皆さんは真田昌幸を、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 真田昌幸は豊臣秀吉から【表裏比興の者】と呼ばれた兵法の天才だった
- 真田昌幸とは、天下人・徳川家康の軍団に2度も勝利した名将
- 昌幸は、日本一の兵と呼ばれた名将・真田信繁(幸村)の父
- 昌幸と徳川家康は、生涯をかけて死闘を繰り返した宿敵関係
この記事では真田昌幸とはどんな人で何をした人なのかを、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は真田昌幸について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、真田昌幸に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
真田昌幸とは【どんな人で、何した人】?
真田昌幸とは、どんな人?
【名前】真田昌幸(通称・安房守)
【出身地】信濃国小県郡(現・長野県小県郡)
【生年】1547年
【没年月日】1611年7月13日
【主君】武田信玄→織田信長→上杉景勝→北条氏直→徳川家康→上杉景勝→豊臣秀吉→豊臣秀頼
【父】真田幸綱(または幸隆)
【兄】真田信綱・昌輝
【弟】真田信尹
【子】真田信幸(信之)、真田信繁(幸村)
真田昌幸は、何した人?
戦国時代にその名を刻む名将・真田昌幸ですが、昌幸が有名になった理由は、2つあると考えられます。
1、日本一の兵と呼ばれた名将・真田信繁を息子に持っていたため
2、豊臣秀吉の軍団を、小牧長久手の戦いで撃破した最強・徳川軍を、2度倒した実績があったから
くわしく解説いたします。
真田昌幸には二人の息子がいました。
- 長男・真田信之
- 次男・真田信繁
二人とも、とても優秀な武将ですが、弟の真田信繁はとくに有名です。
1614〜1615年の【大坂の陣】という戦争で、徳川家康を絶対絶命の崖っぷちに追い込み、【日本一の兵】と賞賛されることとなるのが、真田信繁(別名・真田幸村)なのです。
家康はこの真田信繁の猛攻に死を覚悟し、2度も切腹しようとしたといいます。
あと一歩まで家康を追いつめたものの、真田信繁はその後、力尽きて戦死しています。
真田昌幸が有名になったのは、あの名将・真田信繁の父親だからです。
→→→→→【真田昌幸と真田信繁の関係】についてくわしくはこちら
もう一つ、昌幸が有名になった理由が、徳川軍を2度も倒したからというものがあります。
昌幸が活躍した戦国時代末期は、豊臣秀吉が日本を支配していた時代でした。
豊臣軍が天下を支配する無敵の軍団です。
しかし、1584年の【小牧・長久手の戦い】で、その天下無敵だったはずの豊臣軍が、徳川家康の軍に完膚なきまでに叩きのめされたのでした。
このとき、徳川軍の強さが天下になり響いたのです。
ところが、そんな徳川軍が敗北を喫したのでした。
小牧・長久手の戦いの直後、真田昌幸がその最強・徳川軍7000人に対して【第一次上田合戦】で勝利したのでした。
それだけではありません。
1600年、【関ヶ原の戦い】の前哨戦である【第二次上田合戦】で、真田軍団3000人は、再び徳川軍38000人に勝利したのです。
のちに天下人となる徳川家康の軍団を相手に、地方の小豪族である真田昌幸は、なんと2度も勝利したわけです。
家康に2度も黒星をつけた小豪族の武将など、他にはいません。
そのため、真田昌幸はその名を歴史に深く刻つけたのでした。
真田昌幸の【生涯年表】
真田昌幸の生涯年表
1547年
(1歳) |
真田昌幸が、父・真田幸綱の三男として誕生 |
---|---|
1553年
(7歳) |
人質として武田家へ送られ、武田信玄の奥近習衆になる |
1560年
(14歳) |
桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を討つ |
1561年
(15歳) |
第四次・川中島の戦いで初陣を果たす(武田信玄vs上杉謙信) |
1558〜1570年頃 | 武藤家の養子となった真田昌幸は、武藤喜兵衛と名乗る |
1564年頃
(18歳) |
山手殿と結婚 |
1566年
(20歳) |
長男・真田信幸が誕生 |
1567年
(21歳) |
次男・真田幸村が誕生(本名・真田信繁) |
1568年
(22歳) |
第一次駿河侵攻(武田信玄vs今川氏真) |
1569年
(23歳) |
第二次駿河侵攻(武田信玄vs今川氏真)
三増峠の戦い(武田信玄vs北条氏康) |
1570年
(24歳) |
第三次駿河侵攻(武田信玄vs今川・北条) |
1572年
(26歳) |
西上作戦 |
1573年
(27歳) |
三方ヶ原の戦い(武田信玄vs徳川家康)
武田信玄が信濃国駒場で病死し、四男・勝頼が家督継承 |
1574年
(28歳) |
父・真田幸綱(別名・幸隆)が死去 |
1575年
(29歳) |
長篠の戦い(武田勝頼vs織田信長・徳川家康)
長兄・信綱と次兄・昌輝がともに戦死したため、昌幸が真田家の家督を継承し、当主となる。 兄・信綱の娘である清音院殿が、昌幸の長男・信幸と結婚 |
1578年
(32歳) |
上杉謙信・死去
武田勝頼と上杉景勝のあいだで甲越同盟が成立 |
1579年
(33歳) |
昌幸、北条領である上野国・沼田城の攻略を開始 |
1580年
(34歳) |
沼田城攻略に成功
昌幸、安房守の名乗りを許され、真田安房守昌幸と名乗る(あくまで自称) |
1581年
(35歳) |
昌幸、武田勝頼の居城・新府城の築城に人夫を送るなど協力 |
1582年
(36歳) |
織田信長による甲州征伐で武田勝頼が自害し、武田家滅亡
昌幸、織田家へ臣従し、織田四天王のひとり滝川一益の与力とされる 次男・信繁を織田家への人質として、沼田城を取り上げられるが、他の領地を安堵される 本能寺の変が勃発し、織田信長が明智光秀に討たれる 天正壬午の乱が勃発(徳川家康vs上杉景勝vs北条氏政) 昌幸、天正壬午の乱の混乱に乗じて上野国・沼田城を奪還する 昌幸、まず上杉景勝に臣従、次に北条氏直に臣従、次に徳川家康に臣従 徳川家康が北条氏直と同盟を締結し、昌幸の領地である沼田城を北条に明け渡すことを勝手に約束してしまう |
