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服部半蔵と松尾芭蕉をご存知でしょうか?
服部半蔵とは、徳川家康に仕えた忍者です。スパイだったともいわれています。
松尾芭蕉とは、全国の色々な所を巡り俳句を詠んだ人です。
全く関連性が見えない二人ですよね。
松尾芭蕉は、おおよそ40歳頃から全国を旅するようになったそうです。
当時の平均寿命は50歳ぐらいだそうですので、比較的高齢ですね。
高齢であるのに1日に【48km】も歩いていたそうです。
その他、数々の理由から【松尾芭蕉と服部半蔵は同一人物なのではないか】という都市伝説が生まれたようですね。
この記事では、その都市伝説の真相を考察したいと思います。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
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この記事を短く言うと
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- 忍者として有名な服部半蔵と、俳人・松尾芭蕉は同一人物という説がある。その根拠の一つが【松尾芭蕉が旅した際に歩いた距離が、老人にしては長すぎる】ということ。
- 服部半蔵とは、徳川家康に仕えた武士。実際には忍者ではない。松尾芭蕉とは江戸時代に活躍した俳人。
- 2人は同一人物ではなく、全くの別人。服部半蔵の名前を世襲した3代目・4代目ともに松尾芭蕉とは年齢が違いすぎる
服部半蔵と松尾芭蕉は同一人物なの?その根拠は【歩いた距離】
服部半蔵と松尾芭蕉をご存知でしょうか?
松尾芭蕉が、当時の平均寿命に近い年齢でありながらも、全国を歩いて旅していたということは、冒頭で軽くお伝えさせて頂きました。
1日に【48km】も歩くとなると、若くて元気な人でも非常に難しいのではないでしょうか。
現代の自衛隊ですら、重装備ではあるものの、1日の行軍は30kmが限界だといわれています。
ところでなぜ、俳人・松尾芭蕉が、忍者である服部半蔵と同一人物といわれているのでしょうか?
その理由を探っていきたいと思います。
松尾芭蕉・服部半蔵~同一人物説が噂される理由は、主に2つあります。
- 1日の歩行距離が48kmにも及んでいたこと
- 【おくのほそ道】を執筆していたときの年齢
まずは1つ目から検証していきましょう。
①松尾芭蕉の著書【おくのほそ道】の旅した距離を計算すると1日で約48km歩いていたこと。
全行程約600里(2400km)の東北・北陸の旅を、日数わずか約150日間で回って記されたのが、松尾芭蕉の著書【おくのほそ道】です。
「2400km÷150日=16km」ですが、全く移動しなかった日も含まれていますので、【1日16km】ではすみません。
移動しなかった(できなかった)日を取り戻すように、かなりの距離を歩いたそうです。
ちなみに、1日で【48km】歩くには、時速5kmで約10時間ほど歩き続けなければいけないそうです。
②【おくのほそ道】を執筆していた時、松尾芭蕉の年齢は【46歳】。当時の平均寿命は【50歳】であったこと。
松尾芭蕉は、【平均寿命50歳】という時代に強靭な脚力を持っていたことになります。
なにか特別な訓練を受けていたのではないか・・・・という憶測が飛び交っています。
以上2点から
- 松尾芭蕉は、実は忍者だったのではないのか
- この時代の忍者ならば、服部半蔵と同一人物なのではないか
という連想により、2人は結びつけされたようです。
【服部半蔵】と【松尾芭蕉】とは何者か?超簡単に解説
【服部半蔵】プロフィール
実は服部半蔵と名乗った人物は、歴史上に複数います。
服部家の当主は代々【半蔵】と名乗っていたようですね。
初代・服部半蔵以外は、忍ではないそうですので、ちまたで服部半蔵として知られている2代目・服部半蔵について書きたいと思います。
服部半蔵こと服部正成は、1542年(天文11年)、三河国伊賀(現在の愛知県岡崎市伊賀町)出身です。
半蔵はその忠誠心と功績から、のちに徳川十六神将の一人に数えられています。
- 名前・・・・服部正成(1542〜1597)
- 時代・・・・戦国時代
- 主君・・・・徳川家康
- 出身地・・・三河国伊賀(現:愛知県岡崎市伊賀町)
- 職業・・・・武将
- 異名・・・・鬼半蔵
服部半蔵の生涯年表
- 【1542年】(0歳)
三河国伊賀(現:愛知県岡崎市伊賀町)に生まれた。 - 【1572年】(30歳)
三方ヶ原の戦いでの武功をあげた褒美として、伊賀衆150人を預かる。 - 【1582年】(40歳)
徳川家康の人生最大の苦難として有名な神君伊賀越えを先導し、主君を助ける。 - 【1584年】(42歳)
小牧・長久手の戦いで伊賀甲賀者100人を指揮。 - 【1597年】(55歳)
死去。戦死か病死か、死因は不明。
服部半蔵といえば、徳川家康の息子・松平(徳川)信康が切腹したときに、介錯を務めたことでも有名ですね。(介錯とは、切腹する人間の首を斬ってとどめを刺す行為のこと)
半蔵はその時、信康への忠誠心が強すぎたために、涙のあまり刃を振り下ろすことができず、側にいた他の武士が代わって介錯を務めたといわれています。
余談ですが、伊賀越えの功績を讃えられ、江戸城(現在の皇居)に半蔵門と名前をつけて頂いたそうです。
現在の東京メトロ半蔵門線は、この江戸城・半蔵門を由来としています。
【松尾芭蕉】プロフィール
松尾芭蕉
1644年(寛永21年)、三重県上野市(現在の伊賀市)出身です。
生年の詳しい月日もわかっていなければ、出生地も諸説あります。
とても謎の多い方ですね。
- 名前・・・・松尾芭蕉(1644〜1694)
- 時代・・・・江戸時代前期
- 先生・・・・北村季吟
- 出身地・・・三重県上野市(現:伊賀市)
- 職業・・・・俳諧師
松尾芭蕉の生涯年表
- 【1644年】(0歳)
伊賀国(三重県上野市)に生まれた。 - 【1662年】(18歳)
北村季吟から俳諧を教わる。 - 【1674年】(30歳)
北村季吟から俳句の腕を認められ独立する。 - 【1684年】(40歳)
野ざらし紀行の旅に出る。 - 【1689年】(45歳)
【おくのほそ道】の旅に出る。 - 【1694年】(50歳)
大坂にて病死。
そういったところも「二人は同一人物では」と思わせてしまう要素なのかもしれませんね。お二方とも、同じような年齢の時に活躍され、同じ年代でご逝去されていますね。
結論!服部半蔵と松尾芭蕉は、同一人物なのか?
