徳川家康の嫡男にして、父の命令により切腹させられた悲劇の武将「徳川(松平)信康」
母・築山殿こと瀬名姫と、信康の最期とは?
織田信長をも恐れさせた名将「信康」のエピソードを紹介!
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この記事を短く言うと
・徳川信康は、1579年に二俣城で切腹している
・信康は父「徳川家康」から「真の勇将」と評価されていた上に、弟想いの優しさも持ち合わせていた
・織田信長が、信康の才能を恐れていた・・・という説もある
信康と築山殿(瀬名姫)の最期とは?
1579年8月29日、徳川家康の妻「築山殿(別名・瀬名姫)」は、家康の家臣によって「遠江国・小藪村」現在の浜松市中区富塚で斬殺。
その半月後の9月15日、信康は遠江国・二俣城で切腹させられています。
介錯・・・つまり、切腹して苦しむ人の首を落とし、痛みから開放してあげる役・・・・それを務めたのが、忍者だったと言われている武将「服部(半蔵)正成」。
しかし、忠誠心が厚かった服部半蔵は、いくら楽にしてあげる介錯役であっても、主君の息子である信康に対して刀を振り下ろす事ができず、代わりに検死役だった「天方道綱」が介錯。
この天方道綱は、家康が信康の死を悲しんでいた様子をみて、とんでもないことしちまったと自覚し、出家したと言われています。
人望厚く、信康の死を悲しんだ家臣が、殉死・・・つまり後を追ったとも・・・。
信康の死を悲しんだ家康は、信康の死後21年が過ぎた1600年の信康の命日、その日は天下分け目の「関ヶ原の戦い」当日でした。
その時、家康の三男・秀忠は、徳川本隊3万8千の大軍団を率いておきながら、関ヶ原の戦いに遅刻。
それを聞いた家康は
「信康が生きていたら、これほど苦労はしなかったのに」
と嘆いたと言われています。
名将・信康のエピソード
信康は、相当な名将だったと言われています。
わずか21歳で亡くなったとはいえ、その片鱗は見せていたとのこと。
信康はある日の戦で、最強とうたわれた武田勝頼率いる武田軍を相手に、殿軍(しんがり)を務めました。
殿軍(しんがり)とは、退却する際に、部隊の最後尾で敵の追撃を防ぎながら逃げる、戦争において最も難しい役割のこと。
豊臣秀吉が「金ヶ崎の退き口」という戦いで、この殿軍を務めて、九死に一生を得たという話はかなり有名です。
信康はこの殿軍を、あろうことか最強・武田軍相手に務め、見事に果たしたと言われています。
これを聞いた家康は「真の勇将」と、信康を激賞したのだとか。
信康は生まれながらの武将だったらしく、やることなすこと「戦い」についてのことばかり・・・・。
趣味は馬術と鷹狩・・・。
徳川家臣団は、筋金入りの武闘派・体育会系な「三河武士」
その中で育った信康は、知らず知らずのうちに「体育会系」になっていったと考えられ、いわゆる「武骨者」となっていったのです。
しかし、心優しい一面も持ち合わせていました。
異母弟の「秀康」が、父の家康から冷遇されていることをかわいそうだと感じたらしく、密かに家康と対面させたのだとか。
ところが家康は、秀康に対して温かい言葉もかけてやることなく、そのまま冷遇・・・。
信康亡き後、秀康が家督を次ぐはずが、秀吉の養子に差し出されて結局家督は継げずに、三男・秀忠が後継者となりました。
信長ですら、信康を恐れた?
織田信長が、信康の非凡な才能を恐れた・・・・という話があります。
定説では
「信康は、織田信長から『宿敵・武田勝頼との内通』と『父・家康への謀反の疑い』をかけられて、信長からの切腹命令で死に追いやられた」
とされていました。
信長の真の狙いは、名将・信康を排除すること・・・。
信長には「織田信忠」という嫡男がいました。
しかし「信忠」は、凡庸な将だったと言われています。
これに対して「信康」は、武に優れた名将。
いつの日にか「織田信忠」は、「徳川信康」に滅ぼされてしまうかもしれない・・・。
そう考えた信長は、若い内に信康を排除し、織田家の行く末を安泰にするため、策略をもって信康を死に追いやった・・と・・・。
確かに信康は、武については非凡なものがありました。
しかし、それ以外の点では中々荒っぽいところも目立っています。
僧侶をわけもなく殺害したり、領民を密偵と疑って殺害したこともあったのだとか
最近の研究では「信康の死の真相」について、信長は関係ないと考えられていますので、「信長が信康を恐れた」というのは、違うかもしれません。
「信康事件の真相・詳細」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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「信康の子孫」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・信康は、1579年9月に遠江国・二俣城で切腹・・・服部半蔵が介錯役だったが、直前で天方道綱が代わった
・信康は、武田軍相手に殿軍を務め、家康から「勇将」と讃えられた
・織田信長が、信康の非凡な才能を恐れて、死に追いやったという話があるが、最近の定説では、それは間違いとされている
以上となります。
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