1583年
(37歳) |
昌幸、徳川家康の協力を得て、上杉景勝に対抗するため上田城の築城を開始 |
1584年
(38歳) |
小牧・長久手の戦い(徳川家康vs豊臣秀吉) |
1585年
(39歳) |
昌幸、沼田城の一件で徳川家康に激怒して裏切り、上杉景勝に臣従
真田幸村が、人質として上杉景勝の居城・春日山城へ 第一次上田合戦(真田昌幸vs徳川家康) 真田幸村も上杉の許しを得て、第一次上田合戦に参戦し、勝利 |
1586年
(40歳) |
秀吉の仲介により、昌幸は徳川家康の与力(協力部隊)となる |
1587年
(41歳) |
昌幸、豊臣秀吉に謁見し、豊臣家の大名となる |
1589年
(43歳) |
昌幸、秀吉の仲介により沼田城を北条に明け渡し、代わりに信濃国・箕輪領を与えられる
昌幸の長男・真田信幸が、本多忠勝の娘・稲姫(小松殿)と結婚 |
1590年
(44歳) |
小田原征伐開始(豊臣秀吉vs北条氏政)
昌幸と幸村、石田三成や大谷吉継とともに、武蔵国・忍城の成田長親を攻撃 伊達政宗が秀吉に臣従し、北条氏政・氏直親子も降伏 |
1591年
(45歳) |
奥州仕置が完了し、豊臣秀吉の天下統一が完成 |
1592年
(46歳) |
秀吉の朝鮮出兵・文禄の役開始。昌幸は肥前・名護屋城に在陣 |
1594年
(48歳) |
昌幸、安房守に正式に叙任
幸村、秀吉から豊臣姓を与えられ、従五位下・左衛門佐に叙任 幸村、大谷吉継の娘である竹林院と結婚 |
1597年
(51歳) |
朝鮮出兵・慶長の役開始 |
1598年
(52歳) |
豊臣秀吉死去 |
1599年
(53歳) |
前田利家死去 |
1600年
(54歳) |
会津征伐(徳川家康vs上杉景勝)
昌幸と次男・幸村は石田三成の西軍に味方し、長男・信幸は徳川家康の東軍に味方することとなり、真田家は分裂する(犬伏の別れ) 第二次上田合戦(真田昌幸・幸村vs徳川秀忠・真田信幸) 関ヶ原の戦い(徳川家康vs石田三成) 西軍が敗北したため、第二次上田合戦で勝利したものの、昌幸・幸村は紀州・九度山へ幽閉される。この頃、真田信幸は改名し、真田信之と名乗る |
1603年
(57歳) |
徳川家康が征夷大将軍に就任 |
1605年
(59歳) |
徳川秀忠が、第二代将軍に就任 |
1611年
(65歳) |
豊臣秀頼が伏見城で徳川家康に謁見。この時、秀頼と家康の主従関係が逆転したとされている
真田昌幸死去。享年65歳(または67歳) |
1614年
(幸村48歳) |
方広寺鐘銘事件。方広寺の鐘に【国家安康】という文字に家康が激怒
真田幸村が豊臣秀頼から招かれて、息子の大介幸昌と九度山を脱出し大坂城へ入城 大坂冬の陣(豊臣秀頼vs徳川家康) 幸村は出撃を主張したものの、大野治長らの反対により、大坂城へ籠城 幸村、大坂城の唯一の弱点である南に真田丸という出城を築城し、徳川軍を撃破 秀頼とその母・淀殿が、徳川家康と和平を締結 和平の条件として、大坂城の堀を埋め立て、真田丸も破却される |
1615年
(幸村49歳) |
大坂夏の陣勃発
幸村、必死に奮戦するも敗色濃厚となり、3500の兵で家康軍に突撃。家康に2度も切腹を覚悟させるほど追いつめるも、家康の孫・松平忠直に追いつめられ安居神社で戦死。享年49歳 豊臣秀頼・淀殿が自害し、豊臣家滅亡 |
1616年
(信之51歳) |
徳川家康死去 |
1622年
(信之57歳) |
真田信之が信濃国・上田から信濃国・松代へ国替え |
1632年
(信之67歳) |
徳川秀忠死去 |
1658年
(信之93歳) |
真田信之死去。享年93歳 |
真田昌幸と【徳川家康】は、どういう関係?
真田昌幸と徳川家康は、その生涯にわたって戦い続ける運命を背負った宿敵関係です。
ただ、ときには宿敵であり、ときには主従にあり、そして最終的には再び宿敵関係となった関係なのです。
昌幸が頻繁に家康を裏切るため、敵になったり味方になったりと、一定していません。
もともと昌幸は、国人領主と呼ばれる地方の小さな豪族・小さな地侍でした。
家康の部下ではあったものの、譜代つまり親の代から何世代にもわたって徳川家につかえ続けた部下とは違い、それほど強い忠誠心を持っていたわけではないのです。
もともと家康の宿敵である武田信玄につかえていた昌幸は、家康の敵でした。
ところが、武田信玄の子・勝頼が亡くなって武田が滅びると、昌幸は徳川家康に部下として臣従することになります。
しかしこのとき、一つの事件が起こります。
徳川家康が、関東の支配者である戦国大名・北条氏政と同盟を締結するのですが、このときの条件として、家康に臣従していた真田昌幸の支配地域である沼田城を、北条氏政に差し出すという約束を、城主である真田昌幸の了解なしに締結してしまったのです。
激怒した昌幸は、家康からの命令を拒絶します。
この昌幸の命令違反に家康は激怒。家康と真田昌幸のあいだで、【第一次上田合戦】が勃発するのです。
結果は先ほど申し上げた通り、真田昌幸の圧勝で終わります。
その後の1589年、天下人・豊臣秀吉の仲介などもあって、昌幸は沼田城を一時的に北条氏政に渡すことを了承します。
しかし直後の1590年、豊臣秀吉によって北条氏政が滅ぼされ、沼田城は真田昌幸に変換されます。
その後1600年、天下を分けた【関ヶ原の戦い】において、真田昌幸は遺恨の残る宿敵・徳川家康と敵対することになります。
ちなみにこの関ヶ原の戦いにおいて、真田信之は父の昌幸と決別して、家康に味方しています。
真田信之が父を裏切った理由は、信之が家康の養女・稲姫(小松殿)を妻としていたためです。
この【関ヶ原の戦い】の前哨戦である【第二次上田合戦】で、真田昌幸は次男・信繁とともに、家康の子・徳川秀忠がひきいる徳川本隊38000人を相手に勝利してしまいます。
昌幸は徳川本隊38000人を足止めし、【関ヶ原の戦い】に参戦できない状態に陥れたものの、その本戦である【関ヶ原の戦い】で、実質的な総大将である石田三成が敗北したため、昌幸も家康に降伏せざるを得ない状況に追い込まれます。
その後、昌幸は紀州(和歌山県)九度山に幽閉されたものの、家康への復讐の作戦を練り上げた挙句、病死したといわれています
真田昌幸と真田幸村は、どういう関係なの?
