皆さんは服部半蔵を、ご存知でしょうか?
服部半蔵の名前は知っていても
- 服部半蔵の生涯
- 服部半蔵と東京・半蔵門との関係
- 子孫
などについて、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。
この記事では服部半蔵を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
今は半蔵について、どのような活躍をしたのか、実像を漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、服部半蔵の実像に詳しくなれます。
この記事を読んで、服部半蔵の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
服部半蔵と、松尾芭蕉・明智光秀・織田信長の関係とは?
服部半蔵と松尾芭蕉の関係!2人は同一人物なの?
徳川家康に仕え、徳川十六神将の一人にも数えられ、鬼半蔵と呼ばれた猛将・服部半蔵正成。
そんな泣く子も黙る猛将・服部半蔵が、江戸時代に活躍した俳人・松尾芭蕉と同一人物である、という説があります。
結論からいいますと、服部半蔵と松尾芭蕉が同一人物である可能性は、限りなくゼロに近いと思います。
そもそも、なぜ服部半蔵と松尾芭蕉が同一人物だと噂されるようになったのでしょうか?
その理由は
松尾芭蕉が各地の藩を偵察していた、いわゆる隠密であった可能性が高い
からです。
つまり、松尾芭蕉は忍者のような活動をしていたという説があるのです。
ですが、これはあくまでも都市伝説に過ぎません。
もしも服部半蔵と松尾芭蕉が同一人物であったなら、とてもおもしろい逸話となったでしょうけど、現実的にはあり得ない話だなのではないでしょうか。
→→→→→【服部半蔵と松尾芭蕉の同一人物説】について、さらにくわしくはこちら
服部半蔵と明智光秀の関係!半蔵の正体は光秀だった?
1582年の本能寺の変で織田信長を討った明智光秀が、生き延びて服部半蔵になった、という説もあります。
結論からいいますと、明智光秀が服部半蔵になった可能性は、極めて低いと思います。
明智光秀が、徳川家康の参謀・南光坊天海になったという説も有名ですが、半蔵の正体が明智光秀だったという噂もあるのです。
同一人物説がある服部半蔵と明智光秀ですが、実はこの2人のあいだには、それといった関係性はありません。
明智光秀が本能寺の変を起こしたとき、近くにいた徳川家康は光秀に命を狙われてしまいました。
そのため家康は、神君伊賀越えと呼ばれる逃走劇を演じたのです。
その家康を警護し、家康の命を守り通したのが服部半蔵なのです。
この本能寺の変の逸話以外に、光秀と半蔵のあいだには、やはりこれといった繋がりはありません。
2020年の大河ドラマ【麒麟がくる】で、お笑い芸人の岡村隆史さんが、謎の多い人物【菊丸】を演じておられました。
どうやら岡村隆史さんが演じるこの菊丸が、実は服部半蔵なのではないか、と噂されていたのです。
ただ、少し気になることがあります。
以前放送された【麒麟がくる】において、【岡村隆史】さんが演じる菊丸は、幼少期の徳川家康つまり竹千代と顔を合わせるシーンがありました。
実は服部半蔵正成の父である服部保長は、徳川家康の祖父・松平清康に仕えていたのです。
ということは、服部半蔵正成は、松平家の若殿だった竹千代の顔を、知らないはずがありません。
つまり、主君であるはずの竹千代(徳川家康)と出会ったなら、素知らぬ顔などできないはずなのです。
しかし、岡村隆史さん演じる菊丸は、竹千代に敬意を払うような素振りを全く見せませんでした。
本当に菊丸は、噂通り服部半蔵なのでしょうか?
それとも何か、異なる存在なのでしょうか?
