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足利義輝の家臣団を一覧で解説!義輝家臣には有名武将の末裔がいた!

この記事では「足利義輝の家臣団」について、一覧で、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「足利義輝の家臣団」を、カンタンに理解できます。

 

「足利義輝」の家臣には「細川藤孝」や「京極高吉」、そして「一色藤長」などがいたのです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「足利義輝」の家臣団とは?

義輝には、「細川藤孝」、「三淵藤英」、「一色藤長」、「和田惟政」、「京極高吉」などの武将が仕えていた。

 

2,「義輝」に仕えた武将たちの先祖とは?

義輝に仕えた「細川藤孝」、「一色藤長」、「京極高吉」の先祖は、「細川勝元」、「一色範氏」、「佐々木道誉(佐々木高氏)」などの名将たち。

 

3,「義輝」の家臣団は、義輝の死後、どうなったの?

義輝の死後、家臣団は弟「義昭」に仕えた。「義昭」が「織田信長」に追放されると、「義昭に従うもの」と「信長の仕えるもの」の二つに分かれた。

足利義輝の家臣団一覧

室町幕府・第13代征夷大将軍「足利義輝」につかえた家臣団を一覧でご紹介いたします。

 

《足利義輝》
「引用元ウィキペディアより」

 

義輝の家臣団は、わかっている限りでは、以下のとおりです

 

  • 柳沢元政
  • 和田惟政
  • 三淵晴員(三淵藤英・細川藤孝の父)
  • 三淵藤英(三淵晴員の子・細川藤孝の兄)
  • 細川藤孝(三淵晴員の子・三淵藤英の弟)
  • 細川藤賢
  • 京極高吉(浅井長政の義兄)
  • 一色藤長
  • 虻川親長
  • 米田求政
  • 大館義実

一説によると、「明智光秀」も若い頃、「足利義輝」に仕えていたと言われています。

 

ただ、明智光秀については、若い頃の動向が不明ですので、確かなことはわかっていません。

 

光秀は「細川藤孝」に仕えていたという説もありますので、そうなると、「明智光秀は足利義輝の、家臣の家臣」ということになります。



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「義輝」家臣団の有名な先祖たち

足利義輝の家臣団には、「室町幕府」の中でも特に有名な人物の末裔がいます。

 

その「先祖」について解説したいと思います。

 

「細川藤孝」の先祖

直系の先祖ではないが、管領「細川勝元」は、戦国時代が始まったきっかけである「応仁の乱」を起こした張本人と考えられています。

「細川勝元」は、征夷大将軍「足利義政」の後継者問題に介入して、妻の父にあたる「山名宗全」と敵対。

11年に及ぶ「応仁の乱」のきっかけをつくった人物です。

細川家は、「室町幕府」において、「斯波家」や「畠山家」とならぶ「三管領家」の1つに数えられる名門。

実質的な「室町幕府のNo.2」にあたります。

 

 

「京極高吉」の先祖

「京極家」といえば、「足利尊氏」の親友である「佐々木道誉」こと、「佐々木判官高氏」の末裔。

「佐々木道誉」は、「足利尊氏」に協力し、「鎌倉幕府」や「後醍醐天皇」との激闘を戦い抜いた名将。

奇抜な振る舞いから、「バサラ大名」と呼ばれたという。

「佐々木道誉」の「京極家」は、その功績から、室町幕府の「三管四職」と呼ばれる7つの名家の1つに数えられるようになった。

 

 

「一色藤長」の先祖

「一色家」は、「足利家」の分家にあたる。

先祖である「一色範氏(いっしき のりうじ)」は、「足利尊氏」につかえて南朝の「後醍醐天皇」と戦っている。

その後「九州探題」に就任。

「一色範氏」は九州で南朝に大敗するが、息子の「一色範光」の活躍で、「一色家」は「三管四職」の1つに数えられるようになる。



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義輝家臣団は、「足利義輝」が亡くなったあと、どうなったのか?

次に、家臣団が、「足利義輝」の死後にどのように活躍したのかを、簡単に解説をさせていただきます。

 

 

柳沢元政
義輝の父「足利義晴」から仕えた重臣。
「義輝」が亡くなったあとは弟「義昭」に仕えた。
晩年は毛利家に仕えた。
1613年】死去

 

 

和田惟政
甲賀出身の武将で、父「和田宗立」の代に「足利義輝」につかえるようになった。
のちに織田信長に仕え、【1571年】に、「荒木村重」に敗れて壮絶な戦死を遂げた。

 

 

三淵晴員(三淵藤英・細川藤孝の父)
「三淵藤英」と「細川藤孝」の父。
義輝につかえ、その弟「義昭」が将軍になると、2年後の【1570年】に死去した。

 

 

三淵藤英(三淵晴員の子・細川藤孝の兄)
「細川藤孝」の兄。
義輝が亡くなったあと、弟「義昭」に仕えるが、信長が「義昭」を追放すると信長に臣従。
1574年】、信長からの突然の切腹命令により死去。

 

 

細川藤孝(三淵晴員の子・三淵藤英の弟)
「三淵藤英」の弟。
「肥後細川家」の藩主「細川忠興」の父にあたる。
息子「忠興」は、明智光秀の娘「ガラシャ」の夫。
「本能寺の変」では「明智光秀」に味方せず、光秀敗北の運命を決定づけた。
「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「丹後田辺城の戦い」で奮戦。
有職故実にも詳しく、知勇兼備の名将。
一説によると、12代将軍「義晴」の隠し子であり、「義輝・義昭」の兄に当たると噂されている。

 

 

細川藤賢
細川家の分家である「細川典厩家」出身。
「細川藤孝」の遠縁に当たる。
「義輝」の死後は弟「義昭」につかえたが、「義昭」が追放されると信長に臣従。
1590年】に死去。

 

 

細川輝経
細川奥州家の出身。
細川藤孝らの遠縁。
義輝の死後は「義昭」に仕え、義昭が信長から追放された後も従っている。
細川藤孝の息子「忠興」を養子としているため、「忠興」の養父にあたる。
1600年】の「関ヶ原の戦い」の際に、主君であり養子でもある「「細川忠興」を裏切って西軍についたため、切腹して亡くなった。

 

 

京極高吉(浅井長政の義兄)
妻は「浅井長政」の姉「マリア」。
子供に「京極高次」や「京極高知」、豊臣秀吉の側室「松の丸」など。
一時的に「足利義輝」に仕え、次に「義昭」に仕えたあと隠居。
1581年】死去。
キリスト教徒に改宗して数日後の急死だったため、「仏罰」であると噂された。

 

 

一色藤長
「室町幕府」の御供衆。名門「一色氏」の出身。
「足利義輝」が亡くなると、弟「義昭」に仕えた。
義輝暗殺の直後、「義昭」を幽閉先の興福寺から救出している。
「義昭」が信長に追放されると、それに従うが義昭から絶縁される。
のちに「細川藤孝」を頼り、【1596年】頃になくなっている。
一説によると「足利義昭」の息子「義喬」を我が子として育てたという。
この「一色義喬」の子孫であると、会津藩士「坂本義辰」が自称している。

 

 

米田求政
義輝が亡くなると、興福寺から弟「義昭」を救出。
その後は「義昭」に仕えるものの、【1569年】から「細川藤孝」の家来となる。
1591年】死去。



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義輝家臣団の子孫・末裔には、有名人がいる?

義輝家臣団の「細川藤孝」と「京極高吉」の子孫には、元内閣総理大臣「細川護熙」と「天皇陛下」がおられます。

 

藤孝の息子「細川忠興」の長男「細川忠隆」の子孫である「正親町雅子」は、「孝明天皇」を産んでいるので、今上天皇のご先祖様にあたられます。

 

また、「藤孝」の息子「細川忠興」の直系子孫が、元内閣総理大臣「細川護熙(もりひろ)」氏。

 

 

それだけではありません。

 

「京極高吉」もまた、天皇陛下のご先祖様にあたる方なのです。

 

「京極高吉」の次男「京極高知」の子孫は、「大正天皇」を産んだ「柳原愛子(やなぎはら なるこ)」というお方です。

 

そのため、「京極高吉」もまた、天皇陛下のご先祖様ということになるのです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「足利義輝」の家臣団には、「細川藤孝」、「三淵藤英」、「一色藤長」、「和田惟政」、「京極高吉」などがいた。

 

2,「義輝」に仕えた義輝に仕えた「一色藤長」「京極高吉」の先祖は、「一色範氏」「佐々木道誉(佐々木高氏)」などの名将たち。

 

3,「義輝」の死後、家臣団は弟「義昭」に仕えた。「義昭」が「織田信長」に追放されると、「義昭に従うもの」と「信長の仕えるもの」の二つに分かれた。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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コメント

コメント一覧 (2件)

  • はじめまして。
    私は堀家の歴史を調べているものです。
    堀秀政のウィキにおいて、山崎の戦いの逸話で堀七郎兵衛という人物がナイスな助言をした家来として出てきます。彼は堀直政の兄で利宗あるいは道利と推測され、足利義輝に仕えていた人物と明記されています。「堀家の歴史」-飯田、村松、須坂、椎谷-という書物で、堀直政の兄で利宗あるいは道利の可能性が高いことはわかりました。残すは義輝の家来だったかどうかなんです。どこかに史料はあるものでしょうか、教えてもらえたらうれしいのですが、よろしくお願いいたします。

    • この度は当サイトへお越しくださいましてありがとうございます。
      また、貴重なコメントを頂きましたことも感謝申し上げます。
      お返事が遅くなり申し訳ありません。
      大変申し訳ありませんが、私どもの乏しい知識では、ご期待に添えるような資料の存在をご指導するなど到底出来そうもありません。
      ご期待に応えられず本当に申し訳ありません。
      もしよろしければ、また当サイトへお越しくださいましたら嬉しく存じます。
      ありがとうございました。
      失礼致します。

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