昌幸と幸村は親子
結論から言えば、真田昌幸と真田幸村は、血のつながった実の親子です。
真田昌幸が父。そして真田幸村は息子。
幸村には、真田信之という兄がいるので、昌幸の次男にあたります。(信之と幸村は、1歳違いの兄弟)
講談や小説・漫画やアニメ・ゲームなどで有名な、日本一の兵と呼ばれた名将・真田幸村の本名は、真田信繁といいます。
これまで、真田信繁が1614年になって名前を改めて【真田幸村】と名乗ったと考えられてきました。
しかし近年の研究では、真田信繁が幸村と名乗ったことは一度もなく、幸村という名前は後の世における講談でつけられた名前であるということがわかっています。
ただ、幸村という名前があまりにも有名になってしまったため、真田家でも、家系図に信繁ではなく、幸村という名前を記してしまうほどだそうです。
さて、真田幸村(信繁)は真田昌幸の息子なわけですが、幸村は常に、父・昌幸と一緒に行動しています。
第二次上田合戦でも、その後の九度山での幽閉生活でも、幸村は昌幸と常に一緒にいて、その兵法を叩き込まれたといわれています。
いってみれば真田幸村(信繁)は、天才・真田昌幸が英才教育を施した最高傑作ともいえるのではないでしょうか。
ただ、惜しいのは、大坂の陣において、真田幸村(信繁)には、父・昌幸ほどの実戦経験がなかったということでしょうか。
もしも昌幸があと3年生きていたら、大坂城での戦いも、結果は違ったのではないか、という方もおられます。
真田昌幸の子孫と家系図
真田昌幸の子孫は、現在も続いています。
長男・真田信之の子孫にあたる松代真田家の現在の当主である真田幸俊さんは、養子を間にはさんでいるため、昌幸と血縁はありませんが、伊達政宗の血を引く真田家のお方です
また、次男・真田信繁(幸村)の子孫である仙台真田家の真田徹さんは現在、講演などで活動をなさっておられます。
真田昌幸の生涯を簡単解説
真田昌幸・誕生
ときは戦国時代、日本各地を戦国大名が支配し、それぞれが領地を守るために戦争を繰り返していた時代のことです。
1547年、信濃国(現在の長野県)に、戦国武将・真田幸綱の三男として、真田昌幸が誕生しました。
父の真田幸綱(別名・幸隆)は、信濃国小県郡の一部を支配する国人領主とよばれる土着の小豪族でした。
昌幸の父・幸綱は、信濃国小県郡において先祖代々守り続けてきた領地を一度は失ったものの、領土回復に成功した名将でした。
この領土回復にかけた執念は、もしかすると真田の血がそうさせたのかもしれません。
昌幸もまた【先祖代々守り続けた領地を敵から守る】という使命を身に宿して誕生したのです。
真田の領地を土足で踏み荒らすもの許さない
その真田の領地を土足で踏み荒らすこととなる2人の武将が、昌幸が誕生したこの頃、運命の出会いを果たしていました。
織田信長と徳川家康です。
昌幸が生まれた1547年の頃、幼い徳川家康は尾張国(現・愛知県西部)へ人質として住み、織田信長と出会っていたのでした。
真田昌幸と徳川家康。
この2人の宿命といっても良い戦いの日々が、まさに始まったのでした。
名将・武田信玄との出会い
昌幸は通常であれば、地方の小豪族の三男として、世間に名を知られることもなく一生を終えるはずでした。
ところが、そんな昌幸の人生を一変させるとてつもない人物が、現れます。
武田信玄です。
信玄は、甲斐(山梨県)を支配していた、戦国最強とも評された名将の中の名将です。
この頃、昌幸の父・真田幸綱は、武田信玄に家来としてつかえていました。
そのため7歳の昌幸は人質として、信玄のそばへ送られることとなったのです。
昌幸はその後、武田信玄の側近として、戦国最大の激戦で初陣を果たすことになります。
軍神・上杉謙信を相手にした死闘【第四次・川中島の戦い】です。
昌幸の初陣【第四次・川中島の戦い】
武田信玄は、周囲を強敵に囲まれていました。
- 軍神【上杉謙信】
- 相模の獅子【北条氏康】
- 海道一の弓取り【徳川家康】
- 第六天魔王【織田信長】
昌幸は生き残りと天下をかけて、否応なく、これら歴史に名を刻む名将たちと、命をかけて戦うことになるのです。
ところが昌幸はこの初陣でもっとも尊敬し、憧れていた人物を失うことになってしまいます。
1561年、真田昌幸は初陣の際に15歳でした。
しかしその敵は、戦国時代最強の軍神・上杉謙信でした。(このときの名前は【上杉政虎】)
しかもこの戦いは後世において、【戦国時代最大の激戦】と称されることになる【第四次・川中島の戦い】です。
昌幸は、この戦いに父や兄とともに参戦。
そしてこの戦いで、昌幸がもっとも尊敬していた武将・武田典厩信繁が戦死してしまうのです。
武田信繁は、武田信玄の実の弟であり、名将の誉高き人物です。
信玄は、この兄想いの優秀極まりない弟の死を知り、声をあげて泣いたといいます。
昌幸の戦いの人生は、日本史上最大の激戦から始まったのでした。
このときの昌幸は、宿敵として戦った上杉家と協力して、徳川家康と戦う運命にあるとは、夢にも思っていなかったでしょう。
宿敵・徳川家康との【三方ヶ原の戦い】
武田信玄に側近としてつかえ、【我が両眼の如し】とまでその才能を讃えられた昌幸は、1564年の頃、一人の女性を妻とします。
彼女の名前は、山手殿。
宇田頼忠という信濃国の武将の娘です。
この山手殿が、いずれ真田昌幸と【ある人物】を結びつけることとなり、天下を大きく揺り動かすことになるのです。
【1573年】から【1575年】までの3年間は、昌幸は人生でもっとも激動の3年だったでしょう。
昌幸は、この3年のあいだに、【3人の偉人】との、大いなる出会いと別れを経験することになるのですから。
1573年、真田昌幸は【三方ヶ原の戦い】で、【徳川家康】という若き武将に勝利しています。
家康は、剛勇で有名だった真田信綱にあと一歩のところまで追いつめられたものの、ギリギリのところで浜松城へ逃亡しているのです。
真田信綱は、昌幸が武田信繁と並んでもっとも尊敬し、敬愛した長兄でした。
そして兄・信綱においつめられた徳川家康こそ、昌幸の人生に、大きく関わることとなる宿敵だったのです。
このときから、昌幸と家康の、40年にも渡る長き戦いが始まったのでした。
武田信玄の死
1573年、昌幸の師でもあった主君・武田信玄が、天下を目前にして病死。