結論から言いますと、松尾芭蕉と服部半蔵が同一人物である可能性は、低いと思います。
上に記しました服部半蔵と松尾芭蕉の年表を見れば分かる通り、2人の生まれている年代が違いすぎるんですよね。
2代目服部半蔵と松尾芭蕉は、生まれた年がおよそ100年も違います。
服部半蔵は世襲している名前ですので、もしかすると2代目ではなく、3代目または4代目の服部半蔵が、松尾芭蕉を名乗ったのではないか・・・と思われるかもしれません。
ですので、一応以下のようにまとめました。よろしければご覧ください。
- 3代目・服部正就・1576年生まれ
- 4代目・服部正重・1580年生まれ
3代目・4代目は、両者とも1576年と1580年生まれです。
1644年生まれの松尾芭蕉とは、60年ほど年が離れている計算になりますね。
それに3代目の服部正就は、1615年の【大坂夏の陣・天王寺口の戦い】で戦死しています。
天王寺口の戦いとは、あの真田幸村が壮絶な戦死を遂げた戦いです。
3代目の弟である4代目・服部正重は、何度か浪人になった末に、桑名藩の家老となりました。
そのおかげで、服部半蔵の家は存続することとなったそうです。
多分、3代目4代目の2人とも、自分のことや家族のことで精いっぱいだったことでしょう。
松尾芭蕉のように、【旅に出よう】なんて気持ちは無かったんじゃないかなと思います。
結論としましては、【歴代の服部半蔵と松尾芭蕉は、まったくの別人である】と考えられます。
服部半蔵と松尾芭蕉について、ひとこといいたい
筆者の個人的な意見ですが、【服部半蔵と松尾芭蕉が同一人物】という説は、現実的に考えて無理のある説だと思います。
松尾芭蕉が伊達家の仙台城を訪れた際に、巨大な門を通って城に向かった・・・。
ただの俳人が、仙台城の格式ある大門を通るとは考えにくい。だから松尾芭蕉は幕府の隠密や使者だったのではないか?という説を耳にした事があります。(隠密とは、すなわち忍者・スパイのこと)
しかし芭蕉ほど名の通った人物ならば、仙台・伊達藩から歓待を受けてもおかしくないでしょう。
- 仙台城の大門を通った
- 1日に40km以上歩いた
というだけで、芭蕉は服部半蔵と同一人物と考えるのは、あまりにも短絡的な気がします。
伊賀
上に記しました松尾芭蕉と服部半蔵のプロフィールを見ていただけたのなら、気がついている人もいるかもしれませんが、実は両名とも伊賀の出身です。
- 松尾芭蕉は、三河国(現在の愛知県)の伊賀という地の出身。
- 服部半蔵は、伊賀国(現在の三重県)の出身。
字は同じでも、場所が異なるのです。
この伊賀の出身という共通点が、服部半蔵と松尾芭蕉は同一人物という説を助長させているのでしょうね。
現実的に考えて、服部半蔵と松尾芭蕉・同一人物説は、面白い説ではあるものの、無茶な説だと考えられます。
芭蕉は偉大な俳人ではあるが、忍者でもなんでもなかった・・・。それが真相なのではないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 1日48km以上歩くこともあった松尾芭蕉。
- 強靭な脚力は忍者のようだという連想から服部半蔵と同一人物説が生まれました。
- 服部半蔵は戦国時代の武将、松尾芭蕉は江戸時代の俳諧人です。
- 生まれた年代が違いすぎることから、服部半蔵と松尾芭蕉は別人だと思います。
以下の画像は、松尾芭蕉が詠んだ(かもしれない)東北・平泉の風景です。
以上となります。
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