皆さんは真田昌幸と真田幸村(本名・信繁)の関係を、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 真田昌幸と真田幸村(信繁)は、血がつながった親子
- 昌幸は幸村に、自分が尊敬する2人の名将の名前をつけたといわれている
- 幸村は、父・昌幸から託された秘策で徳川家康と戦おうとしたが、敗死した
この記事では真田昌幸と真田幸村の関係を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は真田昌幸と真田幸村について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、真田昌幸と真田幸村に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
真田昌幸と真田幸村の関係とは?
真田昌幸と真田幸村は、血が繋がった実の親子です。
【表裏比興の者】と呼ばれた名将・真田昌幸の次男が、【日本一の兵】と呼ばれた名将・真田幸村なのです。
真田昌幸とは、【表裏比興の者】と呼ばれ、のちに天下人となる徳川家康の軍団を相手に、2度も勝利した名将の中の名将です。
(表裏比興の者とは【老練なる兵法の達人】という意味です。つまり【名将の中の名将】を意味しています)
そして息子の真田幸村はというと、【日本一の兵】と呼ばれた名将です。
真田幸村も、2度にわたって徳川家康を痛い目にあわせています。
- 1614年の【大坂冬の陣】では、真田丸という出城を使って、徳川軍団に大打撃を与えています。
- 1615年の【大坂夏の陣】では、突撃を繰り返し、徳川家康をあと一歩のところまで追いつめています。
実は、幸村は次男でありながら、昌幸の後継者であったといわれています。
父・昌幸が信濃国・上田城を本拠地としているのに対して、長男の真田信之は上野国・沼田城を本拠に真田の分家として一家をたてていたのです。
そのため、昌幸は次男の幸村に、真田の本家を継がせるつもりだったようです。
ちなみに、真田幸村は近年の研究では、別名【真田信繁】という名前で知られています。
真田幸村の本名は【真田信繁】といい、幸村というのは講談や小説などで使用されている架空の名称です。
これは余談かもしれませんが
- 信之が兄
- 幸村が弟
なのですが、これが実は逆で
- 信之が弟
- 幸村が兄
という説もあるようです。
真田昌幸・信之・幸村とは、どんな人?
真田昌幸とは、どんな人?
真田昌幸とは、戦国屈指の強さを誇る徳川軍団を2度も撃破した、戦国時代でも最強クラスの智将です。
昌幸は、戦国最強【武田信玄】から【我が両眼の如し】と讃えられていました。
天下人【豊臣秀吉】からは【表裏比興の者】と呼ばれたほどの名将、それが真田昌幸なのです。
真田昌幸は【第一次・第二次上田合戦】において、当時豊臣秀吉の軍団を圧倒した最強・徳川軍団に2度も勝利し、天下にその名を轟かせたのでした。
1600年の【第二次上田合戦】で徳川軍38000人に、わずか3000人で勝利した真田昌幸。
ところが、昌幸が味方していた武将・石田三成がひきいる本軍(西軍)が、徳川家康の軍(東軍)に敗北したため、昌幸は勝利したにもかかわらず降伏に追い込まれ、紀州(現・和歌山県)の九度山へ幽閉されるのでした。
昌幸は、1611年に老衰または病気が原因で亡くなります。
最期まで、打倒徳川家康をあきらめなかったという真田昌幸の意志は、ともに幽閉されていた次男・真田幸村によって引き継がれるのでした。
真田信之とは、どんな人?
真田信之とは、真田昌幸の長男であり、真田幸村の兄にあたる人物です。母は弟の幸村と同じ山手殿。
のちに4代将軍・徳川家綱から【天下の飾り】という異名で呼ばれる名将です。
妻は、稲姫(小松殿)。この稲姫の父は、徳川家康につかえた徳川四天王のひとり【本多忠勝】です。
信之は、父・昌幸にしたがって、徳川家康の軍や北条氏直の軍と戦っていました。
父にも負けない名将だった真田信之は、富永主膳という武将が率いる5000人の兵が守る手子丸城を、わずか800人の兵で攻め落とすほどでした。
(のちに富永主膳は、敵だった信之を尊敬し、この時の戦いの話を何度も語ったという)
ところが、真田家が徳川家に臣下として従うことになった際に、信之は本多忠勝の娘を妻として迎え入れたのでした。
居並ぶ婿候補たちのアゴを、扇子で持ち上げて品定めする稲姫。
この失礼な稲姫の態度に、徳川家の重臣・本多忠勝の娘ということで、怖くて誰も文句を言えませんでした。
信之だけは稲姫の失礼な態度に激怒。
稲姫は、この信之の態度に惚れ込んで、信之への嫁入りを決意したのでした。
1600年、石田三成と徳川家康のあいだで関ヶ原の戦いが勃発すると、徳川家康の養女である稲姫を妻としていた信之は、家康に味方することになります。
石田三成に味方した父・昌幸と弟・幸村と決別した信之は、関ヶ原の戦いで勝利。
そして真田家の領地を継承します。
本来ならば処刑されるはずだった父・昌幸と弟・幸村の助命嘆願に奔走した信之の活躍もあり、昌幸・幸村は九度山への幽閉となります。
「真田親子の命を助けてくれないのならば、私は信之とともに沼田城に立てこもって、殿(徳川家康)を相手に戦してやる」
徳川四天王のひとり本多忠勝は、娘婿である真田信之の父と弟を救うため、主君である徳川家康に対して、このように啖呵を切ったといいます。
ちなみに、第二次上田合戦で真田親子に翻弄され、関ヶ原の戦いに遅参した徳川四天王のひとり榊原康政も、真田親子の助命嘆願をしたといいます。
1615年、大坂夏の陣で弟・真田幸村が戦死すると、真田家を存続することに力を尽くします。
93歳まで生きた信之は、その人生の大半を、徳川幕府のために尽くしたといいます。
真田信之の子孫は、養子などで断絶しているものの、松代真田家とよばれるその系統は、【真田幸俊】さんという方に継承されているそうです。
真田幸村(信繁)とは、どんな人?