後継者となった武田勝頼は、昌幸にとっては物足りない人物だったかもしれません。
しかしそれでも、昌幸は勝頼を支えます。
なんといっても勝頼は、恩ある主君・武田信玄の息子なのですから。
昌幸には、尊敬し心の支えとしていた人物が二人いました。
- 一人は、川中島で戦死した信玄の弟・武田信繁
- もう一人は、昌幸が憧れてやまぬ剛勇の兄・真田源太左衛門信綱
昌幸は、この勇猛さと父・真田幸綱ゆずりの知略を兼ね備えた兄・信綱を、心から信頼し、敬愛していたのでした。
しかし兄・信綱が、1575年の【長篠の戦い】で、次兄・真田昌輝とともに、壮絶な戦死を遂げてしまうのです。
兄二人を失った昌幸は、継承するはずではなかった真田家の家督を引き継ぎ、真田家の当主に就任。
この時から、若き名将・真田昌幸による【真田の領地と武田家を守る】という、これ以上ないほど困難な戦いが始まるのでした。
武田家・滅亡
1575年、織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼のあいだで、長篠の戦い(別名・設楽が原の戦い)が勃発。
この戦いで、馬場信春・内藤昌秀・山県昌景ら、信玄が育て上げた名将たちは次々と戦死してしまいます。
昌幸は若くして真田家の当主として、武田勝頼を補佐する重責を担うのでした。
しかし宿敵・織田信長と徳川家康の猛攻により、武田家は徐々に追いつめられていきます。
1578年、義に厚く、武田家を守り続けてくれた軍神・上杉謙信が急死するという事件が発生します。
ここから武田家は坂を転げ落ちるかのように急速に弱体化していきます。
1582年、武田勝頼は信長・家康の連合軍の猛攻を受けて敗走。(甲州征伐)
昌幸は勝頼を守ろうと、自らの居城である上野国(群馬県)の岩櫃城へ来るように説得します。
ところが勝頼はそれを拒絶し、重臣・小山田信茂の居城である岩殿山城へ移動するのでした。
結局、小山田信茂や穴山梅雪などの武田家の家臣に裏切られた勝頼は、天目山で自害。武田家は滅亡してしまいます。
昌幸は、自らに武将としての心構えや兵法を叩き込み、【我が両眼の如し】とまで言って認めてくれた主君・武田信玄に、忠誠を誓っていました。
そのため、武田を滅亡へと追いやった武将・徳川家康に対し、形容し難い恨みの念を抱いていたのではないでしょうか。
表裏比興の者・真田昌幸
それまで真田家を守ってくれていた主君である武田家が滅亡したため、小豪族・真田家は、独力のみで生き残ることを余儀なくされます。
そこで、真田昌幸は生き残りをかけて、大博打に打って出ます。
なんと武田を滅ぼした宿敵・織田信長に接近を試みたのです。
昌幸は領地を守るため、織田に臣従することを決意し、成功したものの、直後に驚くべき事件が起こります。
本能寺の変です。織田信長が、重臣・明智光秀に裏切られて急死してしまったのです。
昌幸は、せっかく手に入れた織田信長という強力な後ろ盾を失い、またしても独力で領土を守ることを余儀なくされたのです。
小領主にすぎない昌幸はこのとき、周囲を三つの大きな勢力に囲まれていました。
- 徳川家康
- 上杉景勝
- 北条氏政・氏直
武田勝頼・織田信長という強大な後ろ盾を失った真田家は、窮地に追い込まれます。
昌幸は、真田の領地を守るため、宿敵である徳川家康に屈服し、北条氏政の大軍団と戦うための援軍を要請。
しかしここで徳川家康は、昌幸も予測していなかった驚くべき行動に出たのです。
なんと北条氏政と政略結婚によって同盟を締結したのです。
しかもその同盟の条件は、昌幸からすれば、驚くべきものでした。
なんと【上野国の真田の領地である沼田城を、北条家に差し上げる】というものだったのです。
沼田城という領地は、家康から与えられたものではなく、真田が自らの力で勝ち取った領地です。
【真田の領地を守る】という使命をその身に宿した昌幸からすれば、沼田城を差し出すなど、断じて許せない行為だったのです。
真田の領地を土足で踏み荒らすものは許さない
昌幸の逆鱗に触れた家康は、主従関係を解消されてしまいます。
昌幸は徳川家康の軍団を相手に、【三方ヶ原の戦い】以来の宿命の対決を果たすことになります。
大久保忠世・鳥居元忠らが率いた徳川軍団7000人に対して、真田軍はわずかに2000人。
昌幸は碁とうちながら、信之・信繁という2人の息子たちに指揮を任せる余裕をみせながら、師でもある武田信玄仕込みの兵法を駆使し、最強・徳川軍団を壊滅させたといいます。
この頃、豊臣秀吉は真田昌幸のことを【表裏比興の者】と呼んでいます。
これはつまり【裏と表を使い分ける老獪な兵法の達人】という意味です。
昌幸は天下人・豊臣秀吉に、その実力を認められ、警戒されていたのです。
家康に一度は勝利したものの、長期戦になれば領土の小さな昌幸が圧倒的に不利です。
そのため昌幸は領地を守るために、最終的に天下人・豊臣秀吉に臣従する道を選択します。
その後、豊臣秀吉は真田家を保護するようになります。
1590年、小田原征伐で北条氏政・氏直を討伐し、天下統一に成功するのでした。
ところがそんな秀吉も、天下を泰平へ導く能力に乏しく、朝鮮出兵という無用の戦乱を巻き起こし、真田家も負担を余儀なくされたといいます。
そんな秀吉が、1598年に病死。
秀吉という強力な後ろ盾を失った昌幸は、再び生き残りをかけた戦いに身を投じることになるのです。
天下分け目の【関ヶ原の戦い】
秀吉が亡くなると、それまで従順に秀吉に従っていた徳川家康が、天下を取るために牙を剥き始めます。
秀吉の領地を横領し、秀吉が頼りにしていた家臣たちと次々と婚姻関係を結んで味方に引き入れ、強大な領地を持つ大大名に言いがかりをつけて屈服させるなど、まさに傍若無人なやり方で、家康は天下への野心をあらわにしていきます。
これら横暴なやり方に激怒したのが、秀吉の忠臣だった石田三成です。
実はこの石田三成と真田昌幸は、特に親密な関係であったといわれています。
昌幸と三成には、不思議な縁がありました。
石田三成には、真田昌幸の妻・山手殿を通じて、つながりがあったのです。
石田三成の妻と、真田昌幸の妻は、ともに宇田頼忠という武将の娘であり、血のつながった実の姉妹でした。(諸説あります)
しかも三成の親友である智将・大谷吉継の娘は、昌幸の次男・信繁に嫁いでいました。
