、誰が所属していたのか、一目瞭然です

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと
・井伊直政は、自分にも敵にも味方にも厳しい、まさに鬼だった

・直政の部下には、武田家旧家臣たちが、たくさんいたという

・直政は、武田信玄につかえた名将・山県昌景のマネをして、自らの部隊の軍装を赤備えとした


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目次

井伊家いいけ・家臣団一覧

井伊直政が率いた井伊家家臣団一覧は、以下の通りです。

中野直之

中野三孝 (中野直之の息子)(弟は松下一定)

松下一定 (中野直之の次男)松下清景の養子となって松下家の家督を相続する。

松下清景 (井伊直政の養父)後の井伊家筆頭家老

奥山朝忠 (通称・六左衛門)

井平弥三郎 1590年・小田原合戦で討死。

木俣守勝 (通称・清三郎)

木俣守勝は、家康の直臣。後に明智光秀に出仕し、その後徳川家に帰参。

井伊直政を補佐し、家老となる。

守勝は旧武田の家臣たちの勧誘を続けたと言われています。

勧誘された武田家の旧臣たちは井伊直政の部隊に編成され、井伊の赤備えとして活躍することになります。

木俣守勝は、赤備え先鋒部隊800人を指揮していたと言われています。

元々「赤備え」は、徳川全軍の精鋭部隊でした。

なかでも木俣守勝の先発隊800は、群を抜いたエリート部隊だったようです。


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椋原政直 井伊直政の附家老

西郷正友

西郷重員 西郷正友の子

近藤康用 井伊三人衆。小牧・長久手合戦から井伊直政の家臣としてつけられる。

菅沼忠久 井伊三人衆。小牧・長久手合戦から井伊直政の家臣としてつけられる。

鈴木重時 井伊三人衆。

鈴木重好 鈴木重時の子。後に井伊家から追放され、水戸徳川家につかえる。

小野朝之 小野政次の甥(通称・亥之助いのすけ、幼名・万福まんぷく

横地吉晴 井伊家家老

熊井戸半右衛門 鉄砲隊の隊長

大久保与兵衛 徳川家康から与力として直政につけられる

八股甚左衛門 徳川家康から与力として直政につけられる

萩原図書 直政の息子である井伊直孝の傅役

齋藤半兵衛  甲斐武田の旧臣。井伊直政の家来になる

飯島半右衛門 甲斐武田の旧臣。井伊直政の家来になる

成嶋勘五郎  甲斐武田の旧臣。井伊直政の家来になる

広瀬景房   甲斐武田の旧臣。 井伊家家老。三科形幸・早川幸豊とともに「井伊の赤備え」を創設

三科形幸   甲斐武田の旧臣。 井伊家家老。広瀬景房たちとともに、直政へ「山県昌景」の兵法を伝授

石黒将監   甲斐武田の旧臣。

石原吉次   甲斐武田の旧臣。元・山県昌景の鉄砲指南。

孕石泰時   甲斐武田の旧臣。元・山県昌景家臣。

三浦元貞   元・北条家臣。井伊直政家老

長野業実   武田信玄の猛攻から上州を守り続けた名将・長野業政の子孫

内藤昌月   武田四天王の一人・内藤昌秀の養子

加藤新左衛門 直政の名前に泥を塗ったとして、直政から自刃を命じられて亡くなった。

長野無楽斎  林崎夢想流居合術はやしざきむそうりゅういあいじゅつの開祖・林崎甚助重信はやしざきじんすけしげのぶの弟子。映画「超高速参勤交代」の主人公「内藤政醇ないとうまさあつ」も林崎流の居合術を習得しており、映画内で披露するシーンがあった。