真田幸村は、真田昌幸の次男であり、真田信之の弟にあたります。母親は兄と同じ山手殿。
幸村は、1614年の【大坂冬の陣】と、1615年の【大坂夏の陣】で、2度も徳川家康を苦しめた、誰もが認める英雄です。
特に【大坂夏の陣】では、圧倒的な劣勢であるにもかかわらず、敵の総大将・徳川家康をあと一歩のところまで追いつめ、敵将・島津忠恒から【日本一の兵】と絶賛されるほどの活躍をしています。(島津忠恒とは、猛将・島津義弘の息子)
幸村が活躍したのは、実はほんの一瞬に過ぎません。1614〜1615年のあいだにかける、わずか6ヶ月のみです。
1600年の関ヶ原の戦いに、幸村が味方した石田三成が敗北したため、幸村は父・昌幸とともに、九度山へ幽閉されます。
1611年、父・昌幸が亡くなると、幸村は父から打倒徳川家康の秘策を授けられたといいます。
(この秘策はのちに豊臣秀頼によって却下されている)
1614年、【方広寺鐘銘事件】をきっかけにして、豊臣秀頼と徳川家康のあいだで、【大坂冬の陣】が勃発。
→→→→→【徳川家康への呪い!方広寺鐘銘事件】についてくわしくはこちら
幸村は、豊臣秀頼から招かれて、大坂城へ入城。
幸村は大坂城の南に【真田丸】と呼ばれる出城を作り、徳川家康の軍団に大打撃を与えたのでした。
1615年、【大坂夏の陣】勃発。
圧倒的不利な状況で、幸村は最後の力を振り絞り、徳川家康の首を狙って、決死の突撃を繰り返します。
この奮戦で、家康は2度も切腹しようとしたといわれています。
あと一歩まで家康を追いつめた幸村でしたが、圧倒的な大軍団である徳川軍に包囲され、大坂安居神社で力尽きたのでした。
徳川の武将たちは、幸村の首から髪の毛を切り取って持っていったといいます。
名将・真田幸村にあやかりたいと望んだ武将たちが、その髪をお守りにしたといわれています。
幸村の子供達は、仙台の伊達政宗に匿われ、その子孫は仙台真田家として、【真田徹】さんに継承されています。
昌幸が真田幸村(信繁)の名前に込めた願いとは?
真田幸村こと本名・真田信繁の名前には、父・昌幸の願いが込められています。
真田幸村の正式名称は【真田左衛門佐信繁】といいます。
この名前には、父・昌幸が憧れ尊敬した【2人の名将】の名前が込められているという説があるのです。
その名将とは、以下の2人です。
- 武田信玄の弟・武田信繁
- 真田昌幸の兄・真田源太左衛門信綱
武田信繁は、生涯を兄・武田信玄に捧げて仕えた名将です。
1561年、真田昌幸が初陣を飾った【第四次・川中島の戦い】で、上杉謙信の軍団に討ち取られて戦死しています。
昌幸は自分の次男に、武田信繁と同じ【信繁】という名前をつけて、武田信繁のように生涯をかけて兄・真田信之に支えてほしいと思っていたのでしょう。
もう1人が、真田昌幸が尊敬し敬愛した剛勇の兄・真田源太左衛門信綱です。
1575年、真田信綱は、有名な長篠の戦い(設楽が原の戦い)で奮戦するも、戦死してしまいます。
これにより昌幸は、三男でありながら真田家の家督を継承したのです。
信綱は、大太刀を振り回して敵を薙ぎ倒す猛将だったといわれています。
昌幸は、次男・信繁にも、兄・信綱のような猛将になってほしいという願いを込めて、【左衛門】という兄の名前を与えたのだという説があります。
父【昌幸】が、息子【幸村】に残した秘策
真田幸村は、父・昌幸が育て上げた、言ってみれば最高傑作ともいえる武将でした。
昌幸は、幸村と共に過ごした九度山での11年にもおよぶ幽閉生活で、幸村に自分の兵法の全てを叩き込んだと考えられます。
昌幸は幸村に対して、死の間際に、徳川家康を倒すための秘策を授けたといわれています。
1600年、昌幸と幸村親子は、関ヶ原の戦いの前哨戦である【第二次上田合戦】で、徳川秀忠がひきいる38000人の軍団に勝利。
しかし関ヶ原の戦いで、昌幸と幸村が味方した【石田三成】がひきいる西軍が敗北したため、徳川軍に降伏しています。
昌幸と幸村は、その後紀州(和歌山県)の九度山というところで、幽閉生活をさせられます。