そのため、昌幸と信繁は、石田三成と二重のつながりをもっていたのです。
一方の家康はというと、天下取りの生涯となり得る会津の大大名【上杉景勝】に難癖をつけて討伐軍を差し向けていました。(会津征伐)
上杉景勝は、昌幸が初陣で対決し、武田信玄の死後は何かと昌幸や勝頼を守ってくれたあの軍神・上杉謙信の甥であり養子でもありました。
しかも、上杉謙信の妻である菊姫は、昌幸が崇拝していた武田信玄の娘。
さらに上杉景勝は、第一次上田合戦で昌幸が家康と戦っている際に、後方から何かと支援をしてくれた恩もありました。
そのため昌幸は、上杉景勝の窮地を、見過ごすことができなかったのです。
このとき石田三成が、家康が会津へ向かっている隙をついて、京都・大坂で挙兵。昌幸に対しても、味方になって欲しい旨の知らせを送ってきたといいます。
- 上杉景勝が会津で挙兵し、徳川家康を誘き出す。
- その隙に、石田三成が京都・大坂で挙兵。
- 真田昌幸はそのあいだの上田城に籠城し、会津の上杉と京都大坂の石田の連絡を中継。
- さらに昌幸は、中山道を遮断し、徳川軍団の進軍を遅らせる。
- 最終的に、石田三成と上杉景勝の軍で、徳川家康の軍団を挟み撃つ
机上の理論としては、完璧な作戦でした。
昌幸はこの石田三成の誘いに応じようとしますが、意外な人物が反対を表明します。
昌幸の長男・真田信之です。
家康率いる討伐軍に参加していた昌幸と次男・信繁は、犬伏という地で、長男・信之を交えて、3人で議論を戦わせます。
3人は、石田三成(西軍)と徳川家康(東軍)、どちらに味方するか激論を交わしたのでした。
ここで真田家はふたつに割れることになります。
父・昌幸と次男・信繁は、つながりの深い石田三成ひきいる西軍に参加。
長男の信之は、妻の小松殿(稲姫)の父が、徳川四天王のひとり本多忠勝の娘であることを理由に、徳川家康ひきいる東軍に参加。
こうして真田家は真っ二つに分裂し、生き残りをかけた戦いを開始することになります。
上田城へ戻った真田昌幸は、息子・信繁とともに、徳川秀忠がひきいる徳川本隊を相手に戦うことを余儀なくされるのでした。
徳川家の領土は250万石。それに対して真田昌幸の領土は10万石足らず。
徳川軍は、日本で最大最強の軍団。その数は38000人、対して真田軍団は総勢3000。
10倍以上の数を誇り、本多正信・大久保忠隣・榊原康政などの名将をそろえた徳川軍を相手に昌幸は、師・信玄と父・幸綱ゆずりの知略を尽くし、必死の防戦を展開。
この甲斐あって、徳川本隊を釘付けにすることに成功した昌幸は、家康と戦う石田三成の援護に成功したのです。
家康は、秀忠が率いる徳川本隊38000人を欠いた状態で、石田三成がひきいる西軍と雌雄を決しなくてはいけなくなったわけです。
ところが関ヶ原の決戦は、昌幸の必死の援護もむなしく、わずか1日で石田三成の大敗に終わってしまいます。
三成は斬首。石田三成という総大将を失った昌幸もまた、宿敵である家康に降伏するしかありませんでした。
「真田昌幸と真田信繁親子の命を救ってくれないならば、私は娘婿の真田信之とともに沼田城に立てこもり、殿(徳川家康)を相手に戦ってみせます」
これは、昌幸・信繁親子の命乞いをしにきた信之の舅である本多忠勝が、主君である徳川家康を恫喝した有名なセリフです。
一時は処刑されかけた真田昌幸も、信之と本多忠勝の必死の助命嘆願により一命を救われ、紀州(和歌山県)九度山に幽閉されることとなるのです。
こうして昌幸の最後の戦いは、勝利したものの降伏せざるを得ない、という奇妙な形で幕を閉じたのでした。
九度山に閉じる【信玄の両眼】
昌幸は、徳川軍団に勝利したものの、石田三成が率いた西軍の本隊が徳川家康に敗北したため、紀州(和歌山県)九度山へと幽閉されることになってしまいました。
しかし昌幸は敗北したものの、徳川四天王のひとり本多忠勝の娘婿という立場を得ていた真田信之は、真田の領地を褒美として与えられ、真田の家名存続を許されていたのです。
東軍と西軍どちらが勝利するかわからない以上、真田をふたつに割って、家名の存続を図るという昌幸の遠謀深慮によって、真田の領地を守るという使命は、このとき昌幸から信之へと、無事に受け継がれたのでした。
九度山での生活は、貧困の限りだったといいます。
昌幸は、それでも家康と戦うことを諦めていませんでした。
将来的に、家康が天下を確実なものとするために、豊臣秀吉の子・秀頼を倒そうとするのは、明らかでした。
昌幸は、そのとき家康を迎撃することになるだろう名城・大坂城の図面を研究し続け、作戦を練りあげ、家康と再び戦うため、息子の信之を通じて赦免運動を繰り返したのです
しかし、家康が昌幸を許すことは、結局ありませんでした。
なぜなら家康は、真田昌幸という名将の恐ろしさを、身に染みてわかっていたからです。
1573年の【三方ヶ原の戦い】。そして二度の上田合戦。
家康にとって昌幸は、恐れ続けた猛将・武田信玄が忘れていった遺物そのものだったのです。
昌幸は、武田信玄から【我が両眼】と評されたといいます。
1611年、【信玄の両眼】こと真田昌幸は、紀州の九度山において、家康を睨みつけながらも、静かにその眼を閉じたのでした。享年65歳(67歳という説もある)
昌幸が憧れた【2人の名将】その名を継ぐもの
昌幸は、九度山へ幽閉された11年後の1611年、静かに生涯を閉じたのでした。
しかし、戦国最強の名将・武田信玄から【我が両眼】と呼ばれ、天下人・豊臣秀吉から【表裏比興の者】と呼ばれた謀将・真田昌幸は、ただ死んだわけではありませんでした。
家康打倒のため、最後の罠を仕掛けていたのです。
昌幸のそばには、いつもいつも、次男・真田信繁が控えていました。
信繁は、11年にわたって父・昌幸とともに過ごし、その兵法を学び取っていたのです。
昌幸は、信繁にこう教え込んだといいます。
「いずれ大坂城の豊臣秀頼が家康によって攻められるだろう。
そのとき、信繁は大坂城へ入れ。
そして軍を率い、初手から全力で京都・伏見城を陥れて、一気に美濃国(岐阜県南部)の大垣城一帯を制圧せよ。
その後、関ヶ原付近で東から向かってくる徳川軍を迎撃し、撤退。
つぎは瀬田の唐橋を落として東西の往来を遮断。
東西の連絡を遮断され、しかも初戦で華々しい戦果を上げてみせれば、見物を決め込んでいる西国の大名たちも、時間が経てば経つほどに、豊臣家になびいてくるだろう。