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井伊直政いいなおまさは、家臣にも厳しい鬼だった

井伊直政は、家臣にとても厳しく、すぐに処刑や自害を命じる人物として有名でした。

徳川四天王の一人にして井伊の赤鬼の異名を取った猛将・井伊直政

井伊直政
引用元Wikipediaより

直政は歴戦の武将でした。

生涯57度の戦争で、かすり傷一つ負わなかった本多忠勝とは違い、いつも重装備であったにもかかわらず、毎回負傷していたといいます。

つまり、イケイケの武闘派だったのです。

自分に対して相当厳しい武将だったらしいです。

とにかく仕事に時間を費やしており、戦闘だけではなく外交や内政においても、優れた手腕を発揮したと言われています。

それだけではなく、直政は家臣たちに対しても、かなり厳しい人で有名でした。

些細なミスでも許さず、即処刑という、まさに鬼。

直政から呼びつけられた家臣は、直政のところに行く前に、家族との別れを済ませていた、なんて逸話もあるほどです。

井伊直政は相当な美少年だったらしく、豊臣秀吉の母・大政所や、家康ですらもその姿に魅了されていたと言われています。

美しい見た目によらず、苛烈かれつな性格だったのです。

そんな徳川四天王のなかで、直政はもっとも多くの領地を与えられました。

では、徳川四天王のなかで、最強の武将は、一体誰なのでしょう?

→→→→→【徳川四天王のなかで最強は誰?】についてくわしくはこちら


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赤備あかぞなえ】とは何か?

赤備えとは、全身の装備を赤で統一した部隊のことで、特に全軍の中でも強い兵士で構成されることの多い特徴的な軍団でした。

当時は赤備えの他にも

  • 黒備え
  • 黄備え

など、色によって統一した部隊が存在していました。

特に北条綱成ほうじょうつなしげの黄色備えや、飯富虎昌おぼとらまさ山県昌景やまがたまさかげの兄弟が率いた赤備えが有名だったのです。

武田が滅亡した後、武田家旧臣の多くは、徳川家康に仕えました。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

上の井伊家家臣団の名簿を見ればわかると思いますが、武田家旧臣が多数います。

武田旧臣は、井伊直政につけられたのです。

徳川四天王の一人・榊原康政は、これに不満を持ち、井伊直政と険悪な空気になりました。

しかし同じく四天王の一人、酒井忠次が、二人の間を取り持ち、そこから二人は心友となったみたいです。

話を戻しましょう。

武田旧臣を多く抱えた井伊直政は、武田最強の山県昌景隊をならい、装備を赤備えに統一しました。

1584年、小牧・長久手の戦いで、井伊の赤備えは、初陣を果たしたのでした。

1615年、大坂夏の陣において、直政の次男・井伊直孝が率いる赤備え部隊を見た徳川家康は、めちゃくちゃ落ち込みました。

何故かというと、井伊直孝隊の赤備え兵士たちの甲冑は【傷一つ無くキレイ】だったからです。

平和に慣れて堕落した赤備えを、家康は悲しんだのです。

ところが赤備えの中に【使い古された赤い甲冑を着た老兵】を発見した家康は

「あの者たちは甲斐武田の旧臣だろう。

あれこそが本物の赤備えだ」

と賞賛したといわれています。


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この大阪の陣には、徳川軍・井伊直孝の他にも、豊臣軍にも赤備え部隊が存在していました。

真田信繁(真田幸村)が率いた赤備えです。

真田信繁/真田幸村肖像:上田市立博物館所蔵品:Wikipediaよりパブリックドメイン

この真田・赤備えは、徳川家康をあと一歩のところまで追い込んだものの、井伊直孝や松平忠直たちの反撃により全滅。

  1. 飯富虎昌
  2. 山県昌景
  3. 井伊直政
  4. 真田信繁(幸村)

赤備えは、上の順に、それぞれの時代を代表する名将たちに率いられたのです。

歴戦の名将たちに率いられた赤備えは、最強部隊の代名詞となったのでした。

そんな赤備えを率いた山県昌景の子孫、そして井伊直政の子孫が、現在でも元気に活動なさっておられるようです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  • 井伊直政は、自分に厳しい武将だったが、味方にも厳しかった
  • 武田旧臣・山県昌景の家来たちが、井伊直政に数多く仕えた
  • 山県昌景の旧臣たちを召し抱えた井伊直政は、山県昌景にならい、軍装を赤備えとした

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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