1611年、11年にも及ぶ長い幽閉生活ののち、真田昌幸は老衰または病気で亡くなります。
1614〜1615年の【大坂の陣】で、豊臣秀頼に味方した真田幸村は、徳川家康に敗れて亡くなるのです。
昌幸が亡くなる直前、幸村は父の昌幸から、のちに勃発するであろう徳川家康と豊臣秀頼の戦争について、必勝の策を授けられていたというのです。
その作戦とは、以下のとおりです。
「のちに大坂城の豊臣秀頼公と、徳川家康のあいだで、必ず戦が起こる。
そのとき大坂城へ入城し、まずは京都・伏見城を落とし、その勢いで美濃国(岐阜県南部)の大垣城の周辺を制圧。
そこから関ヶ原付近で敵を迎撃したのち、撤退。
まずは先制攻撃で、華々しい戦果をあげることが大切。
次に、近江国(滋賀県)にある瀬田の唐橋を落とし、宇治と瀬田に布陣して、関東と西国の連絡を遮断する。
その後は大坂城に籠城して、ひたすらに時間を稼げば、家康に不満を抱く西国の大名たちも、徐々に味方してくれるだろう。
だが、この作戦は、徳川軍を2度撃破した実績があり、徳川から恐れられている私だからこそ可能な作戦だ。
実戦経験がとぼしく、名前も知れ渡っていない幸村では、この作戦は難しい。」
昌幸はそう言いながら悔しがったといいます。
1614年の大坂冬の陣で、この昌幸の作戦をとるように豊臣秀頼に訴えますが、却下されてしまいます。
秀頼は積極的に出撃するのではなく、難攻不落の名城・大坂城への籠城を決意していました。
やはり実戦経験の乏しい幸村の作戦は、みんなから信用されていなかったのです。
しかし幸村は、大坂城への籠城にも、危機感を抱いていました。
なぜなら大坂城には、致命的な弱点があったからです。
幸村は、父・昌幸から、大坂城の唯一の弱点について教えられていました。
それは、大坂城の南には、平坦な大地が続いていて、そこに徳川の大軍団に陣を敷かれてしまうと、集中攻撃をくらってしまうということでした。
そのため、幸村は大坂城の南部分に、真田丸と呼ばれる出城をつくって、徳川軍を迎撃し、大打撃を与えることに成功します。
この真田丸という出城は、武田信玄流の技術がつかわれた築城方法によってつくられたものだと、城郭考古学者・千田嘉博さんがおっしゃっておられました。
幸村は、父・昌幸から受け継いだ兵法を駆使して、父・昌幸の無念を晴らしたのです。
ところが、幸村の奮戦も虚しく、1615年の大坂夏の陣で、豊臣秀頼は自害し、豊臣家は滅亡。
幸村は最後の力を振り絞って、家康の本陣に突撃したものの、あと一歩及ばず、大坂・安居神社で戦死するのでした。
真田家のその後
真田家はその後、1868年の明治維新まで領地を守り、現在でも子孫が続いています。
松代藩の大名として江戸時代を生き抜いた真田家でしたが、その歴史は決して楽なものではありませんでした。
藩の財政悪化と、後継者に恵まれないという困難に、何度も直面した真田家でしたが、財政改革や養子縁組などで、なんとか明治維新をむかえています。
養子縁組を繰り返したため、1868年の明治維新に松代藩は、真田昌幸と血のつながらない藩主が支配していたのです。
しかし、松代藩は伊達家からの養子をむかえていたため、現在の真田家子孫は真田昌幸の血を引いてはいないものの、伊達政宗の血は引いているといいます。
また、真田幸村(信繁)の子孫は大坂の陣のあと、伊達政宗によって保護されたため、仙台真田家という家を起こし、現在も続いています。
余談かもしれませんが、真田家は真田昌幸の系統だけではなく、昌幸の兄・昌輝の子孫である【越前真田家】が現在まで続いています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 真田昌幸と真田幸村(信繁)は、血がつながった親子
- 昌幸は幸村に、自分が尊敬する2人の名将の名前をつけたといわれている
- 幸村は、父・昌幸から託された秘策で徳川家康と戦おうとしたが、敗死した
以上となります。
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