あとはひたすらに大坂城で籠城し、西国大名が味方につくまで、時間を稼げ。」
そう諭すと、昌幸は息を引き取ったのでした。
真田の領地を土足で踏み荒らすものは許さない
武田を滅亡へと追いやり、真田が守り続けた領地を勝手に北条へ与えると口にした徳川家康を相手に、最後まで戦い続けた昌幸の志は、次男・信繁に受け継がれたのでした。
のちに名将としてその名を歴史に刻むこととなる【真田左衛門佐信繁】は、昌幸の願いの全てを込められた最高傑作ともいえる武将でした。
その名は、真田昌幸が尊敬し憧れた【2人の名将】から受け継いだものといわれています。
- 武田典厩信繁
- 真田源太左衛門信綱
1561年【第四次・川中島の戦い】で戦死した武田信玄の兄想いの弟・武田信繁から【信繁】という名前を受け継ぎ
1573年【三方ヶ原の戦い】で徳川家康を追いつめながらも、1575年【長篠の戦い】で戦死した兄・真田源太左衛門信綱からは【左衛門】の名を受け継ぎ
【真田左衛門佐信繁】
と名乗ったといわれています。
家康は昌幸を憎み、長男の信之が父の葬儀を願い出たにもかかわらず、許さなかったといいます。家康はそれほど、昌幸を恐れていたのでしょう。
日本一の兵
1614年、徳川家康が豊臣秀頼を相手に開戦します。
【大坂の冬の陣】の勃発です。
家康が、豊臣秀頼がつくらせた京都・方広寺の鐘に、家康を呪った文言が刻まれていると非難したことが、開戦のきっかけでした。(方広寺鐘銘事件)
真田信繁は、息子である【真田大介幸昌】とともに大坂城へ入城。息子の大介は、祖父にあたる昌幸の名前を逆さまにして、真田幸昌と名乗っていました。
昌幸から必勝の作戦を授けられていた信繁でしたが、開戦直後、一つの問題が発生しています。
信繁が父・昌幸から授けられた必勝の作戦が、なんと豊臣秀頼や豊臣家の家老・大野治長によって却下されてしまったのです。
積極的に戦う意志のない秀頼や大野治長らは、籠城戦しかないと決めていたのでした。
やむなく信繁は、難攻不落の名城・大坂城に唯一存在していた南側の弱点を補うため、真田丸と呼ばれる出城を構築し、徳川軍団と対峙。
この真田丸の築城方法は、武田流軍学を基礎としたもので、昌幸から学んだものだったといいます。
そして大坂冬の陣において、真田信繁は徳川軍に大打撃を加えることに成功します。
信繁は真田丸で、徳川軍団に大打撃を与えたものの、家康の老練な交渉戦略に翻弄されてしまことになります。
徳川軍から打ち込まれる大砲に恐怖した豊臣秀頼とその母・淀殿は、なんと家康と和平を締結してしまったのでした。
このとき家康は、もっとも厄介だった天下無敵の名城・大坂城の防御力を失わせることに成功しています。
「もう戦は無いのだから、大坂城の堀を埋め立ててもらいたい」
この条件を豊臣秀頼が受け入れてしまったため、大坂城という天下一の防御力を誇る城は、防御のかなめである堀を埋め立てられてしまい、防御力ゼロの何の意味もない建物と成り下がってしまうのでした。
さらに、真田信繁が立てこもった出城・真田丸は、真っ先に破棄されてしまいます。
その翌年の1615年、家康から難癖をつけられた豊臣家は、再び開戦せざるを得ない状況に追い込まれます。
大坂夏の陣の開始です。真田信繁の最期の戦いとなります。
最強の城・大坂城の防御力を失った真田信繁には、もはや徳川の大軍団に抗戦する術は残されていませんでした。
信繁は、残る力のすべてを振り絞り、家康の本陣へ突撃。このとき信繁が率いていた軍団は、かつて三方ヶ原の戦いで家康を追いつめた武田最強の軍団【赤備え】とまったく同じ赤備えの軍装だったといわれています。
この突撃は、2度も家康に切腹を覚悟させたといいますが、その刃は家康には届きませんでした。
信繁は、家康を討ち取ることはできなかったものの、家康の馬印である【金扇】を踏み倒したといいます。(馬印とは、大将の居場所を味方に知らせるための目印。持ち運び可能なモニュメントのようなもの)
家康の馬印を踏み倒した人物は、この真田信繁と、もう一人いました。
三方ヶ原の戦いで、家康を追いつめた武田信玄です。
家康は、武田家に関係する武将に、2度も馬印を踏みにじられたのでした
信繁は家康の軍団に追いつめられ、戦死。
真田大介幸昌もまた、豊臣秀頼とともに切腹して果てたといいます。
昌幸の【真田の領地を守る】という意志は、長男・真田信之によって引き継がれ、真田の家名は1868年の明治維新まで続くこととなるのです。
真田昌幸の【死後】に、二人の息子が歩んだ道
兄・真田信之
真田信之は、父と弟が亡くなった後、領地を守るために苦労の多い日々をおくったといいます。
信之は常に、二代将軍・徳川秀忠から憎まれていたといいます。
第二次上田合戦で、徳川秀忠は真田昌幸に散々な目にあわされていたため、その子である信之を恨んだというのです。(第二次上田合戦で信之は秀忠に味方していたので、完全な逆恨みである)
その後、先祖伝来の地である信濃国の領地から、同じ信濃国の松代への国替えを秀忠から命じられた信之は、素直にそれに従ったといいます。
信之は93歳で死去。
その後、1868年の明治維新まで、真田家の家名は続いたのでした。
ちなみに真田信之の子孫は、松代真田家として、現在も続いています。
弟・真田信繁(幸村)
真田信繁は、大坂の陣に参戦し、徳川軍団を散々に苦しめたといいます。
信繁は入城前に、兄に迷惑をかけないように、信繁という名前を『幸村』に改めたといわれていますが、信憑性に乏しいともいわれているようです。
信繁は、真田丸という出城で徳川軍を迎撃。
信繁を恐れた徳川家康は、信濃一国をあたえるという条件で、寝返るように説得。
これを拒絶した信繁は、家康をあと一歩まで追いつめたのでした。
この奮闘ぶりを見ていた薩摩・島津軍は、のちに信繁のことを【日本一の兵】と評したのでした。
信繁の首は、その武勇にあやかりたいという徳川軍団の武将たちによって髪の毛を持っていかれ、最終的に髪が亡くなったといわれています。
真田信繁の子孫は、伊達政宗によって保護され、仙台真田家として、今も続いています。
真田昌幸の【名言集】
ここでは、名将・真田昌幸が残したという名言をご紹介いたします。
わしが付き従っていたら、小山田信茂に欺かれることなどなかったのに!