岡村隆史さんは、インタビューで菊丸がただの農民でないことを示唆していました。
岡村隆史さん演じる菊丸の正体は、判明し次第追ってお知らせします。
追記
岡村隆史さん演じる菊丸は、服部半蔵ではありませんでした。
菊丸は徳川家康に仕える忍者でした。
幼い徳川家康に対して敬意を払うようなそぶりは見せなかったものの、その後、菊丸は何かにつけて徳川家康と明智光秀を助けていました。
明智光秀が本能寺の変を起こす直前、徳川家康に対して【のちの世を頼む】といったメッセージを、菊丸に託したシーンがありました。
明智光秀が夢見た平和な世の中を、菊丸が徳川家康に伝えたのでしょう。
家康はその光秀の志を引き継いで、260年にわたる平和を築きあげたということなのでしょう。
【麒麟がくる】の最終話では、死んだはずの明智光秀が、実は生きていた様子が描かれていました。
服部半蔵と織田信長の関係とは?
結論からいってしまうと、服部半蔵と織田信長には、直接の関係は何もありません。
関係あるとすれば、織田信長が亡くなった本能寺の変の直後、神君伊賀越えという家康の最大の危機で、服部半蔵が大活躍したということくらいでしょう。
または、織田信長とその次男・織田信雄が、服部半蔵がリーダーを務めていた伊賀忍者集団の故郷・伊賀国を攻め滅ぼしたことでしょうか。
とはいえ、服部半蔵自身は伊賀国の出身ではありません。
半蔵は三河国にある伊賀という土地の出身です。
ちなみに、服部半蔵正成の父・服部保長は伊賀国の出身です。
もしかすると半蔵は、父の出身地・伊賀を滅ぼした織田信長と信雄を憎んだかもしれません。
服部半蔵の名前と半蔵門の関係
服部半蔵と半蔵門の関係!半蔵門は服部半蔵の名に由来していた
江戸城(現在の皇居)には、半蔵門という名前の門が存在しています。
また、東京メトロには半蔵門線があり、服部半蔵を思わせる名前が残っています。
諸説ありますが、服部半蔵が、この門を守備していたという説があります。
または巨大な象の山車が、半分しか門を通れなかったために半蔵門と名付けられたという説があります。
江戸城には伊賀・甲賀などの忍者が、守備部隊として常駐していたといわれています。
そのため
服部半蔵が守備していた門だから半蔵門と呼ばれるようになった
という説が正しいと考えられます。
服部半蔵の別名【鬼半蔵】の由来とは何か?
服部半蔵は忍者ではありませんでした。
実際には、切り込み隊長として軍の先陣をきって敵に突っ込む猛将だったのです。
その強さは並外れており、徳川家康から鬼半蔵と呼ばれるほどでした。
これに対抗した渡辺半蔵守綱は、家康から槍半蔵という異名をつけられています。
旗印が鬼半三だったために鬼半蔵と呼ばれた、という別の説もあります。
服部半蔵と渡辺守綱は、ともに徳川十六神将に数えられ、猛将としてたたえられています。
服部半蔵の子孫と家系図
服部半蔵の子孫は現在、三重県で和菓子屋を経営中
服部半蔵の子孫の方が、現在・三重県亀山市で、和菓子店を経営しておられます。
【英雄たちの選択】というNHKのテレビ番組で紹介されていました。
お店の名前は、【深川屋】さんです。
以下のリンクで、通販もしておられるようです。
服部半蔵の家系図
実は、歴史上で服部半蔵という名前を名乗った人物は、たくさんいるのです。
なぜなら服部家の当主は、代々半蔵と名乗っているのです。
我々がよく知っている服部半蔵正成は、二代目です。
初代・服部半蔵から、五代目・服部半蔵までを、家系図にまとめました。
服部家は、初代の服部半蔵保長から、いくつもの分家にわかれ、1868年の明治維新をこえて、三重県の和菓子店・深川屋さんをはじめ、現在まで多数の子孫が続いています。
服部半蔵は【忍者】ではなかった?
