【足利義輝の最期】名刀を畳に刺して戦い、畳に串刺しにされた逸話!

この記事では「足利義輝の最期」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「壮絶に散った剣豪将軍・足利義輝の最期」を、カンタンに理解できます。

 

「足利義輝」は、「激戦の末に壮絶な戦死」を遂げた武将なのです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「足利義輝」の最期の様子と、暗殺した犯人、そして暗殺された理由は?

足利義輝は「名刀」を奮って激戦の末に戦死。犯人は「三好三人衆」「三好義継」「松永久通」。暗殺理由は「義輝が操り人形にならなかったため」

 

2,「足利義輝」が最期に奮った名刀とは?

義輝は、「鬼丸国綱」「大典太光世」「三日月宗近」「不動国行」などの名刀をつかって奮戦した

 

3,「足利義輝」は、どのような最期を遂げたのか?

義輝は、三好軍に包囲され、最期は「畳」で四方から押さえつけられて串刺しにされた

剣豪将軍「足利義輝」の最期!犯人と、殺害された理由

1565年】、「足利義輝」は「三好三人衆」と「松永久通」、そして「三好義継」によって暗殺されました。

 

《足利義輝》
「引用元ウィキペディアより」

 

この事件は「永禄の変(えいろくのへん)」と呼ばれています。

 

「三好三人衆」とは、三好家の重臣たちで

  • 三好長逸
  • 三好政康
  • 岩成友通

の三名のことです。

 

松永久通」とは、後世において「爆死した」と噂された謀将「松永久秀」の息子

 

三好義継」とは、「織田信長」の前に天下人として君臨していた武将「三好長慶」の甥であり養子となった人物。

 

  1. 「三好長逸」
  2. 「三好政康」
  3. 「岩成友通」
  4. 「松永久通」
  5. 「三好義継」

この5名が結託して、足利義輝を暗殺したのです。

 

なぜ暗殺しなくてはいけなかったのか?

 

その理由は、「足利義輝が、自分たちの言うことを聞かなかったから」です。

 

「三好三人衆」と「三好義継」は、征夷大将軍「足利義輝」を思いのままに操り、さらなる実権を手に入れようとしていました。

 

しかし、「剣豪将軍」と呼ばれた足利義輝は、かれらの操り人形となることを、断固として拒絶し続けます。

 

これに怒った「三好三人衆」と「三好義継」は、「足利義輝」を暗殺して、別の人間を「征夷大将軍」に就任させようとします。

 

「足利義輝」を暗殺したあと、14代将軍となったのは、「足利義栄(よしひで)」。

 

まだ若かった「足利義栄」は、三好三人衆らの操り人形となってしまい、「室町幕府」の権威は一気に失われていくのでした。


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畳に突き刺した、無数の「名刀」とは?

「永禄の変」において、「足利義輝」は壮絶な最期を遂げています。

 

押し寄せる「三好の軍」を相手に、激戦を演じたというのです。

 

そのとき、「足利義輝」は足利将軍家に代々伝わっている名刀の数々を、次々と畳に突き刺したといわれています。

 

この名刀を手に戦い、刃こぼれすると、また次の刀を畳から抜いて戦ったのです。

 

  • 「大典太光世」
  • 「鬼丸国綱」
  • 「大包平」
  • 「九字兼定」
  • 「三日月宗近」
  • 「童子切安綱」
  • 「不動国行」

などなど

 

これらの「畳に刀を刺して戦った」という逸話は、後世の創作、または「小説の一幕」であるとも言われています。

 

実際に、足利義輝は「薙刀(なぎなた)」をふるって戦ったとも言われています。


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畳を押し付けられて、串刺しにされて亡くなった

足利義輝は、敵兵から畳を押しつけられて、動けなくなったところを畳ごと串刺しにされて亡くなった、といわれています。

 

剣豪将軍

 

足利義輝は、「新当流」を創始した大剣豪「塚原卜伝(つかはら ぼくでん)」の弟子であり、免許皆伝の腕前でした。

 

そのため「剣豪将軍」と呼ばれていたのですが、そんな「足利義輝」を倒せるものは、三好軍にはだれもいませんでした。

 

これに焦った「三好軍」は、最期の手段に出ます。

 

足利義輝は、敵兵から畳(たたみ)を押し付けられ、畳ごと串刺しにされたのです。

 

壮絶な激闘を繰り広げたすえに亡くなった、足利義輝。

 

「辞世の句」には、その無念の思いが込められていると言われています。

 

「辞世の句」の意味については、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説しております。

『足利義輝のすべてを徹底解説』の記事はコチラ

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「足利義輝」が亡くなった「その後」、何が起こったのか?

「足利義輝」が戦死したあと、弟「足利義昭」が「織田信長」の協力を得て、兄「義輝」の仇をとっています。

 

義輝が亡くなると、三好軍は奈良にいた弟の「足利義昭」を暗殺しようとします。

 

それを救出したのが、足利家の重臣「細川藤孝」でした。

 

藤孝は、足利義昭を連れて「越前国」の「朝倉義景」を頼って逃亡。

 

そのとき、「越前国」の「称念寺」というお寺には、「明智光秀」がいました。

 

細川藤孝は、明智光秀と協力して「織田信長」に対して協力を要請します。

「足利義昭を連れて、京都へ進軍し、前将軍《足利義輝》のカタキを討って欲しい」

と・・・。

 

1568年】、この要請を聞き入れた織田信長は、大軍団をひきいて京都へ進軍。

 

「三好三人衆」を追い出して、「松永久秀」を降伏させ、「足利義昭」を「征夷大将軍」に就任させるのです。

 

この後、「足利義昭」は「織田信長」と敵対。

 

室町幕府を滅亡へと誘うことになるのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「足利義輝」は「名刀」を奮って激戦の末に戦死。犯人は「三好三人衆」、「三好義継」、「松永久通」。暗殺理由は「義輝が操り人形にならなかったため」

 

2,「足利義輝」が最期に奮った名刀は、「鬼丸国綱」「大典太光世」「三日月宗近」「不動国行」など

 

3,「足利義輝」は、三好軍に包囲され、最期は「畳」で四方から押さえつけられて串刺しにされてなくなった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

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ありがとうございました。


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