1582年、主君である武田勝頼が、重臣・小山田信茂に裏切られ、天目山で自害しました。
そのことを知った昌幸は、このように言って嘆いたといいます。(長国寺殿御事績稿より)
小山田信茂は、その直後に信長に裏切りの罪を責められて処刑。
昌幸は勝頼を、自分の居城である岩櫃城へ避難させようとしていたといいますので、その口惜しさは想像を絶するものがあったのでしょう。
小山田信茂の裏切りに激怒した昌幸は、討伐軍を率いて出撃しようとしたものの、部下たちに止められて断念したといいます。
要害は城郭の固めにあらず、ただ大将の一心にあり
1600年、第二次上田合戦において、敵である徳川秀忠軍の伝令である島田兵四郎という人物に対して、昌幸はこの言葉を放ったといいます。
この言葉の意味は
【要害と呼ばれるものは、すなわち城の壁や堀が頑強に固められていることにより決まるものではなく、ただ指揮官である大将の心構え一つでその頑強さが決まるものなのだ】
ということになります。
第二次上田合戦で、徳川秀忠の軍団38000人を相手にしていた昌幸は、上田城に籠城していました。
敵の伝令・島田兵四郎は、目的地に情報を伝えにいく任務をおっていましたが、近道を使うことを思いつきました
その近道とは、なんと敵の上田城の中を通ること。
島田は敵が籠る上田城内に対して
【伝令のため近道したいので、場内を通して欲しい】
と叫んだのでした。
これには城兵も驚きます。
通していいのか悪いのか、真田昌幸にうかがってみると、昌幸はこういいます。
古より敵人、使命を奉ずるに、城内を通りし例なし
【昔から、敵が自らの使命を果たすために、敵の城の中を通るなんて、聞いたこともない】
そして昌幸は、面白いと思ったのか、それとも島田の度胸の良さに、通さなかったら自分の度胸がないと思われることを恐れたのか、島田が城内を通ることを許可します。
すると島田は去り際にひとこと
「帰りも通らせて欲しいので、そのときはよろしくお願いします」
まさか帰りは来ないだろうと思っていたら、再び島田は城内を通りたいと言って現れました。
これに昌幸は大喜びし、「島田に会いたい」と言い出したのです。
そして昌幸は、島田に対して城内の備えを見せて解説し、「城攻めの参考にしろ」と言いながら【要害は城郭の固めにあらず、ただ大将の一心にあり】と言ったのでした。
昌幸の師にあたる武田信玄は、こんな名言を残したと言います。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
昌幸は、この信玄の言葉を胸に刻んでいたのかもしれません。
だからこそ、要害というものは城や石垣ではなく、大将の心構え一つで変わるものだと言ったのかもしれません。
道を借りる人も人なり。貸す大将も大将なり。
【道を借りようとする人も変わり者だが、道を貸してしまう大将も同じくらい変わり者だな】
そう言って、昌幸は島田を賞賛したといいます。
変わり者同士、気が合ったのかもしれません。
この戦いに勝利したものの、関ヶ原の戦いで昌幸が味方した石田三成が敗北したため、昌幸は九度山に幽閉されてしまいます。
さてもさても口惜しきかな。内府(徳川家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに
それにしても悔しいものだ。家康のことを、このように(追放処分)にしてやろうと思ったのに。
紀州(和歌山県)の九度山へ幽閉されることが決定した昌幸は、故郷の上田からの去り際に、息子の真田信之との会話でこのように口にしたといいます。(長国寺殿御事績稿より)
九度山での生活は極貧で、気候も山の中での不自由な生活も、昌幸の心身を疲弊させていきました。
そんな昌幸は、腰に差した刀の柄の部分つまり手で持つ部分に、真田紐と呼ばれる紐を巻いていたのでした。
通常、刀の柄には、鹿の皮など上質なものを巻いて、握りやすくするものでしたが、昌幸は貧しかったため、真田紐を巻いていたのです。
これを人々は笑いましたが、昌幸はこう言ったといいます。
たとえ上に絹を着たりとも、心、頑愚ならば用に立つまじ
そう言うと昌幸は、愛刀・正宗を抜いてみせたといいます。
その刀身は、手入れが行き届いていたことでしょう。
【たとえ上等な絹の服を着ていたとしても、心が柔軟ではなく、愚かであれば、その身体は役には立たないだろう。(刀も同じだ)】
昌幸は武将として常に臨戦体制で、貧しいことなど気にしていなかったのかもしれません。
信玄公は敵を攻めて多くの城を取ったが、合戦に手を取ることなくして勝ちを取ったもので、敵に押しつけをしたことは一度もない
【真武内伝】という資料に、真田昌幸が秀吉に対してこのように言ったことが記されています。
昌幸はある日、豊臣秀吉と碁を打っていました。
すると秀吉が、昌幸の主君だった武田信玄について、こう言ったのでした。
「信玄は身構えばかりする人だった」
これはすなわち
【信玄という人は、いつもいつも、攻めるぞ攻めるぞと敵に対して強気に言ってばかりいるものの、実際には攻撃しない口先だけの人だった】
という意味です。
つまりは、口ばっかりで戦うことが少ない人だったと、秀吉は信玄を批判したのです。
これに対して昌幸は、先ほどの名言をもって反論します。
【信玄公は、たくさんの敵の城を征服しましたが、それは合戦に手間をかけて勝ち取ったのではなく、攻める格好を見せて、それをもって敵を脅して降伏させ、最終的には戦うことなく敵に勝利したのであって、攻めるぞ攻めるぞ、と口先だけだったわけではなく、脅しを交渉の道具に利用したのです。
信玄公は無理やりに戦を起こして勝利し、戦う気のない者に対して、まるで敗北を押しつけるような、そんな無茶な戦いをしたことは一度もありません。】
これは筆者の勝手な解釈なので、真の意味からは遠いかもしれません。
しかし、この通りであるなら、昌幸は表裏を使い分ける兵法の達人と呼ばれ、主君を次々とかえておきながら、武田信玄への忠誠心だけは本物だったということになります。
真田昌幸の【城】
信濃・上田城
1583年に築城が開始された平城で、真田昌幸が本拠地とした城。
- 1585年・第一次上田合戦
- 1600年・第二次上田合戦
これら2度の戦いで、2度とも徳川軍を撃破した名城。
しかし実は、この上田城の築城を真田昌幸に命じたのは、徳川家康でした。
家康は、北の上杉景勝に対する備えとして、上田城を築城したのだが、沼田城を北条氏政に差し出すという約束を、沼田城の持ち主である昌幸に断りなくしてしまったため、昌幸は上田城を築城後に家康から離反して上杉景勝についてしまったのです。
まさか家康も、自分が築城を命じた上田城で、2度も敗北することになるとは、思っていなかったでしょう。
1600年の関ヶ原の戦いで、石田三成が敗北すると、昌幸は九度山へ幽閉されたため、上田城は破却され、真田信之はここに居館をつくって政治を行なったといいます。
1622年、真田信之は信濃国・松代への国替を命じられ、上田は仙石忠政に与えられたのでした。