服部半蔵は伊賀流忍者ではなかった!忍者ではなく武将だった
我々が知っている有名な服部半蔵の正式名称は、服部正成です。
すでに申しました通り、服部正成は忍者ではなく、自ら先陣をきって突っ込む武将でした。
すなわち服部正成は、伊賀流忍」という流派とは、まったく無関係です。
そもそも忍者ではないので、流派もなにもありません。
忍者だったのは服部正成ではなく、その父の服部保長です。
父の服部保長は、伊賀出身の忍者でした。
ですので伊賀流の技をつかっていたと考えられます。
半蔵は伊賀の忍者を指揮した指揮官でした。
しかしその伊賀忍者たちは、服部半蔵の指揮下で働くことを嫌がったといわれています。
なぜなら、半蔵の父・服部保長の身分が低かったからです。
身分の低い服部保長の子である服部正成に仕えることを、伊賀忍者たちは嫌がったのです。
そのため半蔵と伊賀忍者のあいだに確執をが生まれたといわれています。
服部半蔵の出身地は、伊賀国(三重県)ではなく、三河国(愛知県)の伊賀
服部半蔵正成は、伊賀国(三重県)の出身ではありません。
三河国(愛知県)の伊賀という地域の出身です。
三河国伊賀とは、現在の愛知県岡崎市伊賀町のことです。
ただし、服部半蔵正成の父親・服部保長は、伊賀国の出身でした。
息子の服部半蔵正成は、父・保長が三河国へ引っ越した後に生まれているので、伊賀国とは直接関係のない三河出身です。
服部半蔵の家紋とは?
服部半蔵が使った家紋は、【八桁車の内堅矢】という家紋です
以下の画像は、家紋ステッカーの広告です。
クリックすると楽天のホームページに移動します。
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服部家は、服部半蔵正成らの功績により、徳川家の分家である松平家が支配する桑名藩の家老として仕えました。
服部家は、2つの家に分かれて桑名藩に仕えており、大服部家と小服部家と呼ばれていました。
服部半蔵のお墓と菩提寺は、どこにあるの?
服部半蔵のお墓は、服部氏の菩提寺である東京都新宿区の西念寺にあります。
西念寺は、中央線・四ツ谷駅から歩いて数分のところにあるお寺です。
このお寺には、築山事件で悲劇的な最期をとげた徳川家康の息子・松平信康の供養塔があります。
服部半蔵は、松平信康が切腹したとき、介錯をする役を命じられていました。(介錯とは、切腹する人間の首を斬り、とどめを刺すこと)
なぜ服部半蔵が松平信康の介錯を担当したのかというと、服部半蔵は松平信康の教育係だったからです。
しかし半蔵は、徳川家康とその子・松平信康への忠誠心が強すぎたため、直前になって号泣。
半蔵は、涙のあまり信康の介錯をすることを、直前になって出来なくなったのです。
半蔵が直前になって涙で刀を振り下ろすことができなくなったため、検死を担当していた天方道綱という人が、代わりに松平信康の介錯をしたといわれています。
半蔵は信康の死を、生涯にわたって後悔し続けていました。
そのため、自らの菩提寺に供養塔を建てたのです。
服部半蔵がつかっていた槍と刀は、今どこにあるの?
服部半蔵が愛用した槍は今、菩提寺の西念寺にある
半蔵が愛用していた槍は、菩提寺である東京都新宿区の西念寺に保管されています。
半蔵の槍は鉄製で、かなりの重量だそうです。
重さからしても、半蔵が相当な腕力の武士であったことがわかります。
また、服部半蔵正成の息子・正就の名前が刻まれた巨大な槍が、東京国立博物館に保管されています。
この正就の槍は1562年に、名工である関氏によって作られたものだといわれています。
服部半蔵が贈った刀は現在、東京国立博物館に保管され現存している
服部半蔵が、徳川四天王の一人である本多忠勝の家老だった梶勝忠という人物に贈った刀・直江志津の打刀が、現在も東京国立博物館に残されています。
銘は刻まれておらず、今は東建コーポレーションという会社が保有しているのだとか。
この刀は、常に公開されているわけではなく、一定の時期にしか公開されていません。
めったに目にする機会がない、ということです。
服部半蔵の神君伊賀越えでの活躍とは、どんなもの
服部半蔵は、1582年の本能寺の変の直後、徳川家康が明智光秀の軍団から逃れる逃走劇・神君伊賀越えから、徳川家康を守り通しました。
半蔵は商人・茶屋四郎次郎と一緒に、家康を逃すため、地元の豪族たちを説得して味方にしたといわれています。
このとき半蔵は、伊賀と甲賀の忍者集団を味方にして、家康の護衛をさせました。
父親が伊賀出身だったため、半蔵はこのような交渉ができたのでしょう。
しかし服部半蔵正成の父・服部保長は、それほど身分が高くありませんでした。
のちに家康に仕えるようになったこのときの伊賀忍者達は、自分たちが服部半蔵正成の部下になることを嫌がったのでした。
その後、伊賀忍者軍団と服部正成の息子・正就は、和解することもなく、正就の改易で決別することになったのです。(改易とは、領地を没収されること。現代風にいってみれば【解雇】つまりクビのこと)
【服部半蔵の生涯】を歴史年表で簡単にご紹介
服部半蔵は【1542年】に三河国・伊賀(現在の愛知県岡崎市伊賀町)で誕生しました。
そして【1597年】に、病死しています。
享年56歳。
ここでは、「服部半蔵」の年表を、簡単にご紹介いたします。
服部半蔵の年表
- 【1542年】(服部正成1歳)
服部保長の息子として三河国伊賀で誕生 - 【1557年】(16歳)
三河・宇土城攻めで戦功を立て、家康から槍を与えられる - 【1569年】(28歳)
掛川城攻めに参戦 - 【1570年】(29歳)
姉川の戦いに参戦。一番槍の戦功をあげる - 【1572年】(31歳)
三方ヶ原の戦いで戦功をあげ、槍を与えられたうえに、伊賀衆150人を預けられる - 【1575年】(34歳)
長坂信政の娘と結婚 - 【1579年】(38歳)
築山事件で、徳川家康の嫡男・松平信康が切腹 - 【1582年】(41歳)
本能寺の変で織田信長・死去
神君伊賀越えで徳川家康の護衛をする
天正壬午の乱で各地を転戦 - 【1590年】(49歳)
小田原征伐に参戦 - 【1592年】(51歳)
朝鮮出兵のとき、肥前名護屋城へ従軍する - 【1597年】(56歳)
服部半蔵正成・病没
服部家の家督は息子の服部正就が継承する
服部半蔵正成についてひとこと言いたい
服部半蔵は、徳川四天王と呼ばれた以下の4名
- 本多忠勝
- 井伊直政
- 酒井忠次
- 榊原康政
彼らのように、大きな領地を手に入れることができていません。
しかし、その名前が後世にまで残った理由は、半蔵が【忍者を統率する】という、徳川四天王とは異なる形で、特殊な活躍をしたからでしょう。
徳川四天王の名前は一人も知らなくても、服部半蔵という名前だけは知っている人も、多いと思います。
半蔵は伊賀忍者たちとの確執を、最期までおさめることができなかったといわれています。
つまり、個人の武力は凄まじかったが、部隊をひきいて敵軍を撃破するような、軍の指揮官としての采配能力にとぼしい人物だったのでしょう。
ただ、そんな武骨者で不器用な服部半蔵は、体育会系な三河武士団のなかでは、おそらく人望を集めていたでしょう。
三河武士団は、コテコテの体育会系なので、石川数正や本多正信のような頭脳派は嫌われる傾向にあるのです。
筆者の個人的な希望でしかありませんが、服部半蔵には大名として、藩を支配するお殿様になってほしかったです。
しかし半蔵がお殿様になっていたら、現在の忍者・服部半蔵というイメージは、出来上がっていなかったのでしょう。
まとめ
本日の記事をまとめますと
以上となります。
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