仙石忠政は、上田城を再建。そのため現在の上田城は、真田昌幸がつくったものではなく、仙石忠政が築城したものなのです。
信濃・真田本城(松尾城)
真田一族発祥の地とされる城です。
真田昌幸の父親である真田幸綱が築城したといわれてきたが、実際には鎌倉時代からこの地に城があったことがわかっています。
もともとこの城は、武田信玄の父である武田信虎が、娘婿の諏訪頼重と、真田の宿敵・村上義清と連合軍をひきいて、攻め落とされたのでした。
その後、真田幸綱は上野の猛将・長野業正を頼ったものの、武田信虎を追放した武田信玄の臣下となり、この真田本城の奪還に成功。
さらに真田幸綱は、武田信玄を2度も打ち破った猛将・村上義清がこもっている真田本城の目の前にある戸石城の攻略を信玄から命じられ、計略で難なく落城させたといいます。
真田本城は、その後上田城が築城されると破棄されました。
信濃・戸石城(砥石城)
真田幸綱・昌幸・信之と、三代にわたって利用され、名将・武田信玄の生涯において、めずらしい大惨敗を喫したのが、この難攻不落の堅城・戸石城(別名・砥石城)です。
この戸石城からは、北東に位置する真田本城を望むことができ、もともとは真田氏が、真田本城の支城としてつくったものでした。
1541年5月、真田幸綱の戸石城は、甲斐・信濃の3人の戦国大名の連合軍によって奪われました。
- 武田信玄の父・武田信虎
- 信玄の義弟・諏訪頼重
- 信玄に2度も勝利した猛将・村上義清
こののち、真田幸綱は長野業正を頼って亡命。
1541年6月、武田信虎が息子・武田信玄によって他国へ追放されると、武田信玄と村上義清が戦いを開始。
信玄は村上義清に、【上田原の戦い】と【砥石崩れ】と呼ばれる2度の敗北を喫します。
信虎が追放されたことにより、遺恨を捨てて真田幸綱は武田信玄に臣従。
幸綱は信玄から、戸石城攻略を命じられ、策略をつかって乗っ取りに成功。
その後、戸石城は真田に支配され、真田昌幸が徳川家康の軍団を相手に戦った1585年の【第一次上田合戦】で利用されています。
1600年、【関ヶ原の戦い】の前哨戦である【第二次上田合戦】では、徳川軍38000人の総大将・徳川秀忠の部下となっていた真田信之によって、戸石城は攻撃される予定でしたが、まともな攻撃がなされる前に開城しています。
信濃・塩田城
1277年、2度の蒙古襲来のあいだに、鎌倉幕府の連署・北条義政によって館がつくられたことが、この塩田城の始まりとされています。
その後も北条氏によって支配されたものの、1333年の鎌倉幕府滅亡とともに北条氏の支配がなくなります。
室町時代・戦国時代において、村上義清に支配されるが、武田信玄によって奪われています。
武田信玄と上杉謙信が始めて戦った1553年の第一次川中島の戦いでは、信玄の本陣が、この塩田城におかれています。
1582年に、武田家が滅亡すると、真田昌幸によって支配されますが、翌年上田城が完成すると、塩田城は破棄されています。
上野・沼田城
真田昌幸が支配し、徳川と北条の取引に使われ、真田昌幸と徳川家康の長い戦いのきっかけとなった城です。
そして、真田信之が長く支配した城でもあります。
もともとは沼田氏の城でしたが、北条家のものとなり、越後の上杉謙信がこれを攻め落としています。
1578年、上杉謙信が亡くなると、北条氏政が沼田城を制圧。
謙信の後継者である上杉景勝と武田勝頼が同盟を締結すると、1580年、真田昌幸とその叔父である矢沢頼綱によって、沼田城は乗っ取られています。
1582年、武田家が滅亡すると、織田家四天王のひとり滝川一益に沼田城が支配されています。
同年の本能寺の変で織田信長が亡くなると、天正壬午の乱と呼ばれる、上野・信濃・甲斐をめぐる徳川・北条・上杉の三つ巴の戦いが勃発。
このとき、滝川一益から再び真田昌幸が沼田城を奪還。
同年、徳川家康と北条氏政のあいだで、和睦(仲直りすること)が成立。
甲斐と信濃は徳川家康が支配し、沼田城がある上野は北条氏政が支配する条件で同盟を締結。
徳川家康は、真田昌幸に沼田城を北条氏政へ明け渡すことを命じたものの、真田昌幸はこれを拒絶。
これで真田と徳川の関係は一気に悪化し、第一次上田合戦で、真田昌幸は徳川軍を撃破しています。
1589年、豊臣秀吉の命令により、沼田城は北条氏政の支配するところとなり、真田はこの城を失います。
1590年、小田原征伐で北条家が滅亡すると、沼田城は真田のものとなり、真田信之が支配。
1600年、関ヶ原の戦いに敗北した西軍の真田昌幸は、上田城から九度山へ幽閉。
1615年、大坂夏の陣が起こると、真田信之は沼田城から上田へ本拠地を移動し、沼田城は長男・真田信吉が支配。
1682年に沼田城は破却。
上野・岩櫃城
真田昌幸が、絶対絶命の主君・武田勝頼を迎え入れようとした堅城。
しかし武田勝頼は、小山田信茂の城である岩殿城への移動を決定し、小山田信茂に裏切られて亡くなったのでした。
もともとは南北朝時代につくられた城だといわれています。
その名の通り、巨大な岩の上につくられた城であり、場所に似合わず水も豊富で、籠城に適した難攻不落の堅城。
1563年、真田幸綱の攻撃によって落城し、岩櫃城は真田のものとなりました。
真田昌幸の代になると、岩櫃城は息子の真田信之が城主として支配。
1614年、大坂冬の陣が起こったこの年に、岩殿城は破却されています。
上野・名胡桃城
沼田城の有力な支城であり、北条家滅亡のきっかけとなった城です。
先ほど申しました通り、沼田城および名胡桃城は【天正壬午の乱】において、上野国は北条氏政のもの、信濃と甲斐は徳川家康のもの、と決められていたため、本来は北条氏のものとなるはずでした。
しかし、沼田城の主である真田昌幸がそれを拒絶。
1589年、豊臣秀吉の命令によって、真田昌幸から北条氏政に明け渡されました。
このとき、名胡桃城も主城・沼田城とともに北条氏政に明け渡されるはずだったのです。
ところが真田昌幸が、名胡桃城は【真田氏の先祖墳墓の地である】と主張したため、沼田城周辺領地は、3分の2が北条領、名胡桃城を含む3分の1は真田領となったのでした。
ところが、これは北条氏にとっては不満でした。
名胡桃城もふくめて沼田城が丸々手に入るはずだったからです。
1589年、沼田城を預かっていた猪俣邦憲は、名胡桃城を謀略で乗っ取ったのでした。
これに起こった豊臣秀吉は、北条氏政を討伐するため、小田原征伐を開始。
小田原征伐で北条家が滅亡すると、名胡桃城は破却。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 真田昌幸とは、天下人・徳川家康の軍団に2度も勝利した名将
- 昌幸は、日本一の兵と呼ばれた名将・真田信繁(幸村)の父
- 昌幸と徳川家康は、生涯をかけて死闘を繰り返した宿敵関係
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント